干支の話(2)

2008.8.10

 十二支の元は、中国の殷の時代には、すでにあった。それを後に、後漢の文人、思想家である王充(おういつ)が、覚えやすいように馴染みのある動物に置き換えて、数字のようにして使われるようになったとされている。
 数字は、6000年ほど前、メソポタミアのシュメール人が使っていたのが始まりとされているが、歴史から見ると、文字を数字(記号)に代えて使い始めたのは、世界的に、ごく最近のことといえる。
 
 十二支は、一説には、バビロニア時代の天文学の黄道(こうどう)12宮の影響を受けているのではないかともいわれている。
 黄道とは、1年をかけて巡る太陽の通り道のことで、12宮とは黄道にある12の星座。
 へびつかい座を入れるか入れないかで紛争が起こった西洋占星術は、黄道の星座の名前を使っている。ただし、星座が等間隔で存在しているわけではなく、基本的に、単なる記号として使われるのは干支(えと)と同じである。蠍座や牡牛座、獅子座、射手座生まれの人は、イメージがダブるように感じることもあるのだけれど・・・。
 
 
 春秋戦国時代には、「木・火・土・金・水」を基本とする五行思想、陰陽思想と十干十二支が結びつき、後漢の時代になると、年、月、日、時刻、季節、方位など、様々なものにあてはめて、広く用いられるようになる。

 干支が日本に伝わったのは、5世紀の終わり頃あるいは6世紀の初め頃とされている。
 現在のグレゴリオ暦の採用は、明治5年。旧暦(太陰暦)の明治5年12月3日は、明治6年(1873年)1月1日になった。そのため、明治5年の12月3日〜31日は存在していない。
 グレゴリオ暦は1582年に制定されたが、世界でも、国ごとに、少しずつ浸透していく。


  節分に行なわれる「恵方(えほう)巻」の恵方とは、方位神の姫神、歳徳神(としとくじん)が存在する方角で、その年の干支(かんし)によって決まる。
 先日の「土用の丑(うし)の日」は、立秋の前の18日間の中で、日にちに「丑」のつく日。これも、年によって変わり、今年は7月24日と8月5日だった。
「酉(とり)の市」は、11月の「酉」の日に行なわれる鳳神社の祭礼である。

 干支(かんし)は時刻にも使われている。今でも使われている、午前・午後の「午」は、「うま」のこと。
 午(うま)の刻は、午前11時〜午後1時を指し、12時を正午、午の刻より前か後かで「午前「午後」という。
「丑三つ時」や「丑の刻参り」の、丑の刻とは、深夜の1時〜3時頃のこと。十二支で24時間を表すため、ひとつの時間は2時間になる。それを四等分して、3つめにあたるのが「丑三つ時」なので、午前2時〜2時半になる。

★「丙午(ひのえうま)」の年は、陰陽五行説では、「丙」と「午」が、五行の「火」の性格を持つことから「火災」などに注意が必要な年とされた。
 この年に生まれた女性は気が強いといわれるのは、井原西鶴の「好色5人女」に、実在の八百屋お七を、悲恋の物語として書いたことに由来する。
 実際の話には諸説あって、どうやら物語とは異なるが、1683年に火あぶりの刑となっているのは事実だそうだ。

★日本の改元(称元)は、基本的に天皇の即位元年に改められるが、それ以外にも様々な理由で変えられてきた歴史がある。最初の元号は、645年の「大化」である。
「辛酉(かのととり)」にあたる年には革命が起こるといわれていたため、日本では、昌泰(しょうたい)4年/西暦901年を、「延喜」と改元した。
「辛酉」の年は、60年に1度。1864年までは、辛酉の年に、必ず改元がなされていたそうだ。
 

 干支は、戦や人の名前などにもつけられている。
 壬申の乱は、672年の「壬申(じんしん・みずのえさる)」の年で、戊辰戦争は、1868年の干支「戊辰(ぼしん・つちのえたつ)」が用いられている。
 甲子園球場の名は、完成した1924年(大正13年)/「甲子」の年から。 


参考:
http://www.soroban.or.jp/howto/hajimari.html
http://www.ratio.co.jp/tokushu/shogatsu2003-2004/juunishi.html  

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