失恋狂騒曲



 私、柏木楓は、耕一さんの事が嫌い。
 昔のことなんて忘れた。
 もう顔を見たくない。
 夢にも見たくない。
 なぜなら……… 耕一さんは、千鶴姉さんの事を愛してしまったから。

 朝6時に目覚まし時計が鳴る。
 腕を伸ばし時計を止めた。
 腫れぼったい瞼を擦りながら、ベッドを抜けだしセーラー服に着替える。
 部屋を出て階段を下りた。洗面所で歯を磨き、口をすすぐ。
 それを終えると、鏡を見ながらブラシを使い寝癖を直した。
 ひどい顔。
 髪を梳かしながら溜息が漏れる。
 なんて生気のない顔をしているのだろう。自分ながらに嫌気がさす。
 パタパタパタ。
 廊下から軽快なスリッパの音が聞こえてきた。
「楓お姉ちゃん、おはよう」
 妹の初音が、朝日を一身に浴びたような笑顔をしながら挨拶してきた。
「おはよう初音。耕一さんはまだ寝ている?」
「多分、まだ客間だと思うよ」
「そう」
 私は朝食を取るため、居間に向かった。念の為、耕一さんがいないことを確認してから足を踏み入れる。まだ、朝が早いためか食卓に何も並んではいない。台所では梓姉さんが、手慣れた手つきでフライパンを振るっている。
 私はそれを横見に見ながら食パンをトースターにかけると、牛乳をマグカップに移し電子レンジに入れた。

「楓、今日も早く登校しなきゃいけないの?」
「うん。文化祭の実行委員になったから」
 朝から嘘を付くのは、やはり気分が悪い。
 数分後、こんがりトーストされたパンを口に詰め、ホットミルクで胃に流し込むと、逃げるように居間を離れた。
 耕一さんを避けるために。
 出来れば、千鶴姉さんにも会いたくなかった。
 きっと会えば、私の心に嫉妬という名の炎が芽生え、身も心も黒く焦がしてしまうような気がしたから。
 学生鞄を握り靴を履くと、逃げるように家の外に駆けだした。

 耕一さんが鬼の力、呪われた柏木家の宿命を克服したと知った時、私は天に心が浮かぶ心持ちだった。もう、何も気兼ねなく耕一さんに会える。話が出来る。
 ほんの一瞬の、短い、淡い、幸せな夢を、私は見た。
 それが幻だという事を知っていたら、私はそんな夢を見なかった。
 もし、神様がこの世の中にいるとしたら、きっとタチの悪い性格をしているのだろう。
 私は、あの日何があったのか、詳しい事は知らない。ただ、耕一さんと千鶴姉さんが結ばれた事だけは確かだった。声には出さなくても、二人から発する恋慕の情が、はっきりと感じられた。
 二人が結婚すれば、遅かれ早かれ耕一さんは鶴来屋の幹部になるだろう。千鶴姉さんもそれを望んでいる。そして耕一さんがこの家に住めば、何もかもが上手くゆき、みんな幸せになれるのだ。私を除いて。
 身を引くのが一番賢明な選択だと思った。
 そう決心した日から、私は耕一さんの事を嫌いになった。
 嫌いになれるよう、努力することにしたのだった。
 
 夕日が辺りを照らし出す。
 学校を出た私は、市立図書館に足を向けた。
 図書館の閲覧所には机と椅子があり、勉強できるスペースが設けられていた。
 ここで閉館時間、夜の9時まで時間を潰すのが日課になっていた。
 閲覧室に入ると、二十人ほど学生が、本をめくり、ノートに筆を走らせている。
 見知った顔が何人かいた。
 目を合わせ、お互い無言で会釈をする。
 みんな家に帰るのが嫌で、ここに避難しているのだろうか。
 そんな事を考えながら席についた。

「ただいま」
 誰に言うでもない小さな声で帰宅を告げる。
 カラカラと引き戸を閉めると鍵を締め、気配を殺し台所に向かう。
 冷蔵庫から私の夕食を取り出すと、急いでそれを食べた。
 本当はレンジで暖めた方が美味しく食べられるのだが、レンジが稼働した後になる『チン』の音が邪魔だった。
 本当は夕飯を外食で済ませたかった。でもきっとそれをすると千鶴姉さんに咎められるだろうし、金銭的にもあまり余裕は無かった。
 隣からテレビの音と共に、初音や耕一さんの声が聞こえてきた。
 楽しそうな笑い声だった。
 胸が、ギュッと切なくなった。
 食事後、素早く食器を洗うと、すぐにシャワーを浴び、自分の部屋に逃げ込んだ。
 これが私の一日。
 あと、数日。
 あと、数日で耕一さんは東京に帰る。
 それまでの辛抱だと、自分に言い聞かせた。

「エディフェル…、エディフェル……」
 愛しい人が私を呼んでいる。
 愛しい人が私の姿を探している。
 私は叫んだ。
 私はここよ。ここにいるのよ。
 声が口から出なかった。
 口はパクパク動くだけだった。
「どこにいるんだ、エディフェル…」
 愛しい人が遠ざかっていく。
 今度は体が動かない。
 すぐそこに、あの人がいるのに。
 私は力いっぱい叫んだ。
「私を置いていかないで!!」
 
 リーン、リーン、リーン。
 遠くで鈴虫の鳴く声が聞こえた。
 私はタオルケットの端を握りしめながら泣いた。
 網戸の張られた窓から夜風が心地良く運ばれ、汗でぐっしょりと濡れた体を優しく包み込んだ。
「う……、うぅ……」
 嗚咽が喉の奥から込み上げてくる。
 悪夢を見た。
 今の私には悪夢でしかなかった。
 嫌いなのに。
 私は耕一さんの事が嫌いなのに。
 もう、あんな夢なんて二度と見たくもないのに。
 涙が止まらなかった。
 時計を見た。
 短針が2時を指していた。
 私は枕元に備えてあるヘッドホンを手に取ると、ミニコンポのスイッチを入れた。
 今夜はもう眠りたくなかった。きっと眠ればまたアノ夢をみるだろう。
 深夜ラジオを聞きながら、夜を明かすことに決めた。

