言葉のすれ違い

2006.5.20

 会議中あるいはプレゼン中に、「よくわからないな」という、つぶやきが聞こえてきて、前で資料を説明していた男性が、「すみません」と謝って詳しい資料を映すと、先ほどの男性がまた「違うだろ」と言う。実は、老眼で、手元に配られた資料に書いてある小さな文字が読みにくくなっていたのをつぶやいていただけ、という目薬のCMがあった。
 以前、話をしていて、「それは違うよ」と、なぜ違うのかをお互い言い合っているうちに、何かおかしいと思い、確認すると、まったく違う対象について「違う違う」と言い合っていたようで、違うのも当たり前。しかし、よくここまで話がつながったと大笑いになった。相手の言葉を自分にとって都合がいいように、心の中で変換して聞くと会話は長続きする。相性が悪くて、言葉が刺のように突き刺さる相手には、時には最上級の変換で「ありがとう」と微笑んでみせるのも効果的である。予想外の展開には誰しも弱いもの。案外、そんなところから関係も変わることがある。
 年齢を重ねると、物や人の名前の代わりに「あれ」や「これ」という言葉が頻繁に出てくるようになる。たとえば熟年夫婦がやりとりしている、アレである。夫婦と言ったが、奥さんの方がというべきか、奥さんの「あれ」がわかる旦那さんは少ないから・・・。
「あれ」をつかみとるのは大変である。わかるまでには時間と、努力が必要なのである。言葉を省略する人が身近にいたらチャンスと思った方が良い。説明なしで、「あれ」が何かを考えているうちに、言われなくてもわかるようになってくる。ただ、相手の左脳への刺激が少なくなることだけが心配だが。
 気が短い相手の場合は、最初はイライラするだろうから、適当に答えて、間違えて答えたものがそのまま名前になってしまったという、よくある逸話を活用させてもらうのも一つの手段かもしれない。悪意のないものに人間は思いの外、寛大だ。お互いストレスを溜める方が体にも悪い。
 少し皮肉って書いてみたが、言葉は本当に便利なもので、同時に不便なものでもある。言葉にしたばっかりに誤解を招き、言葉にしなかったために誤解を招く。言葉や道具を使うことで人間は進化したといわれているが、その逆もいえるようである。補うための「感覚」が少しずつ失われている。
 ストレスや、争い事は、不完全に交わされた言葉がきっかけとなっていることが多いように思う。良くも悪くも、双方が同じように受け止めた時にだけ、言葉は初めて完璧な形となり、時に有効なツールとなり、時に争う武器にもなる。
 たとえば、プレッシャーは与えられるものではなく、自ら生み出しているものである。よく考えてみると、相手が言ったかどうかではなく、自分も同じように思っていたこと、それがプレッシャーとなっているからだ。
 何か一つに気づくと、それがきっかけとなって、いろいろなことが見えてくる。

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