「余裕」ってかっこいい

2006.5.5

 先日、こんな話を聞いた。取材されることの多いその人は、こう言ったそうである。
「相手が受け止めた自分という人間と、自分の気持ちが大きくかけ離れていると思うことが時にはあります。しかし、相手にそういう印象を与えたのだとしたら、それは自分の一部なのだと思うのです」
 何かの折りに、「自分の能力を認めてもらえない」「本当の自分をわかってもらえない」と感じ、それが屈折することで精神を病んで疑心暗鬼に陥り、最悪の場合、犯罪にまでつながることも多くなっている。少しでも体裁を繕うことに一所懸命になっている時代に、それを許容できるのは、とても心に余裕がある人だと思った。おそらく、いろいろ迷いながら、そこへ到達したのだと思う。常に自分に言い聞かせて、何事もあるがままの自分でいようとする、その心構えが美しいと思う。
 たとえば、どんな人間がかっこいいと思うか、そう聞かれたとしたら、「余裕がある人」だと思う。
 余裕は、時間やお金を指すこともあるが、この場合は、もちろん気持ちの余裕。
 お金や時間があれば、品の良い服や装飾品を身につけて、エステやスポーツクラブに通い、と外見から見える余裕はつくり出せる。気持ちも大らかになる。これも案外大切だとは思っている。
 というのも 外見、言葉遣い、バックボーン、そういったことを先入観なしに見ることができる人はごくわずかだからである。たとえば「何を言っているか」ではなく、「誰が言っているか」が尊重されることが多い。たとえば、昔話にある、身なりの粗末な人が神様だということがわかって初めて、邪険に扱った人たちが驚愕するというストーリーが物語っている。先日、テレビで、1994年に世界遺産になった「ナスカ平原の地上絵」を最初たった一人で、食うや食わずで、命をかけて守り続けたマリア・ライヘ氏の話を知った。当時、彼女の行動は、なかなかわかってもらえなかったことも多かったようだ。
 断言すると、自分以外の人間について、本当にわかることは少ないと思っている。わかろうと努力しているだけなのだ。スピーディな社会になったとはいえ、「第一印象を良くして、ファッションや言葉遣いなどで、自分をわかりやすくアピールすることが大切」という、いまや常識ともなっているこの言葉は、裏返せばそういうことなのだとも思う。
 こんな言葉を聞いた。
「そういうのは、あなたらしくないと言われたのだけれど、どういうのが私だと思っているのだろう」ポツリともらした女性。
 その逆もある。
「そういうところが、あなたらしいよね」
 そうだろうか。時には、沈み込みそうな気分の時に必死で道化を演じていることもある。そういう人にとって何気ないこの言葉は、おそらくボディブローのようにジワジワきくだろう。
 その風体から体育会系だと思われやすく、そう扱われるという男性は、「本当に嫌なんです」。だからだろうか、とても自分のことを多く語っていた。
 ドラマを見ていると、悪者ぶっているだけで本当は一番優しいのに、どうして、本当の気持ちに気づかないのだろうと歯がゆく思うことがあるが、やがて、何かのきっかけで、誤解が解ける。メデタシメデタシである。現実はそういかない場合が多い。
 表面に現れないことは見えにくい。隠していれば尚更だ。
 知らない人の話題を聞く時、話してくれている人もどうやら当事者の片方だけしか知らないようなのに、自分の身近な人をかばい、弱い立場に思える方を支持して話すことが多い。もともとは一対一だったものも、多勢に無勢となるのである。そうした話は当人にもなぜか伝わるものだ。意固地になったり、あきらめたり、自暴自棄になってしまいたくなる気持ちもわからないでもない。
 余裕の無さが、よくわかるのは「怒り」である。たとえば意見が食い違った時。熱くなるのはしょうがないとしても、自分のメンツを守るためだけに熱くなるのはどうかと思う。
 しかし、何を言っても怒らないけれど、よく制御された穏やかな笑顔の中で、目だけ怒っているのも相当怖い。そう考えると、怒りを外に出してくれた方が、ましなのかもしれない。かっこ良さには、かっこ悪さも必要なものである。
 どんな状態でもなお、「人にどう思われるかのために、生きているのではない」と颯爽としていられる人は、かっこいい。私には、まだまだ遠いみちのりである。

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