真夜中の午前二時



 真夜中の午前二時。
 わたしは小箱を開け、中から一枚の紙片を取りだし広げた。
『親愛なる初音へ
  お誕生日おめでとう
   柏木楓より』
 わたし宛の手紙を一読すると、次に紺色の宝石箱の蓋を開けた。
 細かな装飾の施されたプラチナ製の指輪が、ランプの光を受けキラキラと輝き出した。
 それは、今は亡き姉からの誕生日プレゼントだった。


「実は、俺達に子供が出来たんだ」
 耕一お兄ちゃんは照れくさそうに言った。
「えーーーーっ! 本当なの千鶴お姉ちゃん」
 わたしは思わず大きな声を上げてしまった。
千鶴お姉ちゃんは恥ずかしいのか、顔赤くして下を向いたまま、小さく頷いた。
「結婚より先に子供作ってどーすんだよ!」
 梓お姉ちゃんはあきれ果てたように言い捨てた。
「耕一はまだ大学があるんだろ?」
「大学は辞めて、こっちに来ることにしたんだ」
「飯を作る身にもなって欲しいね」
「わたしは耕一お兄ちゃんが来ることに大歓迎だよ。家族は多いほうが楽しいし」
「そう言ってもらえると嬉しいよ、初音ちゃん。来年にはさらに一人増えるしね」
「どっちに似るのかなぁ。楽しみだね、梓お姉ちゃん」
「どっちに似てもロクな性格じゃないだろうよ」
 梓お姉ちゃんの顔に『おもしろくない』という表情が、ありありと浮かんでいた。
 わたしはハッと楓お姉ちゃんの事を思い出した。
 確か楓お姉ちゃんも耕一お兄ちゃんの事を好きだったはず。
 わたしは、おずおずと楓お姉ちゃんの顔を覗き込んだ。
 無表情。
 楓お姉ちゃんは無表情に耕一お兄ちゃんと千鶴お姉ちゃんを見つめていた。
「耕一さん、千鶴姉さん、おめでとうございます」
 抑揚のない静かな声で、楓お姉ちゃんは二人に祝いの言葉を述べた。
「ありがとう楓ちゃん」
「結婚式はどうするのですか?」
「二ヶ月後くらいに簡単な式を挙げようと思っている。あまり遅くなると、お腹が目立つようになるしね」
「そうですね。早いにこしたことはないですし」
「今から楽しみね、楓お姉ちゃん」
 わたしの問いかけに、楓お姉ちゃんはすぐに答えなかった。
 しばしの間わたしの顔を見つめた後、
「そうね」
 と、そっけなくつぶやいた。


 その日から、楓お姉ちゃんの様子がおかしくなった。
 何をするにしても精気がない。
 まるで夢遊病者のように意思なく日々を過ごし、学校も休みがちになってしまった。
 わたしは元気づけようと思い、買い物や遊びに行くのに楓お姉ちゃんを誘ってみるものの、効果はなかった。
 晴れた日などは、空を見上げてばかりだった。
 しかたなくわたしも横に座り、楓お姉ちゃんと空を一緒に見上げていた。


 結婚式当日。
 『ささやかな』という最初の言葉とは裏腹に、盛大な結婚式が鶴来屋にて催された。
 『鶴来屋で是非やりましょう』という足立社長の強い意向によるものだった。
 足立のおじさんとしては耕一お兄ちゃんに将来『鶴来屋』を継いで欲しいらしく、そのためにも『鶴来屋』での披露宴にこだわったらしい。
 数々のスピーチと祝辞の述べられるなか、梓お姉ちゃんは未成年にもかかわらず、ひたすらにお酒を飲んでいた。
「梓お姉ちゃん、ほどほどにしたほうがいいよぉ」
「いいんだよ、いいんだよ、めでたい席なんだから」
 そういって次から次へとビールを胃に流し込んでいた。
 梓お姉ちゃんも耕一お兄ちゃんの事を好きだったのだろうか。ヤケ酒であることは明白だった。
 かたや楓お姉ちゃんはというと………、こちらも失恋酒に身を浸していた。ただ、梓お姉ちゃんとは違い、無言で乱れる事なく、淡々と日本酒を水のように飲み干していた。しかもかなり速いペースで。
 時たま新郎新婦に目を向け、しばらく眺めていたかと思うと、再びコップで日本酒をあおりはじめる。この繰り返しだった。
「楓お姉ちゃんも高校生なんだから、お酒飲んじゃだめだよぉ」
「………………」
 楓お姉ちゃんの目は、お酒を注ぐグラスをみるばかりで、わたしに見向きもしなかった。
 そんな事が小一時間程続いた後、楓お姉ちゃんはフラフラと自分の席を立った。
「大丈夫、楓お姉ちゃん」
「トイレ……」
「わたしも一緒に行こうか?」
「……大丈夫、一人で行けるから……」
 そう言うと、千鳥足で出口へと歩いて行った。
 それが、楓お姉ちゃんを見た最後の姿だった。