 朝6時に目覚まし時計が鳴る。
 耳からヘッドフォンを外して時計を止めた。
 いつものように、ベッドを抜けだしセーラー服に着替える。
 部屋を出て階段を下り、洗面所で歯を磨く。
 歯磨き粉がいつもより苦かった。
 それを終えると、鏡を見ながらブラシを使い寝癖を直した。
 元気のない顔。
 髪を梳かしながら思った。
 台所に行き、いつものようにパンをトーストする。
 食欲が沸かない。
 冷たい牛乳で無理矢理胃に詰め込む。
 一瞬吐きそうになった、
「大丈夫、楓」
 梓姉さんが、心配そうな顔でコチラを見ていた。
 私は無言で頷くと、鞄を手に持つと学校へ向かった。
 
 あまり睡眠を取っていないせいか、体の調子が悪い。
 よりによって、今日の体育授業はマラソンだった。
 フラフラになりながら走り終える。
 もし、神様がこの世の中にいるとしたら、きっとサドスティックな性格をしているに違いない。
 学校が終わり、図書館に寄り、家に帰宅する。
 夕食が喉を通らない。梓姉さんには悪いと思いつつ、半分近く残してしまった。
 シャワーを浴びると、自分のベッドに倒れるように潜り込んだ。

 さくさく。
 何の音だろう。
 さくさく。
 周りは闇に包まれていた。
 さくさく。
 私は何をしているのだろう。
 自分の手が動いてはいるのだが、何をしているのか判らなかった。
「楓お姉ちゃん、どうしてそんな事をしたの?」
 初音が怯える目で私を見つめていた。
「見て判らない」
 私はそう言って自分の手元を見た。
 そこには…………。
 千鶴姉さんが、血まみれになって死んでいた。
 恨めしそうな目が虚ろに中空を彷徨っていた。
 さくさく。
 私はその死体にナイフを突き立てていた。
 千鶴姉さんを殺したのは、私だった。
 さくさく。
 刃を腹部に突き立てる度に、血しぶきが紅く私を染め上げた。
 さくさく。
 さくさく。
 腕が止まらなかった。
 機械のように、千鶴姉さんの体を刻み続ける。
 さくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさくさく。

「いやーーーーーーーーっっ!!!」
 私は夢から醒めると同時に絶叫した。
 タオルケットを体から跳ね飛ばした。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
 呼吸がまとまらない。
 何度も何度も何度も新鮮な空気を肺に送り込む。
「お姉ちゃん、どうしたの?!」
 私の悲鳴を聞きつけたのか、初音が部屋に飛び込んできた。
「な、なんでもない。ちょっと……、怖い夢を見ただけ」
「大丈夫」
 初音が親身になって私の事を心配していた。
 私は、今は無き母の顔を初音に垣間見たような気がした。
「もし、お姉ちゃんが良ければ、今夜は私が一緒に寝てあげようか?」
「今夜は大丈夫。多分、もう大丈夫…」
「そう、もし何かあったら遠慮無く私を呼んでね」
 そういうと、初音は私の部屋から出ていった。
 扉を閉めるときに、梓姉さんの姿がチラッと見えた。多分私の悲鳴で起きたのだろう。
 廊下で二人の話し声が聞こえた。
 時計を見た。
 短針が1時を指していた。
 私は枕元に備えてあるヘッドホンを手に取ると、ミニコンポのスイッチを入れた。
 もう睡眠をとる気にならなかった。
 深夜ラジオを聞きながら、私は考えた。
 どうしてあんな夢を見たのだろう。
 柏木家の男が、心に鬼を飼うように、私の心にも鬼が住んでいるのだろうか。もしその鬼が暴れたら、私はどうなるのだろう。
 別の私が、耕一さんを奪う為に、千鶴姉さんを殺そうとする。考えただけでも背筋が寒くなった。
 もし仮に、もし仮に私の鬼の力が暴走し、別の精神に乗っ取られそうになったら、私は自分の手で、己を始末することが出来るのだろうか。父や叔父さんのように。
 そうならない為の方法は、ないだろうか。
 色々考えてはみたが、結局耕一さんを嫌いになる事しか、私には思いつかなかった。

 朝6時に目覚まし時計が鳴る。
 耳からヘッドフォンを外して時計を止めた。
 いつものように、ベッドから降りようとして、貧血をおこし床に倒れた。
 頭痛に悩みながら、なんとかセーラー服に着替える。
 部屋を出て階段を下り、歯を磨くため洗面所に向かう。
 歯磨き粉をつけ、歯ブラシ口に入れた瞬間、激しい吐き気に襲われた。
 汚物が洗面所を汚す。
 歯磨きを諦め、シンクを洗い流すと、鏡を見ながらブラシを使い寝癖を直した。
 疲れ果てた顔。
 髪を梳かしながら思った。
 寝不足のためか、目に隈が出来ている。
 パタパタパタ。
 廊下から軽快なスリッパの音が聞こえてきた。
「楓お姉ちゃん、よく眠れた?」
 初音が、昨日の事を気遣い私に声をかけてきた。
「うん、なんとか眠れた」
 すぐにバレるような嘘をついた。
「そう」
 私は逃げる為に台所に向かった。
「楓、もうちょっと待ってな。もうすぐ朝食できるから」
 梓姉さんも心配しているのか、いつもより声が優しかった。
「食欲ないから……」
 私は牛乳だけ胃に流し込むと、鞄を手に持ち学校に登校した。

 頭がハッキリとしない。
 寝ているのか起きているのか判らないまま、学校の授業が終わる。
 図書館でも本のページをめくるだけで時が過ぎ去り、体をふらつかせながら帰宅した。
 食欲も無かった為、台所に足を運ぶこともなく、シャワーを浴びると自分の部屋に入った。

