続・ふるげん氏
物分かりの良いのが、私の悪いところであるかもしれない。
先日、以前に書いた「ふるげんサポーター倶楽部カード」への疑問を、厚かましいことに氏のホームページから送り付けたところ、見事返事を頂いた。もっとも、それが本人の手によるものであるかどうかは、無論私の知るところではないが。ともあれ、これで俺と奴とはメルトモだな(←それは違うぞ!)。
で、内容の方は、お詫びと訂正をご覧になった方にはご存知の通りだが、関係部分を抜き出して、以下に記載しておく。
私はできるだけ広くこの制度が広まればいいと思っており、独占する気はさらさらありません。 またそもそも私のところは特許など申請もしていません。ただ医療健康相談とロードサービスをセットにし、講座振り替えを可能とした部分についてこの一連のサービスの流れを作ってくれた保険会社が特許を申請していることは事実です。この部分については私のところも手を出せませんので、致し方ないのですが、私自身は広く広がって欲しいと切に願っています。
ということで、この件では、氏と関係者の方々にはご迷惑をおかけした。重ねてお詫び申し上げる次第である。
さて、こうなると、一体どういったところから
古川氏は「盗用は駄目」と、早速特許申請までした
という話が出てきたのか、非常に気になるところではある。
これも当事者に問い合わせたら、回答を頂けるだろうか。
まぁ、無理だろうな。何せ相手は、非を認めない、自分の間違いには目を瞑ることでは人後に落ちない「新聞社」ってとこだし。
どうして新聞社(というかマスコミ全般)はああいう体質なのだろう。きっと私には窺い知ることのできないような事情があるのだろうが。
・・・まぁいい。諦めよう。何せ私は物分かりが良いのだ。
そんなわけだ。全く、物分かりの良いのが、私の悪いところであるかもしれない。
佐伯貴弘、孤高の戦い
それは5月25日の横浜対巨人戦。佐伯選手が決勝のタイムリーを打ち、ヒーローインタビューをされていたときの話である。
インタビュアーの日本テレビのアナウンサーが「気持ち的に楽になりましたか?」と言ったのを受けて、苦笑しつつ若干の間を取った後に佐伯選手が「そうですね。気持ち的に楽になりました」と鸚鵡返しのように答えていた。
そこには、「何年もアナウンサーとして飯食ってる人間が”気持ち的に”なんて言ってんじゃねーよ」という佐伯選手の痛烈な皮肉が含まれていたと私は解している。
さて、真相や如何に?
QOLという問題
やぁ。みんな、元気かな。
ところでみんなの中に、クルマ好きの男の子チャン&女の子チャンはいるかな?
クルマ好きっていっても、例えばJaguarの話をしてて、「ジャガーは・・・」などと言うと、「さようでございますわね。’Jaguar’といいますと・・・」なんてさりげなく、かつあからさまなエクスキューズを入れるような人とか、RangeRoverを「レンジローバー」と発音すると、「アナタハ、ドコノ山カラ下リテキタ、オ猿サンデスカ?」とでも言いたげな困惑した表情をするような人たちじゃなくて、そうだな、つまり、CG(カーグラフィックス)誌を読んでる人はいるかなって事なんだ。今日はね、CG6月号からの話題だヨ。
元に戻す。
同誌の「新・車会人」という記事で、JOYプロジェクト代表の渡辺啓二氏のお話が載っている。
このJOYプロジェクトというのは、簡単に言ってしまえば、JOYバンというジョイスティックでコントロールするバン、即ち下肢部に障害を持つ人たちにも使える車をもっと認知、普及させようという趣旨の会である。
もっとも、こういう説明は会の本旨にはそぐわないかもしれない。何せ、氏によれば会の表向きの目的は「移動の目的にこだわり、生活を向上させていくこと」であるし、真の目的は「JOYバンで女の子をナンパすること」なのだから。
その意気や良し、である。
「女の子をナンパする」という表現には不快感を覚える方も居られるかもしれないが、このランドマークの示す道は、再び同誌から渡辺氏の言葉を引けば「機能が良くてカッコイイ」事の追求である。何となればその先には「きっと楽しいことが出てくる」からであり、それはつまり「クオリティ・オブ・ライフをどうやって創っていくか」という問題である。
非難を承知で書けば(と言って、実は今まで「愛ゲー」で書いたことについては非難も称賛も受けたことはない。誰も読んでないのかなぁ、なんて思ったり)まだまだ障害者というのは一般には「かわいそう」と思われてしまう存在である。「かわいそう」というのはつまり、「健常者であれば享受しうる楽しみを享受できない」と思われているということであろう。
しかるに彼ら障害者は、健常者によって同情され、庇護されて初めて在りうべき存在であり、無論そのライフには、「かわいそう」に、クオリティなる概念は介入する余地も無いのである。
一昔ほどではないにせよ、極度に戯画化して書けば、このようにおよそ不当な純感情的評価を受けてしまいがちな立場に、今なお置かれてわけである。
そうした不当(良かれ悪しかれ)な純感情的な評価から脱するためには、彼ら彼女らも普通の人間であるということを理解してもらう必要があるわけだ。
例えば、いまだに「障害者というのは身体にハンディを背負っている分、心は健常者以上に清らかである」という言説が流布していることがある。さらには「身体のマイナスと精神の優位でプラスマイナスゼロであり、障害者は健常者と同価値である」とさえもおっしゃったりする。
かく言う御仁は極めて善意の人であったりするのだが、実際これはとんでもない話である。そんなトレードオフが成立するなら「心は健常者並みで良いから・・・」くらいのことは言ってみたくもなるだろう。
また、彼らにしたところで、我々と同程度には「悪人」であるのは当然である。下卑た優越感の裏返しに過ぎない感情的な障害者幻想などは、当の障害者にとっても迷惑以外の何物でもあるまい。
つまり、彼らとて「女の子をナンパする」くらいのことはやる。それを実践することは、つまらない障害者幻想を断ち切り、彼らが健常者と同様の存在であることを知らしめることでもある。換言すれば、彼らの生活も、ただ生活できれば良しではなく、QOL(クオリティ・オブ・ライフ)の概念抜きには語れない、ということである。
憲法25条は、国民に保証される最低限度の生活とは、文化の享受の問題でもあることを示している。そして13条は、それを追求することをすべての国民の権利として規定している。それは健常者であれ障害者であれ、変わることはないのである。
ああ、そう言えば、乙武君は性格悪そうな(君らの思い通りには動かないよ、とかいうような「一筋縄ではいかない感じ」という意味で。)顔してるなぁ。