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★10月5日は、ペイトン・ラウスの生まれた日。

フランシス・ペイトン・ラウス(Francis Peyton Rous)は、1879年、テキサス州に生まれる。
1909年以降は、ニューヨークのロックフェラー医学研究所(現・ロックフェラー大学)で研究に務めた。病理学者。
1911年にニワトリのガン細胞をすり潰した濾過液を正常なニワトリに注射してガンをつくることに成功する。しかし、このウイルスは「ラウス肉腫ウィルス(Rous sarcoma virus(RSV))」と名付けられたまま、1958年にハワード・テミン(ウィルス学者)らがこのウイルスを使って感染に成功するまでは放置されたままだった。
ラウスの発見は、これで証明されて、発ガン性ウイルスの初めての発見で1966年にノーベル生理学・医学賞を受賞する。
研究を行なってから55年後の受賞は、史上最長記録で、87歳での受賞は当時の最年長記録でもあるそうだ。
他に、ラウスは、血液の保存を可能にもした。
1970年には、テミン氏らによる逆転写酵素(RNAから情報をDNAに転写する酵素)の発見があり、ラウス肉腫ウィルスを含む、ガン、白血病、エイズなどを起こさせるRNAウィルスは、逆転写(Reverse Transcription)のRe-Trから「レトロウイルス」と呼ばれるようになる。

*ノーベル賞受賞は、ダイナマイトの発明者アルフレッド・ノーベルの遺言により、ノーベル財団が運営し、1901年から1年に1回行なわれている。
物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞、平和賞などがある。

2008.9.1

参考:季刊「生命誌ジャーナル」34号 Scientist libraryー人を通してー JT生命誌研究館

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1月の「なんの日」

 1日 元日

2月の「なんの日」

 17日 天使の囁きの日
 18日 アレッサンドロ・ボルタの生まれた日

3月の「なんの日」

 10日 麻田剛立の生まれた日
 15日 春分の日

4月の「なんの日」

 1日 アブラハム・マズローの生まれた日
 2日 図書館開設記念日
 5日 横町の日

5月の「なんの日」

 14日 温度計の日
 27日 キャレブ・ブラッドハムの生まれた日

6月の「なんの日」

 1日 写真の日
    麦茶の日
 8日 フランシス・クリックの生まれた日

7月の「なんの日」

 3日  村上華岳の生まれた日
 4日  梨の日
 22日 下駄の日

8月の「なんの日」

 8日 ひょうたんの日、タコの日、そろばんの日、ヒゲの日、笑いの日、親孝行の日
 20日 ピエール・ド・フェルマーの生まれた日
 25日 サマークリスマスの日

9月の「なんの日」

 16日 マッチの日
 29日 招き猫の日

10月の「なんの日」

 5日 ペイトン・ラウスの生まれた日

11月の「なんの日」

 24日 オペラ記念日

12月の「なんの日」

 20日 シーラカンスの日

毎月25日
 歯茎の日

★8月20日は、ピエール・ド・フェルマーの生まれた日。

「私はこの命題の、真に驚くべき証明を持っているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」
これは、ピエール・ド・フェルマー(Pierre de Fermat)が、本に残した言葉である。
余白に書き込まれた48の所見は、1665年にフェルマーが亡くなって数年後、息子の手によって世に出たことで、それから三世紀にわたり、数学者たちを虜にし、証明へと駆り立てることになる。
17世紀初頭、フランスに生まれたフェルマーの本業は弁護士。
数学にのめり込むきっかけは、古代ギリシャの数学者ディオファントスの著書『算術』(全13巻)と出会ったことによる。
フェルマーは、問題を解いているうちに新たに思いついた問題を本の余白に書き留めたが、もっとも大切な答え(証明)は書き残していない。
フェルマーの時代、数学者たちは、証明に至る過程を論じ合うことなく、完了するまで秘密にするのが常だった。
しかし、フェルマーの場合は、そうした秘密主義からではなく、名誉を得ること以上に、公にすることによって生じる煩雑さから逃れることのほうが大事で、解くことのみを楽しみとしていた。
ただ、まったく秘密にしておくことはできなかったようで、天才的なその頭脳で証明した定理を、数学者に送りつけては挑発し、証明を決して明かさなかったことから、デカルトからは「大ボラ吹き」といわれていたそうだ。
人付き合いは上手ではなかったらしいが、パスカルとは一緒に、確率論の最初の証明を発見している。
ちなみに、映画「博士の愛した数式」(原作 小川洋子)の中で出てきた友愛数(17296と18416)は、フェルマーの発見である。また、フェルマーの48の所見のひとつ「素数定理」は、フェルマーの死後、80年以上たってから、レオンハルト・オイラー(スイスの数学者)が証明した。
フェルマーによって本の余白に書き残された48の所見は、後世の数学者たちによって証明がなされ、なかには否定されたものもあったが、1つだけ、未解決のまま残った最後の定理があった。それが、有名な「フェルマーの最終定理」である。
通常、数学で難解とされるものは、問題自体を理解することが難しい。しかし、この定理は易しく、シンプルで美しいゆえに、数論の最高峰といわれており、古代ギリシャのピタゴラスの定理が基礎となっている。
フェルマーの謎かけから300年以上の時を経て、ようやく、数学者の谷山豊、志村五郎両氏が打ち立てた「予想」とフェルマーの定理がつながることが証明されると、今度は「谷山=志村予想」の証明に、多くの数学者たちが取り組み始める。
そして、1994年12月、アンドリュー・ワイルズ(イギリスの数学者)が、その一部を証明したことで、ついに「フェルマーの最終定理」の証明に終止符が打たれることになるのである。
証明がなされたこと以上に、最高の問題が自分の前から無くなってしまったことを残念に思った数学者も多かったそうだ。
この定理は、現在では「フェルマー・ワイルズの定理」とも呼ばれている。

2008.8.5

参考:「フェルマーの最終定理」サイモン・シン著/青木薫訳 新潮文


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★7月3日[1888年]
 孤高の日本画家、村上華岳
(むらかみかがく)の生まれた日。


大正〜昭和初期の日本画家。本名、武田震一(村上震一)。
7歳のころ、生まれ育った大阪北区から、叔母の嫁ぎ先、神戸の村上家に預けられる。
1901年、13歳のときに、実父が亡くなったため、武田家の家督を継ぐが、実母は再婚して家を出ていた。
1904年に廃家を許可されて、養父母の村上姓を名乗る。
幼い頃から絵が得意だった華岳は、1903年(明治36年)に京都市立美術工芸学校に入学。1909年に、京都市立絵画専門学校本科(現 京都市立芸術大学)に入学。1911年の卒業と同時に研究科に進学し、1913年(大正2年)に修了する。
美術工芸学校卒業後、1908年から文展への出品を始める。絵画専門学校の卒業制作「早春」(改題「二月の頃」)は、第5回文展で褒状を受ける。1916年には、初めての仏画「阿弥陀之図」が第10回文展の特選となる。

次第に、文展に疑問を抱くようになった華岳は、1918年(大正7年)に、京都市立絵画専門学校の同窓で、同じ思いを抱いていた土田麦僊、榊原紫峰、小野竹喬、野長瀬晩花らに誘われて、5人で、国画創作協会を設立する。円山四条派の流れを汲み、初期の浮世絵や南画、西洋画なども取り入れた、新しい日本画を追求していく。
1920年に、華岳が国画創作協会 第3回展に出品した「裸婦図」は、裸婦でありながら、菩薩のようであるといわれている。