 新人のお笑い芸人が、軽快な音楽と共に深夜ラジオの進行を進めていく。
 私はベッドの上で膝を抱えたまま、それを聞き入っていた。
 寝るのが怖かった。
 夢を見るのが怖かった。
 あんな思いをするくらいなら、起きていた方がいい。
 私は耳を澄ませラジオの声に聞き入った。

 朝6時に目覚まし時計が鳴る。
 耳からヘッドフォンを外して時計を止めた。
 重い体を引きずりながらベッドを抜けだしセーラー服に着替える。
 部屋を出て階段を下り、洗面所で歯を磨く。
 昨日の失敗を繰り返さないため、歯磨き粉はつけなかった。
 それを終えると、鏡を見ながらブラシを使い寝癖を直した。
 人形のような顔。
 表情の消えた顔が、鏡に映っていた。
 髪を梳かすのも、すでに苦痛に思えた。
 朝食……いや、牛乳を呑む為に台所に行くと、梓姉さんが私を待っていた。
「楓、今日はちゃんとご飯を食べてもらうからね」
 見ると食卓の上には、朝食が湯気を浮かべていた。
 ご飯。豆腐とネギのお味噌汁。納豆。海苔。めざしの一夜干し。沢庵漬け。どれも美味しそうにテーブルの上に並んでいた。
 私は昨日夕食に手をつけなかった事を後悔した。
 きっと梓姉さんは私の事を心配し、朝早起きをして作ってくれたのだろう。
 だが、私の胃は明らかにそれらを受け入れる事を拒んでいた。とはいえ、梓姉さんの好意を無視するわけにはいかなかった。
「梓姉さん、ありがとう」
 社交辞令的な挨拶をすると、席についた。
「いただきます」
 箸を手に取ると急いで、朝食をお腹に詰め込んだ。
 味わっている暇はなかった。
 数分で全て平らげると、鞄を手に持ち部屋を出た。
 向かった先は、玄関の反対方向だった。
 私はトイレに入ると素早く鍵をかけ、胃の中の物を全て便器の中に吐きだした。
 悪いのは判っている。
 梓姉さんの気持ちもありがたいと思っている。
 しかし、吐き気は止まらなかった。
「はぁ、はぁ、はぁ」
 体が落ち着くまで待ち、全てを水に流す。
 貧血を押して立ち上がり、鍵を開けトイレの扉を開くと、一人の人間が私の出てくるのを待っていた。
 梓姉さんだった。
「……っ!」
 私は声を失った。
「楓、別に食べたくなければ、無理して食べなくてもいいんだよ」
 梓姉さん目には、不満と不審と哀れみが入り交じっていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
 私は母親に怒られた少女のように、謝罪の言葉を繰り返した。

 私は起きているのだろうか。寝ているのだろうか。
 学校の授業の声が、お経のように聞こえてくる。
 朦朧として白濁な意識の中で時間だけがゆっくりと流れていく。
「………ぎさん。……わぎさん。柏木さん!」
「あ、はいっ!」
 名前を呼ばれ、飛びかかっていた意識が再び現世に戻る。
「君は、ちゃんと起きているのかね」
 クラスの担任である、英語の教師がいつのまにか私の横に立っていた。
「は、はい、起きています」
「では、今私が教科書で読んだ所を復唱したまえ」
「はい」
 あわてて教科書に目を移し、そこに書いてある内容を読み始めた。
「秋の夜は、はるかの彼方に、小石ばかりの河原があって、そこに陽は、さらさらと、さらさらと射してゐるのでありました。…………えっ…………」
 教室の中がドッと笑いで包まれる。
「柏木さん、今は何の授業ですか」
「………英語です」
「君の持っている教科書は、何の科目の教科書かね」
「現代文です……」
「帰りなさい」
「え、でも、授業は」
「いいから、今日は帰りなさい。ここ数日の君の言動はどうかしている。顔色もよくない。睡眠が足りないんじゃないか? もう今日は帰って寝なさい」
「はい……」
 私はいそいそと荷物をまとめると、クラスメイトの視線を背に受けながら、教室を後にした。

 潮の香りが鼻腔を刺激する。
 私は気がつくと海の見える公園のベンチに腰を下ろしていた。
 学校を追い出された私は、その後、町中をふらふらと漂流した。どこをどう歩いたのかもよく覚えていない。
 街灯時計を見ると夜の9時を指していた。
 ベンチの上で気を失っていたのだろうか。
 すでに辺りは闇に落ち、陸に押し寄せる波の音が、粛々とあたりを包み込んでいた。
 帰ろう。
 私はベンチを後にした。
 お腹が空いているはずなのに、未だに食欲がない。少なくとも固形物はお腹に入りそうになかった。とりあえず、栄養ドリンクでも買っていこうと、商店街に足を向けた。
 すでに時間が遅いためか、多くの店が閉店している。そんな中、お土産店の明かりだけが皓々と闇夜を照らしていた。コンビニ的な要素も兼ねている為か、日常雑貨も扱っている。私は店に入り、適当にドリンク剤を物色した。
 買う物を選び、レジに持っていこうとした時、ふと、温泉饅頭が目に付いた。
 私は何故かその温泉饅頭を手に取ると、そのままレジに向かい会計をすませた。