「千鶴お姉ちゃん、楓お姉ちゃん見なかった?」
「そういえば、姿をみていないわね。どうかしたの?」
「お酒に酔ってトイレにいったまま、帰ってこないの」
「もしかしたら、先に帰ったんじゃない?」
「それならいいんだけど」
 わたしの心は胸騒ぎがして落ち着かなかった。
「私からも係りの人に聞いておくわ」
「心配させてごめんね」
「いいのよ、それより楓の事お願いね」
「うん」
 わたしは首を縦に振ると自分の席に戻った。
 梓お姉ちゃんは泥酔したのか椅子にもたれかかり、いびきをかいて眠っていた。

 結局、披露宴が終わっても楓お姉ちゃんは帰ってこなかった。
 どうも会場の人の話によると、楓お姉ちゃんはタクシーに乗り、先に帰宅したらしい。だが、わたしが梓お姉
ちゃんと共に家に帰り着いたとき、家の中は暗く静まりかえっていた。
 心配と不安が一層つのっていく。
「楓のやつ、どこに行ったんだ?」
 お酒の残る頭を押さえながら梓お姉ちゃんがつぶやいた。
 外はすでに夕暮れで暗くなりつつあった。
 プルルルル、プルルルル……。
 突然電話機がなりだした。
「あ、あたしが出るよ」
 梓お姉ちゃんが受話器を取り上げた。
「もしもし、柏木ですけど……、はい、確かに柏木だけど、どなたですか?」
 梓お姉ちゃんが電話している間に、わたしはお茶をいれようとポットに手を伸ばした。
「え、警察?!」
 電話の声に、わたしの手が止まった。
「はい、はい、確かにそうですけど………」
 一分ごとに梓お姉ちゃんの顔が深刻なものに変わっていく。
「わ……、わかりました、姉ともすぐに連絡をとります。では失礼します」
 カチャリ。
 受話器を置く音がすると同時に、わたしは梓お姉ちゃんのもとに駆け寄った。
「いったい何の電話?」
「うそだよな……、きっと悪い冗談に決まっているよな……」
「何があったの?」
 梓お姉ちゃんは振り向くと同時に、わたしを両腕で強く抱きしめた。
「まだ、決まった訳じゃないよ……まだ、確認したわけじゃないからね、初音」
 声と腕が小刻みに震えていた。
「いま、警察からの電話で、海岸に女性の水死体が浮かんだんだって……」
「え……」
「そしてその死体から、楓の名前が書かれている物がみつかったらしい……」
「え?!」
わたしは一瞬自分の耳を疑った。
「そ、そんな、嘘でしょ梓お姉ちゃん、嘘だといってよ!」


