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2012.10.21 負け lose
 勝たむと打つべからず 負けじと打つべきなり(『徒然草』 第110段の抜粋)

 双六の名人の言葉。
 勝とうとして打つのではなく、少しでも負けを先延ばしにしようとする気持ちが、勝つことにつながるという意味。
「勝つ」と思っていなければ勝てないよ。
と書いてある本が多い中で、目新しく聞こえる。新しくはないけれど。そういえば、美空ひばりさんの『柔』の出だしは「勝つと思うな 思えば負けよ」だった。
 奢らず、前のめりにならず、背筋が伸びて肩がストンと、いい位置に落ちているような、姿勢でいえば、そんな感じでいいんですよね、きっと。


2012.10.20 バランス balance
かしこげなる人も
人のうへをのみはかりて
おのれをば知らざるなり
我を知らずして外(ほか)を知るといふ
ことわりあるべからず
さればおのれを知るを
物知れる人といふべし
(「徒然草」 第134段の抜粋)

 賢そうに他人のことをとやかくいう人がいうけれど、自分の至らなさを知らない人に、人のことをわかるはずはない。自分をわきまえている人こそ、品性のある賢い人なのである、ということなのだそうだ。
 勝手に極論してしまえば、どこまでいっても、人のことを語る資格はない、ということになる。
 ところで、世の中が、もし、賢い人ばかりだったら、どうなるのだろうか。たぶん、賢い人ばかりだと、それが普通になるので、もっと賢くなる人と、そのまま普通の人に分かれる。かな?
 働きアリの2割はせっせと働き、6割は普通、2割程度はサボッているという話がある。さらに、さぼっているアリだけにすると、やはり同じ比率に分かれるらしい。それが「自然」だとしたら、アリはそうして、ここまで生き延びてきたのだから、少なくともそれがアリにとって、一番いいのだ。それに、どうやら人間にもあてはまるらしい。
 それを前提にすると、さきほどの疑問、賢い徳を積んだ人ばかりで世の中が形成されるとしたら、平和で美しく均整の取れた世界になりそうだが、やはり、そうはならないに違いない。
 一人ひとりは凸凹で、その凸や凹が混じり合っているからこそうまくいく。たとえ崩れそうになっても、そのまま倒れてしまうこともない。なにしろ凸凹なのだから。
 同じ形ばかりだと、うまくいきそうだが、そうはならないものなのだ。
 それに、見る方向によっては、もしかしたら凸が凹で、凹が凸ということもある。なんにでも、絶対がないから、だから、きっとうまく回っていくんだろうな。

2012.10.19 正論 sound argument
「それは正論だ」ということがある。「正論」つまり、正しいこと。しかし、正論という言葉が用いられるときに、なぜか、否定の言葉が続くことが多い。「ただし、それは通らない」とか。
 正しいことが通らないほど、世の中は複雑で矛盾したものなんだろうか。
 考えてみると、正論を通そうとして、目的を得にくくしてしまうことはある。理想論ではできるものもできない、そう思われて協力しようとする人も少なくなるかもしれない。あるいは、経験則から、もっと楽に物事を進められることがわかっているので、わざわざ困難な道を選ぶ必要はないと思って、バカにされることもあるだろう。
 つまり、正論を遠そうとするときに否定されるのは、いずれにしても「何かが困難」だということなのである

 同じように会社に入っても、2年目ともなると、まるで数年いたのと同じになっている人。反対に、環境に慣れずに、不器用に見える人もいる。器用に乗ってしまえる人は、場をつかまえるのが上手な人。こうするべきということが先にあって、それを処理するための行動が取れる人。不器用な人は、どうしてそうなのだろうと、一つひとつ確認してしまう人。
 会社では、器用な人間のほうが即戦力にもなるし、客にとっては楽かもしれない。客の立場で言えば、もし、担当者が変わったところで、たいして困ることもない。困らないほど、金太郎飴だから、顔が変わるだけで、愛着も持たないのでラクだ。
 簡単なことの場合は、そのほうがいい。そして、それほど難しい問題は日常には、ほとんどない。
 つまり、多くの事柄には、「正論」は不要、ということなのかもしれない。「正論」には、「正論」にふさわしい場しか似合わない、ということなのだろう。

2012.10.14 プラシーボ placebo
 プラセボ(プラシーボ)効果とは、根拠がないのに、自分の思いこみの結果が表れること。典型的なのは、薬を飲むと「同時に」効き目が表れてくるという症状。仮に、症状にまったく関係ない薬だったとしても、そのことに気づくまで効果は表れている(と思いこんでいる)。行列している飲食店はおいしいはずという思いこみもある。その思いこみは、客観的な判断よりも強く、実際に食べた後も持続しているらしい。
 それほど、思いこみは結果に影響を及ぼす。
 肯定的な思いこみばかりではない。たとえば、不快に思っている相手は、何をしても不快に映る。それは、年配のおじさまとイケメンで、セクハラの境が違うことでも証明済み。
 思いこみには、もうひとつあって、自分が関わったことには評価が甘くなるというものもある。たとえば、自分が関わった事柄や人には、「思い入れ」が強くなる。
 ときには、客観的な判断を、思いこみで隠してしまって、後悔してしまうこともある。結婚相手を決めるときには、小さなひっかかりには、目をつむるか良いほうに考える人が多い。完璧な人間なんて、そうはいないから、その考え方で良いと思う。でも、小さなひっかかりは結婚したらますます露出してくるかもしれない、と思う客観性は片方で必要なのだ。だからこそ、「結婚したら片目をつむる」という言葉もある。
 でも、普通は目をつむるよりも、ピンポイントでみつめてしまうことになり、些細なアラが大きくなってしまうことのほうが多い。人間関係が深くなればなるほど、近くなればなるほど、そうなりやすい。思いこみを信じさせてしまう「カリスマ」と呼ばれる人や、ほめ
上手な人は、そのあたりがとても上手である。たとえば、「あなたは優しい人」と言い続ける。すると、期待されているような行動を取ろうとするのが"人情"で、本当にそうなってしまうこともある。
 でも、どんなにほめ上手でも、持っていないものまでは引き出せない。だから、相性が良い人というのは、相手の性格の中から良い部分を引き出す相手ということなのだと思う。片付けるのが下手な人に「片付け上手ね」と暗示をかけても、本当に片付け上手になるかは怪しいが、「片付けるのが下手ね」と言い続けるよりは、きっと良い。それが言えるのは、その人の性格、というよりは、相手との相性なのだと思う。
 プラセボ(プラシーボ)はラテン語の「喜ばせる」という意味なのだそうだ。「思いこみ」の本来の意味は、自分や相手を喜ばせることなのだろう。
 考えてみれば、本当はおいしくないものでも、「おいしい」と思っている人のほうが幸せかもしれない。思いこみだったということに気づいた後も、なお、思いこみ続けることが可能な場合は、それも"アリ"。結果が同じであれば、お医者さんの言った「大丈夫」を素直に受け入れるほうが、「本当かな」と不安を増幅させるよりは、いい結果に展開することもある。
 思いこみで、仮に良い結果は得られなくても、良い過程を得ることはできる。うかつだった、騙された、お世辞だったんだと、そこに執着するより、少しでも楽しい時間があったのなら、それで良いのかもしれない。そう思うのである。

2012.10.9 執着 adherence
「ゆとり」教育とはいったいなんだったのだろうか。理念と行動指針の未整理が、教師をも混乱させたらしい。もちろん一番、迷惑なのは生徒たち。「ゆとり」=「時間」という単純化された発想に変化してしまったことで、平均的な学力も落ちたなどといわれている。
 言葉の意味をどう捉えるか、あるいは、ひとこと入るだけでも、意味が変わることはよくある。そうしたことを防ぐための法律的な文書でさえ、抜け道はある。言葉を操る法律家がつくった文章ですらそうなのだから、最近、コミュニケーション下手で、会話やメールで相手を不快にさせてしまうことが問題になっているが、それも仕方ないことに思えてくる。
「執着心が強い」という言葉には良くないイメージがある。しかし、自分の目的に対する執着、自分のこだわりやプライドへの執着は、悪いことばかりともいえない。
 いい執着には、「継続」の意味と、そこに「希望」がある。たとえ人に理解されないものでも、その執着心は"タネ"になる。タネは、肥料や水や太陽で、いかようにも伸びる。伸びたときに、次のタネをひとつでも収穫できれば、執着心も悪くはない。
 医療現場では、「コンプライアンス(遵守)」から、患者が治療へ関わることで積極性を促すという意味の「アドヒアランス(執着)」という方法に変わっているそうだ。
 教育現場で、農作物をつくることに子供を参加させるのも、いい意味の執着心で、野菜の偏食が無くなることもあるらしい。
 裁判員制度は、簡単にいえば、一般的な考え方を、法へ取り入れる制度と聞いた。制度自体の結果が出てくるのはまだ先になりそうだが、少なくとも、自分とは別世界という無関心さだけはなくなったのではないかと思う。
 怒り、妬みなどのマイナスの感情より怖いのは「無関心」である。
 無関心を装うことは、「思いやり」の場合もあり、人との摩擦を起こさない手段にもなるが、反面、表面的になると、人の心を受け入れないことにもつながる。習慣化すると、自己中心的な考えを強めて、それが、いじめなどにも影響しているようにも思う。
 立てた方針、計画は、いろいろな条件が加わって、そうそう思い通りにはならない。先の先まで見通すことは、それぞれの専門家ですらなかなか難しいことのようだ。だからこそ、科学者のように、見えないことに「執着」できる心が、どれほど強いものなのかとも思う。良い「執着心」を養いたいと思う。

2012.9.18 無益な争いを止められる能力
 NHKで『イ・サン』をやっている。その李氏朝鮮第22代国王を守り抜いた剣士の話という予告を見て、『剣士ペク・ドンス』を見始めた。
 韓流ブームのはじめの頃は敬遠していたが、その後、偶然見た、苦難を乗り越えながらも建国していく話に、ひそかにはまっていたことがある。
 表情や動作などのニュアンスで伝え、伏線をはってあることも多く、画面を見ていないと微妙な心理をつかみ損ねてしまうことが多いのが日本のモノ。その点、韓国モノや中国モノは、スパン! とシーンがいきなり転換することが多いように思う。重要な場面を見逃したと思って、録画を巻き戻してしまったこともある。枝葉の部分は切り捨てても、どんどん先へ進んでいく、時に矛盾を感じることはあるが、そのリズム感がおもしろい。
 会話のはじめに、「ハハハ」という笑いが多いことや、詫びるときに「死罪にしてください」と、割と軽めに出てくるのは、いまだ不思議に思っている。
 最終話で、朝鮮最強の武人となったペク・ドンスと子供のシーンがあった。武術の「武」という字を分解すると「二人の持つ戈(ほこ)を止める」と書く。つまり、戦いを阻止する能力を持ち、人を生かす技が武術だ、と子供が言う。これまでのストーリーにかぶせた出来過ぎのシーンだった。
 しかし、武人もそうだけど、すべてそうだな〜、と妙に納得しながら聞いていた。世界中で争いが起こっているけれど、こうした能力を持つ本物のリーダーがいれば、多くの問題がうまくまとまるだろうな〜。
 ペク・ドンスが、強く成長したときに、「殺気」も武人には時に必要であると亡き師匠にいわれていた。
 ヨ・ウンは、清の殺人集団「黒紗燭籠(フクサチョロン)」の頭、天(チョン)を引き継いで、最終的に親友のドンスに命を託すことになってしまった。そのヨ・ウンが宿命として、戦いを挑むのが先代の天(チョン)。先代も強くて、哲学を持っていて、みかけによらずいい人だった。まるで、日本の「任侠道」を見ているようで、こんな頭領だったらいいかも、とつい思ってしまっていた。
 先代のチョンの良きライバルでもあったペク・ドンスの師匠は、国王から認められた「コムソン(剣仙)」。
 この2人は、同じ女性を愛し、立場は違っているが、これがまた、いい関係だった。コムソンは、愛する女性を失って、病におかされた自分の死期を悟り、あえてチョンとの戦いに命を委ねる。
 幸せな人生、って、スポーツ選手に限らず、ライバルに会えること、いい師匠に会えることなのかもしれないな。
 そういえば、ヨ・ウンを演じたユ・スンホという俳優を初めて見たとき、日本のある女優さんに似ていることが気になって仕方がなかった。 

2012.9.17 話の長さ
 スピーチが長いと嫌われる。特に会の始まりのスピーチは。
 でも、内容が魅力的であれば別だ。
 話が長いといえば、女性の特質。
 そして、つきあいが長ければ長くなるほど、相手の男性が上の空であることを不満として口にするのも"特質"。聞いていないことをとがめると、おもしろいことに、「話が長いから嫌」「疲れているから聞きたくない」「話がおもしろくない」「考え事をしている」と似たような答えが返ってくるようだ。
 そういえば、話の長い女性や、口数の少ない男性には「頭が悪い」というイメージがあるというアンケート結果がある。もちろん、本当に頭が悪いわけではない。
 公的な場合は、簡潔に話ができないのは困る。ただし、会議などでは発言が少なすぎると「仕事がわかっていない」と思われてしまうこともあるらしい。目立ったことをするほうが、仕事ができると思われてしまうのが、残念ながら現実なのだ。
 ドラマや小説のように気の利いた、含蓄のある短い台詞は格好いい。しかし、
「どういうこと」と聞き返されたり、違う意味に受け取られたりもする。
 しかし、言葉が多すぎると、ポイントがずれて、意図しない受け取られ方をされてケンカになるなど、話がややこしくなってくることがかなり高い確率で、ある。
 話があまり上手くない場合、むやみに長く話さない方がいいかもしれない。あれっつ、話がうまくないから、長くなるんだったっけ?