「ただいま」
「あ、おかえり。楓お姉ちゃん」
 私は、たまたま玄関にいた初音に、買ってきた温泉饅頭を手渡した。
「どうしたの、これ」
「お土産」
「あ、ありがとう」
 私はそのままフラフラと自分の部屋に向かった。
 ボスッ
 私の体をベッドが受けとめた。
 制服を着替える気力もなく、そのまま暫くボーッとしていた。
 コンコン。
 扉をノックする音が聞こえた。
「楓お姉ちゃん、入るよ」
 初音が、お盆に湯飲み茶碗とお皿を載せ、部屋に入ってきた。
 お皿の上には、私が買ってきた温泉饅頭が幾つか乗っていた。
「いっしょに食べよ」
 屈託のない笑顔を浮かべながら私の横に座ると、湯飲み茶碗を私に手渡した。
 日本茶の良い臭いがした。
 一口お茶をすすった後、饅頭の包装紙を解き一口食べた。
 甘かった。
 粒餡の甘さが口いっぱいに広がった。
 でも、なぜ私はこれを買ってきたのだろう。
「あのね、耕一お兄ちゃんがとても喜んでいたよ」
「耕一さんが?」
「うん。このお饅頭気に入っているみたいだから」
 そうか。
 私は一週間程前の出来事を思い出した。
 耕一さんが鬼の力克服した次の日。まだ、千鶴姉さんとの仲を知らなかったあの日の夜。私は居間でみんなと一緒にお茶を飲んでいた。
 その時にお茶受けに出ていた饅頭を、耕一さんがいたく気にいって、一人で何個も食べていた。それを見て私は耕一さんに『そんなに好きなら今度買ってきてあげましょうか』っていうと、耕一さんはとても喜んでくれて、それで私は、今度見かけたら耕一さんの為に買ってあげようと思って…………。
「お姉ちゃん、楓お姉ちゃん」
「え?」
「一体どうしたの」
 いつの間にか私は、大粒の涙を、ぽろぽろと頬に流していた。
「な、なんでもない」
 私は零(こぼ)れ続ける涙をぬぐった。
「楓お姉ちゃん、明日早く帰ってくること出来る?」
「……なにかあるの?」
 初音はニパッと笑って私の問いに答えた。
「耕一お兄ちゃんと一緒にトランプしようよ。いつも二人でしているから最近お兄ちゃんが飽きてきちゃって。耕一お兄ちゃんも、楓お姉ちゃんに会いたいって言ってるよ」
「いやっ!」
 私は反射的に叫んだ。
「会いたくない。耕一さんになんか会いたくない!」
 叫びというより、悲鳴に近かった。
「これ以上辛い思いなんてしたくない!」
「辛い思い……?」
 初音は、私の言葉を反芻(はんすう)した。
「もしかして、楓お姉ちゃんがずっと悩んでいるのは、耕一お兄ちゃんが原因なの?」
 初音の声が私の胸に深く突き刺さる。
 私は手元にあった枕を、初音めがけて投げつけた。
「きゃっ!」
 初音が短い悲鳴を上げた。枕は初音の頭に当たり、持っていた湯飲み茶碗が絨毯の上に跳ねて転がった。
「出ていって。今すぐ部屋から出ていって!」
 ヒステリックな金切り声を私は上げた。
「ご、ごめん」
 初音は主人に叱られた子犬のように、小さくなりながら部屋から出ていった。
 ガチャン。
 扉が閉まり、私は一人部屋に残された。床には転がった湯飲み茶碗から流れたお茶が、転々と水たまりを作っていた。
 私は何をしているのだろう。
 初音は私のことを気遣い、親切のつもりで誘ってくれたのに。
 初音は何も悪くない。
 悪いのはこの私。
 耕一さんを嫌いになりきれない、私が全て悪いのだ。

 朝6時に目覚まし時計が鳴る。
 耳からヘッドフォンを外して時計を止めた。
 重い体を引きずりながらベッドを抜けだし、貧血にフラつきつつセーラー服に着替える。
 部屋を出て階段を下りようとして、足を滑らせた。
 ガタッ、ズダダダダン!
 派手な音が家の中に響き渡る。
 私は体中をしたたかに打ちつけながら、一階まで転げ落ちた。
 ドタドタドタ。
 遠くの廊下から足音が聞こえてきた。
「楓、大丈夫」
 梓姉さんだった。
 朝食を作っていたのか、右手には菜箸(さいばし)が握られていた。
 私は大丈夫という事を伝えるために、大きく首を縦に振った。
「立てる?」
 梓姉さんの伸ばした手を掴(つか)み、引っ張られるように立ち上がった。
「お願いだから、もう少ししっかりしな。あたしはもう身内の葬式なんて出たくないんだから」
 私はもう一度頷くと、梓姉さんと別れ洗面所に向かった。
 蛇口をひねって顔を洗い、口をすすぐ。
 鏡に目を向けると、私の睫毛(まつげ)がかなり抜け落ちている事に気がついた。涙を拭く時にこすり過ぎたのだろう。
 私は鏡に写っている少女を、ぼうっと眺めた。
 その少女は頬が痩せこけ、病人のような顔色をしていた。
 何がそんなに悲しいの。
 誰があなたを不幸にしたの。
 鏡に映った、おかっぱ頭の少女に私は問いかけた。
「楓お姉ちゃん、頭の後ろ寝癖がついているよ」
 いつの間にか、私の後ろに初音が立っていた。
「直してあげようか」
 私は小さく頷いた。
 サクッ、サクッ。
 櫛が優しく私の髪を梳(と)かしていく。
「初音、昨日はごめんなさい」
 私はつぶやくように謝罪した。細く枯れた声しかでなかった。
「お姉ちゃんは悪くないよ、悪いのはわたしの方なんだから……」
 サクッ、サクッ。
 二人とも無言のまま、静かに髪を梳(す)く音だけが聞こえた。
「直ったよ、お姉ちゃん」
 そういうと、初音は私にある物を差し出した。
「これ、持っていって」
 それは銀色の容器に入った、ゲル状のスポーツ食品だった。
 私は何のことか判らず、首を傾(かし)げた。
「朝食は採った方が体に良いと思うよ」
 私はそれを受け取ると、深く一礼し、鞄を手に取り玄関に向かった。

