キスして欲しい



『キスしてほしい、キスしてほしい、キスしてほしい、キスしてほしい………』
 ペンを持つ手が止まる。
 何気なく聞いていた、ラジオの曲が耳にとまった。
『二人が夢に、近づくように、キスしてほしい……』
 キス。
 今までに、一度もしたことがないもの。
 私(柏木楓)はいつの間にか、自分の唇に指を這わせていた。

 いつもの朝食。
 ここ最近は耕一さんが我が家に来ている為か、いつもより、おかずが一品多いような気がする。
 カリカリに焼かれたベーコン。半熟の目玉焼き。ポテトサラダ。こんがりとトーストされた食パンに、バターとジャム。それと暖められた牛乳。以上の品々がテーブルの上を、所狭しと並べられていた。
 耕一さんはトーストに、目玉焼き、ベーコンを乗せ、更にもう一枚パンを挟み、即席クラブサンドもどきを、美味しそうに頬張っていた。
 私は耕一さんの唇が気になってしかたがなかった。
 昨夜聞いたラジオのせいだろうか。
『キスしてほしい』
 あの単純な歌のフレーズが、ぐるぐると頭の中を回っていた。

「柏木、おめぇ何考えてんだ」
 学校の休み時間。小学生の時から幼なじみの香織が、私に声をかけてきた。
「また、男の事か?」
 いきなり図星を突かれ、返答に困窮した。
「昔から、柏木がそんな顔してやがる時は、彼氏の事を考えていると相場が決まっているからな。現に顔が赤くなっているのが、その証拠さ」
 そういうと、染めた髪を描き上げ、愉快そうにカラカラと笑った。
「今度はどんな悩みだ。あたしで良かったらいつものように相談に乗ってやるぜ」
 私は少し悩んだ後、おずおずと、教会の懺悔室で罪を告白する罪人のように、香織に語りかけた。
「キスって、どんな感じなの……」
「キス?」
 香織はセーラー服のリボンの前で腕を組むと、真面目な表情をして考え込んだ。
「キスねぇ」
 珍しく眉間に皺を寄せて考え込んでいる。
「ひとつだけ言えることは、甘くはないという事だ。レモンの味がするとか言うのは、ありゃ嘘だからな」
「そうなの?」
「あたしの時は、煙草の味しかしなかったなぁ。まあ、やってみりゃ判るってもんさ。それよりも……」
 香織はニタニタと笑いながら、肘で私の腕をつついた。
「そんな事を聞くと言うことは、憧れの彼氏が柏木に接近でもしてきたかい?」
「そ、その……」
「正直にいいな。耳たぶまで紅(くれない)に染まっているぜ」
 私は、聞いた相手が悪かったと、真剣に後悔した。

「楓ちゃん、俺の口に何か付いている?」
「え…、べ、別に」
 夕食。
 私は無意識のうちに、耕一さんの唇を眺めていたらしい。
「楓お姉ちゃん、今日はめずらしく、ゆっくりとごはん食べているね」
 初音の問いに、ドキッと動揺した私は、急いで夕食を口の中に放り込むと、自分の部屋に逃げ込んだ。
 耕一さんとキスしたい。
 私の欲求は肥大する一方だった。
 唇と唇を合わせるだけの行為なのに、どうして私は渇望しているのだろう。
 キス出来ないと思うだけで、どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。
 私はベッドの上に倒れ込むと、抱き枕を引き寄せ顔を埋めた。
 コッチ、コッチ、コッチ、コッチ、コッチ。
 目覚まし時計が、刻一刻と時を刻んでいく。
 貴重な時間が過ぎ去っていく。
 耕一さんが東京に帰るまで、あと数日。残された時間は残り少ない。
 鬼の力の制御に耕一さんは成功した。
 もう、何も遠慮する必要はないのに、なぜ私は耕一さんに告白しないのだろう。
 毎日、毎晩、耕一さんの事を思い夢見てきたのに。こんなに苦しくて切ないくらい好きで好きでたまらないのに……。
 今頃下では何をしているのだろう。
 居間でテレビでも見ているのだろうか。
 こんなに所にいてはいけない。
 下に降りよう。
 少しでも耕一さんと同じ空気を吸おう。もしかしたら、告白する勇気が出るかもしれない。
 私はそう決心すると部屋を出て、階段を下った。

