玉砕マーケティング 〜ELTと、女子高生とヘーゲルと〜
ELT?と思いながら、テレビから流れてくる楽曲を聞くともなく聞いていたら、どうもそれはELTではなかったようだ。
が、どうも音楽はELTのそれに似ている。テレビの話を聞いていると、そのユニットにはELTのメンバー(だか、元メンバーだか)が一枚噛んでいるらしい。
どうりで、だが、そのユニットは音楽どころかキャラクターもELTの、もっと言えば、出てきた頃のELTの感じに似ている。
そういえば、ELTは当時、ボーカルを「女子高によくいる、同性の子に人気のある女の子」というイメージで選んだ、とか言ってなかっただろうか?いや、その辺に詳しくないので、他と勘違いしているという虞は多分にありうるが。
察するに、デビューから何年か経って、さすがに最早「女子高によくいる」女の子のイメージを付与できなくなった(そのせいか、最近のELTには大人っぽいバラードが目立つような気もする。別にチェックしてないので、知らんけど)ので、新たに「女子高によくいる」女の子ユニットを仕立て上げたということなのだろうか。
要は、同世代へのシンパシーでもって彼女らの支持を得ようというマーケティングとも思える。女子高生狙い、というのはある種のマーケティング上では定石なのかもしれないが、はたして彼女達は魅力的なマーケットであるのか、という点は疑問だ。
かつて、猫も杓子も女子高生であった時代には、「(狙いが)女子高生であるポイントは、流行に敏感なことと活動範囲が広いこと、したがって一日に会う人間の数が最も多い(二瓶喜博「うわさとくちコミマーケティング」創成社。2000年)」ために口コミマーケティングになじみやすいという点にあった。 最近はコミュニケーションがストリートよりまったり系のそれに移ってきているらしいので、そのまま当てはまるとは思えないが、まあ、暇があってコミュニケーション志向が強いという点では妥当するだろう。が、彼女達の消費性向のプライオリティーは、第一にコミュニケーションそのもの、つまるところケータイとなっていることは、何も諸所のデータを参照するまでも無いだろう。プライオリティーが低くとも、お金が余っていればCDにも資金が回ってくるかもしれないが、そもそも彼女達はお金を持っていないのである。まあ、このあたりは私の拙いカキモノよりもシンジ君の本にでも当たっていただいた方が良いかもしれないが。
さて、何もここで私はそのユニットをこき下ろそうというのではない。どうも、世の中にはまだ「流行は女子高生から」なんてマーケティングが残っているように思える、という話をしているのだ。そうは思えない、という人が大多数だろうが、実はそうなのである。なんか偉そうだな。実は、そう思っていたところなのでございますよ。そう思っていただけないのは、ひとえに私めの筆力と構成の不足によるもので、まことに申し訳なく思っております、ぐらいの感じだな。
確かに、そんなブームもあったのは認める。が、一度味を占めると止められなくなってしまう、というのは悪い癖だ。
第2次大戦中、他国から「日本軍は、一度成功すると、同じ作戦ばかりやってくる」という評価もされたと聞く。第二の敗戦、バブル後にも「バブルの成功体験から脱し切れなかった事が、傷を深くした」という分析は至るところで耳にする。
「人が歴史から得られる教訓は、人は歴史から何も学ばない、ということだけだ」とはヘーゲルの言だったか?
今やランドセル売春の時代って事だよ、諸君。←って違ァ〜!!



開かれた司法(ただし、ある方向に)
毎度の事、と言われればそうなのだが、公判における麻原(松本)被告の写真を撮影、週間誌上に掲載したとして、東京地裁が出版社に講義をしたそうである。
確かに、取材の自由・知る権利を尊重するにしろ「その活動が公判廷における審判の秩序を乱し、被告人その他訴訟関係人の正当な利益を不当に害するものは」許されないのは当然であるし、よって写真撮影等に関しては裁判所の許可を得なければならないとすることも憲法違反ではないのも判例のとおりである(参考:「北海タイムス事件」最大決S33.2.17。刑事訴訟規則215条。民事訴訟規則11条)。
その一方で、公判廷内の様子を画いたイラスト(あれは何と呼ぶのだろうか?)がテレビや新聞紙上に現れてくるのは、ご存知のとおりである。
しかし、だ。どうにもそのイラスト、被告・被告人の画き方なり、背景の塗りなどが、「被告人その他訴訟関係人の正当な利益を不当に害する」ある種の予断を持って、あるいはバイアスを偏重する意識的乃至無意識的な意図でもって画かれているものが多いように思えてならない。
あれならばいっそ、法廷内の写真撮影、放送を認めた方がよっぽど公正な裁判に資するのではないかと思うのだが。それとも、国民には被告人その他訴訟関係人にある種の予断を持ってもらったほうが公判廷における裁判の秩序維持に適うということなのだろうか。



