レイの話
例の話である。というのは、あれだ。西村防衛政務次官(当時)の発言についてである。
俺的第一報は、NHKのニュースであった。時間は忘れたが、女性アナウンサーがキャスターを勤めていたやつだ。
報道はこう伝えていた。氏は、個人的見解と断った上で「日本も核を持った方が良いかもしれないという事を検討しなければならない」と発言したという。
では、これのどこが問題なのか。
以下、主要新聞各紙の社説を参考に見てみる事にする。

まず、朝日(20日社説)。見出しは「これはひどすぎる」となっている。なぜならば「個人的見解と断ってはいても」、氏は「責任を持つ立場」であり、かかる発言が「国際社会の中での日本の信頼をどれほど傷つけ」るかにあまりに「無自覚」であるからだ。
それどころか、当該インタビューにおいて使われていた譬えは「議員である以前に、大人の人間としての見識、品格を持ち合わせているのかさえ疑わしくなる」として、人格面まで含めて問題視している。
では、「ひどすぎる」のは西村発言なのか、というと、そういうわけではなくて(それもそうなんだろうが)、ひどすぎるのは小渕君と小沢自由党党首である。なんとなれば、尖閣諸島上陸など、西村氏の過去の言動からしても「防衛政務次官にふさわしくないことは誰の目にも明らか」であって、氏を任命した「小渕首相と小沢党首の責任は極めて重い」と結んでいる。
この辺りは、毎日(21日社説)もほぼ同様で、氏の発言は「核武装の検討論は唯一の被爆国として非核三原則を国是としてきた日本の核政策に背くもの」であり、「新たな懸念を周辺諸国に広げることになりかねない」性質のものであるから、「いかに個人的見解と言い訳をしても許されるものではない」としている。また、「防衛政策の立案、実行責任者の一人として、発言内容は非常識というだけでなく、著しく品性を欠いている」ともする。
しかし、むしろここで「問われているのは任命という首相の政治決定に対する責任だ」と締めて、「任命者の責任は免れない」とタイトルにしている。
ただし「防衛政策の立案、実行責任者の一人として」不適切だとはしても、一個人として、ないしは一議員としての西村氏の批判を行っていない点は朝日とは異なる。

なるほど、任命者の責任が問われるべきであることは確かであろう。また氏の発言に品性に欠ける不適切なものがあった(それはNHKでは教えてくれなかったなぁ)という点に異論はない。
が、氏の問題提起それ自体は否定されるべきものではないはずだ。氏は、核武装しろ、と言っているわけではない。核武装した方が良いかもしれないということも含めて国会で議論する必要がある、と指摘しているだけである。
「非核三原則が国是」とはいえ、その是非を問うことはタブーではあるまい。国是があって国ないし国民があるというのでは話が逆だ。なにより、何故それを国是としているのかを考える機会もないのでは、その理念が遠からず風化し、非核三原則が空念仏に成り下がってしまうことは明白である。
アメリカと日本が戦争したことも知らない連中が珍しくも無い昨今だ。日本が非核三原則を取るに至った過程を一から検証し、では、日本はどうするべきなのかを考える機会を提供することこそ、非核三原則以上の「国是」というべきである。それなくして、徒に原則を唱えることこそ、その理念に「背くこと」であろう。
過去の過ちを否定するのではなく、真摯に見つめる事が反省への道である。もうしません、と繰り返すだけの反省を欠いた姿勢が「信頼をどれほど傷つけ」て「新たな懸念を広げる」ものであるかは、一連のオウム真理教の態度を見れば明らかだ。確か、オウムに関して、その事を常々指摘していたのは、他ならぬマスメディアではなかったか。第二次大戦中の侵略行為への、アジア諸国に対する日本の戦後補償に関して、口頭で謝罪の文句を繰り返すだけでは周辺諸国の信用を回復できないと書き続けてきたのは、他ならぬ新聞社ではなかったろうか。

続いて、読売の社説(21日)。こちらも、氏の発言は「内外に及ぼす影響への思慮も欠いて」おり、「責任ある立場の政務次官として不適切」であったとしている。ただし、発言の趣旨自体は「一人の衆院議員あるいは一国民」なら「問題視されることはない」と書く。

であるのならば、だ。やはり何より非難させるべきは任命者ではないだろうか。本来、議員というのは自らの主張を実現させるべく活動するのが当然であり、その主張を前面に出すことは、「問題視されることはない」ばかりか、寧ろ議員としての義務であるとさえ言える。
個人的意見と断った上でなら、個人の見解を主張することは言論の府に身を置くものとして否定されるべき事ではあるまい。
政治家が自らの見解を示さないと糾弾していたのは誰だったか。明確な理念を示すことのできる政治家がいないと嘆いていたのは誰だったのか。
確かに、氏の発言は政府の一員としては必ずしも相応しいものではなかった。が、あるポストに就いたのならば、自分の考えより政府がそのポストに望むような考えを言え、というのでは、政治家に自らの政治的決断を下すことを望んでいる、政治報道の常の言動と矛盾するのではないだろうか。
政府の一員になったからといって、自分の考えは捨てるべきではない。政府に加わるのは、自分の意見を実現に近づけるためである。ならば、政府の一員となったなら、その意見は声を大にして言うべきだ。問題はない。その意見が政府の望ものでなければ、任命されることはないはずなのだから。西村氏の以前からの言動を見れば、かような意見を持っているのは容易に分かることである。
以上より、非難されるべきは(氏の表現が品性に欠けるものであったことを除けば)任命した小渕首相、並びに推薦した小沢自由党党首のはずだ。
しかし、読売は社説の見出しを「立場忘れた軽率な核武装発言」として氏の発言の批判に力点を置き、「小渕首相の迅速な更迭判断は妥当」としている。これは一体どうしたことだろうか。

