酔っぱらいと携帯電話

2006.4.10

 駅のホームに溢れかえった人の多さに、うんざりしながらも適当な列を選んで最後尾に並んだ。
 最終に近い時間帯で、電車が来るまでにまだ数分ある。
 前の方をぼんやり眺めるともなく眺めていると、ふと、左の目の端にちらちら動く物体が映った。
 その方向を見ていると、隣の列の一番前、私の位置からは3mくらいあるだろうか、そのあたりに、時折、姿を見せる男の人がいる。自ら動いているわけではなく、どうやら、酔って足下が定まっていないらしく、最前列を左右に動いている、というより、よろめいているのだ。線路のすぐ側でふらふらするのは危ないなと思いながらも、見えたり隠れたりするのを眺めていたが、ふと視線を自分の足下にふった瞬間、ザワっと空気が動いた。
 先ほどまで、友達と話したり、携帯でメールを打ったり、残業帰りでボンヤリ立っている人などが、それなりに行儀良くまとまっていた列が明らかに乱れている。視線の方向は、隣の列の前方。
 嫌な予感がすると同時に、わずかな隙間から、人の頭らしきものが低い位置に見えた。肩から上だけがホームの端から見えている。どうやら、さっきの男の人が線路に落ちてしまったらしい。
 大変だ。電車が来るまでにはまだ少し時間があるとはいえ、酔っぱらっていることだし、下に足場のようなものはあるのだろうか。幸い、立ち上がれないほどの怪我はないようで、なんとか上へ上がろうとしている。それにしても、線路からホームまでの高さは1mは遙かに超えていると思う。
 緊張のため、頭の中は空転している。その間に、腕の付け根あたりまでしか見えていなかった男の人の上半身が少しずつ上がってきた。そして、ホームの上に戻ってきた。
 緊張感がとけると同時に、今度は、わずか1、2分の間に起こったことがフラッシュバックする。
 人の間を通してなので、ほとんど細切れのカットのようにしか見えなかったのだが、最後にしっかり見えたのは、20歳くらいの男の子が、腹ばいの状態の男の人の手を引っ張り、その足先がホームの端へきっちり収まった時点で手を離し、何事もなかったように携帯電話で話を続けていた姿。
 どうやらその男の子が、男の人をホームへ戻してくれたらしい。しかも、手で持った携帯電話を耳に当てて、話をしていたかどうかは別として、片手だけで男の人を引き上げたのだ。ホームの上をマグロのように引き上げられた男の人は、太っているようでも、背丈が並はずれて大きいという感じでもなかった。それでも男一人を引き上げるとなると、かなりの力がいるだろう。男の子も、どちらかといえば華奢な感じだった。
 自力で上がりかけた男の人に手を貸しただけなのだろうか。誰か他の人も手を貸したのかもしれない。しかし、最後にホームを引きずられていた男の人の状態を見る限り、男の子一人が引き上げたとしか思えない。
 ほとんどの人は、突然のことに行動を起こせなかったようだ。普通の状態にあれば動いて身をかわすことができそうなことも、緊張が伴うことで、身をかわすどころか、まったく動けない状態になるところを以前、テレビ番組の実験で見たことがある。
 もちろん、その男の子も緊張を感じていたとは思う。しかし、その緊張感を、一流のスポーツ選手のように、結果へ変えることができたのだ。その男の子の行動に拍手を送りたい。誰も危険な目に遭わせることもなく、その咄嗟の行動が、みんなをも助けてくれた。
 しかし、結果が良ければ、本来関係のないところに、関心が向くものである。なぜ、携帯電話を耳に当てていたのか? という疑問だ。携帯電話を切りたくない特別な事情があったのか、それとも「今、男の人が線路に落ちちゃってさぁ・・・」なんて話をしていたのだろうか。しかし、手を離して、振り返った男の子に、そんな感じは微塵もなく、淡々とした会話をしているようにしか思えない表情だった。
 最後に。
 足下がふらついているほど酔っぱらった時は、自分のためにも、人のためにも、最前列には並ばないようにしたほうが良いようだ。

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