平将門と菅原道真と崇徳天皇

2012.1.26

 平将門、菅原道真、崇徳天皇は、三大怨霊と呼ばれている。
 道真公は、八幡大菩薩のお告げによるといわれる将門の親王宣言
、その頃、多く起こった天変地異に、世を去った後も関係していると囁かれた。
 どこかで見ていたら、さぞや吃驚しただろう。あるいは関係者たちが妄想で苦しめられている様子を悼んでいたかもしれない。
 903(延喜3)年に太宰府で没した道真公は、同じ年に生まれた平将門へ生まれ変わったという伝説がある。よくある話だが、それほど此の世に執着があると思われていたのだろう。
 そのこととは関係ないが、東京都千代田区九段北の築土神社は、本殿に将門、そして末社(木津川天満宮)に道真公を祀っていたが、1994年に道真公が築土神社に配祀されたことで、現在は2人揃って相殿に祀られているらしい。
 藤原氏の策略で、醍醐天皇に右大臣の地位を召し上げられ太宰府に左遷された道真公の病没後、都では藤原時平、源光、藤原菅根、醍醐天皇の息子、保明親王、保明親王の息子、慶頼王など、関わりのある人たちが次々に死んでいく。「祟り」の噂が広まる中、その噂にとって都合の良いことに、930(延長8)年6月に内裏 清涼殿に落雷があり、藤原清貫をはじめとする宮中の多くの人が亡くなった。恐れおののいた醍醐天皇は、とうとう病に倒れ、3ヵ月後、この世を去る。
 道真公の亡骸は、門弟の味酒安行が牛車に乗せて運んでいる途中、牛が伏せて動かなくなった地に埋葬されたが、その祠廟は、延喜19(919)年に藤原仲平の命で大きな社殿(太宰府天満宮)に造り替えられた。永延元(987)年には一條天皇が勅使を派遣して国家の平安を祈念した。いまでは、道真公は天神(雷神)として、あるいは神童といわれたことにちなみ、学問の神様として崇拝されている。


 平将門には、天慶の乱で敗北し、京都に送られた首が生き続けたという伝説がある。首を晒されて3日後、白光を放ち、東を目指して宙を飛んだが、力尽きて武蔵野国豊島郡の芝崎に落ちたという。
 祟りに恐れる人々を見て、真教上人は徳治2年、将門に法号を追贈し、神田山日輪寺で供養した後、傍らの神田明神に合祀した。
 神田明神の一之宮は大己貴命(大黒様)、二之宮は少彦名命(恵比寿様)、そして三之宮が平将門命である。朝敵とされたことで、明治7年に将門神社に遍座されたが、昭和59年に本殿に奉祀された。
 朱雀天皇が乱を平定するため護摩を行なった成田山新勝寺は、いまでも将門の加護を受けられなくなるとして氏子達は避けているとか。
 しかし、非科学的と笑ってもいられない。
 千代田区大手門にある将門の首塚が1921年に関東大震災で塚が崩れ落ちたことから学術調査が行なわれたが、その際、盗掘されていることがわかった。そこで、大蔵省が仮庁舎を建設するが、1926年の大臣の病死、職員や工事関係者などの急死、政務次官の転倒による怪我などがあいつぐのである。
 新庁舎が建てられたが、将門没後1000年にあたる昭和15年に、落雷で庁舎が類焼する。
 また、GHQが駐車場をつくるために整地させていたブルドーザーの日本人運転手が転落死するなど、他にもあげればきりがないほどなのである。

 三大怨霊の中でももっとも強い怨念を持つといわれる讃岐院(崇徳上皇)は、父、鳥羽上皇から天皇の位を奪われて起こしたクーデター(保元の乱)の失敗で讃岐に流罪となる。
 悲しみにくれながらも写経を納めて欲しいと都に送ったが、呪詛がこめられているのではないかと後白河天皇に送り返されてしまう。そのことで精神を病み、そのまま亡くなったといわれる。遺骨となっても都に帰ることを許されず、讃岐の白峰山に埋葬された。
 明治天皇が即位されたときに、京都市上京区に白峯神宮が建立された。

 どれほどタフな人間でも、大悪党でも、決して封じることができない怯えや後悔に苛まされない人はいないという。そうした人たちの心が「怨霊」の正体なのだろう。

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