2012.9.17 近眼でいいのだ
 老眼は、年をとった自分の顔をはっきり見なくてもいいようにするためのプレゼント、などという、まことしやかな話がある。
 しかし、眼鏡が必要な人の場合、睡眠中の地震で壊れたらどうしよう、という不安を感じることがある。某コマーシャルのように、凶暴な肉食獣や、ウルトラマンファミリーのごとく、眼鏡を部屋という部屋に配置しなくては、と考え出すと、"夜も眠れなくなる"。そのままつけて眠れるコンタクトレンズはあるけど・・。
 そういえば、いろんなことを解禁してみようと思い始めて、たとえば、ぎゅ〜ぎゅ〜の電車にがんばって乗ってみた。でも、感覚に合わなかったので、女性専用の車両には乗らない、の方を都合により解禁することにした(なんだか、乗ってはいけないような気がしていたので)。女性車両は案外、空いている。いまだに乗り込んでは、駅員さんに注意されて、恥ずかしそうに降りていく男の人も少なくない。
 裸眼で外出することは無理と思っていたけれど・・やってみた。電車の掲示板が見えなくて、どのホームが早いのか、よくわからなかったけど、見知らぬ土地ではないのでなんとかなった。
 ああ、この感覚。まるで、不透明なバルーンに包まれているような。誰が何をしているか、どこを向いているか、よくわからない。周りのものが見えないので、周りの人のことをあまり考えることもなく、自分だけの世界。といっても籠もっているわけではなくて、相手が近づけば世界に入ってくる。
 ああ、そうだ。この感覚で人と接するくらいがちょうど良いのかもしれない。
 忙しそうだからと仕事を代わってあげたら、実はデートで忙しかったことがわかって、ああ、そんなことだったら、自分のデートをキャンセルせずに優先させれば良かった、ということもなくなる。変なたとえだが。
 もし、余りにも周りが見えすぎて、手を抜けなくて困っている人が近眼だったら、一度、裸眼で歩いてみると、いいかもしれない。くれぐれもケガをしないように気をつけて。

2012.9.14 カナブンに教わったこと
 電車に乗り込むと、数人が緊張した顔つきで、何かを視線で追っている。何事かと思っていると、その答えが飛んできた。
 動体視力が優れていないのでよく見えなかったが、丸っこい、結構大きな虫だった。ブ〜ンと飛び回り、そのたびに立っている人間が身をかがめるので、まるで、打ち合わせなしの「ウエーブ」をつくっているようだと客観視しつつ、怖い。
 朝見たワイドショー番組の「今年はスズメバチが凶暴化している」という見出しが頭に浮かんでくる。でも、形からすると、スズメバチではない。そういえばクマバチみたいに丸っこかった。きっと、周りのあたふた度から考えて、蜂に違いない。
 刺されるとまずい。恐怖心がふくらんでくる。
 飛び回る虫に、みんなでアタフタしている間も、そんなことを知らない人たちが、後から後から乗り込んでくるので、外に出ることすらできない。そのうち、ピタリとやんだので、とりあえず、胸をなで下ろす。
 どこかに飛んでいってくれたのだったらいいけれど。
 すると、私の横に立っている女の子の鞄を、座っている男の子が指さしている。見ると、鞄にカナブンが止まっている。
 カナブンだけど、女の子は怖がっている。少し離れた所に友人と一緒にいた男の子のうち1人が歩み寄ってきて「鞄触るよ」というような手の動作をしながら、虫をつかんで外に放り投げた。「えっ」と思ったが、カナブンに羽があることを忘れていた。一度下降しつつ、落ちることなく飛んでいった。
 大騒ぎの虫騒動は、悪意も害もないカナブンだったのだ。きっと、大きな物体(人間)がワサワサ動いて、カナブンのほうが焦っていたに違いない。心なしか、放り投げられてホッとしたように飛んでいった。
 それにしても、テレビ番組で見た蜂の連想から、勝手にカナブンを凶暴な敵のように思いこむなんて。他の人たちは、なんだと思っていたのだろう。案外、こんな思いこみが、話を混乱させてしまうことも多いに違いない。
 もうひとつ思ったことがある。指を差して教えてくれるより、つかみ取ってくれるほうが、ポイントが高くなるということ。現に、女の子は、取ってくれた男の子には、自然に礼を言っていたし、私も、漠然と、いい人だと思って見ていた。
 座っていた男の子は、次に、もしこんなシーンに遭遇したら、迷わず「取ってあげよう」、そう思ったかな。

2012.9.9 試練とは?
 時間ができたので、適当に言葉を入れて検索してみた。そういえば、昔、読む本がなくなると、家にあった百科辞典をパラパラめくって読んで遊んでいた。
 鏡リュウジさんが、開いたページで占う本を出版したとき、易に興味を持っていたので、そういう方法もアリだ、と思った。
 とすると、あのとき、百科事典の開いたページにも、それぞれに何か意味があったのかもしれない。確かに、そのとき知った哲学者の名前は、記憶に残り、その後、本を買った。難解すぎて、一通り読んだものの、年齢を重ねて、また読めばわかるのかもしれない、と思ったが、数十年たったいまも、まだ読み解く自信はないので、先延ばしになっている。
 意味がある、とあまりにも思いこむと、占いだけに頼って人生を決めるように、それはそれで、やっかいだ。
「越えられない試練を神は与えない」という。
 しかし、本当にそうなのか。たぶん、運命は与えられたものではないのと同様に、「越えろ」といっているのは神ではなく自分だ。それに正面から向き合って、乗り越えるのではなく、向こう側に行くには、潔く違う道を選ぶのもOKなのだ。
 自分のために用意されたかどうかわかならいものを、「壁」と思いこんで格闘することだけが試練ではないのだから。
 偶然の検索から出てきたページに、欠点を克服したいという質問に対して、親切にいろいろ書き込みされているものがあったので読んでみた。手厳しい、まっとうな意見から、人の見方はそれぞれだから気にする必要がないというものまで、どの意見も、いちいちうなづける。
 でも、欠点なんて、そんなに簡単に直るものでもないし、何をもって欠点というのか決まったものもない。そんなふうに思いこんでいる、あるいは思いこまされているだけのこともある。
 その欠点が自分の目的のための障害になるのなら問題だが、そうでないならば、生かす道を考えたほうがいいのかもしれない。
 大多数が欠点と思っていることを逆手にとって、生かしている人もいる。そのための試練を自分に課した方が、きっと良い。

2012.9.9 清盛に教わったこと
 先週のNHKの『平清盛』。平家を危うくする行動に対する処遇を、清盛がどうするのかと思っていたら、何もいわず、自分の夢を語りつつ、その夢を一緒に手に入れようと言っただけだった。叱る、諭す、なぐさめる、見守るより、その言葉がベスト。すごいな、と脚本に感動。
 山法師、比叡山座主が瞬時にはあきれて物も言えないほど、へりくだり、後白河院とは正面からの衝突を避ける。時代をつくった人間は、やはり、心を読む術に長けていると、また脚本に感動。でも、だからといって恨みをかわない、ということは無いのだけれど。
 何事も、波風立てぬように丸く事を運ぼうとしても、相手に、それが伝わらなければ、結局、複雑にするだけ。でも、生半可にいい人ぶるのは中途半端。タイミングをはかっているのでない限り。
 譲るところは最大限譲る。でも譲れないところは、何があっても譲らないのがいいと思うけど、ケンカになってしまっては元も子もなくなるので、そこが難しい。
 いいなりになるのであれば、相手が恐怖を覚えるほどまで耐える覚悟が必要だろうな、と思う。でも、先に、味方が根負けするかもしれないけど。

2012.7.22 艱難、汝を玉にす
 母親の後ろを泣きながら後ろをついていく子供。そのときの母親の毅然とした態度といったら。見ているこちらが心配になるくらい、サッサッと歩いていってしまう人もいる。他人でも気にかかるのだから、祖母や祖父が近くにいたら、きっと、あらゆる手段を講じて子供側のサポーターになってくれるに違いない。
 子供も純粋そうに見えて、そうしたことは体験から認識しているようだ。
 だからこそ、あまりにも意見を通しすぎたり、目上の人がサポートしすぎるのも良くないし、まったく意見を通してやらない環境も、その後の人間形成には良くない。
 しかし、そのバランスが難しい。特に、自分の子供は。
 交渉は、意識するしないは別として、日常的に行われる。案外、通りそうにないことが、話の仕方や、その人のキャラクターで通ってしまうこともある。
 多くの場合、時にはルールを拡大解釈しても柔軟な方法を選んで解決する。しかし、相手が自分の利益のみ追求しようとしたり、感情がすでにこじれているとき、相手が決定権を持っていない場合はうまくいかないこともある。
 難しい交渉は、つい早めに決着させてしまいたいところだが、相手のことを理解している態度を早く示しすぎたり、自分の力を誇示しすぎて反発を招いたりすると、思うようにいかなくなる。時間と労力は、「決裂」という結論を避けたくなってしまうもので、一番難しそうな要求は、長時間かけた最後にするほうが良いそうだ。
 もし、否定されたとしても、情報が揃っていない現状では「NO」というだけのこともある。不思議なもので、早く解決させてしまうと、裏があるかもしれないと余計な勘ぐりをされてしまうこともある。
 交渉相手だけでなく、その周囲の人の好きな物、嫌いな物、考え方の基準、決断の早さなどを把握しておくと都合が良い場合が多い。できれば、自分が関わったことには興味を抱き、感情を動かしやすくなるというのを利用できると良い。  
 ただ、相手の情報を仕入れるときに、自分の情報を必要以上に流していることもあるので注意。ひきいれる人選を間違えると、それが足枷となることもある。
 相手がおかしいと思う場合でも、人前で体面を傷つけることは、それが切り札にならない限り、不利になる。個人の心情として伝えると、感情に訴えかけることができる場合もある。
 対立していないということは、まだ交渉すら始まっていないのかもしれない。何か些細なきっかけで、ひっくり返ることも多い。

2012.7.15 「ゾーン」
「ゾーン」とは、周りの景色が意識から消えるくらい集中力が極限まで高められている状態のことを指すそうだ。他者からはテンションの高い興奮状態にも見えるが、本人は至って冷静なことが多い。
 内村航平選手と、将棋の
羽生善治名人の脳を、他の人の脳と比較していたものを、別々のTV番組で見た。
 2人とも、それぞれ比較した人の脳には見られない、違う部位が活発に動いていた。内村選手の場合は、筋肉を動かしていないにもかかわらず高次運動野が活発に働いていた。内村選手が片手を動かしながらイメージしている場面を、テレビでよく見るが、本人曰く、脳の中で、小さな自分が動いているそうだ。
 一流といわれる人は、持って生まれた才能を、情熱と努力で成長させる。それを脳と筋肉(行動)と言い換えてみる。脳と筋肉は、年齢に関係なく、使えば使うほど活性化するらしい。つまり、何事も、始めるのに遅いものはないということだ。