「楓ちゃんも、一杯飲むかい」
 私を見るなり、ビール瓶を握りしめた耕一さんが、陽気な声をかけてきた。
「だめだめ、楓はまだ子供だから、呑んじゃ駄目なの」
 梓姉さんが、ひらひらと手を振りながら答えた。その目は焦点が定まっていなかった。
「梓、明日は休日だからいいけど、お酒は程々にしておきなさいよ」
 そう言う千鶴姉さんの頬も、ほんのりと赤く染まっている。
 どうやら、私が上に上がっている間に、夕飯が宴会へと変化したらしい。
「耕一お兄ちゃん、おかわりいかが?」
「お、気が利くね」
 唯一、いつもと変わらない初音が、耕一さんのコップにビールを注(そそ)いだ。
「じゃあ、よい子の初音ちゃんに、ご褒美を上げよう」
 そう言うやいなや、耕一さんは初音を引き寄せ、その頬にキスをした。
「きゃっ!」
 短い悲鳴が上がる。
 私は思わず目が点になった。
 お酒も呑んでいないのに、初音頬がみるみる赤くなっていく。
「やめてよ、お兄ちゃん」
「初音ちゃんは、俺にキスされるのは嫌かい?」
「別に、嫌じゃないけど……」
「あら、初音、羨ましいわね。私も耕一さんにして貰おうかしら」
 向かいの席に座っている千鶴姉さんが、身を乗り出して、頬を耕一さんに向けた。
 どうやら、千鶴姉さんも見かけによらず、かなり泥酔しているらしい。
「じゃあ、千鶴さんにも」
 チュッ。
 頬を吸う唇の音が、私の耳に届く。
 耕一さんは、酔うとキス魔になるらしい。知らなかった。
 私は素早くテーブルの上に置いてあるビール瓶を手に取ると、耕一さんの側に近づいた。
 頬でもいい。
 キスして欲しい。
 もし、キスしてもらえなければ、今夜は悔しくて眠れそうにない。
 私は千鶴姉さんと初音に、激しい嫉妬を感じていた。
「耕一、もしかして、東京で誰にでもキスしているんじゃないの?」
「バカ言え梓、俺のキスはだな……」
 私はビールがなみなみと注がれているコップを、じっと眺めつつ待った。
 耕一さんは梓姉さんとの話に夢中になり、一向にビールを口にしようとしなかった。
 こんな時、『耕一さん、私にもキスしてください』と言える勇気があればいいのに。
 私は自分の意気地のなさに、唇を噛みしめた。
 耕一さんの熱弁はなかなか終わりそうになかった。手の熱で、ビールが暖まってしまう。そんなことを心配していると、誰かが私に視線を向けている事に気が付いた。
 誰だろうと思い顔を上げると、梓姉さんが私の顔を見て、ニヤニヤと笑っていた。
 すごく悪い予感がした。
「こういちーーー! 楓がキスして欲しいって、ビール瓶抱えて待っているぞ」
 予感的中。四人視線が一斉に私に向けられた。その目には明らかに嘲笑が含まれていた。
 顔から火が噴いた。
 私は恥ずかしさのあまり、逃げ出したい衝動に駆られたが、じっと我慢した。
 耕一さんが、私の顔をまじまじと見つめる。
 心臓の鼓動が、一層激しさを増す。
 耕一さんはもうすぐ『楓ちゃんも、キスして欲しいのかい』という筈。その時私は首を縦に振れば良いんだ。
 一瞬とも無限とも感じられる、奇妙な時間が流れた。
 不意に、耕一さんが私から視線を外した。
「あずさーーーー。そういうおまえこそ、本当は俺にキスして欲しいんじゃないのか?」
 耕一さんは素早く梓姉さんの後頭部に手を回すと、強引に引き寄せキスをした。
 チャプ。
 目の前で、耕一さんの唇と、梓姉さんの唇が重なり合う。
 私はショックのあまり、手に持っていたビール瓶を床に落としそうになった。
 梓姉さんは、身を離そうと藻掻くが、耕一さんはなかなか離そうとしない。
 チュパ。
 ようやく離れた唇からは、細い糸が引き合っていた。
 グワキッッィィィ!
 梓姉さんの下から突き上げる、強烈なアッパーカットが耕一さんのアゴにクリーンヒットした。
 ドンガラガッシャン!
 ロープ……、もとい、椅子から吹っ飛ばされた耕一さんは、そのまま床に沈んだ。
「ばっかやろーーーーーーーーーーーっ!!」
 梓姉さんは、ずかずかと床を踏みならしながら、部屋の外へと出ていった。
 口では文句を言いながらも、その口元に笑みが張り付いているのを、私は見逃さなかった。
「耕一お兄ちゃん、大丈夫」
「耕一さん、耕一さん?」
 千鶴姉さんが、ゆさゆさと体を揺するが、耕一さんは立ち上がらなかった。
 見事にノックアウトされていた。
 試しにカウントを十まで数えたが無駄だった。
 私は深い溜息をついた。

