辻褄は 合っても合わなくても 困りもの

2006.8.19

「つじつま」を漢字で書くと、「辻褄」。
そういえば、「辻」も「褄」も、言葉として、日常的に使用することが少なくなった。
三省堂「大辞林 第二版」によると、
辻」は、(1)二つの道路が十字形に交差している所。また、四方からの道が集まりゆききする人が出会い別れる交通の要所。辻堂・辻社(つじやしろ)が置かれ道祖神がまつられることが多い。十字路。四つ辻。(2)人通りの多い道筋。ゆききする人を相手に辻芸・辻説法・辻商(つじあきな)いが行われる。街頭。ちまた。
 ちなみに、辻は「つむじ」が転じたもので、旋風(つむじかぜ)は「辻風」とも書く。
「褄」は、〔端(つま)の意〕着物の裾(すそ)の左右両端の部分。また、竪褄(たてづま)のこと。(三省堂「大辞林 第二版」より)

 どちらも「合う」場所であることから、道理が通っていること、理屈が合っていることを「辻褄が合う」といい、逆を「辻褄が合わない」という。

 最近、辻褄が合わないことが多くなってきたように感じる。
 辻褄が合わなくて困るのは、多くの人間が関わって進める仕事である。最終的には、どうにか、こなされていくのだが、途中で思いも寄らない混乱を招く。不思議なのは、なぜか、混乱させた張本人が、一番涼しい顔をしているところ。
 しかし、考えてみると、もともと辻褄の合うことの方が少ないのかもしれない。「道理や理屈」には、あまり関係ないと思われる「感情」や「思惑」が絡むことによって、簡単に、合わなくなってしまうからである。
「わかってはいるけど、嫌なんだからしょうがない」という感情優先タイプと、「嫌だけれど、自分の感情を優先して混乱をきたすよりは、我慢しよう」という理屈優先タイプ。前者は、周りの人間が混乱し、後者は、いずれ精神の自家中毒を起こしかねない。どこかで辻褄が合っていないのである。多くの場合、感情優先タイプの「辻褄に合わせて」進められていくことが多いようだが。
 そう、「辻褄が合う」ことは、一つしかないと思っていたら、違うのである。
 たとえば、「それでは、辻褄が合わないよ」という言葉に対して、「そうかもしれないけれど」ではなく、「そちらの方が、よほど辻褄が合っていない」という反論が返ってくる。
「道理や理屈」が自由自在に変化するのもおかしいのだが、どう考えてもおかしいという状況が成り立ってしまっていることも少なくない。
 それでも、収まるところへ収まるのであればまだ良いが、強引な感情に引きずられてやむなく、という場合には、当事者でなくても、なんだか釈然としない。
 だからといって、極端に「辻褄が合う」ことだけを押し進めようとすると、どこかに、ゆがみができてしまう。
 人間の体は実にうまくできているものだ、と思うが、何らかの理由で、辻褄を合わせようとすると、過剰反応になり、アレルギー症状などを引き起こしてしまうこともある。極端に神経質にならず、体内にとって悪い物も、少しくらいは、おおめに見るゆとりがあって、ちょうど良いのかもしれない。
 ただし、「後で辻褄を合わせよう」とばかり思っていると、とんでもないしっぺ返しはくるだろうし、きっと、周りの人からは「信頼」を失ってしまうけれど。

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