らぽ〜と
今は昔。「ライフ・アンド・デス」というゲームがあったそうだ。
浅学にして実際にやってみたことはないのだが、雑誌の評によると「病人のハラワタを切り刻んで丁重に葬るゲーム、じゃなくて、病人の容体を見て適切に症状を判断し、それに応じて診断をし、往々にして手術を行い、患者の命を救うことが目的のゲーム、のはずなんだが、だいたいにおいて結果は前者となる(「OH!X」1995年12月号。ソフトバンク)」というものらしい。
まあ、そこはゲームの話としても、実際、医療には常にリスクが付きまとうものだし、手術ともなれば、至極ありふれた手術でさえ、やはりそれは(些か言葉が過ぎるかもしれないが)死と隣り合わせの行為であるのだ。
医療行為というものが、そのように本来的に高度の危険を内包したものであるということとともに、それが専門的な知識を要するものであるがゆえに、「医師の責任」をどこまで認めるか、どこまで求めるか、というのは往々にして微妙な問題になりがちである。
例えば、末期癌の患者にその事実を宣告をしないこと/したことは、医師の責任問題になるか。
医師は診療契約上、患者に診断結果を説明する義務を負う。これが最高裁の判断(9月24日付朝日新聞夕刊。以下同じ)だ。尤も、それは一般論で、末期疾患などで本人に告知することは適当でないと判断した場合、「家族への告知の適否を検討」し、「説明すべき義務を負う」としている。
つまり、直接末期癌患者本人に「あなたは癌です。それも末期の」などと宣告する義務があるという話ではない。まあ、結論としては妥当なところであろう。
とはいえ、本人に宣告することが妥当かどうか判断する裁量が医師に認められているということは、逆にいえば、医師はそれを判断しなくてはいけないということでもある。
この手のことは、まあ、ある程度の基準を設けることはできるだろうが、人によって考え方はそれぞれで、マニュアルを作って、「はい、このとおりにやってくださいね」というわけにもなかなかいかない。となると、医師は病気よりも患者と向き合わなければいけない、ということだろう。いや、それは当然の事なのだが。
当然「告知をしない」という選択肢もありうるだろうし、それは認められてしかるべきだろう。ただ、患者の側が納得しなければ、それは畢竟、今回のような訴訟沙汰になるわけだ。つまるところ、医師と患者との基本的な信頼関係が構築できていない、という話だな。
尤も、「待ち時間2時間、診療5分」とも言われる世界で、信頼関係なんか作れるかぃ、というのもよくわかる。また、ろくに患者の目線に立とうともせず、椅子にふんぞり返って「患者さま」とかいう言葉を使えば患者本位の医療も事足れり、と思っているような輩を信頼しろったってねぇ、というのも当然の反応だろう。
ただそれは、ちょっとのことでも規模の大きな大学病院や有名な医師の所に行きたがり、ホームドクターを持とうとせず、医師の意見よりも、個別具体的な状況・症状の違いを無視してみのもんたの言葉やワイドショー・週刊誌の情報を尊重し、挙句医師に任せっきりで自分で治る事に努めない患者の側が招いた事態でもある。
そうそう、抗生物質耐性菌なんてのは、症状が出なくなったからって、素人判断で、勝手に途中で薬を飲むのを止めたり病院に行かなくなっちゃったりするから出てくるんだよな。まあ、やたら抗生物質を処方する医療機関も機関なんだけど。でも、それにしたって患者がとにかく病気の情報よりも薬を出してもらいたがるからなんだろうけど。 ま、けっきょくあれやね。政治が国民に相応しいそれになるように、医療も受ける側のレベルを反映した文化をもつようになるってことだね、きっと。


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