ムチとロウソクと私
鞭と蝋燭と私、といえば、かの名作ゲーム「悪魔城ドラキュラ」(コナミ)の某誌におけるレビューに付けられたリードであったと記憶している。
鞭と蝋燭。暗黒の支配するゴシックホラーの世界には相応しいアイテムといえよう。
ところで。世にゴシックホラーというジャンルは確立されているにもかかわらず、ロマネスクホラーという言葉を耳にしたことがないのは、いったい如何なる道理によるものであろうか?
ロマネスクホラーではあまり怖くなさそう、という気も確かにするが、ではバロックホラーでは何か不都合なのだろうか(これも怖くなさそうだな)。それとも、私が寡聞なだけで、やはりルネッサンスホラーとか、ビザンチン様式ホラーというのも探せばあるものなのだろうか。

とまぁ、ゴシック様式とゴシックホラーでは「ゴシック」が違うのかもしれないが、ゴシック様式の建物というのは、天を突き、必要以上にその威容を誇示している尖塔だとか、やたらめったらトゲトゲした装飾が施してあったりで、なるほどホラーの舞台となりそうなおどろおどろしさを秘めているものである。
12世紀ゴシック様式の傑作として名高いパリのノートルダム大聖堂も、例えばガイドブックなどの写真を見たりすると、そんなゴシック建築の例に漏れず、なんだか聖堂というよりは伏魔殿といった感じの、凶暴な禍禍しさを覚えさせたりもする。見る人は、これは確かに、ノートルダムの何とか男だの、マージナルな連中も住み着くよなぁ、などと思うかもしれない。
そんなノートルダム大聖堂であるが、困ったことに、実際に実物を見てみると、どういうわけだか、これが見事な建築物で、あの物騒な正面ハザードの装飾でさえも、レース細工のような繊細にして華麗な印象を覚えないわけにはいかないのである。
ゴシック建築の傑作、などとガイドブックの記述のような言葉が思い浮かんだその刹那。
お子ちゃま「あんた中国人か?フランス語は話せるかい?」
俺様「・・・」
お子ちゃま「お金恵んでくれよ」
インド以西にはバクシーシの文化が存在する。頭で理解はしていても、神よ、こう思わずにはいられなかったのである。
「やはり伏魔殿、か?」


友達の彼女
青の時代。若き画家パブロ・ピカソは、馥郁たる生の歓喜に背を向けて、豊穣の色彩の世界への扉を閉ざした。そして冷たく、仄暗い一面の青の世界に住まう事を自らに課した。
それはあたかも、親友の死を招いた原因が自分にあるのだと言っているかのように。そしてその罪責を、その身に背負うかのように。
カサヘマスの死が、果たして何かピカソのせいであるのか。それは私の知るところではない。
しかし彼の死が、ピカソを「青の時代」へと誘ったことは事実であろう。そしてその苦悩の一端が、ピカソがカサヘマスの恋人と関係を持ってしまったゆえ、ということも。
パブロ・ピカソ。青の時代の「自画像」。それは暗いブルーを背景に、深い苦悩と悔恨、絶望と罪悪の衣を纏い、しかしその口元には薄らと笑みを−−−人生の深淵を覗いてしまった者の持つ諦念の笑みを−−−浮かべ、戦慄すべき闇と、驚嘆すべき高貴さを湛えた「自画像」である。
それはあたかも、かつて天界においてもっとも偉大な法の守護者であり、天界の主に異を唱え、魔界に追われてもなお、その気高さを失わなかった、ミルトンが書いた地獄の王の姿のように。

「なんか苦労してなさそう」な顔してるよなぁ、などと鏡で自分の顔を見て思ってしまった(別に鏡で自分に見入るような趣味はありませんよ)私としては、あーゆー容貌にちょっと憧れてしまうところもあったりするのだ。いや、まぁ確かに、人並み以上の苦労なんてのはしていないのは事実なのだけれど。でも、人並みの苦労はしているハズなんだけどなぁ。
やっぱ、友達の彼女に手ぇ出すとかしないとダメかしらん?


女神様の贄
紳士は10代娘がお好き。かどうかは知らないが、社会的身分の高い、妻子ある中年男というものは、どうも若いだけが取り柄の、パッとしたところの無い小娘にのめりこんでしまうものらしい。
そこに如何なる天然自然の法則が働いているのかは知らないが、そうでなければ、幾多の文学、芸術、そして美術の名作がそのインスピレーションを得ることなく終わってしまうことになるので、それが天道に適う事なのだろう。

カミーユ・クローデル。当時19歳。いい歳だ。どこの馬の骨とも知れぬ、彫刻家志望のただの小娘。素晴らしい。申し分ない。美術の神からの天恵、そして天啓だ。
案の定、20以上歳の離れた大家、オーギュスト・ロダンは、この小娘と愛人関係を持つようになる。典型のまま、そして天啓のままに。
次に美術の神は、ロダンに妻を追い出す事をお命じになった。彼は諾々と従う。当然だ。それが天の理である。
しかし美しいことに、ロダンは追い出した後も、妻に頻々と手紙を書いて送る。「君は私を愛してくれているのだね。私は君のものだよ」。
二兎を追うもの、修羅場に至る。小娘は叫ぶ。「もう、私を裏切らないで下さいね!」。完璧だ。
かくて、ミューズは舞い降りる。カミーユは精神を病み、以後療養所でその生涯を送ることとなる。因業。それは終生ついてまわる宿あ。思えばロダンの姉も、芸術家に、それもロダンが紹介した男に裏切られ世を捨てている。こんなとき、人は何を思うのだろう。そう、「考える人」である。
まさに芸術の女神の御心の結晶とも言える「考える人」だが、ピンではさして面白くない(少なくとも私には)。
が、彼が本来座すべきは「地獄の門」の上だ。パリのロダン美術館の庭園の、ちょうど「考える人」の逆サイド。ただならぬ気配を放ちながらそれはある。
パリに行く機会があれば、立ち寄ってみるといい。きっと、地獄のあるべき姿を見るはずだ。
連日続く曇天。降り出した雨。それにもかかわらず、大勢の観光客が、「地獄の門」を背景にニッコリと笑ってカメラに収まっているだろう。
そう、人は言う。「地獄への道は、善意の敷石で固められている」と。
予定調和。すべては女神の御心のままに。


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