老いの風景
先日、久方ぶりにバスに乗ったところ、ご高齢の方々の団体さんと乗り合わせる形となった。団体さん、と書いたが、どうも見ていると纏まって座るではなく、或は後ろのほうの席へ、また或は中程の方へ、といった感じでばらばらに席を埋めていくので、たまたま乗り合わせただけかとも思えた。しかし後ろの席から前の席へと話し掛けたり、また通路をはさんで喋っていたりするので、どうもやはり、団体さんなのであろう。
で、だ。それなら纏まって座れば良いじゃないか、と一般人なら思うところであろう。事実、空いている席の都合でばらばらに座っているわけではないのだから。彼ら或は彼女らは、三人掛けの椅子に二人で座っていたりして、そしてそこに別の一人が停車のたびにやってきて、話をしていたりするのである。
人は言う。「歳をとると、だんだん子供になっていく」と。
私は思った。これでは、「あまり出来の良くない」系の中高生と変わらんな。
いくつか停留所を過ぎて、その度、何人かが乗ってくる。乗車率が次第に上がる。そして、三人掛けの椅子に、二人。幾つ目かの停留所で、乗ってきたご婦人が言う。「詰めて頂いて、宜しいですか?」
老人、答えて曰く。「何でワシが詰めないかんのや。お前、降りろ」
私は思った。これではいよいよ「あまり出来の良くない」系中高生だ。チョーむかつく。そんなのありえない。とこそ言わないが。

終点。降り際に、今や中高生となった老人のカバンを私は見た。ブランドは、Olive des olive。
・・・やはり、中高生か。



ご満悦オトーサン
何でも、世の中にはポケモンセンターというところがあるそうである。そうである、と書いたが、実際には、その前を通った事もあるので、伝聞で表すのは正しくないかもしれないが。
とまれ、ポケモンセンターだ。前を通り掛って覗いた感じでは、確かにいろいろポケモングッズが置いてあるようだが、なんか、ただそれだけ、という感じがする。換言すると、「うああぁ、ポケモンやぁ」とかいう印象を受けない。雰囲気がない、といっても良いかもしれない。直接的な購買行動同様に、一般消費者を対象とする販売、殊にこの手のお店というのは、その世界を感じさせることも重要なことだと思われるので、もっとポケモンくさくても良いのではないかというのが正直な印象だ。
たとえば、キティちゃんグッズなどが大量に置いてあるサンリオ系のショップ(何というのかは知らない)なぞは、もっと強烈に「キティちゃん」な感じで、一見さんお断りな結界が張られているようにすら感じられることとは対照的である。
が、しかし。そう思って、ふと思い出した。
中年過ぎたサラリーマンのおっちゃんを想起した。彼らは、キティちゃんグッズは持たなくても、ピカチュウのケータイストラップなんぞは付けてたりするのである。
そういえば、以前、かのナニワのモーツァルト、キダ・タロー先生も「ピカチューとか言いますねん」なんて言うてご満悦やったしなぁ。ひょっとすると、ポケモンというのは、もっと間口が広いのかもしれない。それで敢えて、あまりコアな世界にしていないのかもしれない。
ぬるいのも戦略のうち、か。



女衒屋家業
「女性リポーターには、いらいらさせられる。彼女たちは、フットボールの事がわかっているのかね」
「彼女たちに、フットボールのことは喋ってもらいたくない」
米CBSテレビ「60minits」のコメンテーター、アンデ・ルーニー氏が、フットボールの試合中継に出てくる女性リポーターを指して言った言葉だそうである。
まあ、フットボールの中継を見る人全てが玄人でもあるまいし、マスメディアに於いては素人の発想を代弁してくれる人間も必要なのは確かだろう。実際、朝までなんやらゆう番組なぞ見ていると、わかってないヤツの意見というものが思想のある種のアウフヘーベンには有用だという事がわかる。
もっとも、それはやはり素人の意見としてあるべきであって、素人にも玄人と同様のポジションを与えられるべき、という話でもないだろう。
ルーニー氏は、過去に黒人やゲイに対する侮蔑的な発言で出演停止の処分を受けた「前歴」があることもあり、氏の今回の発言も女性蔑視の趣旨であるという受け止め方が為されているようだが、日本の事情に即してみると、まあ、そういう意見もわからなくもない。
もちろん、女性にも増島みどり氏のような優れたスポーツライターはいる。が、フリーはともかく、いわゆる局アナ連中には内心辟易させられているスポーツ関係者(や視聴者)は多いのではないだろうか。イチローや中田ヒデ何ぞは、あの手合いをこそ「あいつらムカつきません?」と評すべきではないだろうか。求められているものが違う、といってしまえばそれまでだが。

求められているものが?
「ではそれは、電波芸者ではないのか?」と。



リスペクト・ミー!
メディアに載る企業の採用担当者やら大学の入試試験担当なんかの話を聞くところでは、近年、尊敬する人として両親(や父、あるいは母)を挙げる人が多いそうである。
「昔は歴史上の偉人を挙げる人が多かったのに。これも若い人の興味が身近なところにしかない事の表れなのか」とはある担当氏の言。
確かに親というのは一番身近な「大人としての先輩」であり、宮本武蔵風に言うなれば、我以外は皆師であるところの、師の最右翼である。実際、人一人を成人まで育てるというのは(そんなものは権利行使に伴う当然の義務の遂行でしかないとしても)、尊敬に値することであるのは間違いない。
ただ、私見で言わせていただけば、親というものは、どんな大人物であれ、子供にとっては、日常においてだらしがなく、頑迷で、絶望的に物分りが悪く、そのくせ自らの古びた体験の旗の下に子供を抑圧することには熱心な、まったくもってファッキンな存在である。そうでなくても、人前で身内を持ち上げるなどというのは、君たち、気恥ずかしくはないのか、と思わずにはいられない。
尊敬する人物が両親であるなどとは、面接対策マニュアルかなんかでそう答えるべしとなっているのか、両親以外の人間を知らないのか、あるいは尊敬という語の意味を知らないのか。こう思うのは、単に私が人として未成熟なだけのことであろうか。

さて、中高生を対象とした調査(東洋大、中里教授)では、以下のような結果が出ている。
問:父親を尊敬しているか
答:(「大いに」、「かなり」を合わせて)37%
問:母親を尊敬しているか
答:(同)42%

・・・ま、そんなとこダナ。


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