「製作は密室の祈り」。これは、村上華岳の言葉。
次第に、純粋な芸術活動への思いが強くなり、ぜん息の悪化もあって、1926年、第5回の国展を最後に、画壇から遠ざかる。翌年(昭和2年)には、神戸市に居を移し、その後は、仏画や山水画などを描く。
官能と悟り、妖艶と聖性、世俗性と精神性という相反する要素がみごとに融合した仏画が、評価されている。
1939年11月11日。持病のぜん息のために亡くなる。

参考:
http://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2005/338.html

2008.6.4

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藤は、マメ科フジ属のつる性植物の総称。4〜5月に花を咲かせる。
有名な、春日大社の「砂ずりの藤」(奈良県奈良市 春日大社境内)の名前の由来は地面の砂を擦るほど伸びるところから。
安藤広重の絵にも描かれた亀戸天神社(東京都江東区亀戸)の藤、推定樹齢1200余年の「牛島の藤」(埼玉県春日部市 藤花園)、100種類以上の藤がある「和気藤公園」(岡山県和気町)、あしかがフラワーパーク(栃木県足利市)など、有名な藤が各地にある。
藤の種類は、ノダフジ、ヤマフジ、シラフジ、アケボノフジ、アメリカフジ、ヒメフジ、シナフジなど。
足利学校&あしかがフラワーパーク

★6月8日(1916年)
 フランシス・クリックが生まれた日。

フランシス・クリック(Francis Harry Compton Crick/1916〜2004)は、DNAの二重らせん構造を発見したイギリスの生物学者。
ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジで物理学の修士号を取得。
第二次世界大戦後の1947年、当時の物理学者らの影響を受けて、物理学から生物学へと転向する。
ケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所で、DNAに興味を持っていた分子生物学者ジェームズ・ワトソン氏と出会い、共同で研究を始める。4つの塩基(グアニン、シトシン、アデニン、チミン)などの分子模型をつくり、モーリス・ウィルキンス博士が学会で発表したX腺の解析写真を参考にして、DNAの構造と遺伝のしくみを発見。
1953年、科学雑誌Nature 4月号にDNAの二重らせん構造についての論文を、連名で投稿する。論文はたったの2ページだった。
1962年、ジェームズ・ワトソン氏、モーリス・ウィルキンス氏らと、ノーベル生理学・医学賞受賞。
1990年頃からクリック氏は、それまで、科学的研究の対象としてタブーとされていた「意識」をテーマに、脳神経科学のジャンルに取り組みはじめる。
「DNAに魂はあるかー驚異の仮説」(フランシス・クリック著 講談社)では、「意識」は、すべて脳のニューロンの働きから生まれてくるという説を述べている。原題は、"The Astonishing Hypothesis, The Scientific Search for the Soul"。

2008.5.21

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★5月27日(1867年)
 キャレブ・ブラッドハムが生まれた日。

キャレブ・ブラッドハムはアメリカの発明家。
1898年、ノースカロライナ州で薬剤師をしていたときのこと。胃腸薬にコーラ・ナッツ、バニラビーンズなどを混ぜると、不思議な味の飲み物ができた。
消化不良の治療薬として、自分の名を付けた「Brad's Drink」という名前で、自分の薬局で売り出したところ、客からの評判が良かったため、後に「ペプシコーラ」に改める。ペプシは消化酵素の「ペプシン」、コーラは「コーラナッツ」から。
コーラ(学名cola)は、アフリカ熱帯雨林の常緑樹、120種余りあるアオギリ科コラノキ属の総称。コーラ・ナッツとは、コーラの種子で、カフェインを含んでいる。炭酸飲料のコーラには最初、コーラ・ナッツのエキスが使用されていた。
ブラッドハムは、1902年にペプシコーラ・カンパニーを設立し、本格的に販売を開始するも、第一次世界大戦後、砂糖の価格高騰などにより、商標を売却してしまう。


ペプシは、1963年に、ベビーブームに生まれた世代を「PEPSI Generation」と名付けたキャンペーンで、ペプシコーラを若者の象徴としてブランドイメージを一新する。
1975年には、名前を隠して、ペプシコーラとコカ・コーラのうち、どちらがおいしいかを選んでもらう、有名な実験がテキサス州ダラスで行なわれた。
結果は、ペプシコーラを選んだ人の方が多く、『PEPSI Challenge 』キャンペーンとして、テレビコマーシャルにも使われた。
このキャンペーンは2000年にも行なわれた。

2008.4.13

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★4月1日
 アブラハム・マズローが生まれた日。

「もし、あなたが持っている唯一の道具が、金槌だけだとしたら、あなたはすべての問題を釘として見るようになるだろう」
これはマズローの言葉である。

アメリカの心理学者マズロー(Abraham Harold Maslow/1908年〜1970年)は、いわずとしれた「人間性心理学」の生みの親。
生まれ育ったニューヨーク州ブルックリンは反ユダヤ感情が強かったため、友達もできなかったが、友達と遊ぶ代わりに図書館で読んだ多くの偉人の本が、後の研究に役立ったともいわれている。
ウィスコンシン大学で学び、1931年に文学博士号、1934年に心理学博士号を取得。
1937年にニューヨーク市立大学ブルックリンカレッジの教授となった後、1951年にブランダイス大学に移る。
1962年には「ヒューマニスティック心理学会」を設立し、1967年〜68年にはアメリカ心理学会の会長を務める。

マズローは、大学のとき「行動主義心理学」に興味を持つ。
当時は、フロイトの「精神分析心理学」と、1910年代にJ・B・ワトソンにより提唱された「行動主義心理学」が主流だった。
ワトソンの行動主義心理学をごく簡単に言うと、人間を含めた動物一般に対して、内面性を除外して、刺激に対する反応(行動)のみ、つまり人間を機械的に客観的に捉えて、科学的に研究したもの。
しかし、マズローは、自分の子供ができて、その成長を見守っているうちに、人間を行動主義だけでは捉えることはできないと感じるようになる。
これまでの心理学は、どちらかといえば病理的な面から捉えたものだったが、マズローは、より健康な人間的な部分、たとえば幸せな気分や神秘的な経験(至高体験)などに着目して、研究をはじめる。

「マズローの法則」といわれる、有名な「欲求5段階説」は、人間の欲求を悪いものと捉えずに、1つの欲求が満たされると、段階をおって次の階層の欲求が起こるとしたもの。
5つの段階を簡単に説明すると、
1.食事や睡眠、性的なものなど生理的なものへの欲求
2.安全や安定、保護されること、秩序があることへの欲求
3.集団の中に自分の居場所があり、愛されることへの欲求
4.価値のある存在と認められる、自尊心が満たされることへの欲求
5.自分の能力を発揮して創造的な活動による自己実現の欲求

マズローは、最晩年に、アメリカトランスパーソナル心理学会を仲間とともに設立し、トランスパーソナル心理学を第4の心理学とする。トランスパーソナル心理学とは、言葉通り、自己と他(宇宙を含める)を区別せず、人間を現状の自分を超越する存在として捉えたものである。

2008.3.23

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★3月10日
 麻田剛立(あさだごうりゅう)が生まれた日。

月のクレーターには、人の名前が付いている。麻田剛立(綾部妥彰/天文学者、医者)も、その1人。
江戸中期(1734年〜1799年)に、豊後国杵築藩(大分県杵築市)の医家に生まれる。
幼い頃から星や空に興味を持ち、7歳の頃に縁側に差す影の動きを1年間観察し続けて、太陽の動きに興味を持ったことから独学で天文学を学びはじめる。

