C.E.O
「愛の缶珈琲遍歴」でも取り上げたネスレ「C.E.O」であるが、ネスレのホームページによると、このネーミングには秘密があるのだそうだ。
その秘密とは

「逆から読むと・・・(同ホームページより)」

ということは、C.E.Oは「オイシー」の逆だから・・・


コストカッター
リストラクチュアリングが人員削減とイコールであるのは日本型リストラに特有のことだとばかり思っていたのだが、どうもそうでもない様だ。
カルロス・ゴーン氏が日産のトップになってからの人員・設備削減は周知のとおりであるが、その先の経営ヴィジョンは、必ずしも明確ではない。
販売店系列が日産レッドステージと同ブルーステージに統合されたのは良いとして(旧プリンス自動車系の人はどう思っているのだろう)、問題は何をどう売るか、その一点である事に異議はあるまい。
そういった折に日産が発表したのが「バサラ」である。
当然、今後の日産の在り方を示すものであると思われるのだが、これがちょっと、ナンなのである。
端的に言って、「あのテの車、隣の販売店系列にはあるのにウチには無いじゃん。ねぇねぇ、あれウチにも欲しーよー」ということで作られた車のような感があるということだ。
雑誌のレビューだけで評価するのもどうかとは思うが、そういったメディア上の評価から総括する限り、バサラは「顔を変えただけのアレ(日産の他車種)」という域を脱しない。
無論、同じハードを使って、味付けを変えることで異なる層にアピールできる車種を作る、というのは製品展開上の王道であるし、正しいやり方である。
しかしそうであれば、もとになった車種とは違うフィーリングを感じさせるチューニングが施されるべきであろう。
そうでなければ、それは徒に車種体系を増やし、コストを増大させ、また同じパイを同一メーカーで食い合う結果を招くだけではないだろうか。
思うにそうしたことは旧来の販売店系列方式の悪弊であろう。いつか来た道をまた行くだけであれば、系列再編の意味はあるまい。その程度の小手先だけの変化が再建への道と考えているのならば、これは楽観的に過ぎる。
私見だが、こういったやり方を続けているのであれば、日産には、少なくとも成長の機会はないのではないか。
もっとも、ゴーン氏及び日産経営陣が、日産はルノーの極東担当支社としての位置づけなのであって、独自の成長は望まない、とするならば、それはそれで一つの見識であろう。
しかしながら、もし日産がかつてのようにトヨタと伍して日本自動車産業のトップに列せられることを欲するのであれば、今の日産は、上述の様に「その先の経営ヴィジョンは、必ずしも明確ではない」とのそしりを免れまい。
私は、日産の行く道が、ルノーの支社として企業規模を縮小して細々と生き長らえる道ではなく、再び世界的なメーカーとなる道であることを望む者である。そしてそのためにも、日産のリストラが単なる人員削減ではなく、新しい日産となるための、真のリストラクチュアリングであることを切に願う次第である。



魅惑の絶対耽美主義 #4
関根正二展へ行ってきた。一体関根正二が何者であるのかは、全く予備知識が無かったのだが、それでもなかなか面白いものであった。
とりわけ、彼の描く肖像画には興味深いものがある。
若い頃に(といっても、彼は二十歳で没しているのだが)描かれた絵の人物は、全く自負と自信とに満ち満ちた目をしている。「いやまったく、実際のところ、俺は大した天才だなぁ。どの位天才かと言うと、天才過ぎて誰も認めてくれない位天才なんだ。困ったね、どうも」。そんな目をしている。
事実、当時の彼が書いた手紙には、そのような内容のことが書かれているようである。
一方、後(1918年あたり)に描かれたそれでは、なんとなく自信を失ったような、迷いやおう悩を湛えた目をしているように思われる。
彼の略年譜を見ると、この時期彼は恋人との関係が破局を迎えたとのことである。
こうした心象が、後の「悲哀なるところに聖地がある」との彼の言葉に表れてくるのであろう。

とまれ、かように絵画は描いた人間の心を映すものでもあるのである。


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