2012.7.10 ペアのアロハシャツ
 女性はスカート、男性はパンツを組み合わせているが、おそろいのアロハシャツ。基調の色が渋めなので、すごく目立つわけではない。2人で手をつないで歩いている。
 ほんのたまに、いまでもペアルックを見るが、自分たちの世界に浸りきっているようなものから、小物でおしゃれにペアをつくっているものまで、いろいろ。
 そういえば、新婚旅行にハワイに行くことがはやっていた頃、写真でアロハシャツのペアルックをよく見せられた。いま考えると、幸せな時代だった、恥ずかしくなるくらい。
 でも、今回見た2人は、なかなかうらやましかった。
 なぜなら若く見積もっても、70代後半のカップルだったから。
 手をつないでいるのも、支え合って歩いている、そんな感じだった。何日か前に見たTシャツのカップルもやはり年齢は70代〜80代くらいだったと思う。
 想像するに、青春の頃にはやや恥ずかしいと思ったに違いないペアルックは、どんな感覚なんだろう。自ら、購入したのか、それとも、おみやげで孫たちにもらったのか。
 
 日本認知症学会理事、国立長寿医療研究センター 内科総合診療部長 遠藤英俊先生がTV番組で話していたことによると、脳の認知機能を維持するには、医学的に次の4つが効果的とされているそうだ。
■週3回、一回30分以上のウォーキング。
■音楽に合わせて体を動かすことが、脳を活発に動かすことにつながるダンスを週2回。*ダンスには異性と手をつなぐという要素も重要だとか。
■様々なものに好奇心を持って行動すること。
■自分の外見を意識すること。

2012.7.7 織り姫様、女子会へ
 女子会も定着し、一昔前であれば、女性1人では断られかねなかった宿泊もOK。体力が必要な男の職場にも進出し、理系や地図に弱いといわれていたのも昔の話。
 30代では男女の給料の差もなくなったようだ。
 就職難は女性のことかと思っていたが、男性のほうが経済面、精神面でも疲弊しているようで、生涯結婚しない男子は今後、さらに増えていくと予測されている。それも年齢を重ねるまでは自由に遊び、その後、若い女性と結婚するのもあり、という昔のパターンとは違う。
 デートで女子のバッグを持つだけで、情けないといわれていた男たちは知らないうちに進化している。「男女の友情は成り立つか」を軽く乗り越えて、恋愛感情を持たず、美肌やむだ毛にこだわり、人前で泣いたり。
 このままいくと、間違いなく少子化は加速しそうである。国という集団として考えたときには、単純すぎる意見だけど、それも困るかな。
 もしかしたら、100年後には男女の脳の特徴は変化しているかもしれない。恋愛パターンも変わっているかも。女子校のほうが伸び伸びと勉強にも集中できるため、学力が伸びるというデータもあるらしい。
 男のメンツによる摩擦も、女性の上司が増えたいま、若い男子には薄れている。いままでは、仕事においては劣っていると思いこまされていた女性の能力。しかし、脳の特徴を生かしながら学習させると、男子には無い能力が伸びていくことも証明されているようだ。
 競争ではなく、協調性を生かした仕事では女性のほうが強いことがわかっている。確かに、女性にはコミュニケーション能力がある。
 基本的には精神力も決断力も高いように思うことも多い。ただ、身体のしくみは、急には進化しない。男と違って複雑なまま。そうか、男は身体のしくみのシンプルゆえの強さなのかもしれない。
 様々に複雑な女性は、若年性更年期障害を発症する人数も増えているそうだ。
 今日は七夕。織り姫様も、ストレス発散のために、女子会に行っちゃったかも。

2012.6.17 鶏ムネ肉に教わったこと
 鶏のムネ肉。疲労に良いといわれる物質「イミダゾールジペプチド」を食品の中で一番多く含むと聞いて、ふ〜ん、とスーパーでチェックしてみた。「ふ〜ん」というのは、「疲れているわけではないけれど、ちょっと気になる」が「健康番組に踊らされています」というのは隠したい、という姑息な感じを表している。
 体に良い割には、なぜかメチャ安い。うまみ成分(イノシン酸)は鶏モモ肉よりも多いそうだが、そんなふうにも感じない。人気がないのは、鶏肉の中でも、もっともパサパサッとしているところのようだ。
 そういえば、戦略にのせられて、ビタミンC=レモンのイメージを長年持っていたが、仕事で、五訂増補日本食品標準成分表(文部科学省)を見比べたたとき、実際の数値はパセリのほうが高いことに気づいた。
 もちろん、標準成分表の100g当たりというのは、あくまでも100g中なので、コンパクトで重量があるものに比べて、葉もののような軽い物はたくさん食べなければならないことになる。そこが、「1日350g食べましょう」の野菜摂取量をクリアできない難しさといわれる所以。もちろん調理法でクリアすることもできるが、野菜は収穫したときから栄養素が減っていくものが多い。つまり、自分で収穫するか、毎日、産地直送にしなければならなくなるかもしれない。現実的ではない。
 パセリは単に付け合わせと思って食べない人もいまだに多いようだ。少量だと、あっさりしていておいしいが、一度、自宅で生サラダに大量に入れてみたところ・・・、大変だった。その後、少し焼くと食べやすくなるらしいことや、生でもおいしいパセリの種類があるのを知ったけれど、まだ試していない。だって、他にも生でおいしい野菜はあるし。
『ためしてガッテン』(NHK 6月13日放映)で、料理研究家 林廣美氏が紹介した、ムネ肉を簡単においしくできる方法。
 肉にフォークで穴を開け、水、砂糖、塩を入れたビニール袋に入れて、空気を抜き、1分ほど揉んだものを、しばらく置く。すると、パサパサ・ムネ肉が水分を吸うので、焼いてもしっとりしているそうだ。分量は、肉の重さに対して、水10%、砂糖・塩各1%。これは、ムネ肉にタンパク質が多いことを利用したもので、タンパク質に塩がくっつくと、水分が入りやすい状態になり、さらに砂糖の性質を利用して、その水分を保持してしまうのだ。
 それって、肌にも利用できないのかしら。って、ムリでしょ。塩も砂糖も皮膚から入らないもの。
 話を戻して。もっと
簡単な方法も紹介していた。
 まず、ムネ肉を包丁の峰で叩く。さらに、ボソボソした食感=繊維感を無くすために、繊維質を短くするような切り方をすること。スジの多い他の肉と同じだ。そういえばタマネギなどの野菜は繊維の向きを利用して料理に合う食感に合わせて、切り方を選ぶそうだ。思い出したときにしかやらないけど。
 ムネ肉は中央にスジがある。肉が厚くなっている方はスジに対して直角に繊維が入っているので、繊維に対して直角(スジに対して平行)に切る。肉の薄い方は繊維が次第に斜めになっていくので、中央のスジと直角に切ると繊維感が少なくなるそうだ。
 相手(素材)を知ることで料理もおいしくなる。孫子の兵法の応用だ。
 私はパサパサのままでも好きだけどネ。
 そうか。不都合だと思うことから特許商品ができるように、「嫌い」が、案外新しい発見につながることもあるのかも。ということは、選択肢には「好きだから」同様、「嫌いだから」というのもアリ?
「関心」を持つことができるほどの「嫌い」レベルじゃないと無理だけど。そういえば、関心が無い人は、嫌いと思っているより、好意が芽生えにくいと言うよなァ。

2012.6.17 小島一郎とミレーが求めたもの
 すばらしい写真家がいると教えてもらった。
 小島一郎は、大正12(1924)年、青森市大町の写真材料などを扱う商店の長男として生まれたそうだ。青森県立商業学校(現 青森県立青森商業高等学校) 卒業後、出征。復員し、商店を継ぐ。昭和29年頃に写真を本格的に始め、日本の報道写真の先駆者・名取洋之助氏に見いだされて、昭和36年上京。同年、『下北の荒海』でカメラ芸術 新人賞受賞。しかし、
東京ではテーマが見いだせず、苦悩の果て、昭和38年冬に、北海道に赴くが過酷な撮影行で体調を崩す。青森に帰郷後、昭和39年7月、39歳で急逝。
 覆い焼き、複写の技法を用いて、日常をテーマとしながらも、それを超えた構図力などが絶賛されている。
 2009年1月10日〜3月8日に青森県立美術館で「戦後の青森が生んだ写真界の『ミレー』」として、展覧会が開かれていた。ウエブに掲載されていたモノクロ写真数点の中では「つがる市 木造ー出の里」(1960年頃)の写真、特に雲が好きだ。
 もしかしたら、昭和30年代後半の東京には撮りたい「空」が無かったのかもしれない。
 小島一郎の話を聞いた2日後、『美の巨人たち』(テレビ東京 6月16日放映)でミレーを紹介していた。
 フランス北西部ノルマンディーのイギリス海峡に面した岬に近いグリュシー(GRUCHY)に生まれたジャン・フランソワ・ミレー(1814-1875)。格式の高い農家の長男に生まれ、農作業の合間にスケッチを楽しむという少年時代を過ごした。ミレーの絵の才能を認めて美術学校を勧めたのは、しつけに厳しく厳格な祖母ルイズ・ジュムランだったとか。
 画家を夢見てパリ、そして南南東60kmに広がる農村バルビゾン(BARBIZON)へ。カトリーヌ(後に再婚)と子を連れてパリを出たのは、1849年のコレラ流行がきっかけだった。
 バルビゾンの街中にあるガンヌの宿(現 市立バルビゾン派美術館)に集まった画家集団をバルビゾン派と呼ぶ。バルビゾン派のルソーやコローと交流を持ち、次第に子供の頃に感じた描く楽しみを思い出し、一時的避難のつもりだったバルビゾンに住み着くことにする。35歳から晩年の26年間を過ごしたアトリエ兼住宅は、現在ミレー記念館になっている。
 フランス二月革命(1848年)の後、それまで描いていた神話から、テーマを変えた『箕をふるう人』でミレーは脚光を浴びる。
 聖書に、夏、刈られた後の麦の落ち穂は、貧しい未亡人やこどもが拾うことを許された神の報酬とあるそうだ。それを知ったとき、教科書で初めて見たのどかな絵が違ったものに見えてきた。『落ち穂拾い、夏』(1853年)は、山梨県立美術館が所蔵している。 誰もが知る3人の農夫が描かれた「落ち穂拾い」(1857年)はパリのオルセー美術館にある。
 しかし、サロンで発表した「落ち穂拾い」は当時の評論家に、「貧困の三女神」や「秩序を脅かす凶暴な野獣」などと非難を浴びたそうだ。農民の姿にひかれてバルビゾンに住み着いたミレーの絵に、労働者の悲惨さを抗議した反社会的な意味がこめられていると富裕層が言い始めたのだそうだ。
 フランス二月革命以降の揺れ動く時代のさなかだったとはいえ、いちゃもんである。ミレーはともかく、死後評価が変わる多くの芸術家や偉人に非難や反対した人は、もし、自分が間違えていたと思ったら、きちんとお詫びしてほしいものだ。
 訪ねてきた友人に、農婦を「平原の守り神」とミレーは言ったそうだ。
 ミレーが「農民画家」と呼ばれるのは、本人が常に言っていた「農民として生き、農民として死んでいく」という姿勢からだったとか。
 1854年、格式の違いから結婚を反対されて駆け落ち同然だった妻子を連れて、初めて帰郷する。祖母、そして母もすでに亡くなった後のこと。「落ち穂拾い」に描かれた3人の農婦は祖母、母、妻で、悔恨や感謝を込めて描いたものといわれている。
 神話をテーマに描いていたときに「裸婦しか描けない」といわれ、非難を浴びながらも農民をテーマとして、自分の描きたいものを見つけたミレー。才能を認められながらも、自分のテーマを追い求めて亡くなっていった小島一郎。その生涯はあまりにも違っていたのだと思った。