 警察署にたどり着くと、二次会の会場から駆けつけた耕一お兄ちゃんと千鶴お姉ちゃんが待っていた。
 わたしたちはそこで、変わり果てて冷たくなった楓お姉ちゃんと再会した。
 四人肩を寄せ合って泣いた。
 死因は海に溺れての溺死だった。
 警察によって、他殺、事故死、自殺のあらゆる可能性を探りながら捜査が始まった。
 私たちは数日後、警察からいろいろと話を聞いた。
 まず、タクシーの運転手の証言により、楓お姉ちゃんが望んで海に向かった事が判った。そして一人で海を見ている姿を、死亡指定時刻の直前に、海岸付近の人が見かけていた。その時、他に周りに人はいなかった為、他殺の可能性は低いという事だった。
「じゃあ、楓が死んだ原因はわかんないの?」
「今のところ、誤って海に転落した可能性が強いとみています。なにせ、未成年にも関わらず、アルコールを大量に摂取した後がみられますし………」
 梓お姉ちゃんの問いに、警察の人は淡々と答えた。
「あと、自殺の可能性もあると見ています」
 わたしは一瞬息を呑んだ。
 考えたくはなかったけど、もしかしたらという思いが、なくはなかった。
「…………私が殺したのよ……」
 低い声で千鶴お姉ちゃんが呟いた。
「だって、楓は……」
「馬鹿な事いうなよ、千鶴姉!」
 梓お姉ちゃんが、千鶴お姉ちゃんの言葉を遮った。
「自分がすべて責任を背負う必要なんてないだろう?」
 わたしは、ずっと気になってる事を聞いて見ることにした。
「遺書とか……みつかりました?」
「いえ、今のところそれらしい物は見つかっていませんね。普通、自殺の場合、何らかの書き置きがあるものですが、今回はそれが見つかっていないので、我々は事故だと考えているわけです」
 わたしはホッと胸を撫でおろした。
 もし楓お姉ちゃんの死が自殺だとする場合、その理由は………耕一お兄ちゃんと千鶴お姉ちゃんが結婚したことによる失恋以外考えられなかったら。
 結局、警察の発表は、酔いを醒ますため海を見に行き、誤って転落したという事に落ち着いた。


 二月二十七日の夕方。
 わたしはいつものように学校から帰宅した。
 家の中では先に帰っていた梓お姉ちゃんと、妊娠六ヶ月に入り少しお腹が目立つようになってきた千鶴お姉ちゃんが、なにやらごそごそと準備をしていた。
「ただいまー。梓お姉ちゃん何してるの?」
「今日は初音の誕生日だろ。みんなで祝おうと思って準備しているのさ」
「本当に!?」
「ああ」
 梓お姉ちゃんは首を縦に振った。
「ありがとう。わたしとっても嬉しい」
 わたしは少し大げさにはしゃいだふりをした。
 楓お姉ちゃんのお葬式以来、わたしを含めて皆、心に深い痕(きずあと)を負っていた。
 口には出さなくても、目を見れば判るのだ。
 だから、わたしは最近少しでも家が明るくなるよう振る舞っていた。
 笑いたくなくても無理に笑顔を作った。
 そうしないと、涙が不意にこぼれ落ちそうになるから………。
「じゃあ、わたしは何を手伝えばいい?」
 そう言ってエプロンを手に取った時、玄関で呼び鈴が鳴った。
「何かしら」
 千鶴お姉ちゃんが重そうにお腹に手を当てながら立ち上がった。
「あ、千鶴お姉ちゃん、私が行くからそこに座っててよ」
 わたしは玄関へと小走りに向かった。
「宅急便でーす。判子かサインをお願いします」
「ご苦労様です」
 わたしは伝票にサインをして、運送会社の人から十センチ四方の荷物を受け取ると居間に戻った。
「誰が来たの初音」
「宅急便だったよ、千鶴お姉ちゃん」
「何の荷物かしら?」
「ちょっと待ってね」
 わたし箱に貼ってある伝票を調べた。
「あ、わたし宛みたい」
「その包み紙は駅前のデパートの物ね。もしかしたら初音の誕生日プレゼントじゃない?」
「そうかな。誰からだろう……………あれ、柏木……えっ!」
 わたしは伝票の名前を見て驚いた。
 柏木楓。
 死んだはずの姉の名前が、差出人の欄に書かれていた。
「な、なんでもない」
 不審がる千鶴お姉ちゃんの視線を背に受けながら、荷物を胸に抱いて自分の部屋に向かった。
 どうしてこんなものが?
 誰かの悪戯?
 幾つもの疑問符が頭の中を駆けめぐる。
 自室に入ると机の引き出しを開け、荷物を中にしまい込んだ。
 夜になったら、ゆっくり一人で確かめよう。
 わたしは大きく深呼吸をして息を整えると、何事もなかったかのように一階へと降りていった。