日本では、中国の暦法を使った暦を604年以降、使用されていたが、実際の天体の動きと暦が合わなくなっており、1685年になって、ようやく、渋川春海(しぶかわはるみ)が作成した貞亨暦に改暦される。その後、幕府で官学として天文学が始まり、1755年には宝暦暦(ほうりゃくれき)に改められるが、まだ欠陥の多いものだったそうだ。
 片方で、麻田剛立は、1762年、独学にもかかわらず、幕府の天文方(てんもんかた)作成の暦には記載されていなかった翌年9月の日食を予告していた。

1767年に、麻田剛立は杵築藩主の侍医となるが、仕事が忙しく天文学の研究ができなくなったため、再三、辞職を申し出る。しかし認めらず、1772年頃に脱藩し、その際、綾部姓を麻田に改めて、大阪で開業医をしながら研究を続ける。
やがて弟子になる者が集まってきて「麻田学派」が生まれた。
1795年。まだ人材が育っていなかった幕府では、より正確な暦の編纂のため、麻田剛立を招こうとしたのだがことわられ、代わりに、麻田学派から、高橋至時と間重富が江戸へ招かれる。その結果、中国の最新の天文書を基礎として、日本で初めて西洋天文学に基づいて作成された「寛政暦」が、1798年に施工されることになる。

精密なデータを得るための観測機器(望遠鏡、反射鏡など)を考案し、多くの観測データを集め、それにより西洋の天文学理論を実測するという方法をとったところが麻田学派の特長とされ、麻田剛立は、研究だけに没頭し、17世紀初めに発見されていた「ケプラーの第3法則」を、後に独自で発見した。
麻田学派には、地動説を唱えた町人学者、山片蟠桃など優秀な人材が集まり、伊能忠敬なども、その流れをくむ。
明治になり、1873年に、西洋流の太陽暦が取り入れられるまで、日本の暦学の主流をなしていた。


参考
国立国会図書館「日本の暦」-暦の歴史
http://www.ndl.go.jp/koyomi/rekishi/03_index_01.html

2008.3.23

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★2月18日はボルタが生まれた日。

1881年、「ボルト(volt)」が電圧の単位となる。アレッサンドロ・ボルタ(Alessandro Volta/イタリアの物理学者)の業績から名付けられたものである。

ボルタは1745年2月18日、イタリアのコモに生まれる。
ボルタがパビア大学の物理学教授となった翌年の1780年、ルイージ・ガルバーニ(イタリアの物理学者・医学者)は、解剖していたカエルの筋肉にメスを刺したところカエルが震えたことから、動物の筋肉に電気が蓄えられていると考え、それを「動物電気」と名付ける。
電気の研究をしていたボルタは、1793年、この説に明確に異を唱え、1795年に、銀と錫の板に食塩水をかけて電流が発生することを証明する。
そして、1800年、2種の金属(銀または銅と、亜鉛)の板に、湿った厚紙をはさんだものを多数重ねて、金属の接触面の電位差を利用した、最初の蓄電池を発明した。
この大発明により、1801年にはナポレオンに招かれてフランス学士院で実験を行なうことになる。

ボルタが実験したような、異なる2枚の金属の板と、電解質の水溶液によりつくられる電池(一次電池)を、ボルタ電池(voltaic cell)という。

1775年には、電気盆(Electrophorus)の発見、そしてコンデンサトーレ[コンデンサの原型]など様々な発見があり、ボルタは電気学の始祖と呼ばれる。沼に発生する発火性のガス(メタンガス)が水素とは異なることを発見したのもボルタである。

2004年、ジュネーブショーでイタルデザイン(ジウジアーロ)のブースに飾られたトヨタのハイブリッドスポーツカーには、「アレッサンドロ ボルタ」という名が付けられていた。

2008.2.6

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サザンカ

サザンカとツバキにはたくさんの種類があり、特に園芸種は交配して両方の性質を持っているものも多く、ぼんやり眺めているだけでは、はっきりした区別がつかない。
もともと人間が勝手に付けた名前で勝手に呼んでいるだけなのでどちらでもいいようにも思うが、そう言ってしまってはいろいろと不都合もある。

ツバキは花弁がつながっているため、コロンと花が落ちて、サザンカは花びらがバラバラに散っていくというのは有名だが、残念ながら落ちるまではわからない。そのうえ、「散りツバキ」はコロンと落ちたり、花ビラがバラバラに落ちることもあるそうだ。
花の咲く時期はサザンカの方が早いようで、秋から12月頃にかけてつぼみが次々と開いていき、ツバキは冬から春にかけて花を咲かせる。しかし、それとて重なって咲く時期があるため、区別するには心もとなく、他に、夏に咲く「ナツツバキ」、真冬の「寒ツバキ」、冬から春にかけて咲く「ハルサザンカ」などもある。
サザンカもツバキも同じツバキ科ツバキ属で、「実」からは良質の油が採れる。
調べてみると、ツバキは、雄しべが太い筆先のようにまとまって筒状になっているが、サザンカは先の方がバラバラに分かれているらしい。といっても、花びらに隠れて見えにくい種類もある。
もともとは香りのないのがツバキ。それに対して、サザンカには香りがあるものが多いが、「匂いツバキ」という良い匂いのするツバキもあるらしい。
そこで、近くの花屋さんで聞くと、ツバキの葉は肉厚で縁がギザギザしているのに対して、サザンカの葉はギザギザがないというのが、とりあえずのところ簡単に見分ける基準なのだそうだ。

中国ではツバキのことを「山茶」、サザンカのことは「茶梅」と書く。
日本名のサザンカは、その読み「山茶花(サンサカ)」が変化したものだが、なぜか花を取り違えて名付けてしまったようだ。最初から間違えたくらいだから、区別がつきにくいのは仕方ないのかもしれない。
2007.12.19

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★1月1日は「元日」。
今さら説明するまでもない「日本国民の祝日」。
1948年7月20日に「国民の祝日に関する法律(祝日法)」が公布されて、1949年1月1日から祝日として実施される。
「第二条「国民の祝日」を次のように定める。 
    元日 一月一日 年のはじめを祝う。(後略)」


「元」という漢字には一番初めという意味がある。「元三(がんざん・がんさん)」は、年・月・日の三つの初めという意味で、「元日あるいは、三が日のこと」を指す。

もともとは、年の初めに宮中で行なわれていた、豊作や無病息災を祈願する行事「四方拝」が、後に皇室行事の一つ「四方節」になり、1948年の祝日法の制定により、すべての人が去年が無事終わり新しい年を迎えたことを喜び祝う日として、1月1日からの数日間を含めて「正月」(1月の別名でもある)と呼ぶようになった。
江戸時代には、領主ごとに休みを決めていたそうだが、この頃に、1月1日〜3日までの「三が日」を正月休みとする風習ができたようだ。
ちなみに「元日草(がんじつそう)」は「福寿草」の異名で、こちらの元日は旧暦の元日(2月)のことで、その時期に雪を割って咲く「新春を祝う」花である。

ストレリチア(極楽鳥花)

「猫派? 犬派?」
何気ない会話で出される質問。
「それぞれにかわいいので決められない」という答えでは、なぜか、犬派、猫派、どちらにも納得してもらえない。

他にも、「そんなこと」に黒白つけなくても、と思うときがある。自分がこだわっていないことには余裕を持って考えられるからである。
そんな自分の中にも、ほんの些細なことに「そんなこと」と軽くあしらえないものがあることに気づく。
おうおうにして、人は、自分と違う「こだわり」を持つ人のことを、わずらわしく思いがちで、自分の「こだわり」に同調してくれない人を「センスが悪い」として、自分を正当化しようとする。
しかし、たぶん、どう考えても「こだわり」は、「思いこみ」なのである。
そして、「こだわり」をたくさん持ちすぎるのは「窮屈」だが、少なすぎるのは「魅力がない」ように感じるのである。
2007.9.2

