零下273度の誘惑
技術というものは、往々にして日常生活とは乖離したところで成果が示されるものである。例えば、遠く何万光年離れた惑星の組成がわかったところで、それで明日の暮らしがどう変わるというのだろうか。
むろん、わたしはここで日常生活に何らの恩恵(少なくとも直接には)をもたらさない事をもって、その技術を「使えない」と断じようとしているのではない。
が、しかし、少なくともそれが民生用の技術だというのであれば、その導入による現実的なメリットが提示されて然るべきではないだろうか。
何の話かというと、これである。1月6日(7日?)の新聞報道によれば、絶対零度近くまで冷やす「民生用」クーラーや冷蔵庫が開発されたとのことである。
民生用?
技術には敬意を表するとして、さて、それで誰が幸せになれるのだろうか。
アイの季節
世の中どうもiばやりであるらしい。IT革命に乗り遅れた企業は生き残れないのだそうだ。情報こそが武器であり、情報技術が必須である、とのご神託だ。
情報が大切なのは当然だ。ただし、多すぎる情報は無いに等しい、というのもまた、同じくらいに当然のことではないだろうか。
インフォメーション・テクノロジーは「それ以上」ではない。
その意味で「欲するべきiはインテリジェンスではないか」という由の発言(正月のテレビでやってた。誰の発言であったかは失念した。スマン)は傾聴に値する。ただ「在る」だけの情報に意味はないのだ。
・・・って、今更IT革命なんて言葉に躍らせれている奴もいないか。ねぇ。
immersive spaceへの道
映画「御法度」を見てきた。平日の昼間だというのに、意に反して、割合客の入りは良かった。もっとも、あくまで「意に反して」良かったというだけで、満員には程遠い状態ではあったのだが。
もう一つ意外だったのは、制服娘さんが大勢を占めていたこと。こんな時間に何故いる?テスト期間で早く学校が終わるのか?
謎である。後は女の人の二人連れが幾つかと、男の人がちらほら。なぜか男の人は一人で来ているようだ。これまた謎である。まぁ、平日だしな。
で、映画の方は、娯楽映画としては良く(ちゃんと、という意味)出来ているのではないかと思う。大島監督らしいと言えば言えるし、料金分くらいは取った気はする。ただ、いわゆるヒョーロンカの方々がおっしゃるほどではないと思う。ヨーロッパ受けはするかもしれないが。
それはそれとして、私が見に行った劇場では、ドルビー何とかいう技術でもって3Dサラウンドな音響が実現されていた。なるほど、例えば稽古場で何人かが打ち合っていて、その奥で近藤と土方が話をしているシーンでは、土方・近藤によったカットでは、ちゃんと後ろの方から隊士達が打ち合っている音がする。
が、しかし、それで私が「あたかもその道場内にいるかのような気分」になれるか、というと話は別で、私はやはり映画館の椅子に座り、前面のスクリーンを見つめているのであった。で、その映画館の後ろの方で何やら竹刀を打ち合い、叫んでいる音がする、という状態である。これではなんだか、ねぇ。
同じ事は、ヘッドマウント型ディスプレイにも言える。
ごつい眼鏡のような奴で、これを掛ければ、「2メートル先に50インチの大画面が見える」と言う、あれだ。
この場合、2メートルの距離感は、絶対に埋まらない。ここで問題にしているのは、「2メートルの距離がちじまらない」事ではなく、「距離の溝が埋まらない」と言うことである。
換言すれば、その画面の中でいかに臨場感溢れる映像が再生されていたとしても、見ているものにとっては「画面を見ている」と言う意識を払拭しきれない、ということである。
端的に言うと、それは「画面の向こうの出来事」ということだ。
ようやくだが、本題に入ろう。
つまり、テレビのような「そこにある画面に表示されているものを覗き込む」方式では、それが限界だという問題だ。
私が言いたいのは、パソコンやゲーム機の画像処理・映像技術がいかに進歩したとしても、最終出力媒体がテレビをしか想定していないのでは、所詮ヴァーチャル・リアリティは、頭に「ヴァーチャル」と付けてお茶を濁さずしてはリアリティとして語り得ないのではないか、ということである。
さて、ヴァーチャル・リアリティの未来は明るいか。