ある人権
3月17日付新聞各紙(愛知、中部版)の伝えるところによると、愛知県内の県立高校で、授業が騒がしいので出たくない、として授業のボイコットを続けた生徒が、授業時間が足りないことを理由に留年の決定を伝えられたとのことである。
この決定それ自体は、一見、理由はともかく授業受講時間が不足しているのであれば、仕方が無いこととも思える。
しかしながら、この生徒は、教室にこそ行っていないものの、「生徒指導室ですべて自習を行っていた(中日新聞・同日。以下日付は略す)」のだし、同様にして「テストも受けた(朝日新聞)」のであるから、この決定の前提とすべき「授業時間の不足」と言う理由は、少なくとも実質的には生じてはいないものと思われる。
また、この「男子生徒には、親しくしている先生を専属的に付けるなど、できるだけの手をうっ(毎日新聞、夕刊)」ているのなら、そうした事情を汲み取ることは十分に可能だったであろう。
そうである以上、今回のこの決定には、些か苦言を呈せざるを得ない。
と、長々と書いたが、例によって、この件に関して私が言いたいのは別のことである。
本命は、こちら。先ずはこの件に関する同校の校長のコメントを読んでいただこう。

「『騒がしい生徒は外へ出せ』と訴えられたが、彼らの授業を受ける権利を奪うわけにもいかない」

彼らの授業を受ける権利? 彼らの権利は認めるとしても、授業が成立し得ない状況を作り出している者が、授業を受ける「権利」を正当に行使している者なのか? 権利ってのは、「何でもあり」って意味か?
これは面白い教材じゃわい、と思っていたのだが、私の見る限り、どうもどこの新聞も社説なんかでは扱ってくれない様だ。きっと彼らの「権利」への配慮があるのだろう。
同時期の「若乃花引退」は社説で扱ってくれた(中日新聞)のにね。



翻訳者は嘘をつく

某和英辞典の新聞広告のコピーから。

使える英語が身につく画期的な和英辞典

私は、既存の和英辞典に不満を感じて、日本的な語をいかに訳出すべきかを考え抜き、この和英を作りました

素人の浅知恵で恐縮だが、高度に「考えぬ」かれて「訳出」された「日本的な語」を使って英語に対峙して、果たして「使える英語」が身につくものなのだろうか。
ひょっとすると(敢えて「英語」と表記してあることからして)、ここで言う「英語」とは、かの地の人々の使う言語ではなく、我々が言うところの「英語」、端的に言ってしまえば「受験英語」と言うヤツのことを指しているのだろうか。結構ワンダーである。
さらに、である。英語公用化論が喧しい昨今、こういった物が出てくるということは、ひょっとして・・・



ふるげん氏


重要:下記の記載内容に関して訂正があります!

なんだか新聞からの話題ばかりで申し訳ないが、もう一つ。
3月20日付新聞報道によると、民主党の古川元久氏が、預金口座から毎月個人献金を自動的に引き落とす代わりにサービスを提供する「ふるげんサポーター倶楽部カード」を発行したそうである。
これは、既存のカード会社のシステムを利用するもので、三千円の会費で、この会社の保険以外の2種類のサービスが受けられ、カード会社への手数料を除いた会費が古川氏への個人献金となるしくみ(同)であるとのこと。
「政治家=胡散臭い連中」と言う図式が成立している日本社会で、こうした特定の候補と個人的につながるようなシステムが受け入れられるのかどうかは別として、面白い試みではある。
大手企業による多額の献金から小口の個人献金へ、いつ誰がどれだけ寄付したのかわからない不明朗な献金から明朗な献金への移行が、ささやかではあれ図れるのであれば、十分に評価に値すると言える。なにより、有権者が積極的選択的に誰に対してお金を払うか決められると言うのは、政治への参加意識を高める上で実に意味のあることではないだろうか。
無論「金も出すから口も出させろ」的なロビー活動全盛になってしまうのも問題だが、口を出したい人がちゃんと口を出せると言うのは悪いことではない。
こうした試みが広く支持されることを期待したい。
・・・と書きたいところだが、どうやら古川氏、この制度の真似を防ぐべく、特許申請を行ったらしい。
上述の如く、私はこうした個人からの献金を、有権者に手間を掛けさせない形で集められる方法を広めることは、いわゆる「大企業の利益中心」と言われる政治の在り方を変える「はじめの一歩」を指向するものとして評価したい。であれば、それは当然、他の人にも真似てもらえなければならないものである。
したがって、これに関して真似を禁止するとした古川氏の考えには些か首を傾げざるを得ない。
尤も、氏が私の理解とは違う、例えば「これで他の連中より献金のルートが広がったよーん。これで金権政治的に俺ってば一歩リードって感じぃ〜」などと思っておられるのなら、もちろん話は別であるが。