 キシッ。キシッ。
 午前三時。
 草木も眠る丑三つ時。
 私は息を殺し、周りを忍びつつ、耕一さんの寝室に、一歩、また一歩と近づいていった。
 交尾の相手を求め鳴いている夏虫と私以外、家の中で動いているものは誰もいなかった。
 耕一さんのいる和室の障子に聞き耳をたて、中の様子を探る。特に耕一さんらしき寝息以外何も聞こえなかった。
 私は障子に指をかけると、ゆっくりと手前に引いた。
 緊張からか心臓の鼓動が早まり、ピンクのパジャマが汗で湿っていく。
 素早く部屋の中に入り込むと、今度はさっきと逆に、障子を注意深く閉めた。
 ピシャッ。
 閉まる音が予想以上に大きかった。
 一瞬、耕一さんの寝息が止まる。
 しまった。
 私は息を飲んだ。
 数秒後、スゥスゥと規則正しい呼吸音が聞こえてきた。起きたわけではないみたい。
 私は、ほっと一息ついて胸をなで下ろすと、腰をかがめ四つん這いになり、スルスルと愛する人の枕元に近づいていった。
 耕一さんは、幸せそうな笑みを口もとに浮かべながら眠っていた。
 胸の鼓動が一段と早くなる。
 私は覚悟を決めると、顔を耕一さんに近づけた。
 あと二十センチ。
 頭とアゴに、そっと手を添える。
 あと十センチ。
 心臓が破裂しそうなくらい、激しく脈うつ。
 あと五センチ。
 目をつむり、唇をゆっくりと近づける。
 あと少し。
 体中が、小刻みに震えて止まらない。
 今、唇を前に出せば、耕一さんとキスができる。
 あと少し。
 あと少し。
 あと少し……………。
 私は、どうしてこんなに、勇気がないのだろう…………。
 あと数センチのところで、私の前進は止まった。それと同時に、心の中に溜まっていた、わだかまりが胸の中に吹き出した。
 本来キスとは、お互いに『キスをしたい』という合意の上に成り立つもの。相手が無意識と時に行って、何の意味があるのだろうか。それにもし、私が眠っている時に、耕一さんに同じ事をされたら、私は素直に喜ぶだろうか。
 どろぼう猫。
 今の私がしている行為は、どろぼう猫と同じだ。
 相手に気が付かないように忍びより、相手の気持ちなど、お構いなしに、自分の欲しい物を盗んでいく。今の私とどんな違いがあるというのだろう。
 罪悪感と己に対する軽蔑感が込み上げてくる。
 こんな醜い私の行為を知れば、耕一さんはきっと私を嫌いになるに違いない。
 私の両目から溢れた涙が、ぽつ、ぽつと耕一さんの頬を濡らした。
 その時だった。
 耕一さんは、目をうっすらと開けた。
 私は一瞬にして心臓が凍り付いた。
 起きていた。耕一さんは起きていた?!
 頭がパニックに陥るのとほぼ同時に、蒲団から腕が伸び、私の背中と後頭部に掌を回すと、力任せに引っ張られた。
 チュパ。
 唐突に私の唇と、耕一さんの唇が繋がった。
 しかも、繋がったのは唇だけではなかった。私の唇の隙間から舌が進入し、口の中を犯し、私の舌と絡みあった
 粘膜と粘液による淫らな音が、静まりかえった闇の空間に満ちていく。
 これは夢だろうか。夢なら覚めないで欲しい。
 真っ白になった頭の中で、私はそう思った。
 お互いを貪り合うようなキスが終わり、自然とお互いの唇が離れた。
 私の唾液が、名残惜しそうに耕一さんとの間に糸をつくり結んでいた。
「千鶴さ〜ん」
 耕一さんは一言、そう呟いた。
 え?
 私は、一瞬耳を疑った。
 千鶴さん?
 確かに今、耕一さんは千鶴姉さんの名前を口にした。
 耕一さんは再び、スゥスゥと気持ち良さそうな寝息を立て始めた。
 幸せそうな笑みを浮かべながら。
 もしかして、耕一さんは寝ぼけていたとか。
 たまたま、目を開けた時にいた私を、千鶴姉さんと勘違いしてキスしたとか。
 と、いうことは、今、耕一さんの見ている夢には千鶴姉さんが……。
 ……………………………。
 そう、ですか。
 そういう事なんですね、耕一さん。
 ……………………………。
 私は、耕一さんが枕にしている大きめのクッションを手前に引っ張り出すと、力一杯、耕一さんの顔めがけて叩きつけた。
 バフッ!
 一度では腹の虫が治まらず、何度も何度も耕一さんに、枕を振り下ろした。
 バフッ! バフッ! バフッ! バフッ! バフッ! バフッ! バフッ! バフッ!バフッ! バフッ! バフッ! バフッ! バフッ! バフッ! バフッ! バフッ! バフッ! バフッ! バフッ! バフッ! バフッ! バフッ! 
「な、なんだ、ぐは、な?!」
 耕一さんが目を覚ましたらしい。
 私は気にせず殴り続けた。何度も何度も何度も何度も何度も………。

<終わり>

(引用曲 『キスしてほしい(トゥー・トゥー・トゥー)』(アルバム名;YOUNG AND PRETTY) バンド名;THE BLUE HEARTS 作詞・作曲;甲本ヒロト)

 

<キスして欲しい 終わり>



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