2012.6.16 びっくり時計草
 社長が撮った写真に不思議な花があった。花束にすると、さぞかしインパクトがありそうだ。
 なんという名前だろうと思って調べたら、1回目の検索キーワード「時計」でヒットした。まさかの、トケイソウ(時計草)だった。めしべが時計の針のようなところから付けられたそうだ。素人でも考えつくほどそのままだけど、これ以外は確かに考えられない。
 学名はPassiflora。英名 passion flower(キリストの受難の花)。イエズス会の宣教師が ラテン語でflos passionisと呼んだもので、flosは花。聖フランチェスコが夢に見た十字架の花に違いないと思ったことに由来しているとか。
 しかし、インパクトありすぎのこの花は、近年ブームの、簾の代わりに植物でつくる「緑のカーテン」になるのだとか。ツル性と知って、2度びっくり。カーテン状になっていることを想像すると、バラとはまた違った、すごさがある。花は5〜10月に咲くそうだ。
 トケイソウ科で、原産は中南米。400〜500種もあるそうで3度目のびっくり。一堂に集めたら、どんな感じだろうか。ランも驚くかも。
 パッションフルーツは、実はクダモノトケイソウというのが和名。で、4度目のびっくり。「紫玉種」は生食で、「黄玉種」はジュースの加工用として栽培されることが多い。
 日本には江戸時代初期にはいってきたトケイソウ。湿度、寒さに強いものが多く、病害虫も少なく、見た目のイメージより扱いやすらしい。なかでも育てやすい品種にアメジスト(ラベンダーレディ)、クリア・スカイ、ピレシー、インセンス、アトロプルプレアなどがある。とにかく見ていて、飽きない。
 緑のカーテンをつくる方法を『趣味の園芸』(Eテレ 6月14日放映)で紹介していた。
 遮光したい場所の長さにした支柱を、つる植物用ネットの左端と右端で2本使用。ネットの編み目を縦に、布に針を刺すように交互に、左右の端に各1本ずつ支柱を通す。つまり、球技のネットのようになる。
 次に、横220cmのネットの長さであれば、上と下、その中央で3本くらいの支柱を、今度は横(縦の支柱と垂直)に、同様に編み目をくぐらせていく。支柱の最初と最後の部分は、ずれないようにネットを麻ひもで結ぶ。これで、ネットの基本枠が完成。場所に立てかける。
 鉢植えで売られている開花株の「巻きひげ」をほどいてばらす。元肥入り野菜用培養土を入れたプランター(50リットル)に、鉢から抜いた形のまま崩さずに入れて、他の土となじませる。
 50リットルの土で葉に十分に栄養を行き渡らせるためには、クダモノトケイソウで一鉢、観賞用のものでも2鉢くらいで十分ネットを覆えるそうだ。
 立てかけたネットのまんなかあたりにプランターを置いて、茎を逆八の字になるようなイメージで、右左へ広げる。茎の上の方を持ち上げて、それぞれネットの編み目に固定。茎が折れないように注意して、茎に麻ひもを1回巻き付け、ネットの編み目が交差している部分に結んで止める。適当な間隔で、茎をネットに結んで固定しておく。
 お水は土の表面が乾いたたらたっぷり。植え替えて、1、2ヶ月後には化成肥料を月1回。
 クダモノトケイソウは実を付けたら、袋状の水切りネットに入れて、水切りネットを編み目に結びつけておけば、下に落ちない。

2012.6.16 kampo
 徳川家康が家来と話をしながらゴリゴリと粉をひいている。気になっていたが、後に、家康が健康オタクで、薬も自分で調合していたことを知って、「史実」的な部分にも興味を持つようになった。
 いま、世界でKampo(漢方)が有名になっているそうである。
 5〜6世紀以降、遣隋使、遣唐使らが中国医学を持ち帰り、日本の気候や体質に合わせて調えられていった漢方。漢方という名は、日本で西洋医学を「蘭方」と呼んだことに対して付けられたもので、「方」は方術、医術の意味である。
 中国では漢方とは言わないと、「教科書にのせたい!」 病気を防ぐ健康SP(TBS 6月12日放映)で順天堂大学 医学部 小林弘幸教授が言っていた。
 中医学(中国医学)、あるいは中国漢方とも表されているようだ。
 仕事で調べたこともあって、東洋医学(中国医学)には興味があるが、中国漢方と日本漢方を区別して考えていなかった。そういえば、解釈がまったく違うものがあった名、合点がいった。
 日本漢方は、室町時代以降に、田代三喜、そして弟子の
曲直瀬道三などらによって道がつくられ、江戸中期に日本の伝統医学として形づくられたもの。中国古典三大医学書のひとつ『傷寒論』をもとにしているが、日本独自のものという位置づけらしい。
 先日、ラーメンが日本料理と紹介されていて不思議に思ったが、本家の中国は、拉麺とは「似て非なる物」と捉えて、ジャパニーズラーメンはおいしいと言っていた。そうはいっても、日本などの外国の技術からつくった「新幹線」を中国のオリジナルと言うのはどうなのかな〜。心が狭いかな。
 漢方の原材料が、自然界の植物、動物、昆虫、鉱物であるところに違いはないようだ。本草学の始祖といわれる神農が、365種の植物・動物・鉱物などを自ら口にして確かめたとされる中国最古の本草学書、中国古典三大医学書のひとつ『神農本草経』は有名だ。
 ちなみに、芍薬(しゃくやく)の「薬」という字は、根が薬となることから当てられたもの。漢方薬は、そのほとんどが生薬を複数組み合わせて使用される。
 明治時代、東洋医学が排除されて、西洋医学が主流になっていった。そのため、最近まで東洋医学を取り入れる医師は少なかったが、「漢方薬使用実態調査及び漢方医学教育に関する意識調査 2012」(日経メディカル開発)によると、日常診療で処方している医師は83.8%という高い数値になっていた。全国で調べたら、それほど多くないのではないかと思うけれど。
 西洋医学では対処できない病気でも、漢方を含めた東洋医学で効果を表すことがあるといわれる。そこには西洋哲学と東洋哲学の考え方の違いがある。自己解釈だが、医学だけでなく、すべてにおいて東洋的な考え方、特に日本文化として進化したものは、一見すると合理性を目的としておらず、融合させて捉えるところが特長のように思う。
 漢方薬においては、誰もが一度は耳にしたことのある風邪薬「葛根湯」は、前出、小林弘幸教授によると、胃腸の弱い人には勧められないそうで、人に合わせたオーダーメイドになっている。ちなみに、小林弘幸教授は初診4年待ちなのだそうだ。大変。
 インフルエンザの抗ウイルス薬と麻黄湯(桂皮・杏仁・甘草・麻黄)で解熱作用にそれほど差が無かったことが読売新聞2009年5月8日付に掲載された。『漢方製剤「麻黄湯」タミフル並み効果』というタイトルで、福岡大病院 鍋島茂樹総合診療部長らが研究結果を発表して話題になったそうだ。
 内容は、インフルエンザA型ウイルスが検出された発熱48時間以内の男女20人(18〜65歳)のうち、8人にはタミフル、12人には麻黄湯エキスを飲んでもらい5日間の経過を診たところ、平熱になるまでの平均時間にほとんど差が無かったというもの。ちなみに麻黄湯は健康保険証が使用できるそうだ。
 小林教授によると、高熱が出るインフルエンザの症状である関節痛を和らげるのは麻黄湯の特徴でもあるそうだ。
 他にも、番組で、女性の悩みに多い「便秘症」「冷え性」「肥満症」の代表的な漢方薬を紹介していた。
 便秘症に良い漢方のひとつに、大黄と甘草でつくる大黄甘草湯(だいおうかんぞうとう)があり、多くの場合、投与1日で変化があると言っていた。
 冷え性には、血の巡りを良くする「当帰四逆加呉茱萸生姜湯(とうきしぎゃくかごしゅゆしょうきょうとう)」(当帰・桂皮・芍薬・細辛・呉茱萸・生姜・木道・大棗・甘草)。1時間ほどで指先の血流が
良くなるとか。
 肥満症には、脂肪を燃焼する「防風通聖散(ぼうふうつうしょうさん)」。
 もちろん、まずは専門医に処方してもらうことである。

2012.6.15 執着心でしょうか
 おみくじに「失せ物ーー出てくる」とかあるけれど、なんのために載っているのか、これは「物」ではなく、譬えなのかなと考えたことがある。
 慎重であろうと努力しているが、そそっかしく、でも、物を紛失することは滅多にない。(そういえば、履歴書の長所に書けば良かった)たぶん、忘れそうになっても、仮に落としたとしても、すぐに気づくことが、少ない理由だと思っている。
 服につけていた小さなブローチが無いことに気づいた。記憶をたどるとまだ数分くらいしか歩いていない。繁華街だが、夜のこと、足下はさすがに暗く、人通りも多い。引き返して探したからといって見つかるかどうか。時間があれば探しに行くが、終電時間に間に合わなくなるかもしれない。
 ブローチは自分で買った物で、長年使っていて(留め具がゆるんでいたのかも)、ここから自宅までの深夜料金タクシーよりは安かったと思う。でも、何にでも合うシンプルさや大きさが気に入っていて、とても重宝していた。結局はあきらめた。指輪をなくしたときも、サイズが少し大きくて、はずれて、とれないところに転がっていってしまって、あきらめたことがある。
 いままでいくつか落とした物も、気づくまでにほとんど時間がたっておらず、場所もわかるので、がっかり度は大きい。
 しかし、落とし物が多い人の話を聞いていると、一瞬騒いでいる割にはあっさりしている。新しいものが買えると、喜んでいることもある。忘れたくて忘れているわけではないようだけど。
 さすがに携帯電話や鞄などの場合は早めに気づくようだが、「どこどこまでは持っていた」と言っているのを信じて一緒に探していると、次第に、「と思うんだけど」に変わっていく。なので、いつまであったかわからないくらい日にちがたっているものは出てこないことが多くなる。
 覚えていれば、忘れることもない、とは思うが、それにしても、記憶になさすぎる。考えることが多すぎるのか、物への執着が薄いのか。あっさり忘れられることには感心するが、忘れてしまわなければ、やってられないかもしれない。そんなにたくさん落としていたら。
 それと、どうやら、なかには、別の事情で忘れたことにしているものもあるらしい。忘れ物が多いことが周知であれば、それが逆に信憑性につながるのは良いところである。

2012.6.12 トレーナー落ちました
 電車の発車時間まで3分。少し混んでいるので、発車までホームのベンチに座っていることにした。目の前を右から小走りに人が通り過ぎていった。なんとなく右を見て、ふと床に視線を落とすと、部分的に色の違う異質な盛り上がりがある。
 マジマジ見ると洋服だ。さっき歩いてきたときにはなかったような・・・。もしかして、さっきの人が落とした?
 左を見たが、顔を見ていないので、どの人なのかわからない。電車に乗ってしまったのかもしれない。
 どうするんだ。誰か、たぶん男の人、でも顔はわからない人、が落としたかもしれない服。誰も行動しないので、落とすところを見た人はいなかったのだろう。それとも、もともと、そこにあったのか。と思っていると、駅員さんが歩いてきて、見つけたようだ。
 持ち上げてキョロキョロ見渡していたが、そのまま、どこかへ行ってしまった。遺失物行きなのかな。と思っていたら、近くに置いてきたようで、すぐ戻ってきた。
 そろそろ電車が発車するので近くの車両に乗った。さっきの人が、この電車に乗っているとしたら私が座っていたベンチより左の車両だと思う。たぶんこの車両か、隣の車両のどちらか。
 落ちていたのはトレーナーのようだったので、それを着て似合うようなスタイルの人はいないかな。でも、どうして落ちたのだろう。肩か、持ち物にかけていたのか?
 さすがに、「洋服落としている人いませんか?」なんて、声に出して聞く勇気はない。
 電車が発車して、窓から、さっきの駅員さんが、洋服を持ちあげている前を通り過ぎた。今度こそ、きっと遺失物行きだ。ああ、かわいそうな洋服。持ち主が、家に帰るまで気づかなければ、永遠の別れになってしまうかもしれない。
 その話を会社でしたら、なんだオチがない話だな、といいつつ、駅員さんはマイクでアナウンスすれば良かったのにと言った。あっ、本当だ。 そうすれば、気づいたかも。
 そういえば、そう言った人は、以前、私の前を歩いていて、バッグからコロンと物が落ちたのに、気づかずそのまま歩いていたことがある。拾い上げると、テレビのリモコンくらいの重さがあった。あのバッグの形状で、どんな入れ方をしたら、あの重さのものが落ちるんだろうと不思議に思った。