まとめに入る。
氏の発言は問題であった。しかしそれは、その表現が著しく品性に欠けるものであったからだ。それは、氏の更迭を故無しとしないほどのものである。
氏の発言は政務次官としては問題であったろうか。政府内不統一とまでは言えないのではないか。繰り返すが、氏は「核武装をする」といっているわけでもないのだ。氏の考えからすれば、「核武装をしたい」といっているも同然だが、問題提起そのものは評価すべきである。
むしろ、脊髄反射的に発言を封じようとするのは問題といえる。それは思考停止を意味するからである。
一介の私企業の業務の一環とはいえ、マスメディアは「責任を持つ立場」である。新聞各紙にはこのことに「無自覚」になることが無いように、脊髄の反射ではなく、ちゃんと脳を使った反応で持って、合理的な解説を行うよう期待したい。
屋上屋を重ねるようだが、最後に、産経新聞社説(21日)の見出しを紹介して、結びの言葉に代えたい。
「西村次官辞任・発言に耳を塞ぐべきではない」



いつか見た未来
日経産業新聞(10月15日)の伝えるところによると、印刷業界各社がいわゆる「オンデマンド出版」というのを始めているらしい。
これは、本の内容をデジタルデータとしてオンラインでやり取りするものではなく、注文に応じて少部数ずつ印刷して、あくまで本という形をとって提供するものであるらしい。デジタルデータと紙媒体としての本とのメディアの違いを日ごろから言ってきた俺としては、「いー子、いー子」って頭撫でてあげたくなるくらいのワンダホ〜なことだ。
で、さらにワンダホ〜なことに、このオンデマンド出版、どうなっているのかというと(新聞で読む限りでは)、右の方でほしい本を入力すると、何やらやたら巨大で物騒で禍禍しい機械がわっしゃんわっしゃんガタタタタ〜と動き出して、左の方から本がポンッと出てくるイメージなのだそうだ。
な、なんかドラえもんで見た22世紀の光景が目の前に・・・



買ってはいけない(?)話
コンビニ各社が、いわゆる「焼き立てパン」に力を入れるようになって久しい。今回は、その一つのお話だ。
そのパン、というか、そのコンビニの焼き立てパンのシリーズには、一様にこう表示されている(と思う)。
「添加物(イーストフード)は使用しておりません」
ほぅ、と思いつつ裏面の表示で確かめる。と、確かにイーストフードは未使用のようだ。が、ちゃんと香料、着色料、保存料などは材料として名前を連ねている。
当たり前じゃん。全国津々浦々(正確には、その直近の工場の担当区域内だけだけど)に流通させようと思ったら、また販売から消費までのタイムラグを考えたら、そのくらいは当然だっちゅ〜ねん。食品をマスプロダクトとして成り立たせるには、そういう、ある意味「普通ではない」ものを使ってることくらいわかるっちゅ〜ねん。
そういう当然のことを「買ってはいけない」などと煽るのは良くない、と言うわけではないですよ。ああいう問題提起それ自体は貴重だと思いますよ。とはいえ、普通の頭で考えたら、マスプロダクトとして成り立ってるような食品が「普通でない」事くらいは、言われなくてもわかるでしょ?
そりゃあ、数字的な話は専門的なところだから、素人には自明のことではないですよ。でもね、それにしたって、たとえて言うなら「魚のおコゲを食べるとガンになりやすいということが科学的にも証明された(ただし、毎日ステーキ換算で何百キロと食べつづければの話)」ってことでしょう? 数字を論じることですか?
ですから、皆さん、「普段買っているものの中にあんなに危険なものがあるとは知りませんでした。これからももっと教えてください」なんてことは言わないでください。レベル低いと思われますよ、ホント。



魅惑の絶対耽美主義 #2
平松礼二展に行ってきた。「日本画家の視線ー印象派・ジャポニズムへの旅」と題されたやつだ。
本展のすべては「イマージュの回廊の中で、いさぎよく遊んでみたかった」(新美術新聞’99年8月11日号)との本人の言に表わされているのではないだろうか。見ている間、多分俺もニコニコニヤニヤしていたのではないかと思う。
などと書くと、親しい友人(の中の口の悪いヤツら)からは、君、いつもの君の主張からだと、少なくとも君にとっては、絵画の鑑賞は作者と鑑賞者の真剣勝負ではなかったのかね、などと言われるかもしれない。
が、そこはそれ。何せ相手も超一流(などと俺が知った風なことを言うのが失礼に当たるくらいだな)である。「遊び」とは言え手抜きではない。
外国に行って初めて日本文化の特殊性(と普遍性)に気がつく、というのは良くある話だ。本展は、印象派・ジャポニズムによって日本美術がどう評価、解釈されたのかを日本画家自らが再解釈することで、日本画の、あるいは日本的美意識の何たるかを赤裸々に暴いてみせようという、実に挑戦的な企てだ。
「日本人のアイデンティティーを探る」(武田厚氏。同紙より)なんてムズカシイ事は俺には解らないが、きっとそういうことなんだろう。
しかしながら、日本画家である平松氏にとっては、この試みは諸刃の剣になりかねない。その意味で、この遊びは、大仰に言えば命を張った遊びである。
真実、真剣勝負。
ああ、命懸けで遊ぶって素敵。遊び心ってこうありたいよね。


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