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★9月29日は「招き猫の日」。
「来(9)る福(29)」で招き猫の日。
右手を上げているのが「金、あるいは福を招き」、左手を上げているのが「人(客)を招く」とされている。
基本は耳より下で手をあげているものだが、手の位置が高いものは「遠くの福を招く」ともいわれている。
ちなみに右手を上げているのがオスで、左手を上げているのがメスともいわれており、オスの三毛猫が遺伝子学上、少ないことから、三毛猫の招き猫はオスだともいわれている。
猫の色によっても、白い(あるいは三毛猫)ものは「運、あるいは福を招き」、黒いものは「厄よけ」、金色は「金運」、他に、赤色は「疾病よけ」、ピンク色は「恋愛運」などといわれている。しかし、いわれは様々あるので一概にはいえないようだ。

招き猫がつくられる元になった話をいくつか紹介すると、
■太田道灌が追っ手から逃げている時に、黒猫が自性院(東京都新宿区)に導き、その後、勝利を手にした道灌は猫の死後、自性院で盛大に供養したという話。
■貧しい暮らしの中で猫にエサを与えてかわいがっていた和尚は猫に「何かよいことを招いておくれ」と語りかけていた。ある時、立派な武将が「門前にいた猫が手招きしていた」といって訪ねてきた。その相手は彦根藩主の井伊直孝で、その後、寺(東京都世田谷の豪徳寺)は井伊家の菩提寺となって栄えたという話。
あるいは、井伊直孝が豪徳寺の木の下で雨宿りをしていた時に、猫に招かれて近寄ったところ、木に雷が落ちて、すんでのところで助かったという話もある。
■江戸の花魁「薄雲太夫」は、三毛猫を大変かわいがっていた。その猫が、薄雲太夫を蛇から守って死んでしまったために、西方寺(東京都豊島区)に猫塚をつくり供養した。ひいきの豪商は、伽羅の銘木で猫を彫らせて太夫に贈ったが、それを真似て売られるようになったという話。

他にもいろいろあるそうだ。

招き猫はアメリカでも人気があるらしく、小判の代わりにドル硬貨を持っていることからdollar cat(あるいはwelcome cat)と呼ばれている。他に違うところは、日本とアメリカでは招く時に手の向きが逆になるため、アメリカの招き猫は手の平が上を向いているらしい。

おにゆり(神代寺植物公園・東京都調布市)

「人間は行きたいほうへ行くがよい。人間はしたいことをするがよい。
しかし人間は、自然がえがいている道へ、必ずまた戻ってくるに違いない。」
ゲーテの『詩と真実』(1811〜1831年)自伝より。

 最後まで読んで、「なんだ」と思いながらも、それでも自分の選択した道を進むことに意味があるのだ、と思った。
2007.7.5

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★毎月25日は「歯茎の日」(佐藤製薬株式会社が制定)。
歯茎という言葉を使うたびに思う。もう少しかわいらしい呼び方はないものかと。
毎月25日は歯茎の日なのだそうだ。
歯茎の日について調べている時に、「ゲーテの穴」という文字が目についた。
「ゲーテの穴」とは、上前歯(第一切歯)の裏中央(歯茎の骨のあたり)に小さな窪み[切歯窩(せっしか)]があり、その奥に開いている、鼻孔とつながる切歯管の開口部--マッチ棒の頭くらいの穴[切歯孔(せっしこう)]--のことらしく、もちろん、外からは見ることも触ることもできない。
ちなみに「切歯(せっし)」は、人間では、前歯2本とその両隣の歯2本、上下8本のことを指し、「切歯扼腕(せっしやくわん)」の「切歯」は、歯をくいしばること。余談だが、日本語を発声する時には、切歯孔あたりを意識して声を出すと良い声が出るそうだ。
こんなところに「ゲーテ」の名前がついているのは、まさしく、ゲーテ[Johann Wolfgang von Goethe ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ]の発見によるものだから。
ゲーテは詩人、小説家、劇作家としてだけでなく、地質学、植物学、気象学、色彩学、人体解剖学などにも精通し、功績を残し、他にも政治家、弁護士などと幅広く活躍していた。
1749年8月28日にドイツのフランクフルトに生まれ、最初に詩を書いたのは8歳の時だそうだ。
1931年に日本ゲーテ協会が創設された。京阪神支部では、ゲーテの誕生日に「ゲーテ生誕の夕べ」が毎年開催されている。
東京(北区西ヶ原)には「東京ゲーテ記念館」がある。

ちなみに8月の25日は「サマークリスマスの日」と「チキンラーメン誕生の日・即席ラーメン記念日・ラーメン記念日」などの記念日になっている。
「サマークリスマス」の日は、ラジオ番組でパーソナリティー(TBSのアナウンサー林美雄さん)が「夏にもクリスマスのようなイベントをつくろう」という提案で自分の誕生日を「サマークリスマス」の日としたもの。
「チキンラーメン」はご存じ、1958年に日本で量産の「即席ラーメン」の第一号として販売されたもので、発売元の日清食品株式会社が制定した。

チューリップ

今年1月に、暗黒物質(Dark matter)の分布を示す宇宙地図が発表されて注目を浴びた。
銀河の大半を占める暗黒物質は、銀河を包み込むように存在しており、質量はあるが、目で見ることはできず、現在の光学技術では証明が難しいもの。しかし、それがなくては、ビッグバン以降、暗黒物質にひきつけられるように惑星がつくられ、今のような宇宙が形成されていないことはわかっており、存在は明らかとされているものである。
暗黒物質が何であるかは研究過程だが、いまあるエネルギーをはるかに越える負のエネルギー(dark energy)を持っていることがわかっている。
アインシュタインは、自身の一般相対性理論を元に考えると「宇宙は自らの重力によって収縮してしまう」ため、重力に反発する力「宇宙項」があるという仮説を立てた。後に、これを「人生最大の過ち」と訂正したそうだが、そうともいえなかったようだ。
2007.5.14

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6月1日は「麦茶の日」(1986年、全国麦茶工業協同組合)。
平安時代の貴族に飲用されていた「麦湯」は、江戸時代末期には「麦湯店」という喫茶店のようなものができるほど庶民にも親しまれていた。
昭和30年代に冷蔵庫が普及した頃から、冷やして飲む習慣とともに商品名の「麦茶」で呼ばれるようになり、麦茶は、新麦(大麦)の香りを楽しむ夏の飲み物となる。
大麦の収穫される初夏のことを「麦秋」(「ばくしゅう」あるいは「あきむぎ」)という。
麦茶の独特な香りは、大麦の種子を焙煎する際に発生する「ピラジン」という成分で、血液の流れを良くする効果があるといわれている。他にも、胃粘膜を保護するはたらき、抗酸化作用、GABA(ギャバ)による血圧降下作用があるとされ、食物繊維が豊富で、カフェインやタンニンは含んでいない。
でがらしは、植木の肥料にも使えるらしい。
東日本では主に六条大麦が使用されているそうだが、上から見ると、穂の各節に穂が実って六条に見えるところから、その名がある。

遅咲きのシンビジウム
[cymbidium artist 佐々木正芳氏]

