背中で支える

2012.3.17

 昔よく見られた昭和のおじいちゃんのような人、たとえば、「あの人は恐い」という間違った情報で損することも恐れない有り難い人が、年代を問わず、増えている。それも、平成らしく、人情を切り捨て、合理的に改悪されて。
(キータッチミスで「改革」と打ったつもりが間違えてしまったようなので、ここで訂正しておく)
 
たとえば、部下や同僚が優秀すぎると思われる場合、協調の輪を乱さないための行動を取る。自分の能力や置かれている環境と同程度くらい、できればそれ以下になってもらうために、仕事や勉学の時間を割いてまで、賛同者あるいはお人好しなど多くの他人の力を借りて徒党を組んで、それを行なう。
 また、滅多なことでは正論が通用しない究極の立場を利用して、いきなり前言を撤回してみたり、「責任」というものを知ってもらうために「転嫁」してまで、困難に打ち勝つ力を養ってもらおうとする人もいると聞く。
 さらに、自分の過去の記憶を故意に塗り替えてまで、相手の行動がいかにとんでもないことであったかを説いて、謙虚でいることや謝罪する精神を教えようとする者も。
 その多くは、自分のことを考える以上の時間を割いて行なわれるようで、いまだ自分のことしか考える余裕のない私はただただ感心して圧倒される。人との出会いが人を磨くというが、そのような人たちにまだ巡りあえていないことが、私が成熟できない理由なのかもしれない。
 厳しくされた側の人間はどうするか。多くの場合、自分の能力を高めようと努力する。そのうち挫折感から、たとえ正当な思いやりをかけられたとしても、ごく一部の人間は、ひねくれて、人間不信に陥り、挙げ句の果てに逆恨みに発展することもある。いかなるときも「私のためにそうしてくれているのだ」という受け止め方ができる強い人間は、駅で偶然、数十年音信不通だった知人に会う確率でしか存在しない。
 どちらかと言えばほめてもらうことを期待している人のほうが多いのだ。子供でもないのに、堂々と「ほめてくれれば伸びるタイプ」だと公言する人もいる。そういうタイプは、厳しくされたくないだけで、ほめたところで、たぶん自分で思っているほどには伸びないことに、まだ気づいていない。
 相手の成長を願って厳しくするという思いやりは、自分にも同様に厳しくするという思いやりを持たなければ、単なる嫌がらせと思われる。なかには自分のことを厳しく律することのできる人もいるが、それは几帳面で融通が利かないルールを独自に持っていることとは、ピザ8切れのうちの7切れに相当するくらいの違いがある。
 あえて悪人となり、人格を疑われようが、恨みを買おうが、そのためなら生命をかけてもいいと思うほどの覚悟を持っていなければ、本当の思いやりなどかけることはできないのかもしれないと思う。個人的には、信長像に近いものを感じるが、あまりに人に厳しすぎたためか、その並はずれた能力を邪魔と思われたのか、自分を過信しすぎたのか、残念な結果となった。
 厳しさを受け止め続けていると、人間は、目的到達や成長のためと考えるより、理不尽にダメージを受けているという思いで頭が一杯になってしまいがちだ。たとえば、古くて、剥がしてしまっても影響のない表皮の損傷に囚われて、このままいくと大事な中心部まで破壊されるかもしれないという不安が増してくる。新しく、しなやかで強靱な表皮をつくりだす力を持っていることや、よくも悪くも自分を破壊できるのは、人ではなく自分自身しかないということを忘れてしまっている。
 とはいえ、本音は、小さな切り傷が増え始めると、さきに絆創膏をあらゆるところに貼ろうとする間抜けな行動をしたくなるものだ。
「わかってくれているはず」と思わずに、時々、どうして厳しくしているのかを「説明してくれる」というトッピングをオプションで注文したい。ストレスはきっと少なくならないが、「憎まれているわけではない、疎まれているわけではない、見捨てられているわけではない」ということがわかれば、気の小さい、自信のない人間は精神的安心感を得ることができて、目的に邁進しやすくなるのである。
 なかには、自分の経験を人に味あわせたくないために厳しく接しようとする人もいる。すべての人が同じ失敗をすると決まっているわけではなく、たとえ失敗したとしても、自分で克服するかもしれないので、大きなお世話である。