「ハッピーバースディ、初音ちゃん!!」
 祝福の言葉と共に、クラッカーが軽快な音をたてて弾(はじ)けた。
 テーブルの上には数々の料理が食べきれないほど並べられ、白い生クリームにデコレートされたケーキには、わたしの歳の数だけローソクが並べられていた。
 恐らく今までで一番豪華な誕生日だと思った。
 三人からそれぞれ誕生日プレゼントをもらい、料理に舌鼓を打った。
 食事が終わった後は皆でトランプをして夜遅くまで遊んだ。
 ポーカーやブラックジャックをした後、最後はババ抜きで締める事になった。
「私上がったわ」
 千鶴お姉ちゃんが一抜けした。
「おし、二抜け」
 梓お姉ちゃんも上がり、わたしと耕一お兄ちゃんの一騎打ちになった。
 わたしの手札はハートの7が一枚。
 対する耕一お兄ちゃんの手札は二枚。
「初音ちゃん番だよ」
「うん」
 わたしは手を伸ばしたまま、どちらにするか迷った。
 どっちがババで、どっちが上がりのカードだろう?
 心の中で決めかねていた時、不意に後ろから声が聞こえた。
「初音、右側を引きなさい」
「右ね」
 わたしは思い切って右のカードを引いた。
 スペードの7だった。
「わたしの勝ちだよ、耕一お兄ちゃん」
「負けた……」
 耕一お兄ちゃんは悔しそうな顔をした。
「教えてくれて、ありがとう」
 わたしは後ろを振り返って、礼を言った。
 誰もいない壁に向かって。
「初音、誰に向かって言ってるの?」
 梓お姉ちゃんが不思議そうな目で、わたしを見つめていた。
 わたしをはじめ、耕一お兄ちゃんも、千鶴お姉ちゃんも、梓お姉ちゃんも、皆テーブルで向かい合うように座っていた。
 後ろに人なんているはずが無かった。
「な、なんでもない」
 わたしは適当にお茶を濁した。
 でも確かに、わたしは誰かの声を聞いたような気がした。


