MIDIはミュシャ・マイスキーを超えるか
マイスキーのJ.S.バッハ「無伴奏チェロ組曲」(グラモフォン:POCG10243〜4+CDエクストラ)の話である。
何でも、このCDエクストラは「これをインストールすることで演奏を聴きながらカーソルの指示で楽譜のその箇所を見ることができ、またこの演奏をMIDI音源に置き換え、好きなように自分で演奏を加工することができ」るという、ある意味「恐ろしい」ツールであるとのことだ(以上、引用部は「レコード芸術」200年2月号による)。
残念ながら、私はこの実物に触れたことはないのでわからないのだが、ここに言う「好きなように」「加工することができ」るのは、はたして「マイスキーの演奏に」なのだろうか。
これが、参照できる「楽譜のその箇所」に「加工すること」で、自分の好きなように演奏を構築できる、という意味であるならば、上記の発言は、全くナンセンスといえる。それは例えば、楽譜に対して「これを見ることで演奏を聴きながら曲のその箇所を見ることができ、またこの演奏を自分の楽器に置き換え、好きなように自分で演奏をすることができ」ることを評して、脅威と結論づけるようなものではないだろうか。
確かに、楽譜データがMIDIで利用できるようになっているだけでも、それはそれで意味のあることだとは思う。しかし、それを演奏といえるレベルにするためには、それこそ実際の楽器で演奏といえるレベルのものにするのと同様に、スキルが必要とされるものであることは、今更言うまでもないだろう。
むろん、マイスキーの演奏が再現できるほどに完璧にMIDIデータ化しうるのなら、それは恐るべき(いろいろな意味で)事であろう。が、それほどのデータを作るだけのスキルの人間がそうそういるとも思えない(いたとしたら、それはやはりマイスキーと同様に評価されてしかるべきであろうが)。
「ただ楽譜どおりに音を鳴らしている」こととマイスキーの演奏を同視しうるのならばともかく、それが無理である以上、このCDエクストラのどこに脅威を感じうるであろうか。



21.5世紀へ向けて

テレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」で、マイクロガスタービンが取り上げられていた。次世代の代替エネルギー機関(敢えてこう言っておく)が実用化されるまで、つなぎとして様々なエネルギー機関が使われるようになるのは畢竟である。
気になるのは、その特集が次のような言葉で締められていたことである。

「実用化が遅れている燃料電池を尻目に、マイクロガスタービンが次世代の主役になることは間違いない」

なにぃ?
ロー・エミッション/有限燃料機関のマイクロガスタービンと、ゼロ・エミッション/無限燃料機関の燃料電池を同じレベルで語るかぁ、普通?
インパクトが全然違うだろ。言ってみれば、マイクロガスタービンなんかの代替燃料機関は0.5世代先のつなぎ役で、燃料電池は次世代のものでしょ?
こんな事言ってると、また「まぁ、日経ですからねぇ」とか言われちゃいますよ。まったくぅ。
(さすがに、そのVの後でコメンテーターの人もフォロー入れてたけど)



50年一日

われわれの日本国憲法は、戦争の放棄を宣言し、平和な文化国家としての日本の再建を謳っている。しかし、現在の国民一般の関心、あるいは知識人の関心さえもが、平和な文化国家というようなことからは、寧ろ遠ざかっているのではないだろうか。(中略)「いかにして平和に生きるか」は我々にとって最も根本的な問題である・・・

上記の提言は、何も冷戦の終了とそれに伴う国際社会の秩序の再構築が問題となっている昨今為されたものではなく、戦後間も無い今から50年前のもの(岩波書店「科学」第20巻2号。なお、同70巻2号を参照)だそうだ。
平和平和と口にするばかりで、その意味・内容を思うこと無く、いかにしてそれを実効的にするのか、そのために何を為すべきかといった「根本的な問題」が一考だにされないのは、50年前と何ら変わらないこの国のカタチらしい。

もはや戦後ではない
昭和は遠くなりにけり

メンタリティは変わらない、か? ハッピーで良いやね。


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