ハーモニカ

2006.3.31

 地下鉄のホームへの階段を降りて何歩か歩くと、どこからかかすかに聞こえてきたハーモニカの音色。
 不思議に思ったが、ホームの端まで歩かないうちに原因がわかった。
 何歳くらいなのか。帽子を被った小柄なおじいさんがホームに備え付けのイスに座って、ハーモニカを吹いていたのだ。
 突然、聞こえるわけもないところから聞こえてきたハーモニカの、穏やかでどこか懐かしい音色。原因がすぐにわかって、そのうえラッキーな出来事に思えて嬉しくなった。
 ラッキーというのは、その人は次の日も次の日も会うことができなかったから。きっとたった一度の出来事だと思っていたら、ある日、またハーモニカの音が聞こえてきた。
 一歩ずつ進むごとに音色が少しずつはっきりと聞こえてくる。
 それからは、ハーモニカの音が聞こえてくるたびに、「あっ、今日は来ている」と思いながら、おじいさんが座っているイスの前まで、まるでバージンロードでも歩くようにワクワクしながら、そして目の前をゆっくり通り過ぎると、電車が来るまでの何分間か、背中越しに耳を傾ける。
 最初に見た時には、おじいさんは5つあるイスの真ん中で、1人でハーモニカを吹いていた。両脇には誰もいなかった。
 しばらくして、おじいさんの両脇には人が座るようになっていた。
 ホームを降りて電車が来るまでの間のわずかな時間なので、おじいさんが何時頃に来て、どのくらい、そこでハーモニカを吹いているのかはわからない。
 ある時、ふと、かなり長い間、音色を聞いていないことに気づいた。
 今回は、長いな。高齢のようだから、風邪でもひいたのかな。
 しかし、いっこうにハーモニカの音は聞こえてこない。
 もしかしたら、風邪ではなく、病気なのかな。
 少し、心配になった。
 それとも、他の駅に行ってしまったのか。何かの都合で遠くへ行ってしまったのか。
 それから、またしばらく立ったが、おじいさんのハーモニカは聞こえてくることはなかった。
 もうきっと会えないんだろうと思い始めた頃、ふと、こんなことを想像した。
 私は、何カ月かに一度の不定期のハーモニカの音を楽しんでいたが、もしかしたら心地よく思わなかった人が、駅員さんに何か言ったとしたら。止められたら、おじいさんは、もう来られないだろう。
 きっと、そうなんだ。
 そう思うことにした。
 そういえば、あのハーモニカの曲に、私の知っている曲はなかった。
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