 お休みの挨拶をし、わたしが自分の部屋に戻った時、時計の針は午前一時を指していた。
 わたしは机に座り、引き出しの中から夕方にしまった箱を取り出した。
 箱に貼ってある送り状を見ると、発送元の住所は駅前のデパートになっていた。送り主は『柏木楓』と書かれていた。
 荷物は比較的軽かった。
 わたしはペーパーナイフを取り出すと、注意深く包み紙を開けた。
 包装紙を取り払うと、紅いリボンのかかった箱が姿を現した。
 リボンをほどき、ゆっくりと箱の蓋を開けると、二つに折られた一枚のカードが一番上に入っていた。
 箱の中からカードを取り出すと、中に書いてある文章に目を通した。
『親愛なる初音へ
  お誕生日おめでとう
   柏木楓より』
 ゆっくりと丁寧に書かれた文字は、楓お姉ちゃんの筆跡に良く似ていた。
 カードの下には深い紺色の宝石箱が入っていた。
 震える手で箱を取り出し、蓋を開ける。
 その瞬間、中に入っていた指輪がランプの光を受け、金色の輝きを放ち始めた。
「あ………」
 わたしは思わず声をあげた。
 その指輪を知っていたから。
 あれは結婚式の二週間前だろうか。
 わたしは楓お姉ちゃんと一緒に駅前のデパートに出かけた。
 何気なくジュエリー関係のフロアに足を踏み入れた時、わたしはショーウインドの中にある、プラチナの指輪に目を奪われた。
 ショーライトに照らされたその指輪は精巧な彫り物と細かな装飾が施され、自らの存在を誇示するかのように、ひときわ輝いで見えた。
「楓お姉ちゃん、これとっても綺麗だね」
「初音、欲しいの?」
「うん、欲しいけど………やっぱり高いから無理」
「消費税入れると十万円超すわね」
「うん………。お金貯めて買おうかな」
 わたしは指輪に未練を残しつつ、その場を後にした。
 あの時売り場には遠くに店員がいただけで、わたし達以外は誰もいなかった。
 この指輪の事を知っているのは、わたしと楓お姉ちゃんだけの筈だった。
 わたしはもう一度カードを手に取った。
『親愛なる初音へ
  お誕生日おめでとう
   柏木楓より』
 次第に文字が、涙で霞み読めなくなる。
 この誕生日プレゼントの送り主は、楓お姉ちゃん以外考えられなかった。
 きっと死ぬ前にデパートでこの指輪を購入し、今日という日に届くよう手配したのだろう。
 …………それってもしかして。
 わたしはふと、重大な事に気が付いた。
 楓お姉ちゃんは誕生日に届くよう、この指輪をわたしに送った。
 別の見方をすれば、誕生日にプレゼントが手渡せないことを知っていた。
 つまり、楓お姉ちゃんは自分が死ぬことを予め知っていたことになる。
 わたしは息を飲んだ。
 一番恐れていた事。一番考えたくなかったこと。
 楓お姉ちゃんは、事故死したのではなくて…………。
 楓お姉ちゃんは…………。
 楓お姉ちゃんは…………。
 ……自殺……したんだ…………。
 耕一お兄ちゃんと千鶴お姉ちゃんが結婚することにより絶望し、生きる気力を無くすほど楓お姉ちゃんは耕一お兄ちゃんの事を愛していたんだ。
 そして死ぬ前に、わたしがこの指輪を欲している事を知り、すべての貯金をはたいて買ったのだろう。
 もしかしたら自殺する事によって傷つく、わたしへの贖罪の意味もあるのかもしれない。
 わたしは再度宝石箱を手に取った。
 金色に輝くプラチナの指輪。
 それはあたかも、わたしの心を癒すかのように優しく光を放っていた。
「嬉しくないよ…………」
 宝石箱を持つ指に力が入る。
「こんなふうに誕生日プレゼントを貰っても、ちっとも嬉しくないよ」
 喉から絞り出す声が震えていた。
「直接手渡してくれなきゃ、全然意味がないよ、楓お姉ちゃん!」
 わたしは机に顔をつっぷして、声を上げて泣いた。
 涙が次から次へと溢れ出た。
 なぜ、わたしはもっと楓お姉ちゃんの気持ちを判ってあげられなかったのだろう。
 結婚式会場で楓お姉ちゃんが席を立った時、どうして一緒について行かなかったのだろう。
 後悔の念がわたしの胸を締め付ける度、新たなる嗚咽が胸の奥から込み上げてきた。
 わたしはいつまでも泣き続けた。
 ………………………………………。
 ………………………………………。
 どれくらい泣いたのだろう。
 わたしはいつしか泣き疲れ、ぼんやりと指輪を眺めていた。
 ふと時計を見ると、真夜中の午前二時になっていた。
 楓お姉ちゃんは今どこにいるのだろう………。
 わたしは楓お姉ちゃんの魂の行く末が気になった。
 自殺した人の霊は成仏することが難しく、生前に思い残した場所をいつまでもさまようという。
