電波に乗せてコミュニケーション

2009.3.23

 新入社員について不満に思うところを問うと「コミュニケーション能力」という答えが返ってくるそうだ。
 コミュニケーション能力は、片方だけに問題があるとは言い切れないのだが、とにかく、「伝わらない」ことにストレスを感じているのだろう。

 ところで、違う世代同士でのコミュニケーションが上手くいっていた時代があったのだろうか。
 儒教的な考え方が根強かった頃は、目上に反論するなどもってのほか、親の言うことに従っていたこともあったようで、それはコミュニケーションとはいえないように思うが、親子が友達感覚になっているのも違うような気がする。
 コミュニケーション能力が不足する理由のひとつに、メールの多用があげられているようだ。近くに座っている上司にも仕事の報告をパソコンのメールで済ませるらしい。
 メールなど無かった世代が聞くと、「貼ってはがせるメモ用紙」に書いて机に貼っておかれるような、つまり少し失礼な感じを受けたが、文章で残しておいた方がよいものや、相手が忙しそうで、それほど急を要さないものなどは、もしかしたらメールでもよいのかもしれない。
 電話やFAXですべての用件を済ませることを嘆かわしいと思われていた時代もあった。何が適切かは、時代や状況、相手によって変わる。

 
 新しい物が出現するたびに、いままで使っていたものの良さが失われると心配するが、手紙や風呂敷、万年筆なども時々、ブームになる。無くなってしまう物はほんのわずかなのかもしれない。メールやブログ世代に向けて、古典文学を横書きにした出版社があるが、縦書きがまったく無くなるわけでもないだろう。
 メールの交換だけでも、コミュニケーションはできる。しかし、対面での会話はより多くの情報を読みとることができる。反面、視覚に騙されることもあるかもしれないが、経験によっておぎなえるものもある。つまり、対面の会話が不足すると、そういった微妙なニュアンスが読みとれなくなってしまう可能性があるのだ。
 携帯メールに絵文字を加えることで、ニュアンスが読みとれるという人がいるが、それは相手が確定した記号を受け取っているだけで、それが本心かどうかを読み取るのは難しい。表情でさえ本心を表しているかどうかわからないのだから。


 メール第一主義の人の不思議なところは、相手がすぐにメールを見てくれると思っていること。
 緊急を要するときは、まず、電話で直接話をするのが一番早くて確実だと思うのだが、電話は相手が何をしているか分からないので失礼なのだそうだ。緊急の用事に、メールだけ送って、そのまま退社してしまうほうが、よほど失礼のように思うのだが。
 そのうえ、メールの文章表現が適切ではないと、結局、電話して聞き直さなくてはならない場合もある。

 上司の意味不明の話も、クライアントの無理難題も、近所の人とのつきあいも、親の強引な押しつけも、姑や苦手な人とのコミュニケーションも、ストレスになるかもしれないが、それをうまく自分の中で処理する訓練(経験)も必要なこと。嫌なことや感情のぶつかり合いなど面倒くさいことを避けていけるほど、人生は合理的にはできていない。
 道を聞かれた若者が、相手の携帯のメールアドレスを聞いて早打ちで道順を教えている姿がふと浮かんできた。  

前 頁

  次 頁

バックナンバー

サイトマップ

mail


法令に基づく場合などを除いて、個人情報をご本人の同意を得ることなく第三者に提供したり、開示したりすることは致しません。

copyright(c) SOMETHING ELSE Co.,Ltd. 2012 all right reserved  since2006