人間はみな妖怪なり

2011.10.22

 小学生の頃、友達につきあって、1、2回やったコックリさん。コインに指を置いて行なう方法だったが、
「絶対、誰かが動かしている」
と思いながらも、
「勝手に気持ちを語って、コックリさんに祟られたらどうしよう」
と考えていた。
 そういえば、お稲荷さんが少し怖いのは、そのせいかもしれないと、いま、思いだした。
「コクリ(狐狗狸)」は明治20年頃に日本全国で流行した。次第にいろいろな弊害も出てきたことから、東京大学文学部を主席で卒業した哲学科の秀才が調査分析に乗り出した。彼は、静岡の下田港で、船乗りが、外国人からtable turning(降霊術の一種)のことを聞いて、いろいろな港で話したことから全国に広まっていったことをつきとめると、参加する人の性別、性格などの組み合わせを変えながら、コックリさんの実験をした。その結果、「思い込みが強い人」が加わっているほうが動きやすく、そうした人の頭に浮かんだ答えが、意識しないまま筋肉に伝わって動かしているのだという結論に達する。その人が、東洋大学(東京都文京区)創立者の、哲学者 井上円了氏である。
 29歳で、哲学を普及するために「哲学館」を創設し、散策しながら考えることを楽しむためにとつくった哲学堂公園(東京都中野区)では、晩年、訪れた人たちに哲学や妖怪の話をしていたそうだ。公園内には妖怪などの石像がある。
 会いたかったなぁ。きっと、丁寧に話をしてくれたに違いない。
 というのもーー。
 明治の近代化に加えて、「心」の近代化、つまり「哲学(自分で考えること)」を多くの人に知ってもらおうとしたが、なかなかうまく伝わらないため、導入部分として、妖怪の学問「妖怪学」の講義を哲学館で始めた人だから。
 根拠のない迷信から起こる、人々の心の囚われを取り除き、考えることの楽しみを知ってもらうことにつとめて、哲学館から身をひいた後は全国行脚をし、旧満州大連で講演中に61歳で亡くなった。
 妖怪学では、たとえば自然現象などによる不思議を「仮怪」、嘘や偽りからつくられたものを「疑怪」、誤った捉え方によって起こった「誤怪」そして、これらに入らない不思議を「真怪」などに分類している。
 円了は、宇宙、自然(森羅万象)、人の心などの中にある不思議を、著書『真怪』のなかで、
「迷雲を払って真月を見よ 盲眼をぬぐって真怪に接せよ」
「一滴の水 一片の雲も みな 妖怪なり」
と書いている。
 森羅万象の中でも、人間の不思議さは、おもしろいと暢気に言っていられないことが多い。甥っ子はなにが気に入らなかったのか、1時間あまりも、家の門から中に入ろうとしなかったそうで、そのくらいは、後に笑い話になるけれど、「見なければ良かった」「知りたくなかった」「裏では、そんなことをしてたのかぁ」などという困った不思議も多い。
 これ以上、ビックリすることはきっと、もうないと、そのときは思うのだが、みごとに裏切られ、それは、数年ごとに更新している。
 同じようなシチュエーションを経験すると、行動パターンは、ある程度の予測がつくと思っていたら、さらに新たなパターンが出てくる。
 それは、つまり、同じような性格や立場であれば、同じような行動を起こす人がいるということで、できたら、そういう人には遭遇したくないと思う。
 穏やかな波が表情を変えて引き起こす津波のような、心の錯乱状態が起こす一時的な言動のギャップが、大きければ大きいほど、ちらりと見えた、その真の姿を見ることほど怖いものはないのである。

参考:歴史秘話ヒストリア(NHK 10/19放送)

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