韮山の「竹」と「江川太郎左衛門」と「パンの日」

2006.4.12

 韮山町韮山の江川邸(重要文化財)中庭には、有名な韮山竹の道がある。千利休がこの韮山竹でつくった竹花入(たけはないれ)が、竹を茶の道具の域にまで高めたとされている。花入は、茶席で茶花を入れる花器のこと。
「此の筒(園城寺)、韮山竹、小田原帰陣の時の、千の少庵へ土産也。筒の裏に、園城寺少庵と書き付け有り。名判無し。又、此の同じ竹にて、先ず尺八を剪り、太閤へ献ず。其の次、音曲。巳上三本、何れも竹筒の名物なり」(茶話指月集)
 1590年(天正18年)の小田原攻めに、豊臣秀吉に同道した千利休は、韮山竹で二重切「よなか」、寸切「尺八」、そして竹一重切花入 「園城寺(現・東京国立博物館蔵)」をつくった。園城寺という銘は、息子の千少庵が、表面の干割れを園城寺(三井寺)の破れ鐘にちなんで名付けたと言われている。
 江川邸は、代々、韮山代官を務めた江川家の屋敷で、なかでも大砲を鋳造するための反射炉を建てた36代目、江川太郎左衛門英龍が有名である。(太郎左衛門は代々、伊豆韮山代官襲名により引き継がれる。諱は英龍、号は坦庵)
 江川太郎左衛門英龍は軍学者で、反射炉の他にも、師、高島秋帆から砲術を学び、韮山塾を開いて砲術指導をしたり、新型の雷管銃の国産化、日本初の洋式帆船の建造、品川台場の建造、雨に濡れても平気な韮山笠など軍装の改良も行なう。
 江川太郎左衛門英龍はパン祖としても有名である。
 パンの原型は、今から6000年ほど前にメソポタミアで小麦粉を水でこねて焼いてつくったものとされており、その後、エジプトで偶然に発酵したパンがつくられ、ギリシャに伝わって量産されるようになったと言われている。
 日本へはキリスト教とともに伝わったとされているが、日本人として初めてパンをつくったのが江川太郎左衛門英龍なのである。
 1840年、アヘン戦争が始まり、徳川幕府は日本へ外国軍が攻めてくることを想定して、パンづくりを命じた。当時、携行する兵糧には、炊いた米を乾燥させた糒(ほしいい)を水で戻して使っていたが、消化が悪かったため、江川太郎左衛門英龍は、代わるものとして文献をあたり、長崎のオランダ屋敷で製パン技術を学んだ作太郎を呼び、1842年4月12日に、パン焼き窯で日本初のパン第一号が焼き上げられたのである。
 米を炊くと湯気や煙が上がるため、居場所を知られる恐れもあるが、パンならその心配もない。この軍用パンは、味はなかったが、歯ごたえがあり、水分が少なく、保存がきく点で携行食糧には最適だったそうだ。
 1983年、パン食普及協議会が、この日を記念して、4月12日を「パンの日」と制定した。

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