 耕一お兄ちゃんを愛して叶わなかった楓お姉ちゃん。
 もしかしたら、この家の中にいるのかもしれない。
 そして仲良く暮らすわたしたちの姿を、悲しそうな瞳で見つめているのだろうか。
 わたしたちが歳をとって死んだ後も、自縛霊として永い年月を無意味にいつまでも過ごすのだろうか。
 そんな楓お姉ちゃんの姿を想像すると、わたしの胸が張り裂けそうになった。
 かわいそうな楓お姉ちゃん。
 なんとかしてあげたいという気持ちが募る。
 でも、どうすればいいのだろう。
 耕一お兄ちゃんに愛されたいという楓お姉ちゃんの願い。その思いを叶えさせる事ができれば………。
 でもどうやって?
 生きていればいくらでも方法はあるのに………。
 …………生きていれば?
 ひとつだけ、たった一つだけ方法が頭に浮かんだ。
 楓お姉ちゃんの思いを叶えることが出来る方法。
 千鶴お姉ちゃんから産まれてくる子供に『楓』と名付けてもらえれば………。
 男の人がこの世で最も愛する女性。それは自分の娘だと何かで聞いたような気がする。
 耕一さんが楓を愛し、楓を育てる。
 時には叱り、時には甘やかす。
 そんな姿を、死んだ楓お姉ちゃんが見たらどう思うだろうか。
 自分と同じ名前を持つ子供が、耕一お兄ちゃんによって愛されている。
 きっと、楓お姉ちゃんの霊魂も癒されるのではないだろうか。
 あ、でも………。
 わたしはその考えに、重大な欠点が有ることに気がついた。
 この事を実行するには、楓お姉ちゃんの死が自殺だった事を、わたしの口から皆に知らせなければいけない。
 言えるだろうか……。
 言えない、言えるわけないよう。
 第一、産まれて来る子供に『楓』と名付けることを、千鶴お姉ちゃんと耕一お兄ちゃんが承諾するだろうか。
 普通に考えれば、自分の子供に自殺した人の名前をつけはしない。
 それともうひとつ。
 楓お姉ちゃんは、二人が結婚したことに絶望して生きる気力を無くした。
 無意識とはいえ、楓お姉ちゃんを追いつめた千鶴お姉ちゃんが、産まれて来る子供に楓と名付ける。
 楓お姉ちゃんは納得するだろうか……。
 わたしは溜息をついた。
 良い考えだと思ったんだけどなぁ。
 でも他に方法は………………あった。
 ひとつだけ、ひとつだけ方法がある。
 でもそれは………わたしの人生をも大きく左右してしまう問題を内包していた。
 わたしは溜息を一つついた。
 楓お姉ちゃんを助けてあげたい。
 でも、わたしにもまだ、したい事がたくさんある。
 他に方法はないだろうか…………。
 駄目、この方法以外考えつかない。
 どうしよう。
 わたしは悩んだ。
 悩み悩み抜いた後、決心した。
 楓お姉ちゃんを助けようと。
 宝石箱の中からプラチナの指輪を取り出し、指に通した。
 もう、心に迷いはなかった。
 なんとなく、今、わたしの側に楓お姉ちゃんが居るような気がした。
「楓お姉ちゃん、また、わたしと一緒に暮らそう」
 わたしは指輪に向かって話しかけた。
「わたしが、楓お姉ちゃんを産んであげるから」
 部屋の空気が揺れたような気がした。
 わたしは椅子から立ち上がると、机の上に置いてあるランプを消し部屋の外にでた。
 暗い廊下をゆっくりと進む。
 わたしは耕一お兄ちゃんと千鶴お姉ちゃんの寝室に足を踏み入れた。
 二人とも寝ているらしく安らかな寝息が聞こえてきた。
 わたしは着ている服を一枚一枚その場で脱いだ。
 布の擦れる音が静かな部屋の中に響いた。
 ショーツを脱ぎ終え産まれたままの姿になったわたしは、耕一お兄ちゃんの蒲団の中に潜り込んだ。
「ん……え………」
 耕一お兄ちゃんが目を覚ました。
「うん………初音……ちゃん?」
 まだ幾分寝ぼけているようだった。
「耕一お兄ちゃん、お願いがあるの」
 わたしは耳元に口を寄せ囁いた。
「お願いって……?」
「耕一お兄ちゃんの子供が欲しい」
 耕一お兄ちゃんの呼吸音が一瞬止まった。
「どうして……」
「楓って名前をつけて、育てるの」
「初音ちゃん、本気?」
 わたしは耕一お兄ちゃんに頬をすり寄せ頷いた。
「わたし、もうこれ以上、泣いて生きるのは、嫌………」
「自分が何を言っているのか、判っているの初音ちゃん」
 わたしはもう一度頬をつけたまま頷いた。
「お願い。耕一お兄ちゃん。わたしは抱いて」
 耕一お兄ちゃんの大きな両手が優しくわたしの両肩を包み込むと、顔が見えるようにゆっくりと体が持ち上げられた。
 暗い視界の中でお互いの瞳がお互いの姿を映し出した。
 耕一お兄ちゃんは無言でわたしを見つめた後、静かにこう言った。
「後悔しないね」
