送る言葉



 祈る。
 それしか方法がないから。
 頼る神様なんていないのに、私は祈り続けた。
 車のエンジン音が聞こえる。
 あの人が帰ってきた。
 私は立ち上がると、玄関へと急いだ。
「ただいま、千鶴」
 暗い玄関に佇む叔父様。
 私は『おかえりなさい』と言おうとしたが、口から出たのは別の言葉だった。
「叔父様、その腕は……」
「うん、これか?」
 叔父様は、自分の左腕に刺さったナイフをチラリと見やった。
「意識を乗っ取られそうになったんでな」
 白い長袖のワイシャツが、傷口から流れ出た血により、赤く染まっていた。
「今日、死ぬことにした」
 まるで、他人事のような気軽さで、叔父様は自分の死を告げた。
「もう、俺の意識はもたん。車の運転中ですら、鬼になりかけた。だから今日、死ぬことにした」
 私は黙って聞く他なかった。
 精神の浸食を止める方法がないことは、父親を看取った経験からも判っていた。
 いつか、この日が来ることも………。
「………すぐに、逝くのですか?」
「ああ、今すぐ逝く。時間が経つと決心が鈍るからな」
 そういうと、叔父様は私に背を向け、玄関から外へと出ていった。
 私は、急いでサンダルを履くと叔父の背中を追った。
 車のエンジンは付けたままになっていた。
 すぐに出発する気なのだろう。
 叔父様は私が家から出てくるのを、車の側で待っていた。
「千鶴、おまえには迷惑をかけるな」
 私は首を横に振った。
 鶴来屋グループの社長である両親が死んだ時、叔父様は真っ先に駆けつけたくれた。もし、来てくれなかったら、今の私は多分ここにいないだろう。
 むしろ、迷惑をかけてきたのは私達姉妹だった。
 激務である、父に代わり引き継い仕事が、肉体と精神を疲弊させ、寿命を縮めたのは間違いないのだから。
「本当は、黙って逝くつもりだったが、お前には会っておきたくてな」
 ドアを開け、車の中に乗り込む叔父様。
 止めたい。
 愛しい背中に抱きついて、引き留めたい。
 それが駄目なら。
 私も連れて行って欲しい…………。
 そんな思いを。
 口から飛び出しそうな言葉を。
 私はぐっと噛み締めた。
「後を、頼む」
 窓を開け、私を見つめる瞳。
 ゆっくりと頷いた。
「叔父様……」
「なんだい? 千鶴」
「あの………」
 言葉に詰まった。
 こんな時、何て声をかければ良いのだろう。
 普段ならば『気をつけて』とか『行ってらっしゃい』と言えば良い。
 でも、叔父様は二度と帰って来ないのだ。
「どうした、千鶴」
「……………」
 言葉が浮かばない。
 代わりに涙ばかり、ぽろぽろと溢れ出た。
「千鶴。こういう時はな、『GODSPEED!』って言えばいいのさ」
「……グットスピード?」
「英語で『楽しい旅を』とか『旅に神の祝福があらん事』をという意味さ」
 そう言いつつ、握った拳に親指を立てながら、にこやかに笑った。
 私に向けた笑顔。
 とても、優しくて。
 涙で、叔父様の顔が見えなくなって。
「千鶴っ! 笑えっ!!」
 今、私が成すべき事。
 私に、与えられた役目。
 涙を拭き、私は笑った。
 心の中で泣きながら、私は精一杯の笑顔を作った。
 拳を作り。
 親指を立てながら、私は叫んだ。
「GODSPEED 叔父様!!」
 その声を合図に車は、死出の旅へと飛び出した。
 運転席からつき出しだ拳。
 闇に解けて消えるまで、何時までも見続けた。
「…春の日や、あの世この世と、馬車を駆り…」
 不意に聞こえた声。
 振り向くと、そこには妹の楓が立っていた。
 裸足のままで、立っていた。
「叔父さんは?」
 私は首を横に振ろうとして………。
 嗚咽が漏れた。
 膝が折れ、その場に崩れ落ちた。
 楓の腕が、私の体を支えた。
「おじさま〜っ!」
 私の慟哭が暗い闇夜に、空高く木霊した。

<送る言葉 終わり>



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