魅惑の絶対耽美主義#5

端的に評すれば、美しい、ということになるだろうか。
テレビやCMなどへの露出で、今では知らぬ人のいないのではないかと思われる、村治佳織の新作「アランフェス協奏曲」の感想である。
とはいえ、「知らぬ人のいない」と言うのは、些か誇張ぎみかもしれない。試しに、検索エンジンでどのくらいヒットするか見てみよう。

え〜っと、村・治・佳・織っと。
結果は1036件(3月26日調べ)。かなり誇張だったかもしれない・・・

・・・それはともかく。
このCD、私が最初に聴いたのは、某ショップの店頭に設置してあった試聴機においてである。
当時、私は村治女史(1978年生まれなら、まだ「嬢」と言う方がしっくりくるかもしれないが)の演奏を、「あぁ、やっぱり基礎のできている人は良いよなぁ」程度にしか考えていなかった。したがって、彼女への世間の評価も、失礼ながら、マスメディアにありがちな「若くてキレイな娘さん」への、少々音楽以外の要素での加点がされたものであるとの偏見を有していた。若干弁解させていただければ、そのころは、女史の演奏を、それこそテレビCMくらいでしか聴いたことがなかったのだから、そこは大目に見ていただきたい。
そうした次第であるから、このCDにもさして期待はしていなかったのだが、その試聴版を聴いて、少なからぬ驚きを与えられてしまった。
繰り返す。端的に評すれば、美しい。
村治女史の、楽譜の隅々にまで気を配った正確なテクニックと、それでいて技巧に頼るだけではない、曲を歌わせる瑞々しい感性が感じられる、見事な演奏である。
残念ながら私はギターのことはわからないのだが、僭越ながらこれだけのことを言うにやぶさかでない、そう思わせるだけのものは確かにある、ということだ。
また他の楽器も、録音の妙であろうか、聴く者に「包まれている感じ」を与える、良い感じで鳴っている。
総じて、音楽に浸る心地よい酩酊を覚えさせてくれる、良い一枚である。ギターの曲には興味が無いという人でも、おそらくは幸せになれることだろう。

さて、良いことばかり書くのも私の性分ではないので、以下二、三苦言も付しておく。
まず一点。上で「包まれている感じ」を与える録音、と書いたが、おそらくこれは間接音成分を多く含ませているためと思われる(ホールの特性によるのか、録音の際の処理によるものなのかは私の知るところではない)。
音の物理学的な振る舞いを考えれば、これで周囲全体から音が聞こえる状態をシミュレートすることになり、既述の「包まれている感じ」を与えることができるようになる。が、反面、周囲全体から音が聞こえてくるということで、音の定位が曖昧になるという弊害がある。気にする人には、あるいは不愉快かもしれない。
とはいえ、私はこれで幸せになれるので、この点はこじつけと言えるかもしれない。気にする人は、それでもちゃんと定位をつかむ耳を持っているのかもしれないし。
二点目。ギターとオーケストラが、もう一つまとまっていない感がある。まとまっていないというか、別々に鳴っているような感じがする。上とも関連するが、他の楽器が比較的定位が曖昧なのに比して、ギターはしっかりと真ん中で鳴っているように聞こえるので、その影響かとも思われる。
最後に。ジャケット表紙の写真の村治女史が、今までの女史のCDのそれと比べて、どうも可愛くない。正確には、あまり「可愛い」センを狙っていないように見える。
これこそこじつけで、個人的には「作品と作者は別」だと思っている(無論、作者を知ることで作品世界への理解が深まることを否定するものではない)ので、どうでもいい話なのだが、最近ではこの手のCDでも「奏者の顔がジャケットに載ると売り上げが違う(中日新聞・夕刊)」らしいので、今後の女史の活動のためにも、些か気になるところではある。
ファンの方は、どう思っておられるのだろうか。


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