摂氏度を使う日本人には、イメージがつかみにくい「華氏度」。クリスチャン・ディオールの香水Fahrenheit(ファーレンハイト)なら、わかるのだが。
「華氏451度 (Fahrenheit 451)」は、アメリカの作家・詩人、レイ・ブラッドベリ氏(Raymond Douglas Bradbury)の有名な小説(1953年)。小説の中で描かれる未来世界での焚書の燃焼点のこと。華氏451度は、摂氏でいえば233度になる。1966年にフランソワ・トリュフォー監督により映画化される。
「華氏911(Fahrenheit 9/11)」はまだ記憶に新しい、2004年に発表されたマイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画。タイトルは、レイ・ブラッドベリ氏の小説のタイトルと2001年9月11日の事件をかけたもの。
このタイトルや内容について、レイ・ブラッドベリ氏は意に沿わなかったらしい。両者の体温はやや違っていたようだ。
2007.4.29

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5月14日は「温度計の日」。
1686年5月14日は、ドイツの物理学者 ガブリエル・ダニエル・ファーレンハイト氏(Gabriel Daniel Fahrenheit)の誕生日。
ファーレンハイト氏は、1714年に正確な温度を測ることができる水銀温度計を発明し、その後、1720年代に華氏温度計の目盛り(°F)を使って測る華氏度(ファーレンハイト度)を発表する。現在もアメリカなどで使われている。
華氏というのは中国の音訳で、ファーレンハイトに「華倫海(特)」という字を当てたことから「華氏」「カ氏」とされる。
日本では摂氏温度(℃)を使っているのでわかりにくいが、計算式は、摂氏温度=5÷9×(華氏温度-32)。
ちなみに摂氏度はセルシウス温度のことで、1742年、スウェーデンの物理学者・天文学者アンデルス・セルシウス氏(Anders Celsius、中国語で「摂爾修」)が考案したもの。
現在では、1気圧で水が凍る温度を摂氏0℃、水の沸騰点を摂氏100℃とする。華氏でいうと、1気圧で、水が凍る温度は華氏32℃、沸騰点は華氏212℃になる。ちなみに華氏では98.6℃は人間の平熱で、華氏100度(摂氏37.8℃)を越えると治療が必要な体温とされている。
余談だが、セルシウス氏の様々な功績を称えて、
月のクレーターに「セルシウス(Celsius)」がある。

吉野梅郷「青梅市梅の公園」(東京都青梅市)

「敵に塩を送る」ということわざは、内陸にある甲斐の武田信玄が、駿河の今川氏真に塩を止められて困っていた時に、上杉謙信が敵対していたにも関わらず、塩を供給する手段を止めなかったことから生まれた。
海に周りを囲まれた日本には、岩塩こそなかったが、海水から塩をつくっていた。
奈良時代には西日本の「十州塩」と呼ばれた十カ国や伊勢など海岸の地域から税として、塩を運ぶ道もできた。新潟県糸魚川から長野県松本までの約120kmの「千石街道」は有名。
内陸に30くらいある「塩」のつく地名は取り引き場所となっていたところも多いそうだ。

2007.3.19

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4月5日は「横町の日」。
全国には、いろいろな横町がある。川越街道の宿場町で、「小江戸」と呼ばれた川越(埼玉県)にも「川越菓子屋横町」というお菓子屋さんの並ぶ横町がある。
江戸時代に養寿院の門前町として栄え、昭和初期には70店舗もあったといわれる横町には、今も駄菓子屋さん、飴屋さん、団子屋さん、焼き芋屋さん、おせんべい屋さんなどが並んでいる。
おせんべいといえば、埼玉には、有名な「草加煎餅」がある。草加は、宿場地「千住」から日光への通り道だったが、川や沼が多く不便だったため、1606年、埋め立てて道をつくり、その後、奥州日光街道の第2の宿場町として栄えていった。
草加煎餅の由来は、日光街道の草加松原の茶店で団子を売っていた「おせん」という娘が、売れ残った団子をつぶして乾かして焼いた「焼き餅」を売ったところ評判になり、舟で江戸へ運ばれて名物になったという説がある。
ちなみに、弘法大師が唐で習得した亀の子の形をしたせんべいの技術を山城国、小倉の和三郎さんに伝授したのが、日本のせんべいの始まりともいわれている。
金沢城の前田家12代当主が城を改築した時につくらせた「福徳せんべい」は、俵や手鞠、小槌などの形をしたせんべいを2つに分けると、中に小さなお人形や砂糖菓子など様々なものが入っている。現在でも、新年を祝うおめでたいお菓子とされているそうだ。

神代寺植物公園(東京都調布市)

Singularity(シンギュラリティ)とは、「特異点、特異性」、あるいは「特異日」のこと。特異日とは、毎年、特定の気象状態になる傾向が、その前後に比べて高い日のことである。気象学的な原因は不明だそうで、同じ日本の中でも、地域によって当てはまらない場合もある。
10月10日は、(特に東京の)「晴れ」の特異日として有名である。以前は「体育の日」といわれていたが、2000年からの「ハッピーマンデー制度」により、10月の第二月曜日に変わってしまった。
特異日の確率は100%ではないが、その年の10月10日が晴れて、第二月曜日の「体育の日」に雨が降ると、イベントが行なわれることも多いこの日を、なぜ変動制にしてしまったのかと思うことがある。10月10日に雨が降ると「そういうこともあるさ」とあきらめられるのだが。
気象庁の資料では、1966年からハッピーマンデー制度が開始されるまでの34年間で、10月10日に1mm以上の雨が降ったのは5回で、2000年以降、変動制「体育の日」は、雨の降る確率が高くなっているそうだ。
ちなみに、「体育の日」に制定されたのは、1964年のこの日、東京オリンピックの開会式が行なわれたことによる。夏季オリンピックの開会日としては遅いが、秋の長雨が終わる時期で、晴れることが多い、などの理由から10月10日が選ばれたそうである。
「晴れ」の特異日には、他に11月3日(文化の日)、1月6日、10月23日などがある。11月3日は1950〜1960年代には雨が降ることが多かったそうだが、それ以降は、晴れることがダントツに多い日となっている。
逆に「雨」の特異日は、6月28日、9月15日(北海道を除く)など。4月6日は、春になって、急に寒さが戻ってくる「寒の戻り」の特異日。「台風」の特異日には、9月17日と26日がある。9月26日は、洞爺丸台風(1954年)、狩野川台風(1958年)、伊勢湾台風(1959年)など、以前はその傾向が顕著だったが、1960年代以降は、傾向が弱まっているらしい。
他にも、いろいろな特異日があるそうだが、これからは、イベントを企画する時には、特異日チェックもすることにしよう。
ちなみに、来月の17日は、東京の「雪」の特異日だそうである。

