感謝

2009.4.9

 感謝という言葉はきれいな言葉である。相手に対するうれしさ、喜びなどを表している。
 しかし、うれしいことだけが「感謝」の対象なのだろうか。
 たとえば、耳が痛いことを言われたとき、自分の意に沿わないことをされたとき。それも「感謝」と捉えるのは、やや不自然で偽善かもしれないが、そのことで、自分の至らなさ、思い違い、ふがいなさに気づかされることもある。相手がどういう気持ちでしたにせよ、気づかされたこと自体に「感謝」できるようになりたいと思う。
 

 達磨と会見した中国の武帝が「寺を建立したり、写経を勧めたり、お坊さんを供養したりしてきたが、どういう功徳があるだろうか」と尋ねたところ、達磨からは「無功徳」という答えが返ってくる。その後も、人を食ったような答えに、武帝もたぶんムッとし、呆れかえったようで、「あなたは何者か」と問うと、達磨が「不識(識らぬ)」と答える話がある。(達磨不識)。価値を自分で決めつけることは愚かなことなのだ。
 幼少期を過ごした林泉寺(上越市)に優れた住職(益翁宗謙/やくおうしゅうけん)が来たことを聞き、訪ねた上杉輝虎(後の謙信)を「『達磨不識』とはどういうことか」と住職は一喝した。そこで謙信は、自分の価値感だけに囚われすぎていたことに気づく、という
話があるそうだ。輝虎は41歳で出家し、名を不識院 謙信と改める。この頃から謙信は、家臣達のために、それまでの「筋目の戦」だけにこだわらなくなる。武帝と比べると、謙信はあまりにもできすぎている。
 価値を自分で決めつけてしまうのは愚かなこと。ましてや、相手の価値を決めようと思うことはもっと、愚かなことなのである。
「勝ち組」「負け組」という言葉がある。品がよいとはいえないにしても、言葉遊びとしてはおもしろい。しかし、まだ経験が少なく、判断力も伴わない子供が聞いたとき、どう判断するだろうか。
 アニメなど、子供にあまり見せたくないものを排除すべきだと怒る人がいるが、こういう事にも怒った方がいいと思う。実際に、親たちの語っている言葉を聞いて「価値がない」からとオヤジ狩りや浮浪者に暴行を働くという事件も起こっているのだから。 

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