荘子と恵子の「魚の楽しみ」

2006.5.20

 古代中国の道家、荘子(本名を荘周)は、名家(道家とともに六家の一つ)で魏の宰相でもあった恵子(けいし。本名を恵施)と友達で、また論敵でもあった。「荘子」の秋水篇にある「魚の楽しみ」に荘子と恵子との対話がのっている。
 内容を、現代風に簡単にいうと・・・

 荘子が魚の泳ぎ回る姿を見て「魚の楽しみとはこういうものだ」と言ったところ、恵子が「なぜ、君は魚でもないのに魚の気持ちがわかるのだ」と反論する。荘子は「君は僕でもないのに、なぜ、僕に魚の気持ちがわからないということがわかるのか」と問い、恵子が「僕は君ではないから君の気持ちはわからない。つまり、君は魚ではないのだから魚の気持ちも君にはわからないだろう」と返す。すると荘子は、「君の最初の質問に返ると、あれは僕が魚の楽しみを知っているということを推測した上での質問だ。僕も君と同じで、さっき魚を見て、わかったのさ」という超理論的な会話で終わる。

 私は、荘子の答えを利用して素直に切り返している恵子の方がすごいと思うのだが、賛同してくれる人は少ない。荘子の方が一枚上手で、恵子は現実に即していない、理屈のための理屈なので無意味だというのだ。しかし、現実に即したことばかりではつまらないとも良く聞くのだが、会話にだけは、あてはまらないのだろうか。
 恵子の書き物は残っていないそうだが、荘子にやりこめられる役回りとして、たびたび書物には登場する。しかし、荘子はやりこめて悦にいっていたわけではなく、後年、恵子の墓を訪れた時、「ともに語るだけの相手を失ってしまった」と悲しんだという話(徐無鬼篇)が残っている。
「秋水篇」も「徐無鬼篇」も荘子の弟子か後世の人の手によるものとされているが、きっと、荘子は悲しみに暮れたことだろう。
 一緒にいて黙っていても苦にならない相手と、たまに些細な口論になったとしても話が通じる相手の、どちらが得難いかといわれると、後者のように思うからである。

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