2012.6.11 口元のシワから目尻のシワへ
 写真に本物の笑顔で撮られるためには、人生を心から笑えるようにすることが先決。
 でも考えてみた。証明写真や記念写真では、すまし顔になる人も多いのではないだろうか。もともと日本人は感情をオープンにする文化ではなく、シャイな人も多く、パーツも小振りだから表情が現れにくい。
写真でわかる幸せ度の分析で、10のランクに分類される人が日本にはどのくらいいるだろう。
 でも、写真を撮られるときにも、自分はとてもHappyというアピールだったり、(本当は問題山積だったとしても)、そういう前向きな気持ちでいることが、人生に良い影響を与えるという意味で考えれば、無視することもできない。"ポジティブ言霊"と同じだ。
 ところで、アルカイック・スマイルは知っているが、デュシェンヌ・スマイルって・・・。で、調べてみた。
 パリの開業医、神経学者のギヨーム=バンジャマン=アマン・デュシェンヌ・ド・ブローニュ(1806-1875)。
1868年にディシェンヌ型進行性筋ジストロフィーの13例の報告を行なったことで有名な人。ディシェンヌ型進行性筋ジストロフィーのほとんどは男児のみに発症し、筋細胞や細胞骨格をつくるタンパク質の遺伝子、ジストロフィンがつくれないために起こるのだそうだ。
 当時は、遺伝によるものということには気づかなかったそうだが、顔に電極を当てて筋肉が収縮させて様々な表情をつくることができることを写真で記録し、1862年に著作として発表した。このことから、表情を人工的につくることができることがわかったそうだ。これは、その後、1884〜1885年、同時期に唱えられた有名なジェームス=ランゲ説(ジェームス・ランゲの法則)につながるともいわれている。
 ジェームズ=ランゲ説とは、デジタル大辞泉kotobank(朝日新聞社)によると、刺激→情動→身体変化ではなく、刺激→身体変化→情動というように動くというもので、「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しい」という言葉に象徴されている。
 そこから、「楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しくなる」といわれている。

 研究データには必ず逆説が出てくるけれど、過去の写真はともかくとして、本物の笑顔が良い結果をもたらすことに異論を唱える人はいないと思う。
 特に、人間も動物も、子供の笑顔(実は大人を惑わす遺伝子的戦略があるらしいけど)の写真は、例外なくかわいくて、ネガティブな気持ちになる人は少ないだろう。子供は写真に撮られるときに、目尻のシワも気にしないし、アヒル口にもこだわらない。
 そういえば、女性は子供の顔やペットを思い浮かべると自然な笑みになるという話を聞いたことがある。お酒が好きな男性はお酒にするといいかも。飲みに行きたくなっても知らないけど。あまり、家に帰るのが遅くなると、奥さんの笑顔が、少なくなるのは避けなくてはいけないけれど。
 ちなみに、結婚生活の不満の中で多いのは家事負担の不公平感なのだそうだ。バランスよい夫婦は離婚率も少ないらしく、同様に、妻も夫も双方が感謝の言葉をいう夫婦も離婚率は少ないそうだ。
 感謝を口にするときには、笑顔になっていることが多い。これも笑顔の効用?
「いまさら」とか、「なんで私が?」
といわず、誕生日や記念日の1日だけトライしてもいいかも。
 笑顔どころではない険悪夫婦も、眉間のシワより口元のシワ。そこから、目尻のシワにつながっていくことも、無いとはいえない。

2012.6.11 写真でわかる幸せ度
 結婚生活が長く続くかどうかが古いアルバムからわかる。のだそうだ。
 あくまでも統計的なデータだからと思いながらも、読んでいくうちになんとなく納得してしまった。
 大学の卒業アルバムから、口角のあがり方と目の周りのシワという2つの表情筋から、笑顔を10に分類したところ、笑顔の少ないほうの10%のうち4人は離婚していたが、上位10%に入っていた人たちは結婚生活が続いていたそうだ。
 また、65歳以上の人の子供の頃(平均年齢10歳)の写真でも同様にデータを出して、2つの結果を合わせると、つまらなさそうな感じの顔で写っている人は、5倍も離婚率が高くなる。
 研究リーダーである心理学者マシュー・ハーテンスタイン(アメリカ・インディアナ州のデポー大学)は、結果を導き出したものではないがとして、笑顔と結婚生活の関係はストレスがないことにあると考えている。それは、笑顔が人生にプラスを生み出し、プラス思考の人をも惹きつけること、周りの人を幸せにすることなどが、結婚生活の持続に関係するのではないか、としている。
 また、笑顔の多い人は友人も多く、そのことが結婚生活を長く維持できることに関係しており、卒業アルバムではカメラマンに笑顔を促されて、つくることができる素直な性格も関係しているのではないかとした。かなり昔の写真であっても、過去の出来事が連続して、現在をつくりだしている。笑顔(肯定的な感情)は人生の、とても重要なファクターになりそうだ。
 以上は、アメリカの科学サイト『Live Science』(2009年4月14日 Clara Moskowitz)の、"Smiles Predict Marriage Success"という記事を要約したもの。
(www.livescience.com/3503-smiles-predict-marriage-success.html)

 アメリカの科学雑誌『Scientific America』には、"What Makes an Honest Smile?" 2010年12月11日ーChristie Nicholsonー(http://www.scientificamerican.com/podcast/episode.cfm?id=what-makes-an-honest-smile-honest-10-12-11)という次のような記事が載っている
 アメリカの心理学雑誌『Journal of Personality and Social Psychology』で発表された研究である。大学の卒業アルバムを調査して、その30年後を調査したが、写真で本物の笑顔だった女性は、30年後の結婚生活の満足度、幸福レベルが高いことがわかった。
 本物の笑顔(Duchenne smile/デュシェンヌ・スマイル)とは、口角をあげる表情筋と、目の周りの眼輪筋(不随意筋)の動きによりシワが現れる、感情がともなった自然な笑いのことを指すそうだ。
 また心理学専門誌『Psychological Science』で発表されたものには、チーム年鑑に、ディシェンヌ・スマイルで写っているプロ野球選手の長寿確率は、そうでなかった選手に比べて倍になっているという研究結果も載っているそうだ。

 笑顔が、幸福度や結婚生活、寿命にも関係しているということは頷けるが、そんな昔から現在の状況が決まっているものなのか。
 アルバムを見て、笑顔の多い人は幸せが保証されたようで嬉しいかもしれないが、そうでなかった人たちにはショックなことである。外国の調査だとしても。確率論だとしても。

2012.6.10 恐怖を克服する回路
 恐怖を克服する脳細胞の働きがあるらしい。恐怖を感じたときに、そうでなかったときの状況を思い出して打ち消す学習回路があるというのだ。
 ニュージャージー州ラトガース大学の神経科学者、デニス・パレ氏の研究チームは、それがインターカレート(ITC)ニューロンによるものとした。強い不安の症状に悩んでいる人は、ITCニューロンのスイッチが切れていて、恐怖の記憶を消去できないのでないかという仮説をたてている。(National Geographic News 2008年7月9日より)

 そうか、ITCニューロンのスイッチを押して回路をつなげばよいわけだ。
 でも、それを自分の力で行なうのは簡単ではないでしょう。恐怖につながらない体験がなければならないもの。
 と考えていて思い出したのが、高所恐怖症の人に、少しずつ高さを上げることで状況を把握してもらい、恐怖を克服しようとする実験番組
。本当かどうかわからないが、最後には高いところでも立っていることができるようになっていた。
 実は、それを応用して、何度かチャレンジして無理だったことを、クリアした。もちろん、まるで大丈夫になったわけではないけれど、今までのような怖さはなくなった。だから、苦手なことは、思いこみや失敗の記憶がかかわっているということはわかる。
 話すことを苦手と思っている人が、下手な理由をいろいろあげ、それをカウンセラーが聞いていた。しばらくすると、人からほめられる点があったことに話が及ぶ
。すると、「どうしてだめなんだろう」から発想の転換ができるようになるという。カウンセラーの力も大きいが、自分1人でも、肯定的に捉えていくことで同じようにできるそうだ。
 まず、勝手な思いこみである「話の上手な人」のイメージを捨てることである。欠点といわれることを生かして、一流になっている人も少なくないのである。
 思いこみの基準で評価することをやめれば、そのことに対する緊張感だけは最低限なくなる。話すという状況を積み重ねていけば、多少気持ちにもゆとりができてくる。そうして良いところを生かした自分なりの形をつくっていけばよいのである。
 そうだ、苦手になった昆虫類をつかむことができるようになるかもしれない。

成功体験

2012.6.2 イヌの気持ちがおもしろいほどわかる「本」
 大昔から人間の良き友。牧羊犬のように危険な仕事も手伝ってくれていた犬。とても人間が大好きで、人間に愛されることも大好きな、賢い生き物だ。
 あまりにも癒されすぎるので、女性が一人暮らしで犬を飼うと婚期が遅れるともいわれている。タレント犬でもない限り、生活費を稼いでくれることはないけれど、生活費を持って帰るお父さんより好待遇のこともあるようだ。やっぱり、お金より「愛」なのかな〜(笑)。
 一番好きなのは、散歩中の犬が時々立ち止まって、飼い主を振り返っているときの表情。台詞をいれると、「ちゃんと、見ててくれてる?」「まだまっすぐでいいの?」。だと思っていたが、違うのかもしれないと思うようなことがあった。
『イヌの気持ちがおもしろいほどわかる本』(イヌとの暮らしを楽しむ会著・扶桑社)を読んで、やはりちょっと違っていたことを確認。
 犬は集団で暮らし、序列がしっかり決まっている。食事の順番が遅い人は序列が下と思われていることもあるらしく、仕事で遅く帰ってくるお父さんはヤバイ。仰向けになって寝そべっているときにおなかの上に乗ってくるのは、じゃれているのではなく、自分の序列が上であることをアピールしているのかもしれないなど。
  つまり、散歩のときに先へ先へ走っていっている犬は楽しくて興奮しているのではなく、子分(飼い主)を従えているリーダーの気持ちになっているかもしれないのだそうだ。
 さっきの台詞を書き換えると、こんな感じ?
「グズグズするなよ」「ちゃんと、後ろを付いてきてるか?」
 他にも、しっぽを振っているのは喜んでいるのだと思っていたら、しっぽの先だけを左右に振っているときは不安や緊張を表しているときもあるらしい。そんなとき、うかつに近づくと、噛みつかれたりすることもあるそうだ。飼い主が叱っているときにあくびをするのは、緊張感を必死にほぐしている場合も。人間にもいる。そういうタイプ。笑ってはいけないときに、つい笑いたくなる人。
 縄張り意識が強い犬は、見知らぬ人間には敵意をむき出し、あるいは自分よりかわいがられる存在、新しく生まれた赤ん坊や、子犬にさえ嫉妬することも。かまってもらえなくて寂しいと、わざといたずらして怒られたり、元気のないふりをして心配をかけてみるなど、まるで人間の子供と同じような行動もとるとか。
 愛情不足はストレスになるので、「愛してるよ〜」という表現をいっぱいしてあげたほうが良いようだ。ただし、自分のほうが序列が上と思わせるような行動をとるのはNG。う〜ん、案外、従者のように思われているのに喜んでいる飼い主、多いかも。でも、キット、幸せなんだよね。
 表情としての笑顔をつくるのは人間だけというが、チンパンジーが歯をむき出しに(ちょっと怖い顔)するのは、「敵意はありません」という意味で、犬も歯をむき出して(顔は起こっているけれど)、飼い主の笑顔を真似していることもあるそうだ。そういえば目を細めて笑っているような表情をつくっている犬を見たことがある。
 犬の嗅覚はとても優れているが、味覚は人間の5分の1ほど。そこで、飼い主が好物をお裾分けしているうちに、味というよりは、飼い主がくれるので大好きになると書いてあった。なんだか、健気でせつない。
 犬種によって勝ち気だったり臆病だったり、仲間と一緒にいた期間が長ければ犬本来の性質が強くなり、もちろん、人間と同じように性格で行動は違う。

 仲が良さそうに見えて、夫婦は案外わからないものといわれるが、表情がよく似ている夫婦は本当に仲がいい。ペットにするのは、自分に似た犬を選ぶ人が多いというが、顔が似てくるのは、同じように相思相愛なのかもね。

