10円まんじゅう

2009.9.19

 駅の構内に、いろいろな商品を売りに来る。
 ある朝、「10円まんじゅう」という幟が立っていた。
 台の上に並ぶ商品を見る限り、普通のおまんじゅうに見える。パッケージに10個くらい入っている。あれが1個10円なのだろうか。
 そう思いながら、通り過ぎて改札へ向かった。
 次の日、一気に客が増えていた。3日後には、驚いたことに、「10円まんじゅう」を買うために並んでいる。ほとんどが女性。

 ホームで電車を待っていると、階段の方から甲高い男の子の声が聞こえてきた。
「そのおまんじゅうは、1個10円じゃないよ」
 どうやら、さきほどの10円まんじゅうをお母さんが買ったようだ。「10円じゃない」とはどういう意味なのだろうか。
 近寄ってくる親子の方を見ると、母親は、男の子の指摘に少し困ったような、そんな指摘を受けるとは思っても見なかったというような表情をしている。
 つまり、正確には1個10円ではなく、「10円(代)のまんじゅう」というものだったのか。あるいは消費税が別だったのかもしれない。
 しかし、苦笑しながら「いいのよ」と男の子に言ったお母さんの言葉からは答えがわからなかった。
 次の日、駅には違う商品が並んでいた。昨日が最終日だったようだ。どおりで、人も多かった。単価がいくらだったのかはわからなくなってしまった。
 しかし、日を追うにつれて、群がるように買っていっていたのだから、おそらく価格は問題ではない。それが10円50銭だろうが、あるいは12円だろうが、20円を越えなければ。大人にとっては。
 しかし、割り算、あるいはかけ算を覚えたての子供にとっては、1個10円でない、ということは問題だったのだ。

 似たようなことは、大人同士でもある。
 往々にして、こだわりを持つほうが、「大人げない」「些末な事にこだわりすぎ」という評価を受けてしまう。
 取引価格などを決定するのでもない限り、目的がぶれない限りは、多少の解釈の幅は許容するのが「大人」なのである。
 おもしろいのは、「大人げない」と言っている本人が、別の状況では「大人げなく」なるということだ。「こだわり」は、個人によって、立場によって違うのだ。
 そんなことは、いまさら至極当然の話で、現に、仕事の場では、いちいち取りあげていたら、決めなければならないことも決まらない。ほとんどは、多数意見、あるいは「声の大きい」人の意見に決定する。
 通常は、多数意見のほうが無難だが、ときに、少数意見の「こだわり」が受け入れられる場合がある。
 世に出てきたときに、よくそんなところにこだわって商品化できたと思う商品がある。
 最初から売れない商品をつくる企業は、ほとんどないので、売れるだろう、売れるかもしれない、と思いながらつくっている。「こだわり」は、その逆、あるいは、利益を度外視したものだったりする。そこが受け入れられる場合もある。もちろん、まったく受け入れられないことも多い。タイミング(時代)も肝心である。
 気がつかずに、あるいは気がついていても慣習で無視してしまうことを見逃さないことも、ときには必要なのかもしれない。

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