 ここはどこだろう。
 なぜか私はこれが夢だと、なんとなく判った。
「あ…、あんっ。くふぁ…」
 女性の甘い吐息が聞こえる。
 声のする方向に目を向けると、耕一さんと千鶴姉さんが全裸で絡み合っていた。
 ズチャ。ヌチャ。ズヌヌヌ。
 濡れた粘膜同士の、ぬめり合う音がする度に、千鶴姉さんは黄色い歓喜の声をあげた。
 私は思わず目と耳を塞いだ。心が張り裂けそうになる。
 コレは夢。夢なら早く覚めて!
 頭を激しく振るが、夢は無情にも続いた。
「楓お姉ちゃん、何をしているの」
 背後から声と共に二本の腕が伸び、私を抱きしめた。
 白い掌(てのひら)が、私の乳房にまとわりついた時、自分が一糸纏(まと)わぬ姿であることに初めて気がついた。
「楓お姉ちゃんも、千鶴お姉ちゃんみたいに、気持ちよくなりたいんでしょ」
 初音の細い人差し指と中指が、私の乳首を挟み、こりこりと弄(もてあそ)ぶ。
「い、いやぁ…」
「楓お姉ちゃん、かわいい」
 首筋にぬめりとした肉塊が押しつけられ、這いずり回る。
 思わず体が、ビクッと飛び跳ねる。
「初音、お願いだから止めて!」
 胸にあてがわれた腕を振り払おうとした時、三本目の腕が私の手を拘束した。
「楓、もう少し素直になりなよ」
「梓姉さんまで」
 四本目の腕が私の太股に割り込み、指が乱暴にアソコをこじ開け進入する。
「ほら、もっと力を抜かなきゃ、気持ちよくなれないよ」
「離して、みんな離して。夢なら早く覚めてーーーーーー!」
 私は思わず叫んだ。
「駄目よ楓。後はあなただけなのよ」
「ち、千鶴姉さん」
 千鶴姉さんは私の頬を優しく両手で挟むと、顔を近づけてきた。
「む、むぐぅ」
 唇が吸われ、舌がねじ込まれ私の舌と絡み合う。
 耳たぶ、唇、舌、首筋、乳房、乳首、陰核、膣口、私の刺激に敏感な部分が、実の姉と妹によって、擦られ、舐(ねぶ)られ、めくられ、吸われ、皆のいいように犯されていく。今まで感じたことのない刺激と快楽の渦に、私は飲み込まれていった。
「耕一、もうそろそろいいよ」
 梓姉さんが私の股間から指を引き出すと、愛液が糸を引いていた。
「耕一さん、楓にも私達みたいに、入れてあげてください」
 千鶴姉さんの声に頷いた耕一さんが、ゆっくりと私に近づいてくる。
 逃げようとする私を、六本の腕が押さえつけ、太股を強引に開いた。二本の指が私の大陰唇を左右に引っ張り、愛液に潤んだ膣口を外気に晒した。
 耕一さんの蛇のようにカマを持ち上げた太い男根が、目の前まで迫って来た。
 イヤッ!
 イヤッ!
 お願いだから、それ以上私に近づかないで!
 決めたのに!
 もう、耕一さんの事は嫌いになるって決めたのに!
 これ以上、私を苦しめないで!
 私の叫びとは裏腹に、耕一さんの分身が私の膣口に当てられ、圧力が加わり徐々に膣内へとめり込んでいく。
 さめて、覚めて、醒めて、夢なら早くサメテーーーーーー!!
 お願いだからーーーーーーーー!!
 私は渾身の力を振り絞って抵抗した。

 ズダン!
 大きな音と共に、頭に激痛が駆け抜けた。
 私はハットして周りを見渡した。
 ここはどこ?
 消毒液の臭いが鼻につく。
 薬品棚。白いシーツの掛けられたベッド。机。椅子。煙草とシンナーの恐怖を訴えるポスター。そこは学校の保健室だった。人は私以外誰もいなかった。
 部屋の中は静まりかえり、ただ、時を刻む時計の音だけが寂しく聞こえた。
 帰ってきた。帰ってきたんだ、現実世界に……。
 どうやらベッドから落ちたショックによって、夢から覚めたらしい。体はセーラー服ではなく、体操服に身を包んでいた。膝にはバンソウコウが貼られ、シクシクと痛みを訴えている。
 私は記憶の糸をゆっくりと辿った。
 確か体育の授業でグラウンドに出た所まではハッキリと覚えている。授業の内容がハードル走で、私は上手く跳べず足を引っかけて………、その後の事は記憶がない。転倒した拍子に頭を打ち、脳震盪(のうしんとう)でも起こしたのだろうか。そういえば、頭もなんとなくズキズキ痛い。
 とりあえず、ベッドの上に戻ろうとして、私は下半身の異常に気がついた。恐る恐る下着に手を伸ばす。アソコの部分が分泌液によりヌルヌルと濡れていた。
 私はベッドに上がると、膝を抱え座った。
 さっきまで見ていた夢の内容をありありと思い出される。
 体が小刻みに震え、乳首が勃起し、全体が奇妙に熱く火照(ほて)っていた。
 夢の中で受けた性行為の感触が、体に刻み込まれているのか、はっきりと思い出すことができる。
 私はなんて夢を見てしまったのだろう。
 怖かった。
 夢の内容だけではなく、なかなか夢から覚めなかった事も怖かった。
 ここしばらくまともな睡眠をとっていない。その為、一度眠ってしまうと容易に起きることが出来ないのだろう。
 もし、もう一度同じ夢をみたら……。
 私は自分の精神を正常に保つ自信がなかった。