2007.1.22

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2月17日は「天使の囁き(ささやき)の日」。
2月17日、東京は「雪の特異日」にあたる。
1978年のこの日、北海道の幌加内町母子里で、氷点下41.2℃という最低気温が記録された。ただし、気象庁の公式記録にはならなかったため、1902年(明治35年)、北海道旭川市で計測された氷点下41℃が、現在のところ、日本での最低気温となっている。
どちらにしても、書いているだけでも、カチンカチンに凍ってしまった気分になる。いったい、氷点下40℃とは、どんな感覚なのだろうか。
氷霧(ひょうむ、こおりぎり)とは、字の通り、空気中の水分(水蒸気)が凍ってできる、小さな氷の結晶のこと。通常は、氷点下30℃以下で発生し、太陽の光を浴びてキラキラ光るところから「ダイヤモンドダスト」とも呼ばれている。
幌加内町では、1987年から「天使の囁きを聴く集い」として、ダイヤモンドダストを楽しむ会を開催しているそうだ。そして、1994年、2月17日を「天使の囁きの日」と制定した。
シーラカンスのことを、コモロ語では、ゴンベッサ(Gombessa)と呼ぶ。元々の意味は、「大きくて価値のないもの」すなわち「捕っても実りのない魚」。シーラカンス学術調査隊(1972年)が食した時の感想では、「おいしい」とは言えないらしい。
しかし、約7000年前に途絶えたと思われていた古代魚(シーラカンス)が、ほとんど形態の変わっていないままで生息していたという大発見(1938年)により、いっきに価値のある魚となってしまった。「生きた化石」の代名詞にもなる。
その後、ゴンベッサという言葉は「幸運(を呼ぶ)」という意味に変わったそうだ。

2006.12.18

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12月20日は「シーラカンスの日」。
1938年。インド洋のカルムナ川河口付近でトロール漁をしていた漁船の船長は、釣り上げられた魚を見て、南アフリカのイーストロンドン博物館学芸員マージョリー・コートニー・ラティマー(Marjorie Courtenay-Latimer)女史に連絡した。以前から、見たことのない魚を見つけたら教えてほしいと頼まれていたからだ。
ラティマー女史は、剥製にし、知人の魚類学者J.L.B.スミス氏に簡単なスケッチを送るが、翌年2月に、その魚は、デボン紀に栄え、恐竜とともに白亜紀に絶滅したとされる「シーラカンス」だと言う報告がくる。
発見されたシーラカンスは、ラティマーの名と、川の名前に因んで、ラティメリア・カルムナエ(Latimeria Chalumnae)と命名された。ちなみにシーラカンスとはシーラカンス目の総称である。
12月の南半球は夏。発見されたシーラカンスの標本は腐敗してしまったために、詳細を調べることができなかったのだが、14年後の1952年、インド洋マダガスカル沖、コモロ諸島のひとつ、アンジュアン島(ヌズワニ島)で発見される。
魚類学者スミス氏は、南アフリカの首相に特別機を仕立ててもらい急いで現地へ飛ぶ。その際見つかった物には、第一背びれがなく、最初に発見されたものとは別種と思われたため、D.F.マラン(Malan)南アフリカ首相に敬意を表し、Malania anjounaeと名付けられた。その後、背びれは損傷したもので、先に見つかった物と同じ種であることがわかる。
青黒い灰色の鱗を持つ、このシーラカンスは、コモロ諸島周辺でその後、多く発見されたことから、最初の発見地にはなんらかの理由で迷い込んだものとされている。このことから、ラティメリア・カルムナエは、俗称でコモロ・シーラカンスと呼ばれる。コモロ・シーラカンスは、IUCN(国際自然保護連合)のレッドリストで、絶滅寸前種(絶滅のおそれが極めて高い物)に分類されている。
1972年には、日本でも、魚類学者、末広恭雄博士らが、『シーラカンス学術調査隊』を結成し、10年後の1982年に捕獲に成功。
そして、最初の発見から59年後の1997年。カリフォリニア大学バークレー校の海洋生物学者マーク・アードマン(Mark Erdman)氏は、インドネシアの北スラウェシで新婚旅行を楽しんでいた。立ち寄った魚市場で夫人が奇妙な魚を見つけて、夫に知らせ、写真に撮るが、当然、報告されているものと思い、現地で、「ラジャ・ラウト(Raja Laut・海の王様)」と呼ばれていることを聞き、帰国する。
帰国後、カリフォルニア大学で調べたところ、別種ではないかということがわかったため、さっそく現地に戻り、翌年1998年、スラウェシのメナド(menado)で、褐色を帯びた灰色の鱗を持つシーラカンスの捕獲に成功。ラティメリア・メナドエンシス(Latimeria menadoensis)[俗称でスラウェシ・シーラカンスあるいはインドネシア・シーラカンスと呼ばれる]と名付ける。
この種は、2006年5月30日に、スラウェシ島北部沿岸で泳いでいるところを、環境水族館「アクアマリンふくしま」(福島県いわき市)のシーラカンス調査隊が、日本では初の撮影に成功したそうだ。
シーラカンスの体長は1〜2mで、深度150〜700mあたりに棲息し、穴などを住処にしている。海底で時々、逆立ちをするそうだが、理由はわかっていない。
現在の魚と大きく違うところは、肋骨がなく、パイプ状の貧弱な背骨のみという構造。シーラカンスと言う名は、ここから付けられたそうで、ギリシア語で「中空の背骨」という意味を持つ。
また、特徴的な肉びれ(胸びれ、背びれ、腹びれ、尻びれ)は、付け根に発達した支柱のような骨と筋肉で動き、足に進化していく過程ではないかとも言われている。

コスモス  


コスモスの原産地はメキシコ。
名前は、ギリシャ語の「秩序、飾り、美しい」を意味するKosmos、 Cosmosに由来しているのは有名な話である。
ここから、星がきれいに揃っている宇宙を、英語で「コスモス」と呼ぶようになり、同じように、花びらがきれいに揃っているところから、花の名前になったそうだ。18世紀末にスペインの植物園で付けられたといわれている。
ちなみにコスモスの対義語は、混沌や混乱を表す「カオス」である。

日本には19世紀末(明治時代)に渡来した。イタリアの芸術家が持ち込んだともいわれている。
種類は多く、白や淡いピンクの花のイメージが強いが、赤や黄色、チョコレート色もある。
大正時代に渡来したチョコレートコスモスは、花がチョコレート色で、チョコレートの香りがするらしい。

日本に渡来した当時は、秋に、桜の花に似た花を咲かせるところから「秋桜(あきざくら」(和名)と呼ばれていた。「大春車菊(オオハルシャギク)」という別名もある。
花を見ると、秋を感じるが、早咲きのものは、夏の終わりから咲いている。

秋桜という名の俳号を持つ、水原秋桜子(しゅうおうし)がコスモスを詠んだ俳句を2つ。

「コスモスを離れし蝶に谿(たに)深し」
「コスモスに雨ありけらし朝日影」

秋桜子は俳人であり、家業の産婦人科をついで医学博士でもあった。

2006.10.29

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11月24日は「オペラ記念日」。
1894年(明治27年)、日本で初めてオペラが上演されました。
場所は、宮内省式部職付属音楽学校(東京芸術大学)奏音堂。演目は、グノー作曲の「ファウスト」第一幕。
千日紅  

神代寺植物公園(東京都調布市)

詐欺師が主人公になっている映画を、confidence game movie、略してコン・ムービーというそうだ。
コンフィデンスには、「信頼、自信、ずうずうしさ、秘密」などの意味があり、コンフィデンス・ゲーム(=trick)は、取り込み詐欺。confidence man(コンフィデンス・マン、あるいはコン・マン。trickster)は、詐欺師という意味である。
コン・ムービーの一つに、「マッチスティック・メン(matchstick men)」がある。
原作者エリック・ガルシアの「さらば、愛しき鉤爪」(酒井昭伸 訳・ヴィレッジ・ブックス)を、知り合いから勧められて買った時に、本棚の隣に「マッチスティック・メン」があった。そちらはまだ読んでいないが、私立探偵が活躍する「さらば、愛しき鉤爪」はおもしろかった。
マッチスティック・メンは、直訳すると「マッチ棒男」。詐欺師という意味のスラングだそうで、「頭がないと使い物にならない」というところから、そういわれるのだそうだ。
マッチ棒の立場になって考えると、ほめられているのか、けなされているのか・・・。

