王様と神様とその周辺に関する杞憂
サッカーの世界では、「王様」といえばペレのことを言うことになっているようである。同様に、「神様」はジーコであり、「天才」はディエゴ・マラドーナの事を指し、「皇帝」はフランツ・ベッケンバウアーで、「将軍」となるとミシェル・プラティニだ。
これを換言すると、他の選手は「王様」とか「神様」とは原則として呼ばれることはない、ということになる。
事実、ドラガン・ストイコビッチは「妖精」。これは、まぁ、華麗なプレースタイル、ファンタスティックなプレイ、という意味でOKかもしれないが、ゲルト・ミューラーの「爆撃機」というのは、ストライカーとは言え、ちと苦しい気がする。ヨハン・クライフに至っては、あれほどの選手であるにもかかわらず「空飛ぶオランダ人」だ。モンティ・パイソンじゃあるまいし。まあ、「フライング・ダッチ(日本で言う「彷徨えるオランダ人」)」からの借用なんだろうけど。
早い者勝ち、となると、後世の選手は不幸である。いくらサッカー史に残るような名選手でも、例えば、中盤で自分の意のままにゲームの組み立てをする選手には「フィールドの鍋奉行」とか、とにかく貪欲にボールを追い、ゴールを目指すFWは「ゴール前のアノマロカリス」とか、恵まれたフィジカルを生かした突破力を誇るウィングは「右サイドのボブ・サップ」とか、そんなのしか残らなくなるわけだ。
こうなると、サッカー中継にも古館伊知郎氏が必要だな。「金髪碧眼、男セーラームーンと呼ばれております、この男」。誰も呼んでねーよ。

それはさておき。
何でも中国では、江沢民による所謂「3つの代表」の理論を「江沢民学説」として纏めて、指導原理として党の要綱に盛り込もうという話である。
マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、ケ小平理論、江沢民学説という四本柱になるわけだ。
そんなわけで、サッカー選手同様、こちらも後世になると「○○主席語録」とか「××代表講話」だの「**さんの、今日の一言」、果ては「・・・氏でポン!」なんてのしか残らなくなる。親しみやすいかもしれないが、もう、指導者の威厳も何もあったものではない。
尤も、こんなことは、それこそ杞憂にしか過ぎないかもしれない。
だって、中国共産党の一党独裁がこの先どこまで持つか・・・



新世紀リーダー伝・KOIZUMI
「リーダーに相応しいのは、彼だけだ」
カナダ、カナナスキスサミットに出席した小泉純一郎首相に対する、地元カナダの然る新聞の評価。因みに同国のクレティエン首相に対しては、「国家の恥」の評。まあ、自国の政治家に厳しいのはメディアの常かもしれないが。
日本国内においては、一頃の「小泉ブーム」も収束し、期待度はともかくとしても、さして芳しい結果を残せていない小泉首相の何をカナダ紙は評化したのか。
曰く、「彼のネクタイの結び方は完璧だ」。
サミットに出席した各国首脳の着こなしを写真つきで紹介し、各々に対してファッション専門家がコメントを付した、28日付カナダ紙グローブ・アンド・メールの評。
・・・そんな事言われてもねぇ。



バカとキチとその周辺に関する杞憂
最近の復刻・復刊ブームの流れに乗って、かどうかは知らないが、かの「釣りキチ三平」も最近復活しているとの事である。
とすると、一頃、例の「言葉狩り」の影響で「釣りバカ日誌」はいいが、「釣りキチ三平」はマズいんじゃないか、という話があったが、どうもそれも杞憂であったようである。確かに、阪神ファンは昔から「トラキチ」と称されていたわけだし。
尤も、それは阪神ファンに対してだから許されたのではないか、との反論も考えられる。何せ阪神ファンといえば

(名誉毀損罪の)本罪の客体は、人の名誉である。人とは、自然人、法人、法人格のない団体を含む。団体は、その存在と活動が社会的実体をともなった単一的評価の客体となるものでなければならない。したがって、「阪神ファン」(中略)といった漠然たる集団は含まない。(「青林法学双書・刑法各論」青林書院・1995)

などと、名誉毀損罪の引き合いに出されるくらいの存在だしなぁ。

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