 リーン、リーン、リーン。
 窓の外から月光が、鈴虫の声と共に私の暗い部屋へと入り込む。
 ヘットフォンからはいつものように、深夜ラジオの軽快な音が鳴り響いていた。
 いけない。
 一瞬意識が跳んでいた。
 私は自分のベッドから下りると、ちゃぶ台の上に置いてある急須(きゅうす)を手に取り蓋を外した。お茶の葉を多めに、ポットのお湯を少な目にして、濃いめの日本茶をいれた。
 湯飲み茶碗から一口すする。普段ならこんなにもったいない事はしない。口の中にお茶の渋みが広がる。
 駄目。
 これでは眠気に勝てない。
 時計の時刻はまだ一時を指したばかりだった。
 私は頭を激しく左右に振った。
 今夜だけは、何が何でも起きていたかった。もし眠ってしまえば、昼間に見た夢の続きを見てしまうような気がしてならなかった。あんな夢を見てしまうなら、いっそ死んでしまう方が楽に思えた。
 もっと、もっと強い刺激が欲しい。
 珈琲を飲もうか。
 駄目、今家には買い置きがない。
 外へ散歩にでかけようか。
 駄目、途中で倒れてしまうような気がする。
 なんでもいい、強い刺激が欲しい。
 私は、ふと、机の上に置いてある文房具に目が止まった。
 手を伸ばすと、カッターナイフが指に当たり、それをつまみ出すと、ベッドの上に腰掛けた。
 心の中で『それは止めたほうがいい』と叫ぶ声がする。しかし、私は構わずカッターの刃を、キリキリと押し出した。
 起きていられればいい。
 眠らなければ、何をしても構わない。
 私は自分がしようとしている事に、恐怖感を覚えながらも、それを止めることが出来なかった。夢を見る事への恐怖心が遙かに上回っていた。
 心臓の鼓動が高まり、呼吸が速くなっていく。
 力が入れやすいように、刃の反対方向に親指が当たるよう、右手にカッターナイフを握ると、刃の部分を自分の左手首に当てた。
 もう、夢を見るのはいや……。
 私は力を込めて、カッターの刃を押し当てた。
「ぅぐっ!」
 スルッと刃が腕の中に沈み込まれる。
 腕に走った激痛が脳天にまで貫く。
 私は更に力を右手に込めた。
 ズルズルと更にカッターの刃が体の中に埋め込まれる。
「ぁがっ!」
 弾けるような、貫かれるような強烈な刺激が頭の中を埋め尽くした。
 恐ろしいことに、その刺激がどこか心地よく感じられた。
 汗が体中から噴き出る。
 私は更にこの刺激を強く感じたいと思った。それと同時に、心の中で、大切な何かが砕け散る音を、聞いたような気がした。
 左腕を熱い液体が伝い落ちていく。
 私は更なる刺激を求め右手に力を込めた。
「ふはぁっ!」
 刃が深く吸い込まれ、目の奥に閃光が走る。
 もう自分を止められなかった。
 パキン!
 金属の割れる音がした。
「はうっ!」
 カッターナイフが左手首から外れた。
 私は、ドッとベッドに体を横たえた。
 ナイフの刃が、折れていた。
 手首の中に残された刃が、激痛という名の自己主張をはじめた。
 ズキン、ズキン。
 虫歯に犯されるような痛みが、体中を駆けめぐる。
 私は過大すぎる痛みに耐えきれず、体に埋まった刃を抜くことにした。だが、根本で折れているため、上手くつまみ出せない。仕方なく、奥歯でナイフの刃を噛み、引き抜くことにした。
 ズルルルッ。
 私は埋まっていた刃を引き抜くと、プッと、抜いた刃をクズ籠のなかに吐き捨てた。
「ふはぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
 呼吸がなかなかまとまらない。
 ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ。
 痕からは、大量の血液が脈打ちながら溢れていた。
 私は気が遠くなっていくのを感じた。
 いっそ、このまま寝てしまおうかしら。
 そうすれば、もう、目覚めなくてすむ。嫌な思いも、耕一さんと千鶴姉さんの結婚式も見なくてすむ。
 そして、目覚めることのない悪夢が永遠に続く……。
 それは嫌。
 私は右手を左手の傷口に当てると、鬼の力を解放して、治癒の能力を全開にした。すでにかなりの血液が流れていた。癒しきれるかどうか自信はなかったが、幸いにも傷はじょじょに塞がっていった。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
 私はいったい何をしているのだろう。まだ、悪夢を見ていた方がましだったような……。肩で呼吸をしながら自問自答した。
 ドンドンドンドン。
 扉がノック、というより、激しく叩かれた。
「楓っ! どうしたのっ?!」
 梓姉さんの声が聞こえたと同時に、ドアが勢いよく開かれた。
「楓、大丈夫?」
 私の呻(うめ)き声を聞きつけたのだろうか。暗くて表情は判らないが、私の名を呼びながら、梓姉さんが部屋の中に入ってきた。
「だ、だいじょうぶ。ちょっと、寝ぼけただけ」
 私は適当な嘘を口にした。
「楓お姉ちゃん、大丈夫?」
 一緒に入ってきたのか、初音の声も聞こえた。
「なんとか、大丈夫」
 怪しまれないように、呼吸を急いで整えた。
「楓、あんた何一人で悩んでるの?」
 私は何も答えなかった。
 答えようがなかった
「家族をなめないでね。あんたの考えている事なんて、あたし達には全てお見通しなんだから」
 梓姉さんは私の横に座った。
「あたしも、千鶴姉(ねえ)に耕一を取られた口だからね」
 そういうと、愉快そうに笑った。
 私は図星を突かれて、ぐうの音も出なかった。
「初音もそうさ、みんな耕一の事、多かれ少なかれ好きだったんだからな。辛いのは楓だけじゃないんだよ」
「それに、別にまだ、千鶴お姉ちゃん、婚約とかしていないんだし…………」
 初音が遠慮がちに、自分の意見を述べた。
「そうさ、まだ諦めるは早いってことさ」
 そう言うと私の肩を叩いた。
「初音、冷蔵庫の中に、耕一の為に買ってきたビールまだ残っていたよね」
「ええー、未成年は飲んじゃいけないよ」
「千鶴姉みたいな事いわないの、こういう時は、酔いつぶれるまで飲んで、ぐっすり寝るに限る。そうすれば嫌な事なんてすぐに忘れるもんさ」
「じゃあ、さっそく下から持ってくるね」
「うん、お願いね」
 私抜きで話が急展開に進んでしまっている。
 お酒なんか飲みたくないのに。
「おつまみも、有った方が良い?」
「うん、適当で良いよ。楓が元気になれば、何でいいんだから」
 私は思わず泣きたくなった。
 今まで私は何をしてきたのだろう。
 今まで私は何を悩んできたのだろう。
 自分のしてきたことが、急に馬鹿らしく思えてきた。
「とりあえず、初音。暗いから部屋の電気つけて」
「うん、わかった」
 パチッと音がすると同時に、強烈な光に目がくらんだ。
「キャア!」
 初音の悲鳴が部屋に響きわたる。
「なっ!」
 続いて梓姉さんの驚く声が聞こえた。
 何を二人とも驚いているのだろう?
 目が蛍光灯の明るさになれた時、その理由を知った。
 私の体が血痕で紅く染まっていた。
 ベッドや毛布にも大量の血が付着していた。
 床には血まみれのカッターナイフが転がっている。
 左手の傷も完全に癒えたわけではなく、まだ多少出血していた。
 これは……もしかして、私が自殺したようにみえるかも。
 二人をみると、初音は目に涙をためて震えている。 
 梓姉さんは、唇が引きつったうえ、目がつり上がっている。
 すごく悪い予感がしてきた。
 パンッ。
 梓姉さんの平手打ちが、私の頬に炸裂する。
「かえでーーーー! あんた、死んでどうしようっていうのよーーーーー!!」
 あ、梓姉さんの目がマジだ。
 私は思わず、経緯を説明しようとして、すぐに止めた。
 眠たくて、カッターナイフを腕に刺したと言って、信じてもらえるだろうか。
 私は『好きなようにして』と心の中で叫ぶと、ベッドに倒れ込んだ。
 何もかもが、もうどうでも良くなった。
 その後二人から何を言われても、一切返答しなかった。