カーミングシグナルの活用法

2012.6.1 シラミが教えてくれる人類の進化
 地球に生命が誕生して約40億年後、人類に近い生命が類人猿から枝分かれするのは約100万年前だそうだ。
 その頃、まだ衣服を身につけてはいなかった。約4万年前の骨製の縫い針が発見されている。しかし、シラミがおもしろいことを教えてくれるらしい。
 人に関わるシラミには、頭皮に存在する「アタマジラミ」、衣服や寝具に寄生する「コロモジラミ」、そして、人間の陰部にのみ存在する「ケジラミ」がいるそうだ。
 約17万年前に、アタマジラミから進化したと考えられているコロモジラミは、死亡率の高い発疹チフス、塹壕熱、回帰熱など感染症を媒介するやっかいなシラミだが、その存在が、衣服の誕生を推測できる材料になるそうだ。
 アフリカにいた人類の祖先は体毛を失ったことをカバーするための衣服を手に入れたことで、この後、寒い地域へ移動し、世界中へ散らばっていくこともできたとされている。
 ケジラミはアタマジラミやコロモジラミとは別の種で、もともと他の動物に寄生していたもの。つまり、頭部を覆っていた毛から連なっていた胸部や腹部を覆っていた体毛が無くなっていたことも意味しているのではないかと推測されている。ちなみに遺伝学に基づく年代測定法(分子時計)から測定すると、それが約300万年前。体毛が無くなったのは100万年前とするのが今までの通説だった。
 200万年の差は人間単位で考えると大きい。
 それは、ともかく、全身を覆っていた体毛がなくなり、汗をかいて体温調節ができる皮膚面積が増えたことで、運動できる距離が増し、それが脳の発達を促したのだとか。確かに、シラミから自分たちの進化の歴史も推測できるほどになった。
 生物から教わることはたくさんあっておもしろい。
 生きることに一生懸命なぶん、損して得をとるようなシステムをも長年かけて編み出している。ほ乳類の小さな祖先は、捕食されないように夜行性だったそうだし、子孫を守る手段として、身を犠牲にしても、体内で子供を育てることを選んだとか。
 弱肉強食のなかで自分の武器を持って、ラッキーな偶然も味方につけて、うまく共存してきたものが、いま生き残っているのかも。そう考えると、シラミも同志なのかな・・・。

2012.5.31 クロマニョン人 Cro-Magnon man
 ピテカントロプス(ジャワ原人)と聞くと、ほんわかと、ついサビの部分を口ずさんでしまうが、クロマニョン人には、音からの発想で、昔から、頭も運動神経も良さそうな精悍なイメージがある。身長は180cmくらいあったそうなので、平均的日本人は負けそうだ。
 1868年、南フランスのクロマニョンの岩陰で鉄道工事中に、新生児を含む男女5体ほどが埋葬された状態で発掘された。ホモ・サピエンス。旧石器時代後期にヨーロッパに分布し、呪術も行なっていた痕跡があるという。
 アルタミラ洞窟も確か、教科書の写真で初めて見た。1879年、スペイン北部でアマチュア考古学研究家の娘が発見した1万4500万年前に描かれた壁画。1985年、2008年に世界文化遺産に登録された。1万7000年前に描かれたフランスのラスコー洞窟の壁画(ヴェゼール渓谷の装飾洞窟群・1979年世界文化遺産登録)もクロマニョン人の手によるもので、こちらには一角獣など想像上の絵もあるそうだ。
 想像力は頭の良さの証。クロマニョン人にとっての画は豊猟の儀式に関わりがあるといわれている。でも、一角獣が実際にいたと思うほうがワクワクする。
 赤い岩を砕き、唾液や動物の脂で溶いた赤、そして黒の2色のみだがボカシも使っている。壁の凹凸を生かし、遠近法も取り入れて立体感を出した、近代絵画にも等しい芸術作品なのだそうだ。14頭の牛の絵には20カ所以上の類似点があり、1人のクロマニョン人の手によるものではないかとも。
 茂木健一郎さんの本だったと思うが、こんなことが書いてあった。人間の祖先がいまより劣っているとは限らない。比較できないほどの突出した能力を持っていた可能性がある、と。
 いま存在したら、少しぶきっちょな天才、みたいなカンジかな。 
 きっと、絵を描くより、たくさん獲ってくるオレサマが一番、などと思っていた人もいたかもしれないね。

2012.5.30 段取り
「段取り七分、仕事三分」といわれるそうだ。
 さしたる理由もなく仕事のスケジュールが大幅に遅れているので、丁寧に少し急かすと「プロなのに、そんなに慌てて、自信がないの?」というような態度。段取りは大切なのだ。それに、特殊な時計を使っている人と思われて損するヨ。
 段取りの語源は、歌舞伎の芝居の筋や構成の運びのことで、「段」は一幕、話の区切りなどのこと。計画を立てて手はずを調えていても、その通りにいかないことはある。何が起こっても慌てないように、日頃から気を配ることが大切だ、といわれる。天才も積み重ねを怠らないのだから、凡人はどれほどがんばらなくてはいけないのだろうと思うと、気が遠くなりそうだ。 
「段取り好き」で、その通りに進まないと気が済まない人もいるが、なぜか、「無計画」と同義語になることが多い。流れを無視するので、後先が逆になって、似たような作業を繰り返し、時間だけ費やしていたりする。
「予定は未定タイプ」は、「世の中は計画通りにはいかないもの」という理屈をつける。期待はずれかもしれないが、想定外のアクシデントは案外少ない。
 念入りに計画は立てるけれど気が変わりやすい人もいるようだ。たとえば空港まで行って旅行を取りやめるなど。ハプニングは時々であれば新鮮で楽しい。しかし、度重なると、それが日常となる。
 なにが理由なのかわからなかった、この「天の邪鬼」タイプ。先日、心理学的な説明を聞いていたら、思うほど珍しいタイプでもないそうだ。
 計画を立てるときからモチベーションが上がるので、リハーサルをすると本番ではモチベーションが下がるアーティストタイプ。大成功する能力は高いらしい。信長もそうだったかも、と。でも、約束を反故にされる相手にとっては、大変ネガティブな記憶として残るので、恨みも買うかもね、とのこと。
 なるほど、天の邪鬼ではなく、案外シンプルなのかと理解できたが、右脳にはリンクできないので、不安は減らせても、不満は残りそうだ。
 些細なことでもテンションの突然高くなる人は不得手だ。曲がり角で人にぶつかったときのように、一瞬真っ白になる。フリーズ状態の私は、表情も声のトーンも低下しており、おそらく相手は、その反応に失望していることだろう。そう思うと申し訳なくなり、ついでに相手が恨めしくなる。逆に、テンションの高さを持続できる私は、すでにテンションの低くなった瞬発力タイプに呆れていたりもする。お互い様だ。
 テンションの高くなりやすい人は、きっと好きなものも先に食べるだろうな。
 もし、一番好きなものが食べられない状態ができたらどうするの? と聞かれて考えてみたが、それならそれでいい。一番大事なのは、まだ好きなものがそこにある、という事なのだ。
 そういえば、女性の多くは、デートの日までの過程を段取り、「ああでもない、こうでもない」と楽しめるのだそうだ。う〜ん、それでクリスマスや誕生日などの記念日に執着するのかも。
 だけど、盛り上がりすぎて、実際より、空想のほうが楽しかったとしたら・・・。
 まだまだ未熟。段取り不足だったと思うしかない。

2012.5.29 切符を盗られた
 連絡切符を買うと、数十円安くなる。
 切符は手に持っていることが多い。改札前でポケットや鞄を探るのは御免だから。と言いつつ、指先がふとゆるんで、エスカレーターの下へ切符が飛んでいってしまったことや、落ちた瞬間、隣に立っていた人の靴がタイミング良く踏みつけたり、で、料金を払うはめになったことも何回かある。
 連絡切符で丸ノ内線の改札口を通ると、進入禁止マークが出ることが多い。しっかり料金を払っているのに、料金不足の切符を入れた間抜けな奴に思われそうで、少し悔しい。
 あまりにも回数が多く、一度、駅員に確認してみたが、クレームをつけている人をあしらうような態度で、腹立たしさが増えただけで、解決はしなかった。
 切符は握りしめていない。確認しても、ほんの少しのカーブさえついていない。エラーが起こり
出してからは、きちんと表を上に向けて通している。
 電車に乗っているのはわずか数分だが、もしかしたら、ずっと手に持っているのが良くないのかもしれない。
 そこで、最近は洋服のポケットやカバンの内側の小さなポケットに入れるようにした。いまのところ、改札であたふた探すこともないし、ポケットから落ちて無くなっていることもない。
 と思っていたら、久しぶりにまた、改札のドアにつかまった。
 ドアがパタンと閉まり、バカにするように切符がピヨンと出ているのだ。と思ったら、今回は切符も出てきていない。
 振り返ると、後ろの人が迷惑そうに見ている。その向こう側に立っている駅員を見ると、進入禁止サインに視線が注がれている。説明がはぶけた。
「切符を盗られました」と言いに行くと、自動改札のカバーを開けて、中のネジみたいなものをクルクル回転させて切符の場所を探し始めた。複写機の紙詰まりを取り除く作業と似ている。
 切符が見つかり、カバーを閉じて、自らの手で切符を通してくれた。
 またしても切符は盗られた。
アレッ」と言いながら、もう一度トライするのかなと思ったら、カバーを開けて探し出した切符を手に持ち、ドアだけ開放して通してくれた。
 やはり、エラーが起こるのは手の熱ではなかった。当然だ。
 しかし、切符を買った丸の内線ではエラーが起こって、その後乗る路線ではエラーが起きたことがないのも不思議だ。
 パソコンの相性みたいに、乗車駅の自動販売機が古そうだったので、降車駅の改札と相性が悪いのかもしれないとも思ったが、去年だったか、新しいものに変わった。それでも、自動改札のエラーは続いている。 

2012.5.15 油揚げのなます
 ヨーグルト、きゅうり、ナッツ、マッシュルーム、バター、柑橘類、赤ワイン、苔など200種類の香り成分を含んでいるというから「びっくり」。聞いただけではどんな香りか想像もつかない。
 いろいろな成分が少しずつ混ざると独特な良い香りがつくりだされるというが、パフューム、カクテル、料理に添えられるソース、色彩や人間の性格なども、バランスがつくり出す妙なのかもしれない。
『ためしてガッテン!』(2012年5月16日放映・NHK)で紹介していた、「福井県民なじみの油揚げ」は、見慣れた油揚げ(薄揚げ)の5倍もの皮の厚みがあり、その分、とてもよい香りがするそうだ。ちなみに、薄揚げ
を、縦に大きさを変えて3分割し、入れ子式にすると似た食感がつくられるそうなので試してみようっと。
 油揚げは、豆乳を温め、60度を過ぎた頃に、20秒かき回して取り込んだ空気を、にがりで閉じこめることで、厚揚げとは違うフワフワ感がつくられる。そフワフワ感をキープしながら、約140度の油でじんわり、再度、180度の高温で外側を固めて、フワフワ感を固定するという二度揚げをするのだそうだ。
 うどんやいなり寿司、おでん、野菜炒めはもちろん、意外と何にでもチャレンジできる食材で、冷凍保存もきく。しかし、この個性の強い脇役のイメージを壊してしまうことは難しい。
 と思っていたら、番組で福井県の郷土料理研究家の方が紹介していた伝統料理「にらの長寿なます」に、目からウロコ。
 すった白ごま大さじ2杯に、薄揚げ2枚を細かく刻み、ペースト状になるまですり合わせ、みそ、砂糖、酢をそれぞれ大さじ1杯、しょうゆ小さじ1/2を入れて、ゆでたニラ(1束)を食べやすい大きさに切って加える。存在を消したように見せかけて、しっかり感じされる。これぞ名脇役。
 中火で焼いた油揚げを2cm角に切って、同じく2cm角に切ったトマトと、しょうゆで和えるというメニューも簡単で、おいしそうだった。

