曲直瀬道三(まなせどうさん)

2007.5.26

 日本漢方の開祖と仰がれる「曲直瀬道三(まなせどうさん)」は、1507年、京都に生まれる。後に、田代三喜や永田徳本などと並び、「医聖」と呼ばれた。

 道三は、幼い頃、両親を失い、江州(滋賀県)の天光寺へ、その後、京都の相国寺で喝食(かつじき)となる。
 父の姓は「堀部」。「道三」は号で、諱(いみな)は正盛、または正慶。
「曲直瀬」という姓は、それ以前には無く、道三がつくったといわれている。後に道三の代表的著述「啓迪集」の「啓迪」という言葉とともに中国戦国時代の「書経」に載っており、ここから考えられたのではないかとされている。
 1528年に、下野(栃木県)の足利学校に入り、その2年後、会津で田代三喜と出会う。田代三喜は明(中国)へ留学して李朱医学(当時、最新の漢方医学)を12年間学び、その考え方を日本で初めて唱えた医者である。
 田代三喜に入門して李朱医学を修めた道三は、39歳(1546年)で還俗して京都に戻り、医業に就く。
 足利義藤、細川晴元、毛利元就、正親町天皇、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの診療を行ない、信長からは
蘭奢侍(らんじゃたい)を下腸されるほどであった。
 また、現在でいう医学校を創建して数百人にもなる門人に医術を教えるが、その「啓迪院(けいてきいん)」は医学教育史上、重要な存在といわれているそうだ。
 1574年、李朱医学の立場から、それまでの医書を簡潔に、そのうえ臨床経験を取り入れてまとめた医学書「啓迪集」を著す。これまでの、仏教中心だった医学の考え方を払拭し、日本独自の漢方医学を樹立した画期的なものだった。
 1584年、イエズス会の宣教師を診察したことからキリスト教に入信し、洗礼を受ける。
 1592年に後陽成天皇より、橘姓と今大路の家号を賜った2年後、88歳で、この世を去る。
 毛利輝元のために書いた「養生誹諧(ようじょうはいかい)」には、
「かねてより身をつつしむは文の道 やんでくすすは物のふのわざ」(日頃から身を慎むのは知恵のある人で、病気になって薬で治すのはしかたなく行なう腹技)とあり、他にも、朝一番に井戸水を飲むのは体に良い(「先掬(まずむす)ぶ暁わくや つゝ井づの 井づゝの水ハ 薬とぞなる」)などが書かれているそうだ。
 
 道三の甥で弟子でもあった曲直瀬玄朔(まなせげんさく)は、二代目「道三」の名を引き継いだため、一代目「道三」は「古道三」と呼ばれることもある。
 生活習慣や体質、性格などを熟知したうえで漢方薬を処方し、毛利輝元の、かかりつけの医師のような役割を果たしていた玄朔も、道三同様に名医といわれた。
 日本最古のカルテは、玄朔が書いた「医学天正記(いがくてんしょうき)」だそうだ。
 奈良時代に日本に伝わった中国医学は、その後、18世紀に至るまで、道三の考え方が主流をなすが、明治時代の西洋のものを取り入れようとする考えや、漢方は戦争などの外傷に対して即効性がないことなどから、日の目を見ない時代が続いたようだ。

 余談だが、江戸時代の地図に「道三橋」という橋が載っているそうだ。丸の内(東京)のお堀沿いに屋敷があった道三(玄朔)は、城から呼ばれると堀を廻らなくてはいけず、時間がかかっていたため、もう少し早く来てくれないかといわれて、「橋があったら早く行ける」ということからできたものだとか。

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