援助(交際に非ズ)
CBSドキュメント(’99年11月7日CBC放送分)が伝えるところによると、25年前からユニセフがバングラディッシュで行っている慈善事業「住民に安全な水を」計画で設置された井戸の水に、人体に有害な濃度の砒素が含まれていたそうである。
さらに、4年以上も前から警告している学者がいたにもかかわらず、最近までユニセフは何の対策も講じなかったと同番組は伝えている(なお、安全な真水の層に達するには、さらに400メートル、作業時間にして4日間ほど掘り進める必要が有るという)。
これらの井戸が作られる以前には、住民は池や沼の水を飲料水として使用し、その水を媒介とするコレラや赤痢などの伝染病で多くの死者が出ていたため、井戸水に砒素が含まれていると言われても、「池の水は汚くて飲めません」(住民の話。同放送より)ということで、井戸水を使う以外に術はないのだそうだ。
この砒素の影響を受けている住民は、推定で300万人に及ぶという。
言うまでもないことだが、援助というのは、何かを作って/渡して、はいお終い、というものではない。寧ろ、その後のケアが援助の質を決するといっても良い。
いや、何もそれは援助に限った話ではないのだが。
エッチじゃないのよ
「H」に「’’」で「エッヂ」と読むのだそうだ。DDIポケットの端末のことである。
テレビCMを見る限りでは「切れにく」くて「音が良い」のだそうだ。「切れにく」い、というのは、私はケータイ/PHSを使わないので判らないのだが、少なくとも理屈の上ではそうなのだろう。
一方、「音が良い」の方はどうだろうか。最近では、IDOのCdma‐OneやJ‐phoneも「音が良い」事をアピールしている。ただ言わせておくのも面白くないので(そぉかぁ?)、検討してみることにする。
「音が良い」というのは、果たしていかなる程度の音質を指すのか。さすがにCD並みを要求するのは無謀だろう。
では、ラジオ並み、というのは、目安としてどうだろうか。少なくとも再生だけを考えれば、カードラジオも有るくらいなので、ケータイ/PHSでも無理ではあるまい。それに、世の中の一部方面には、ラジオから聞こえてくるタレント/声優さんの声でウハウハできる人も居られるようなので、ラジオ並みなら「幸せになれる」音質といえるのではないか。
比較してみよう。まず、エッヂの通話品質(情報量)は32kbpsだそうである。続いてJ-phone。こちらはフルレートで11,2kbpsとなっている。
最後にCdma−Oneだが、
Cdma−Oneの店頭チラシには「音が良い」と書いてあるだけである。IDOのホームページでも同様。ならば、と最近やたら発行されている「モバイル何とか」だの「某モバイル」といった類の雑誌(なぜかそろってケータイ/PHS端末の特集を組んでいた)を見てみる。が、ここでも「音が良い」と書いてあるだけで、数字を出してくれない。まあ、雑誌の解説なんざぁその程度だろうが。
察するに、
Cdma−Oneの「音が良い」とは、「三つの電波を使って補正するのでノイズが少ない」ということであって、送る情報量自体は5.6kbps程度なのではないか。そういう事にしておく。ちゃんとしたデータをご存知の方がいらしたら、是非にご教授いただきたい。
一方、ラジオの音質であるが、こちらはAM、モノラルで大体20kbyte/sくらいと思って良いらしい。例えば、
Windowsのコントロールパネルで「ラジオ並みの音質」とは22Khz、8bit、モノラルの音を指している。
単位を揃えれば、ラジオの20に対してエッヂ、J-phone、Cdma-Oneはそれぞれ(1byte=8bitだから)4、1.4、0.7となる。ああ、幸せまでは遠そうだ(計算式が違うのか?)。
とはいえ、所詮ケータイ/PHSで送るのは人の声、それも普通の会話時の声に限られている(普通は)。とすれば、12khz、8bit、モノラル程度で十分足りるとも考えられる。であれば、必要なのは12kbyte/s程度だ。
・・・あれ? それでも全然足りないじゃん。
まあ、きっと普通に会話する分には十分なのだろう。どうせ圧縮してあるんだから、音の善し悪しは、作り方次第だろうしね。
エキサイティング人生道場
中学生時代の同級生に久しぶりに会った。
私の知る限り、その同級生は男性である筈だが、何やらジーンズのデザインが女性用のそれっぽい。聞けば、妹のものを履いているのだそうだ。
さらに、彼の身につけているものは、妹のシャツに、妹の彼氏のニット、母親の靴下、さらに持っているものは父親の傘。下着を除けば(彼は言う。「さすがに下着は、妹のものを借りるわけにもいかないな」)、自分のものは980円で買ったという靴だけである。
気がつけば、と彼は言った。全財産(手持ちの、ではない!)が500円しかなくなっていたのだよ。
この後、彼は私にいろいろな話をしてくれた。電気を止められた冬の夜の長さ。「火を通せば大抵のものは大丈夫」と自らに言い聞かせて食べる黴の生えかかったパンの味。バイトをはじめようにも、面接に行くまでの電車賃がないことの悲しさ・・・
そして彼は言う。しかし、そうして俺はここにいる、と。
人生とは、なかなかにエキサイティングでありうるようだ。
魅惑の絶対耽美主義 #3
私の記憶が確かなら、バブル華やかなりし頃(今にして思えば、それは既に末期的な状況であったのかもしれない)、大企業はこぞって「企業メセナ」という言葉を掲げていた。
そして企業は様々なイベントのスポンサーとなり、世界的な音楽家を招き、名画を高値で買い漁った。
今回取り上げるアンドリュ−・ワイエスの作品も、そうした中で美術館に並ぶようになったものといえよう。
愛知県美術館のアンドリュー・ワイエスのコレクションは、現在では日本有数のものだそうである。そしてその多くが、1995年同館で開催されたアンドリュー・ワイエス展を機に寄託されたものだということだ。
ワイエスについては、日本でもずいぶんと人気があるので、今更私が注釈を付ける必要もないだろう。
よって、いつものことだが、個人的な感想を述べるにとどめておく。
ワイエスの絵は、静かな絵である。
といって、全く無音の世界ではない。風が草木を鳴らして通り過ぎていく音、ブランコの鎖が軋む音、遠くで鳴っている雷の音、こちらに背を向けた男が聞こえよがしに吹く口笛の音・・・
彼の絵からは、様々な音が聞こえてくる。寧ろ、こうした微かな音の存在が、その背後にある静かな、穏やかな世界を感じさせるのかもしれない。
それは例えば、「岩に染み入るセミの」声が却って「静けさ」を感じさせたり、人魂の炎が周りを取り囲む暗闇の深さを思わせたりするのに似ている。彼の絵が日本人にも好まれるのは、この辺りの「日本的な」感性の存在が一因であろうか。
ところで、だ。
私の記憶が確かなら、バブル華やかなりし頃、大企業はこぞって「企業メセナ」という言葉を掲げていた。曰く、「社会から利益を与えられている企業が、社会に文化的貢献をすることは当然である。否、それは寧ろ企業の使命でさえある」と。そして又曰く「企業メセナは、必要以上に何らの見返りを求めるものではない」と。
そして現在。上で述べたように、愛知県美術館の日本最高のワイエスコレクションの多くを占めていた個人や企業からの委託作品は、海外へ売却されることになったらしい。
はたして、私の記憶は誤っていたのだろうか?