杉原千畝

2008.4.11

 新国立劇場(東京)で、4月22日まで上演されている、ミュージカル「SEMPO 日本のシンドラー杉原千畝物語」が注目されている。東京のあとに、名古屋、神戸でも公演される。
 SEMPO(せんぽ)とは、「千畝(ちうね)」が発音しにくかったために、赴任したリトアニアで、自らが、音読みで呼んでもらっていたことによる。

 1939年、杉原千畝氏が、ポーランドに隣接するリトアニアの領事代理となった2カ月後、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、イギリス、フランスが宣戦布告。第二次世界大戦が始まる。
 リトアニアにはソ連軍が進駐し、各国の大使館、領事館に対して、閉鎖するよう勧告する。
 ある朝、杉原氏のいる日本領事館の前に、200人ものユダヤ人がつめかけた。ポーランドからリトアニアへ逃げてきたユダヤ人たちだったが、ドイツ軍が攻め込んでくると、国外へ出ることが難しくなるため、その前に脱出しようとしていたのだ。
 ヨーロッパの国へ逃げるのはもはや難しく、ソ連から日本を通り、他の国へ逃れるしか道が残されていなかった。ソ連、そして日本へ渡るには日本の通過ビザが必要になる。通過ビザを取得するには、受け入れ国が決まっていなければならない。しかし、なかなか、入国ビザを発給してくれる国はなかった。
 そんな中、リトアニアのオランダ領事館、名誉領事ヤン・ツバルテンディク氏は、ユダヤ人を救うため、税関がないオランダ領キュラソー島を仮の行き先にして、ユダヤ人にビザを発給していた。

 しかし、日本領事館につめかけたユダヤ人は、発給するための規定の条件を満たしていない者がほとんどだった。
 杉原氏は、話を聞くために、5人の代表を領事館の中に入れ、2時間かけて話を聞いた後、多数のビザを発行するための許可を日本の外務省に電報で要請する。しかし、日本政府からは、正規の手続きができない者には許可できないという返事しか来なかった。
 必死のユダヤ人たちを目の当たりにした杉原氏は、苦悩の末、ビザを発給することを決意。ソ連から再三の退去勧告を受けながらも、不眠不休で、腕がはれてペンが握れなくなるほど多くのビザを発行し続けた。
 後に、6000人以上ものユダヤ人を救った「命のビザ」といわれているものである。


 杉原千畝氏は、1900年1月1日、岐阜県加茂郡八百津町に生まれる。ちなみに、八百津町には、現在「杉原千畝記念館」がある。
 父は医者になることを希望したが、本人にその気はなく、入学試験の日に、母のつくってくれた弁当を持って出かけ、試験を受けずに帰ってきたことに、父は怒る。
 英語教師になるという夢のために、早稲田大学高等師範部英語科予科に入学するも、父からの資金援助はなく生活は苦しかった。大学の図書館で偶然見つけた広告で、公費で勉強できる外交官留学生試験があることを知り、試験まで1カ月しかなかったが、猛勉強して合格。1919年、ロシア語留学生として、ハルピン(中国)へ行くことになる。
 1924年には外務省書記生に採用される。
 1932年、満州外交部に派遣され、ソ連との北満州鉄道の譲渡交渉などで手腕を発揮するが、若い職業軍人の横暴ぶりに嫌気がさして、1935年に退任する。
 1939年。カウナス(リトアニアの首都)の日本領事館の領事代理となる。リトアニアには日本人は居住しておらず、情報収集の場として開設されたものだった。危険な任務のため、名前を変えて行くようにと言われるが、杉原氏は拒んでいる。
 
 1940年7月18日午前6時。200人ものユダヤ人が領事館に押し寄せた。
 杉原氏は、許可要請を外務省に電報で打つが、返事はなし。22日、ようやく返ってきた答えは「許可できない」というものだった。
 23日、松岡外相は、ヨーロッパ各国にある、日本の大使館・領事館に対して「ユダヤ人に対するビザ発行の許可は認めない」と通告する。
 日本政府には立場上、許可することは不可能だったと思われるが、後に、杉原氏のビザで、神戸ユダヤ人協会や駐日オランダ大使館などの奔走のかいもあって入国したユダヤ人も多く、最後まで強行に拒否したわけではなさそうだ。
 
 7月24日に、「許可しない」という日本政府からの2回目の回答を受けた後、一晩中考え抜いた杉原氏は、独断で、ユダヤ人に通過ビザを発給することを決意する。翌日から約1ヶ月もの間、ビザを発行し続ける。
 発行した枚数は、番号が記録されているものが2100余り。その後は、作業を効率化するために記録はとられていない。
 また、ビザのための印紙がなくなった後は、緊急時の「領事特別許可証」を発行した。これは、杉原氏の一家がベルリン(ドイツ)行きの列車に乗るための駅のホームでも、発車寸前まで行なわれた。
 ビザは、1家族に1枚で良かったため、国外に脱出できたユダヤ人は6000人以上といわれている。この人数は、シンドラーをはるかに越えている。
 翌年、1941年、リトアニアはドイツの占領下になった。

 ロシア語をはじめとし、語学に堪能な杉原氏は、ヨーロッパ各地の領事館などに勤めた後、1947年に日本に帰国するが、その2カ月後、外務省から依願免官を求められる。表向きは機構縮小によるものとされたが、ビザ発給の責任をとらされたともいわれている。


 1968年8月、当時、モスクワで貿易の仕事をしていた杉原氏が、一時帰国していたとき、在日イスラエル大使館から1本の電話が入る。大使館を訪れた杉原氏に、ボロボロになった紙(ビザ)を手にしたニシュリ参事官が「これを覚えていますか?」と尋ねる。
 参事官は、リトアニアの領事館で話を聞いた5人のユダヤ人の代表のうちの1人だった。28年目にして、ようやく杉原氏を探し当てたのだ。リトアニアでは「SEMPO」と呼ばれていたため、杉原氏を探すのは困難だったそうだ。
 戦後、外務省へも、ユダヤ人協会から「せんぽ・すぎはら」という外交官がいないかという問い合わせがあったが、気がつかなかったためなのか、回答は「過去も現在もいない」というものだった。
 

 1969年にはイスラエルに招かれて、バルハフティック宗教大臣から勲章を授与。大臣も、5人のうちの1人だったが、そのときまで、日本政府に背いて杉原氏がビザを発給したことは知らなかった。
 1974年には「イスラエル建国の恩人」として表彰され、1985年にはイスラエル政府から、日本人では初めての「ヤド・バシェム賞(諸国民の中の正義の人賞)」を受賞する。
 翌年、杉原氏は亡くなる。

 1991年、リトアニア政府が、首都の通りのひとつに「スギハラ通り」と名付ける。
 2007年、ポーランド大統領より叙勲が決定し、孫にあたる千弘氏が、代わりに勲章を授与した。

 日本では、杉原氏に対して様々あったようだが、外務省の外交資料館に「勇気ある人道的行為を行った外交官 杉原千畝氏を讃えて」と記した杉原千畝顕彰碑がつくられて、2000年10月に除幕式が行なわれたそうだ。

参考
http://www.town.yaotsu.gifu.jp/spot/sugihara/sugihara.html
http://www.chiunesugihara100.com/j-top.htm

前 頁

  次 頁

バックナンバー

サイトマップ

mail


法令に基づく場合などを除いて、個人情報をご本人の同意を得ることなく第三者に提供したり、開示したりすることは致しません。

copyright(c) SOMETHING ELSE Co.,Ltd. 2012 all right reserved  since2006