2006.8.21

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★千日紅は、別名を千日草ともいう。
ドライフラワーにしても、千日以上、紅の色が褪せないというのが名前の由来。ピンクや白い色の花もある。
中国では、簪(かんざし)に使われていた。中国工芸茶にも用いられる。
名前の似たものには、百日紅(サルスベリ)、百日草、日々草がある。

9月16日は「マッチの日」。
日本製のマッチは、1875年(明治8年)に清水誠氏が東京で、黄リンを使って製造したのが始まりといわれている。
1879年にはマッチ箱を擦って着ける「安全マッチ」がつくられ、その後、輸出されるようになり、1910年代にはアメリカ、スウェーデン、日本が世界三大生産国だったそうだ。
その後、物資の不足とともに、1940年、生活に欠かせなかったマッチも配給制になる。
1948年に自由販売が認められて、それを記念日とした

サンゴシトウ  

神代寺植物公園(東京都調布市)

漢名「龍牙花(りょうがか)」、または「美洲刺桐(びしゅうしとう)」。
刺桐とはデイゴのことで、茎や葉にトゲがある。19世紀にオーストラリアでつくられたそうだ。
和名は珊瑚刺桐、あるいは菱形の葉から、菱葉梯梧(ひしばでいご)とも呼ばれている。英名はcoral tree。
6〜8月頃に花を咲かせるが、よく似ているアメリカデイゴとの違いでもある花弁(旗弁)はずっと開かず、筒状のまま。

2006.8.2

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8月8日は「ひょうたんの日」。
「8」の字をひょうたんに見立てて、全日本愛瓢会が制定した。
ひょうたんといえば、豊臣秀吉。
蜂須賀小六らとともに稲葉城を攻め落とした木下藤吉郎(豊臣秀吉)は、山気を払うために腰にぶらさげていた、ひょうたんを竹の先に差し、高くかかげて、勝ちどきの声をあげる。織田信長より功績として、ひょうたんを馬印とすることを許された秀吉は、その後、1勝するごとに、ひょうたんを1つずつ加えていったそうだ。「以て千と成さん」ということから、千成瓢箪(せんなりひょうたん)といわれる。
ひょうたんは、ウリ科のユウガオの一種。ひょうたんの大きさにより、名前が付いているそうだが、10cm前後のものを「千成(小瓢)」というのに、なぜか「百成」の方が大きく、13〜20cmのものを指すそうだ。
古来より、世界各国で、容器や楽器、装飾品、喫煙具、農具などに使われ、作物の種を入れると必ず芽が出るといわれていた。
孫悟空(そんごくう)が、「西遊記」の中で名前を呼ばれて吸い込まれてしまうのも「ひょうたん」だったが、一度入ると外に出にくいという、その形状から、吸い込んだ邪気を外へ出さないとされて、玄関などに魔よけとして吊される。また、通り過ぎようとする財運を取り込むという意味で「商売繁盛」のお守りとして、入り口に吊されることも。
3つ揃えて「三拍(瓢)子」で縁起が良い、6つで「無病(六瓢)息災」とされ、除災招福のお守りや魔よけにもなっている。
日本では、夏に、日よけにするために棚をつくっていたそうだが、果実(ひょうたん)が鈴なりになっている様子から、「家運興隆・子孫繁栄」のシンボルともされている。
★他にも、8月8日を記念日としているのは、「タコの日」、そろばんをはじくパチパチという音から「そろばんの日」、「八」の字をヒゲに見立てて「ヒゲの日」、笑い声の「ハハハ」から「笑いの日」、「はは」「パパ」そして「はちはち」を並び替えると「はは」と「ちち」になるところから「親孝行の日」などがある。

ゆり  

神代寺植物公園(東京都調布市)

ユリ根、ニンニク、タマネギ、エシャレット、ラッキョウ、アスパラガス、ネギ、ワケギ、アサツキ、ニラ、カタクリ。
これらは、すべてユリ科の植物である。
ユリ科というイメージからは、かけ離れているように思うものもあるが、野菜の花には、きれいなものも多い。ニンニク、ラッキョウ、ニラの花などは活けてあっても園芸種だと思うだろう。
ユリ根には、滋養強壮、精神安定、咳やタンを鎮めるなどの効果があるといわれ、あの時代に88歳まで生きた禅僧、一休さんの大好物だったという話もある。
漢方薬では、百合と書いて、そのまま「ひゃくごう」と読む。中国名の「百合」という字は、鱗茎(ユリ根)が100枚くらい合わさってできているところから名付けられたとする説が最も有名である。
古く日本では、由利・由里・由流・由理(ゆり)、佐由里・佐由流(さゆり)という表記もあり、花が大きいので風が吹くと「揺り」動くところから、「ゆり」と呼ばれたと言われている。日本固有の種のヤマユリやササユリなどは、「万葉集」などにも詠まれている。

2006.7.7

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★1991年、全国木製はきもの業組合連合会は、7月22日を「下駄の日」と制定した。
昔の下駄は、男物が7寸7分(23cm)、女物が7寸2分と決まっていたところから、また「二」という漢数字を、下駄の二枚の「歯」の形になぞらえて。
伊豆長岡観光協会では、11月11日を「下駄の日」としている。下駄の足跡が「11 11」に見えるところからだそうだ。
ひとくちに下駄といっても、昔は、日和下駄、足駄、駒下駄、桐下駄、吉原下駄、馬下駄、小田原下駄、助六下駄、利休下駄など、いろいろな種類があった。90年代後半には、洋服にも似合うハイヒール下駄も登場した。
広島県福山市(松永)は、下駄の生産量が国内の6割以上だそうである。福山市の「日本下駄飛ばし協会」(広島県はきもの協同組合 http://www.e-hakimono.com/getatobashi.htm)では、ルールに則った大会を様々行なっているらしい。
そして、下駄といえば、やはり(?)「ゲゲゲの鬼太郎」(水木しげる氏原作)。テレビアニメで1968年に第一作目が放映され、アニメ映画やゲームなどにもなっている。
近いうちに、また、実写版を映画館で見ることができるようだ。
はまなす  

神代寺植物公園(東京都調布市)

はまなすの花は、一つの花が散る頃、次のつぼみが花を咲かせるそうである。種を守るための本能なのだという。
初夏から夏にかけて開花し、花の後、橙色の実を付ける。海岸などの砂地に群生し、甘酸っぱい実が梨のようであることから「浜梨」と名付けられるが、東北の人が「はまなす」と発音したところから、はまなすと呼ばれるようになったというのが定説である。
バラ科で、枝などには細かいトゲがあり、「浜薔薇(はまなす)」や、「浜茄子(はまなす)」という字も使われる。

潮かをる 北の浜辺の 砂山の かの浜薔薇よ 今年も咲けるや(石川啄木)」
石川啄木は、故郷の岩手県渋民村から、1907年、函館に渡り、新聞社などに勤めて約4カ月を過ごすが、大火で市内の大半が焼けてしまい、その後、漂白の日々を続け、1912年に東京で26年の生涯を閉じる。
歌は、函館にいた頃に、よく散策した立待岬(函館市)の近くにある大森浜を詠んだそうだ。