 朝6時に目覚まし時計が鳴る。
 腕を伸ばし時計を止めると、再びタオルケットを引き寄せた。
 今日は学校が休みの日だった。
 私はいつの間にか眠っていたらしい。幸いな事に夢は見なかった。
 同じベッドには、初音が私の横で寝息を立てていた。
 私を監視する為部屋に残ったのだ。
 血で染まったシーツや衣服は、全て清潔な物に取り替えられていた。
 コンコン。
 誰かが扉をノックした。
 コンコン。
 2回目のノックがなる。
 私は返事をせず、扉を眺めた。
 カチャ。
 ドアノブが回され、ノックの主が、足を部屋に踏み入れた。
 千鶴姉さんだった。
 私は体を横たえたまま、約一週間ぶりに会う姉の姿を見つめた。
 心の中で、殺気が芽生えるのを感じ、思わず苦笑した。耕一さんを嫌いになった今、憎む理由なんて何一つないはずなのに……。
 千鶴姉さんの表情はどことなく暗かった。梓姉さんから私の事を聞いたのだろう。
「耕一さんが今日、12時50分の特急で帰る事になったわ」
 私はゆっくりと体をベッドから起こした。
「それでね、耕一さんを見送るついでに、みんなでお食事をしようと思うの」
「…………」
「楓、あなたも一緒に行かない?」
 私は、ふるふると静かに首を横に振った。
「そう」
 それだけ言うと、千鶴姉さんは身をひるがえし部屋の出口に向かった。ドアノブをつかんだ後、動きが止まる。数分後、私の方に振り向いた。
「楓。私の事が憎い?」
 とても悲しそうな目で私を見た。
 何かが心の中でチクリと刺さり、私は思わず目をそらした。
「私は、耕一さんの事が嫌いなだけ……」
 声の語尾が震えた。
「叔父さまが私に良く言っていたわ、お前は嘘が下手だと。耕一さんにも同じ事を言われたわ」
 訥々(とつとつ)とした口調で千鶴姉さんは、私に語った。
「私は、自分が幸せになるために、誰かを不幸にするのは嫌。できれば、みんなで幸せになりたい」
「…………」
「だから、もし、あなたが自分を幸せにするために、何かしたとしても、私はあえて何も言わない。耕一さんも、きっと判ってくれると思う」
 私は俯いたまま、黙って千鶴姉さんの声を聞いた。
「楓、気が向いたら駅に来て。きっと耕一さんも喜ぶと思うわ」
 カチャ。
 ドアノブの回る音と共に、千鶴姉さんは部屋から姿を消した。
 私はゆっくりと顔を上げた。
 誰かを不幸にするのは嫌?
 みんなで幸せになりたい?
 四姉妹の中で一番依存心の強いのは誰?
 一番寂しがりやなのは誰?
 独占欲が一番強いのは誰?
 もし仮に、私や、初音や、梓姉さんが、耕一さんに愛されたとして、千鶴姉さんは黙ってそれを見ている事が出来るというの?
 出来もしないくせに。
 千鶴姉さんは私の事を気遣ったんじゃない。
 耕一さんを独占した事に対する後ろめたさに、自分が傷つかないよう、自分に対して言い訳をしただけじゃない。
 それとも、私に何かあった時に、自分に言い訳ができるよう伏線を張りに来ただけ?
 私の心にドス黒い感情がわき起こる。
 偽善。みな私の為に善かれと思い、私を深く傷つけていく。どうして、みな私を放っておいてくれない? そんなにも、自分が善い人間と思われたいの?
「うーん」
 初音が私の横で寝返りをうつ。幸せそうな寝顔だった。
 私はゆっくりと初音の横に座ると、その細くて白い首筋に両手を絡ませた。
 心の中で誰かが警鐘をならしている。しかし私は意に介さず、初音の首をギュッとしめつけた。
「っが!」
 初音の呼吸が止まり、顔色が徐々に変化していく。
 悶え苦しむ妹の姿を、私は淡々と人ごとのように観察した。
 汗が噴き出し、口がパクパクと空気を求め開閉する。
 良心が盛んに警告を発する、何馬鹿な事をしているのかと。そして私自身、なぜ初音の首を絞めたのか良く判らなかった。理由があるとすればただ一つ、『やりたいからやった』としか答えられなかった。
 幸せな夢から、一転悪夢に叩き落とされた初音が、ようやく目を覚まし目蓋を開けた。私の名を呼んだような気がした。
 私は手から力を抜いた。
「ふはぁ、ふはぁ、ふはぁ、ふはぁ、ふはぁ」
 水中から顔を出したように、初音は肺に空気を送り込んだ。
 初音はまだ少し寝ぼけているのか、何があったのかと、問いかけるような目で私を見つめた。
「初音、今日12時50分の特急で、耕一さんが帰るそうよ」
 私は何事もなかったかのように、初音に話しかけた。
「はぁ、はぁ、そ、そうなんだ。耕一お兄ちゃん帰っちゃうんだ。もう少し、こっちに居られるって言っていたのに」
 私のせいよ。
 心の中で呟いた。
「まだ、見送りには時間があるけど、初音はどうするの」
「もう少し、ここで寝ていようかな。あんまり昨夜は寝ていないから」
「ここで眠るの?」
 初音は首を縦に振った。さすがに、私を見張るためとは言えないのだろう。
「そう……」
 私は少し考えた後、初音にこう言った。
「私と寝たいのなら、私の腕を縛って」
「えっ?」
「初音。私はもう、あなたの知っている楓お姉ちゃんじゃないの」
 私は出来るだけ優しい声で話しかけた。
「自分が何をしでかすか、自分でも判らないの」
 知らず知らずに声が震えていた。
「もし一緒に寝ている間に、初音に何かしたらいけないから、私を縛って欲しいの。初音と一緒にいる時は、良い姉でいたいから」
 初音は首をさすりながら、私の言葉を黙って聞いた。
「もし、縛るのが嫌なら、今すぐこの部屋を出ていって」
 私の言葉に少し悩んだ後、初音は小さく頷いた。そして、いったん自分の部屋に戻り、ピンクのタオルを持って部屋に帰ってきた。
「楓お姉ちゃん、これでもいい?」
 私は了承の意を目で伝えると、後ろを向き、背中で腕を交差させた。
 初音が私の腕を縛りあげる。
「初音、もう少し強くして。これだと抜けてしまうから」
「わかった」
 数分後、腕が背中で固定されるのを知ると、私は思わず安堵の溜息をついた。
「ありがとう、初音」
「う、うん……」
 初音は複雑な表情で私を見た。
 私は体をベッドに横たえた。
「本当に、これで良いの?」
「うん、これで良いの」
 私は数分前に初音を絞殺しようとした。理由もなく。
 もう、私は壊れてしまったのだ。
「ごめんね」
 自然と謝罪の言葉が口から出た。
「何を謝っているの、楓お姉ちゃん」
「私、初音に姉として何もしてあげられなかったから」
 言葉の端に、不吉な予感を覚えた初音は、一緒に横になると背中に体を密着させた。
「いっぱいしてもらってるよ。楓お姉ちゃんには、いっぱい、いっぱいしてもらっている。わたし二人でこうしているだけで、嬉しいもん」
 初音の腕に力が込められる。
 なんとなく心地良かった。