2012.5.13 猿まねは悪くない
 サル山のボスという言い方があるが、人間とは違って、ボスザルがまとめているのは、グループのメスザルだけなのだそうだ。オシドリも実は、一生連れ添うわけではないという「裏切られた感」である。
 長野県の地獄谷に住むニホンザルはスノーモンキーといわれ、世界的に有名なのだとか。温泉に入っているサルの姿は日本人が見ても、ほのぼのしている。
『ダーウィンが来た!』(2012年5月6日・NHK)によると、サルの仲間は220種類以上。もともと暖かいところに住んでいたが、約50万年前、大陸と陸続きになっていた日本に渡ってきて、そのまま風土に適応して住み着いたのがニホンザルなのだそうだ。サルの住む北限は青森県下北半島で、天然記念物にもなっている。
 下北半島に30歳を越えたハギというサルがいるそうだ。ちなみに野生のサルの平均寿命はオスの方が短いが、25〜35歳。
 ハギは、とっつきにくくてマイペースだけど、豊富な知恵で頼りになる人間のおばあちゃんを見ているようで、あんなおばあちゃんになるのもいいな、とサルを見ながら思った。
 寒い冬、団子状態になって数匹で体を寄せ合うことを「サルだんご」というらしいが、ハギは一匹でいることが多い。サルが仲間意識を高める大切なコミュニケーション手段の毛繕いも、自分の娘のムギ(23歳)にはさせておきながら、娘の毛繕いはしない。どころか、仲間のサルが寄ってくると、サッサと逃げ出してしまう。なぜなら、毛繕いは、お互いがしあうものだから。
 そうした行動は、ハギがひねくれ者なわけではなく、エネルギー消費を極力避けるためと考えられている。若いサルのように秋にしっかり食べて、体力を温存することが難しく、冬に堅い木の皮を食べるのにもエネルギーをたくさん使うからだ。
 餌を取るためにハギは木へも登るが、若いサルと違って一気に登ることはできない。かと思えば、急に行動を起こして、枯れたまま枝に残っている実や、雪に埋もれたキノコ、海岸の石の裏に付いている小さな貝を食べに行く。仲間のサルたちは、経験豊かなハギの後を付いていくことで、堅い木の皮以外の「ごちそう」にありつけるのだ。
 しかし、春の兆しが感じられる頃になると、ハギは仲間の毛繕いをするようになる。子供のサルが一匹でいるところへも自分から近づいていく。
 突然降り出した雪に、寒くなった赤ちゃんサルが、ハギにしがみついてくると、黙って、そのまま寄り添っていた。餌を食べて生き抜かなければならない冬と、餌が豊富になる春とではまるで「別ザル」のようだ。
 サルの母親は自分の子供に餌を与えることはないそうだ。生まれたばかりのチビちゃんザルも大人のまねをして、自分でとって食べる。
 真剣に母親の手元を見つけて食べている赤ちゃんザルの仕草は、見ていて、とてもかわいいものだが、もしかしたら、違うものを食べて命取りになることもあるのかもしれないから、真剣。
「猿まね」とは、サルが人の動作を真似るように、考えもなく真似することを指す。良いイメージとして使うことはないが、弟子が師の技を見て学ぶ行為も「猿まね」のようなもの。考えてみると、野生動物としての本能を失ってしまった人間は、生まれてからずっと、初めてのことはすべてが「猿まね」するしかない。
 猿まねにも上手下手はあるようだけれど。

2012.5.12 セザンヌのdilemma
 フランツ・カフカ(1883-1924)の『変身』に関心が集まっているそうだ。束縛から解放されたいけれど孤独にはなりたくないという、主人公の苦悩に共感を覚えるのだとか。余談だが現代に生まれていれば、カフカはきっと、SNSにはまっていたに違いない。
 難問のように思えることも、きっとどこかに抜け道はあると思っている。しかし、「ルビコン」を越えるのが容易ではなかったのと同様、自分や自分以外の何かとの「決別」が、そこにある。
 ウジェーヌ・ドラクロワ、ギュスターヴ・クールベ、エドゥアール・マネ・・・。20代のポール・セザンヌが、銀行家の父の期待より画家を志すことを選んだとき、影響を受けた画家たち。
 18世紀中頃までの主流を占めた古典的な写実は、色はパレットで絵の具を混ぜてつくるものだったが、18世紀後半の印象派、モネやルノワールなどはカンバスの上に原色を直接のせてつくった。それに疑問を抱いたセザンヌは、色の面の重なりを利用し、また、複数の視点を持つ20世紀のキュビズムに通じる描き方を生みだした。見たままを描くのではなく、感じとった深みをカンバスに再構築したもので、ルネサンス以来の「絵画の理論をくつがえす革命」といわれている。ちなみに、ゴッホ、ゴーギャン、ピカソは「近代画家の父」といわれるセザンヌに影響を受け、崇拝したそうだ。
 父の遺産を受け継いだセザンヌは47歳のとき、故郷、南フランスのエクス・アン・プロヴァンスに戻ってくる。そこで80点以上描き続けたのは、白い石灰質の奇岩からなるサント・ヴィクトワール山。サント・ヴィクトワール山は、セザンヌとゾラが一緒に登った思い出の場所だった。
 小説家エミール・ゾラ(1840-1902)とポール・セザンヌ(1839-1906)は、ブルボン中学(現ミニュ中等学校)で出会った。パリから転校してきた1学年下のゾラがいじめられていたのをセザンヌが助け、ゾラがお礼にリンゴを渡したことがきっかけで、以来、友情を育んでいく。
 ワシントンD.C.の「フィリップス・コレクション」に所蔵されているエクスの南西、ベルビューから描いた『サント・ヴィクトワール山』(1886〜1887)には、枝が交差した2本の松が描かれている。山を抱くように前面に描かれた松は、ゾラとセザンヌを象徴したものではないかともいわれている。
 実際は、ゾラに「かつての親しき友」の署名で手紙を送った後、一度も会うことはなかったとか。絶縁の理由は、この手紙を送るきっかけのゾラの著作『制作』(ルーゴン・マッカール叢書)が、セザンヌを激怒させたからといわれている。ちなみに、『ナナ』や『居酒屋』もセザンヌのライフワークであるルーゴン・マッカール叢書全20作に含まれる。
『制作』の主人公の画家は、理想の絵を追求しながらも、行き詰まり、死を選ぶ。その画家の考え方や、登場人物までも、セザンヌの人生に酷似していた。
 ゾラと会うことなく、故郷でサント・ヴィクトワール山を描きながら、ゾラの訃報に号泣しアトリエにひきこもってしまったセザンヌ。異常なまでの潔癖性だったといわれるセザンヌ。ゾラへの思い、あるいは自分の在り方にさえも、あまりにも潔癖すぎたのだろうか。
 貧困な生活を送っていた頃のゴーギャンは、最後の下着を手放してもセザンヌの絵は手放さない、と言ったそうだ。
 大切なものはそれぞれの人によって違う。自分の真実から逃げないことが、大切なものを守ることなのだろうか。

2012.5.6 橋本雅邦(がほう)の包容力
 1904年(明治37年)、20世紀に入って初めて開催された万国博覧会「セントルイス万国博覧会」で、「林間残照図」(1903年)が最高賞を受賞した。帝室技芸員 第一号、そして、後の日本画四天王(横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月)を育てた橋本雅邦が描いたもの。
 橋本雅邦は、天保6年に御用絵師の家に生まれ、11歳で狩野派に入門。室町時代から江戸時代の約400年、日本画壇の主流にあった狩野派の修行は、創造性を否定した「粉本」(手本を正確に模写すること)にあった。しかし、雅邦は、様々なことに興味を持って、独自に研究していたそうだ。
 明治時代の欧化政策により、絵画も西洋画を主流とする動きになりつつあった。明治4年、海軍兵学校の製図係となっていた雅邦は、その頃見た西洋の油絵から遠近法や彩色法の手法を、自分の絵に取り入れ始める。
 アーネスト・F・フェノロサが講演で「日本画」という言葉を使い、著書『美術真説』で「日本画ノ簡潔ナルハ却テ甚タ勝レリト」と、その良さを説いたことから、ようやく目が向けられるようになり、明治22年、東京上野に東京美術学校、開校。 明治23年に描かれた雅邦の
『白雲紅樹』には、狩野派の「線」に、西洋画の遠近法が取り入れられていた。
 明治31年、東京美術学校内部の対立で、校長の岡倉天心が辞職する。教鞭を執っていた雅邦は一期生だった横山大観らとともに学校を飛び出す。同年、天心が日本美術院を設立する。
 雅邦の絵は、次第に色の面を巧みに取り入れたものへ変化していくが、それを踏襲した横山大観や菱田春草らの輪郭の無い色の面だけを強調した絵は、「朦朧体」と批判を受ける。
 雅邦は行き過ぎた西洋画への傾倒を戒める。
『筆力を失うべからず 形を満足させんとするため べたべたにて いきおいなきものとなる』
 雅邦は、授業で、絵を見、すべて、どのような思いで描かれたのかを感じらとれるようになってから筆を取らせて模写させたそうだ。まるで、修行僧のようである。
『些細(ささ)たる形式とか技巧とかは何(ど)うでも可い 心持さえあれば絵は活きて来る』といっているように、雅邦は、「心持」が口癖だった。
 政府の依頼を受け、セントルイス万博へ出品するために描いた絵は、自らの「心持」を表したものだった。穏やかな中にも気迫が感じられる、空間や光を西洋の手法で表した日本画であり、それは新たな水墨画の誕生だった。
 日本画の進む道を示したその絵は、日本人だけでなく、世界の人も感動させた。
「林間残照図」の上半分は空である。西洋画の空気遠近法で、沈む夕日の淡い光を表しているそうだが、空白のように見えなくもない。
 千住博さん(日本画家)曰く、東洋絵画は、描いていない部分ーー自然観、宇宙感を感じさせる空間ーこそに意味があるのだとか。
 難しいことはわからないが、言葉に表さない部分を大切にする日本人らしい。骨格を失わず、良いと思うものを取り入れて、それをオリジナルまでへと昇華してきた、しなやかさ。
 しかし、取り込まれることなく、自分の骨格に固執することのない「心持」を維持することは容易くはなかったようだ。
 常設ではないが、「林間残照図」は駿府博物館に所蔵されている。
(『美の巨人たち』2012年5月5日 テレビ東京より)

2012.4.21 排水溝にフタ
 開けるときに落としてしまわないように、キャップが付いたままになるペットボトルが人気になっているそうだ。うかつに落とす人がいかに多いことかということだ。
 飲みかけのボトルのキャップを落としたことは無いが、キャップを片手に持って飲むのは確かに面倒くさいので、便利には違いない。
 と思っていたら、トリートメントの詰め替え用のキャップを、誤ってバスタブへ落としてしまった。そういえば、このキャップはよく落とす。でも、それは手が濡れているからだ。と思っている。
 シャワーのお湯を出していたため、流れにのって排水溝へと吸い込まれていった。取り出せば済むことと思ったが、見るとやや不気味な角度で、ピッタリ穴をふさいでいる。
 指で取ろうとしたが、うまくいかない。とにかく、お湯を止める。
 なんとか角度を変えようとするが、まったく動かない。
 出かけなくてはいけない時間が気になる。少し寝過ごしていた。シャワーを再開したのでお湯が少しずつ溜まり始めている。何か道具を持ってきて、という時間はない。金串程度が入る隙間は開いているので、しばらくすれば少しずつお湯は流れているだろう。そう思い、出かけた。
 帰って見ると、お湯の量は思ったほどには減っていなかった。どうやら溝の部分をしっかり塞いでしまっているらしい。どちらにせよ、キャップを取らなくてはいけない。なんてことだ。
 と思ったが、それほど苦労せずに取れた。それにしても、なんてピッタリはまったことだろう。まるで測ってつくったように。できたら、キャップはもう一回り大きくつくってほしいものだ。

2012.4.18 記憶
 何かを認識し判断し、行動するなど、情報を電気的活動で伝える役割を担っているニューロン(neuron)。そのニューロンに栄養を補給して成長を促し、隣り合ったニューロンが混線しないようにする、という割と地味な役割を担っているグリア(glia)。そのため、ミトコンドリアと同じように、グリアは注目されるのが遅かったようだ。
 認識や判断には脳の記憶データが大きく影響する。知らないことは推測するしかなく、推測には経験が多ければ多いほど有利になる場合が多い。しかし、経験を過信すると、既成概念からはみだすことができないというデメリットもある。
 前頭葉に一時的に蓄えられた記憶の一部が長期記憶として海馬に蓄えられる。数秒間かかることもあるそうだ。その後、大脳皮質の側頭葉に書き込まれるが、そのまま固定されるわけでなく、編集が行なわれて書き換えられていく。なぜ書き換えられるかというと、脳は記憶を正確に残すことよりも、経験による学習が上書きされるほうを選んだからだ。生存のため。
 ときに脳は、経験や知識から導き出されるものとは逆の判断を選べ、というシグナルを送ってくることもある。直感とも言い表されるが、それも脳が発しているとすると、矛盾するような不思議な現象だ。もうひとつ解せないのは、長期記憶に移行させる事柄を選別するのは基本的には無理だということ。繰り返し学習で補わなくてはならないのは非効率だし、それでも覚えられないものだってある。
 と思えば、知っていたような、そうではないような曖昧な記憶に助けられることもある。
 feeling of knowing。既知感。知っている(あるいはそのような気がする)のに思い出せないこと。ふだん奥底に眠っている脳細胞が動いたのだろうか。
 ところで、思い出せない事柄は、なぜか決まっている。
 何冊も本を読んでいる大好きな作家の名前が出てこないのに、それほど好きでもない作家の名前は出てくるのだ。出てこない言葉を並べて考えてみると、私の中で、イメージがそぐわないもののことが多い。
 信号の青と赤がイメージとマッチしていて、つくづく良かった。そう思う。