2006.6.9


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7月4日は「梨の日」。
日本書紀には栽培技術が書かれているらしく、「日本梨」は数少ない日本産の果物であるといわれている。他に西洋梨、中国梨などがある。
中国の北部、乾燥や砂塵が多い地方では、気管支炎などの炎症を予防するために食され、漢方の古書にも登場する。
梨と蓮根を同量ずつジューサーにかけたものを「蓮梨汁(れんかじゅ)」といい、中国の薬膳に使われるそうだ。
あじさい  

神代寺植物公園(東京都調布市)

「また、あじさいの季節がくる」
毎年ゴールデンウィークを過ぎたこの頃になると、ふと心をよぎる思いである。
ようやく爽やかな風を感じる季節がきて楽しんでいるというのに、早々と、長雨が続く梅雨の季節を思い出すのは、農耕民族の遺伝子なのだろうか・・・。だが、あじさいは雨によく似合う。道端のあじさいに見とれて、思わず立ち止まってしまうこともある。
ドイツ人医師のシーボルトが愛人の「お滝」さんの名を、あじさいの学名にしたのは有名な話だが、「紫陽花」という字は、白居易(唐の詩人)が「白氏文集」の詞書に、寺で見かけた紫色のまるで仙界に咲くような香しい花の名を誰も知らなかったところから「紫陽花」と付けた、とあるのを源順(みなもとのしたごう)が、あじさいの花だと思ってしまったものらしい。平安時代中期に「和名類聚抄(わみょうるいじょうしょう)」という辞書を編纂した源順は、その中で、白居易の律詩に出てくる紫陽花に、和訓で「和名 安豆佐為(あつさい)」と付けたのだ。「白氏文集」は平安時代の教養書のひとつであり、当時から「長恨歌」や「琵琶行」が好まれていた。
江戸時代以降には、白居易が「紫陽花」といった花は違う花だとわかってきたが、字があまりにも、あじさいを言い表していたので、そのまま定着してしまったようだ。確かにあじさいにピッタリだが、いったい、白居易の見た「紫陽花」とはどんな花だったのだろうか。
日本が原産地で、とても身近にあったあじさい。花が枯れるまで茎に留まるのを長寿の象徴と捉えられたが、逆に、色が変化する様や実を付けないことから、「心変わり」や「不実」につながるイメージもあり、歌に詠まれることもそれほど多くはなかったらしい。
しかし、今日、とてもきれいな歌を見つけた。
あじさいには夜の花というイメージはないが、「四片」(よひら。あじさいの原種ガクアジサイを指す)が「夜」に結びつけられていた頃の歌で、「紫陽花」の持つ夢幻性が目に浮かぶようだ。
あぢさゐの下葉にすだく蛍をば四ひらの数の添ふかとぞ見る (藤原定家・『拾遺愚草(しゅういぐそう) 』)
日も暮れた頃、あじさいの下葉に集まってきた螢が光って、ガクアジサイの4片の花びらが増えたように見える、という意味らしい。
今年のあじさいの季節は、その次にくる夏の訪れを早く感じられそうだ。

2006.5.12

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★あじさいといえば梅雨時の6月頃の花というイメージが強いが、六甲山では、7月頃がピークで、信州では9月初旬頃にも見られるそうだ。
花びらだと思われている部分は、実はガク(装飾花)で、本来の花は中心部分。よく見る球状のセイヨウアジサイの花びらに見えるところも装飾花である。
「藍色が集まったもの」を意味する「集真藍(あづさい)」があじさいの名前の由来といわれている。

6月1日は「写真の日」。社団法人日本写真協会が1951年に制定した。
1902年「東京日の出新聞」の連載「写真の起源」と、1907年の『寺島宗則自伝』により、1841年6月1日に薩摩藩主、島津斉彬を写したのが日本初の写真とされたことによるが、後に、それ以前にも写真撮影が行なわれていたことがわかった。
撮影に初めて成功したのは、1857年、島津斉彬を写した銀板写真だそうで、現在は鹿児島の尚古集成館に保存され、1999年に文化庁から重要文化財の指定を受けている。
カタクリ 

三峯山(埼玉県秩父市)

庭に1つ咲いた白い花の、10万本に1本といわれるその種から咲いた白い花と、本来の紫の花が入り交じって群生するカタクリの珍しい映像を、テレビのニュースで見た。
カタクリは、発芽後、葉が2枚になると花が咲き、それまでに7、8年かかる。
「春の女王」とも呼ばれるカタクリは、4〜5月に花を咲かせ、晴れた日や温かい日に開花するらしい。
地表から15cmほどの茎に、下を向いた淡い紫紅色の6枚の花弁の、先だけ反り返っている様はとてもかわいらしい。
名前から想像される通り、古来より食用や薬として用いられており、地下の鱗茎から取ったデンプンが本来の「カタクリ粉」。しかし鱗茎はとても小さく、現在でも菓子や調理に使われてはいるが、ほとんどはジャガイモのデンプンが「カタクリ粉」として使われている。

物部(もののふ)の八十をとめ(やそおとめ)らが汲みまがふ
寺井のうへの堅香子(カタカゴ)の花


これは堅香子(カタクリ)を歌ったものとして有名な、万葉集(巻十九 4143)の編者とされている大伴家持の歌。(1)「物部」は、多いという意味の「八十」の枕詞。(2)寺井は井戸のこと。
きっと大伴家持の目には、カタクリの花のように、恥じらいがあって可憐な乙女たちが見えていたのだろう。

2006.4.2

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★カタクリは、北海道や本州の北中部の山野などに自生するユリ科カタクリ属の多年草植物。学名はErythronium japonicum。英名はDog tooth violet。花言葉は「初恋」。
古名は、傾いた籠状の花というところからカタカゴ(堅香子)→カタコ→カタコユリ→カタクリに変化したのではないかと言われている。また、 育ってしばらくは片葉(一枚葉)で、葉に鹿子模様の斑点があることから、「片葉鹿子(かたはかのこ)」が転じたとも言われる。
漢字の「片栗」は、栗の子葉の一片に似ているところから。

4月2日は「図書館開設記念日」。
1872年(明治5年)、東京・湯島に日本で初めての近代図書館である官立公共図書館「書籍館(しょじゃくかん)」が設立されました。その後、議会図書館と合併。それが現在の国立国会図書館です。

 

神代寺植物公園(東京都調布市)

梅の見頃もそろそろ終わり。桜の季節がもう、すぐそこまで来ました。
写真は、以前撮影した、神代寺植物公園(東京都調布市)の桜です。
隣接する深大寺は、浅草の浅草寺に次ぐ古刹で、玄奘三蔵が天竺に行く時に守護したといわれる水神「深沙大王」が名前の由来だそうです。
見事な山門を、詩人・正岡子規が「山門に 雲をふき込む 若葉かな」と詠んでいます。
毎年3月3〜4日に開催される、厄除元三大師大祭「だるま市」が有名。
日が出る方向、物事の始まりを表す方向のだるまの左目に、梵字(サンスクリット語)で「あ」と書き、願いが成就したら、右目に梵字で「うん」と書いて納めるのだそうです。
左右の目で「阿吽(あうん)」となるのですね。

2006.3.21

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★今日は「春分の日」。
3/15には高知県で全国初の開花宣言があり、そして今日、東京都心でも桜の開花宣言がありました。昨年より10日ほど早い開花だそうです。
日本時間の21日、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の決勝戦が、サンディエゴ(ペトコ・パーク)で行なわれました。
アマチュア最強のキューバ代表に、王JAPANは10-6で優勝。WBC初代王者になりました。
★写真は、以前撮ったものもあり、現在はその場所にない場合もあります。
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