金子光晴氏の・・・

2006.3.21

 とても爽やかな日だった。
 彼女は、いつもなら電車を乗り継ぐはずの地下鉄の駅の階段を地上へと上っていた。ようやく春が来たと思っていたら、その日は早くも初夏を感じさせるような日だった。
「こんなにいい天気なのだから、今日は電車に乗り換えずに、歩いて会社に行こう」
 歩いても10分ほどの距離。
 頬にあたる風が心地良く、長い髪が風とたわむれている。
「そうだ。社長に頼まれていた、あの本を買っていこうかしら」
 昨日、「とてもいい本らしいから、急がないけれど、ついでの時に買ってきてくれないか」と社長に頼まれていたのだ。
「ちょうどいいわ。K書店の前を通っていこう」
 彼女はとても本が好きだ。いい本と聞いて、社長に借りて、早く読んでみたいと思っていた。
 書名と著者の名前だけ聞いていた。最近の本ではないらしいので、もし探してみて、わからないようだったら、店員に聞けばいいと思った。
 書店の2階へ上がりながら、ふと思う。
「それにしても、なんて、おかしな名前の本なんだろう。紀行物らしいから、きっと国の名前ね。でも、どうして名前の順番を考えないのかしら。確かに、一度聞いたら忘れないという意味では良いのかもしれないけれど」
 そこで、小さな不安が湧き起こる。
「店員に聞くことになったら、なんて言おうかしら」
 心配性の彼女の顔が少し曇る。
「ううん、大丈夫だわ。きっとみつかるわ」
 気を取り直して、書棚を探し始めた。
 しかし、何度探してもみつからない。著者の本はあるのだが、探している本がみつからないのだ。
「困ったわ」
 時計を見ると、思っていたより時間が立っている。
「しょうがない。聞いてみよう」
 客がいないカウンターを選び、一番近くにいる店員の女性に声を掛ける。
「本を探して欲しいのですけれど」
「本の名前を教えていただけますか?」
 さあ、ここが肝心。彼女は、さきほどから考えていた通りに、店員に伝えた。
「金子光晴さんの、マレーシア・・・」
 そこで、少し区切り、
「インド(印度)のインに、オランダ(阿蘭陀)のラン・・・」
 ここまでくれば、後は、もう大丈夫。
「・・・紀行・・です」
 少し、不自然かもしれないが、これで聞き返されることもなく、探してもらえるだろう。
「お待ちください」
 思っていた通り、下を向いてコンピュータのキーを叩き始めた若い女性店員は、すぐに顔をあげて言った。
「絶版ですね」
 なんだ、絶版なの。探しても、みつからないはずだわ。そう思った彼女は礼を言って、残念に思いながらも立ち去ろうとした。すると、
「それから、「マレーシア印蘭紀行」ではなく、「マレー蘭印紀行」ですね」
 なんの感情を交えることなく、笑顔を浮かべるでもなく、淡々とした表情のままの店員の言葉に耳を疑い、顔をみつめた。
「えっ? いえ、確か、「マレーシアいんらん紀行」と人に聞いたのですが」
 あっ、言ってしまった。
「お間違いになっていらっしゃるようですね」
 爽やかに返ってきた。
 この場から早く離れたい。彼女は、書店を出た。頭が混乱したまま、さきほどまでの爽やかな風を、砂漠の熱風のように感じながら歩いていたが、会社に着く頃になると猛烈に腹が立ってきた。
 着くと、すぐに社長の部屋に行った。
「社長、あの本は、絶版でした」
「ああ、そう」
「それから・・「マレーシアいんらん紀行」ではなく、「マレー蘭印紀行」でした」
「へぇ、そうなの。変な名前だな、と思ったんだよね」
 彼女がどれほど「無駄」な努力をしていたかを社長は知るよしもなく、その日の天気のような爽やかな返事が返ってきた。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

 ネットで本を探したり買うことが、当たり前に行なわれるようになった今では、イメージしにくい話かもしれない。
 この話には二つの後日談がある。
 一つは、あまりにも憤慨する彼女がおもしろくて、この話を知人の女性に話したところ、
「かわいそうに。社長、それはひどいわ」と言われて、改めて、この話のおもしろさを再確認した社長が、ことあるごとに会う人に話しまくっていること。
 もう一つは、彼女の記憶から、恥ずかしさが少し薄れた頃、ふと立ち寄った古本屋さんで、目に飛び込んできた「マレー蘭印紀行」。
 どちらかといわなくても「薄い」といえる、その本の背に入ったタイトル。よく目についたものだと思う、その文庫本は、こうして彼女の元に来た。
「無駄」な努力や、恥ずかしさも帳消しになった。表現が良かった。
 彼女が一番気に入っているのは、高く伸びた針葉樹の葉の様子を、「空がピクピク痛い」と表現しているところだ。
 その後、「マレー蘭印紀行」は、社長の膨大な量の書棚のどこかに埋もれてしまった。なので、「空がピクピク痛い」というところは原文を確かめられない。
 彼女の机には今でも、本を読む時には必ずカバーを取る習慣のある社長が置いた「マレー蘭印紀行」(中央公論新社刊)のカバーだけ、がある。
 *ちなみに「マレー蘭印紀行」は改版が出ています。

前 頁

次 頁

バックナンバー

サイトマップ

mail

法令に基づく場合などを除いて、個人情報をご本人の同意を得ることなく第三者に提供したり、開示したりすることは致しません。

copyright(c) SOMETHING ELSE Co.,Ltd. 2012 all right reserved  since2006