 多くの場合、我が子に接する親がこのような態度を取る。日課なのかと思うほど、繰り返して言ってくれる人はそうはいないので、大変有り難いことでもあるが、多くがそうであるように、聞き流すことにも慣れてしまうものだということを忘れている。
 そうして成長し、自分が子供を持ったときにふと思いだして有り難さを噛みしめながら、家訓のように伝承していくこととなり、ときには、親子間で、いい思い出話としても登場するようになる。
 この頃には、祖父や祖母と呼ばれるようになった元・親が、子供の子供に「甘くなる」ことが多くなり、そこが親となった元・子供と、もめる原因にもなる。
 困るのは、親の思いやりがいきすぎて、子供が成長して家族を持った後も、自立した考えを持てなくなることである。努力しても、親が子供より長く生きるには限界がある。今後は、「成人した子供」があらゆる問題に対処できる対策方法、また、それをやり遂げた後の対応バージョンを、1つずつ録画していく準備をしたほうがよいかもしれない。
 そういえば、最近、判で押したように、子供に迷惑をかけたくないから、墓の準備は自分でしたい、とインタビューで答えている人が多い。自分でしようと思っていることを、わざわざ話す必要はないような気もするが、もしかしたら、その志を押し切ってまでもお墓を建てたいと思う親孝行な子供を持っているので、あえて伝えているのかもしれない。
 思いやりは、「自分の感情」や「利害」を調味料として、少しでも加えた途端、おせっかいや傲慢、あるいは思い込みが強いという「料理」に変化する。
 自分ではいい料理をつくったと思っているのだから、相手がそう思ってくれないと気分を害するのは自然な感情だ。しかし、「もう二度とつくるもんか」と怒ったり、意固地になって、さらに押しつけようとすると、ますます疎まれたり反発されたりして、結論からすると、何もしないほうが良かったと思う結果になる。
 相手が、後で真相を知ったとしても「回りくどいやり方ではなく、私が欲しているものを出してくれるだけで良かったのに」というシンプルな考えの人もいるだろう。そういう人は、望んでいることを与えてもらうことが「思いやり」だと思っている「価値観が違う」人なのだ。
 思いやりは、誤解を受けやすい。
 たとえば、多くの既婚者が、配偶者に自分なりの思いやりをかけようとして、悲しい片思いを味わい、あきらめや疎ましさや怒り、失望、敵前逃亡や反旗を翻されるなどの悲哀を味わう。最終ステージで、「価値観」という曖昧な、本筋とは違うところですれ違ってしまったと口にすることで立証されている。
「思いやり」の形から価値観が違うことを認識するために、長い年数をかける結婚とは本当に奥深いものである。「思いやり」という言葉を知らなければ良かったのではないかとさえ思えてくる。辞書の出版社は、資格取得者にだけ、その特別な辞書を売るべきだった。
 植物は危機的状態になると、子孫を残すために成育を早めるそうだ。それは、逆にいえば、ストレス反応の一部である。しかし、生物は過剰に整いすぎる環境下ではすばらしい機能を失ったり、手抜きするようになるそうだ。
 たとえば、車にばかり乗って歩くことが少なくなると、足の筋肉は「どうせ、私なんて必要ないンでしょ」とばかりにすねる。同じようにすねても女性と違って、高価なプレゼントや高級レストランは必要なく、一緒に散歩すれば、機嫌を直してくれるので安上がりだが。
 つまり、ほんの少し危機を感じるくらいの状況が、生物である人間を成長させるための、よい環境なのだ。
 だとしたら、つい手を差し伸べたくなる気持ちを抑制し、あるいは自分の利害や満足感は捨てて、ときには厳しく接し、求められれば助言や行動できるほどの自分の器を磨くことが、思いやりにつながるのかもしれない。つまり、困難な状況で自分を見失いそうになった相手に、自分の背中が「支え」となることである。
 確かに顔が見えない分、余計なこと、たとえば部屋でゴロゴロしている様子や、うっかり料理をこがしている、リスペクトしにくい姿も浮かびにくいことは確かだ。

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