 ふと気がつくと、私は一人でベッドの上に寝ていた。
 腕のタオルが何時の間にか解かれていた。
 時計を見ると、12時丁度(ちょうど)を指していた。
 恐らく、初音は千鶴姉さん達と一緒に、耕一さんを見送りに行ったのだろう。今頃どこかでお昼ご飯を食べているのだろうか。
 今日で耕一さんは東京に帰る。
 耕一さんの事を嫌いになってからの数日が酷く永く感じられた。
 もう苦しまなくて済む。
 私は再びベッドの上で横になった。
 今日で耕一さんは帰るんだ………。

 流線的な形をした白い特急車両が、低いモーター音を唸らせながら、海岸線の線路を駆け抜ける。
 私は白い帽子と白いワンピース姿で砂浜に立ち、電車の窓を凝視する。
 いた。
 耕一さんだ。
 ほんの一瞬、二人の視線が交差した。
 パーーーーーンッ!
 甲高い警笛を残し、電車は走り去っていた。
 私は何時までも、そのヘッドライトを見送り続けた。
 ザザーーー、ズザザザーーー。
 再び海岸を波の音が支配した。
 私は海の方に体を向けると、砂浜に腰を下ろした。
 結局、私は自分に嘘をつけなかった。耕一さんの事を嫌いになんてなれなかった。
 誰かがいった『他人は騙すことが出来ても、己の心は欺けない』と。
 私は悲しいほどに、耕一さんの事を愛していたのだ。
 自分の高空にはカモメ白いカモメが群れをなして飛んでいた。
 私は砂浜の上に仰向けに寝ころんだ。
 これから、どうなるのだろう。
 恐らく、耕一さんは千鶴姉さんと結婚するだろう。これは予想というより、女の直感でそう思った。誰もあの二人を割り込む事なんて出来ないだろう。
 その時私はどうするのだろう。辛い現実を受けいれることができるのだろうか。もし出来たとしても、その先は?
 私は今まで、耕一さんの夢ばかり見ていた、夢ばかり追いかけてきた。一生懸命勉強してきたのも、耕一さんと同じ大学に行きたいという理由からだった。私はその夢さえ失ってしまった。
 辛い現実を夢に逃避する人はたくさんいる。その夢さえ無くしてしまった私は、この先どうやって生きて行けばいいのだろう。
 心の中にぽっかりと大きな穴が空いたような気がした。
 もう、何も考えたくなかった。
 ただ、風に乗って東に吹き流される雲を、いつまでも見ていた。

 時が過ぎ、空は茜色に染まったと思うと、すぐに漆黒の闇へと移り変わっていった。
 その間も、私は砂浜に身を横たえながら、ずっと空を眺めていた。
 雲は見えなくなり、代わりに満点の星々が姿を現し始める。
 ふと気がつくと、初音が私の横に立っていた。
 私は何も言わず、星空を眺め続けた。
 初音も無言のまま、ただ、憐れみに満ちた目で、私をじっと見つめていた。

 

<失恋狂騒曲 終わり>



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