「うん」
 わたしの体が蒲団の上に置かれ、耕一にお兄ちゃんが上になった。
 暖かい掌が左頬を優しく包み込み、唇と唇が重なりあった。
 右の乳房が優しく撫でられ、乳首が勃起していくのが判る。
 耕一お兄ちゃんの手と唇が、わたしの上半身をゆっくりと愛撫していく。
 首筋、肩口、乳房、お臍、腰、順番に撫で回された掌が、ついに、わたしの性器に触れた。
「ぁっ!」
 わたしは声が出ないようすぐに口を塞いだ。
 耕一お兄ちゃんの指が敏感な突起物の周りを、円を書くように刺激する。
 枕を口に押しつけ必死に耐えた。
 隣で寝ている千鶴お姉ちゃんに聞かれないように。
 恐らく勘の鋭い千鶴お姉ちゃんの事だから、きっと目を覚ましているような気がした。
 わたしたちが何をしているかも気づいているに違いない。
 でも、きっと寝たふりをしたまま、何も言ってこないとわたしは思った。
 多分千鶴お姉ちゃんの事だから、自分の結婚が原因で、楓お姉ちゃんが自殺したと思っているだろう。
 だから、わたしたちのする事を咎める事が出来ない。
 わたしが楓お姉ちゃんと同じ悲劇を辿らないように………。
 耕一お兄ちゃんの舌が、わたしの膣口の辺りを這い回る。
 快感が身を包む度、自分に対する嫌悪感が増していく。
 わたしは耕一お兄ちゃんの恋人でも妻でもない。
 耕一お兄ちゃんに愛される資格なんて、わたしには無い。
 ごめんね、千鶴お姉ちゃん。ごめんね………。
 甘美な刺激が体を貫く度、わたしは心の中で千鶴お姉ちゃんに詫び続けた。
「初音ちゃん、そろそろ入れるよ」
 わたしは無言で首を縦に振った。
 耕一お兄ちゃんが、わたしの上に覆い被さる。
 あそこに何かが押しつけられるのを感じた次の瞬間、耕一お兄ちゃんがわたしの中に入ってきた。
 引き裂かれる痛みにわたしは耐えた。
 耕一さんの背中に回した両腕に力が入る。
 しばらくして、わたしの目から急に涙があふれ出た。
 理由は判らなかった。
 悲しかった。
 言葉では言い表せない悲しい気持ちでわたしの心は埋め尽くされた。
 わたしの頬に一滴の涙がこぼれ落ちた。
 それは耕一お兄ちゃんの瞳からこぼれ落ちた涙だった。
 耕一お兄ちゃんも、わたしと一緒に泣いていた。
「エディフェル……」
 耕一お兄ちゃんが女性の名前が口にした。
 知っている。
 わたしはその名前を知っている。
 そう、なぜだかわたしはその名前の女性を知っている。
 そうだ、あの時も、わたしと耕一お兄ちゃんは泣きながら抱き合っていた。
 今より遙か昔に、今と同じくらい辛い気持ちでお互いを慰め合っていた。
「次郎衛門……」
 わたしはなぜか耕一お兄ちゃんの事を『次郎衛門』と呼んだ。
「リネット……」
 耕一お兄ちゃんがわたしの事を『リネット』と呼んだ。
 理由は判らなかった。ただ、そう呼びたかった。
 そして不思議にもお互い違和感を持たなかった。
 はるか昔、わたしの生まれる前のわたし。
 はっきりと覚えだせない。ただ、心深くに楔のように打ち込まれた慟哭が、わたしの心を苦しめた。
 不意に耕一お兄ちゃんがわたしの体を強く突きだした。
 悲しい記憶を何もかも、肉欲に溺れて忘れようとするように、わたしの体を攻め立てた。
 そうなんだ。
 耕一お兄ちゃんもわたしと同じなんだ
 でも、わたしは体が強い刺激を感じる度に、より一層悲しい気持ちで胸が張り裂けそうになった。
「う…………」
 耕一お兄ちゃんが私の中で震えた…………。
 わたしは優しく耕一お兄ちゃんの頭を抱きかかえ、キスをした。
 その後二人は夜が明けるまで抱き、泣き続けた。


 真夜中の午前二時。
 わたしは小箱を開け、中から一枚の紙片を取りだし広げた。
『親愛なる初音へ
  お誕生日おめでとう
   柏木楓より』
 わたし宛の手紙を一読すると、次に紺色の宝石箱の蓋を開けた。
 細かな装飾の施されたプラチナ製の指輪が、ランプの光を受けキラキラと輝き出した。
 耕一お兄ちゃんに抱かれてから既に二十日間の日々が流れた。
 わたしはその間、毎日耕一お兄ちゃんに抱かれ続けた。
 そろそろ生理が来る頃だけど、その兆候は何も無かった。
 すでに子供を身籠もっているのかもしれない。
 わたしは宝石箱からプラチナのリングを取り指に通すと、椅子から立ち上がった。
 机の上に置いてあるランプを消して部屋の外にでる。
 今日も耕一お兄ちゃんに抱かれるために…………。

<真夜中の午前二時 終わり>



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