2012.4.11 「時代に生きよ 時代を超えよ」
 上野松阪屋の屋上から見た夕焼けをノミ跡だけで表した「赤陽」(東京国立近代美術館所蔵)、その翌年に発表した32mの絵巻「隅田川絵巻」。
 版画家、藤巻義夫(1911〜)は、群馬県館林の旧家で生まれ、16歳で上京し、会社に勤める傍ら、昭和6年から4年余りで約70点の木版画を発表した。「隅田川絵巻」を完成させた翌年1935年4月に「時代に生きよ 時代を超えよ」という言葉を残し、9月2日、24歳で突然消息を絶つ。
 時代を超えられなかったのかな、それとも超えていったのだろうか。

2012.4.7 「床の間に掛け物なきがごとく」
わが日本 古より
今に至るまで哲学なし
そもそも国に哲学なき
あたかも床の間に
掛け物なきがごとく
その国の品位を劣にするは
免るべからず
哲学なき人民は
何事をなすも
深遠の意なくして
浅薄を免れず
独造の哲学なく
政治において主義なく
党争において継続なき
その因 実にこれにあり
極めて常識に富める民なり
常識以上にぬきんでる事は
到底望むべからざるなり


 喉頭ガンで余命1年半と宣告され、明治34年に没した中江兆民(54歳)が、『一年有半』(東京博文館蔵版)の中で、明治の社会について書き残したもの。
 
 大丈夫ですよ、と言えないかも・・。

2012.3.16 「プォルッッフ、プォルッッフ」
 隣からシートのミシン目に沿って切手を切り取っている音が聞こえてきた。
 何枚も切っているのを聞いているうちに、なんだか心地よくなってきた。
 炭酸の泡の音を聞きながらハンモックに寝ころんでいるような、水の中でお皿同士がぶつかるときの「プゥコォン」という音のような、つかみどころがない気持ち良さを感じる音だ。
 自分で切り取っているときに、こんなふうに感じたことはない。コツがあるのかもしれない。自分で心地よく感じる「ぷちぷち」とは違い、人にやってもらわないと感じることができないものなのかもしれない。あるいは、やや気ぜわしく仕事をしていたときだったので、心の隙間に侵入しやすかったのかもしれない。聞き入ってしまった。
 形容すると、よく使われる「ピリッ」という音ではない。
「プルルップルルッ」でもなく「パフッパフッ」とも違う。いろいろ当てはめてみたが、いまのところ「プォルッッフ、プォルッッフ」というような音だ。これでもまだ少し遠い。言葉では限界があるのか、表現力の無さかどちらかだ。
 文化の違いで、心地よいとされる音は違って、秋の虫の音色や、風鈴などが騒音にしか聞こえないという人種もいるそうだ。そういえば、サッカーの応援で聞いた、ひっきりなしの「ブ〜ブ〜」という音には最初驚いた。
 世界共通の嫌われる音は、ガラスや黒板を引っ掻く音だろうか。調べたことはないけれど、書いているだけで鳥肌が立ってきた。
 会社には、1年前までは、冬でも部屋の内側に風鈴が下がっていた。というより、正しくは、掛けっぱなしだった。いただいたものだったと記憶しているが、風邪の強い日に窓を開けたら、ヘビメタバンドの降り乱れる髪のごとく音楽を奏で初めたので吃驚して閉めたことがある。ヘビメタは嫌いではないが、ご近所には嫌いな人もいるだろうし、ヘビメタと違って刻むリズムが不安定なところが、心臓が気持ち悪いと感じる。それでもはずす気にならず、あまり風が当たりにくい窓と窓の重なっている位置に寄せた。
 震災で、風鈴が壊れてしまった。何かがぶつかったのだろう。他に活用できそうもないので、未練はあるが捨てることにした。
 震災以前は、かすかにしか体感することのなかった小さな地震のときに、「揺れていますよ」と鳴って教えてくれる役目も担ってくれていた。3月11日以降は、揺れていないのに揺れているように感じることもあったので、手元にあったベルを代わりに吊り下げた。風鈴と違って、音は出さないが、風鈴より小さいので揺れ幅は大きくなった。
 風鈴の音は好きだ。夏のものだが、空調が整っている現代では冬でも、心地よい音には変わりない。気がつかなかったが、風鈴と地震が結びついて、風鈴が嫌いにならなくて良かったと思う。携帯電話から発せられる地震の警報音は、時々、どこのテレビ局が似たような音をシーンの切り替えに使う。聞こえてくるたびに、身構えてしまうようになってしまった。
 昔、祖母の家の掛け時計を夏休みの朝、イスに上って、ネジをまくのが好きだった。そのとき、いまと違って、少し早起きだったので、自宅にいるときには聞こえてこない、変な調子で毎日聞こえる音があった。
 私には「ぱーぽー ぽっっぽ」と、まるでレディガガの曲のように聞こえていたが、誰に聞くこともせず、自分だけの楽しみにしていたら、かなり後になって、みんな知っている鳩の鳴き声だとわかった。そういえば、セミも朝一斉に演奏を始める。一匹がたまにフライングで鳴くこともあったが、指揮者の太陽が、「まだまだだな」とつぶやいていたかもしれない。
 掛け時計、置き時計、柱時計などの「コチッコチッ」という音は好きだが、ある程度広い部屋で聞かなくては、騒音に感じることもある。
 最愛の妻の声が、ときどき騒音に感じるのは、部屋が狭かったからなのか・・・。
 今度からは、部屋の壁やドア越しに聞くようにすれば、心地よさが失われることもなくなるかもしれない。
 

2012.3.15 小遣いは上がらない2
 電気はどうなるのか。ガソリン代やビニールハウス野菜、石油製品などの高騰も気になる。
 テレビを見ていると、独占企業で価格競争が為されてこなかったことを土台に、突然の停電が起こらないための安定性などを考えて電気代が決まっていると、簡単にいえばそういうことらしい。しかし、昨年より1年間見聞きしていると、安定のためにはもっとお金が必要なのではないかとも思うし、様々な改良点がいろいろとありそうだし、なかでも、今回の原因である"想定内"のことにも気が回らなかったのか、そのつもりがなかったようにも見受けられる上層部は、自分に支払われる対価を考え直さなくてはいけないのではないだろうかとも思う。
 話は変わるが、国の予算を貰うと使い切ってしまわないと、次期の予算が減らされるらしい。だとしたら、正直な人を除いて、誰もが予算を使い切り、そのうえ、たまには不足していることを示すために、少し赤字にしてしまうというワザも使うかもしれない。子供でも、きっとそうする。
「ちゃんと貯金もしなさい」という親のお達しががあるからか、素直な良い子は小遣いを貯金する。欲しいものができたら、その貯金で賄わなくてはいけないからだ。最近は子供だけでなく、就職している若い人たちの中にも欲しい物がない、および将来のためにという理由で、収入の大半を「貯金」している人も多いようだ。
 その将来の不安の元でもある国の経済は、消費税を上げなくてはいけないとか、消費税を上げても、その後、もっと上げなくてはいけないとか、いま上げると景気後退でさらに壊滅状態になるとか、将来はともかく、いははまだ上げなくても大丈夫、とか、いろいろな意見がある。根拠が出てこないので、結論だけでは判断がつきにくい。根拠を示さないのは、示すとまずい事情があるからか、真実を知るともっと打撃を与えるので気遣ってくれているのか、あるいは根拠が誰かからの受け売りであるなどの理由で自分も把握していない、からに違いない。
 たとえば、少し小さな単位で考えてみる。毎年、昇級が続いて、物価も変わらない状態で、子供が増えたわけでもないのに、給料を管理する奥さんからつきつけられる家計費の不足額は年々大きくなる。子供の成長に伴う費用や、マイホームの取得、さらに親戚づきあいなどが理由のようだが、男性も、家庭の経営改革には乗り出さず、納得してしまう。沽券に関わるのか、やぶへびになると思っているのか、越権行為だと思っているのか、家計費がそこそこ回っている場合は、唯一の関心は、自分の小遣いがいつまでたっても上がらないことだけだ。
 もちろん、家計簿を見せろといったところで、法律で保管することを決められていない家計簿は「つけていない」とシラを切られて出てこないこともある。また、こういうときのための裏家計簿が存在するかもしれない。
 必要経費を先に引けば、絶対に小遣いは上がらない。
 なぜなら、必要という判断をくだせば、料理の向上のために友達と食事に行くお金や、消費税が上がったときのための予備の貯蓄、万が一、離婚したときの自分の生活費の貯蓄なども含むことができる。たとえば、ゴルフのスコアをクラブのせいにすれば、新しいクラブが次々と必要になり、ファッションが決まっていなくてはスコアも上がらない、と思えば洋服や靴にもお金がかかるのと同じである。これは必要経費だが、スコアを何とかしたいなら、優先すべきはゴルフの腕だということはわかっている。
 ご主人の小遣いがなかなか上がらないのは、一説には余計な遊びをできにくくするため、ともいわれている。しかし、敵もそれほど甘くはない。どうにでも方法は編み出すものだ。そして、目的ではなく、自分の考えがうまくいったこと自体に喜びを覚えるのが多くの男性である。機械を分解して、使えなくなった状態でありながら喜べるのは男性的な脳だけである。お金を抑制して牛耳っていると思っている奥さんとその裏をかいて密かに自分の趣味を続けるご主人。揃って、お互いに上手くいったと思っているので、バレない限りは円満である。
 厳密には、一見、不必要に見えるものも必要ないといいきれるものは、この世の中には無いのだろう。社員のための電動マッサージ機だって、必要でないとは言い切れない。しかし、優先順位はある。
 そこが問題だ。力関係が優先される家計費の場合は、なぜか夫が負けてしまうことが多くなる。その反動で、お父さん達は、会社で、つい「これだから女は」などと不穏当な発言をしてしまうのかもしれない。女性にとっては、世代を超えた因果応報? なのだ。

2012.3.15 小遣いは上がらない
 野菜は浸かる程のお湯でゆでてきた。レンジで代用することもできるが、少量の水でふたを活用して、蒸らすことで同様のことができると知ってからは、さっそく実践している。
 水溶性のビタミンも失われにくくなり、フライパンや鍋を見ている時間が短くなるので、忙しい朝は他のことに時間を使うこともできる。ガス代、水道代、電気代の節約にもなる。
 良いことだらけでお勧めだが、以前、お風呂にペットボトルを浮かせてお湯の量を少なくするという節約法を見たときのことが浮かんでくる。みんなが一斉に節約して「あがり」が少なくなったら、収入として考える人たちにとってはどうなのだろうかと余計な心配をしてしまう。
 目玉焼きも、ある程度焼いた後は火を止めて、ふたをして余熱で焼くことができる。天ぷらも、天ぷら風であれば、少量の油で食材を浮かすことなく、つくることができる。大人数で食べる楽しさでもない限り、天ぷら油やキッチン周りの後片付けは面倒くさい。面倒くさいと思うことが増えると、年をとった証拠といわれるが、食い意地につられて魚の骨は取って食べているし、種ありブドウも種なしブドウと同じくらい好きだし、買ってきたものに付属している輪ゴムなどもきちんと整理して保管しているので、大丈夫だと思う。
 ちなみに公共料金がどの程度節約できたのかは請求金額からは定かではないが、蒸らすことで食材がこころなしかふっくらしているのが良い。後もう少しというところでチェックし忘れて焦がしてしまうこともなく、冷蔵庫で保存中にも失われていく目に見えない栄養素を少しでも留めているかもしれないという満足感もある。
 数値を測っているわけでもないのに安心している自分がとんでもなくまぬけにも思えるが、学者やデータ分析者、あるいは法にたずさわる人でない限りは、根拠とはアバウトなもので、時には「誘導されている」ものである。時々、信じないほうがいいと思われる人の言うことを信用している人もいる。

2012.3.14 解凍に回答
 冷凍肉を解凍せずに焼く方法。
ためしてガッテン「冷凍解凍に新ワザ誕生 速い! プリプリ! おいしい!」(NHK 2012年3月14日放送)より。

 鶏もも肉(300g)
 あらかじめ、すじを切り、薄く広げた状態で冷凍した鶏もも肉をフライパンに皮のほうを下側にして入れ、火を付ける。大さじ2杯の水を肉の周りにかけてフライパンにふたをして強火で6分、その後、火を消して、ふたをしたまま5分待つ。

 牛肉ステーキ(厚さ1.5cm)
 冷たいままのフライパンに肉を入れ、ふたをする。強火で2分焼いた後、裏返して中火で2分。火を止めて、自分の好きな焼き加減になるまで、3〜5分ほど待つ。

 ぶりの塩焼き
 小麦粉を両面に薄く付けたぶりを、フライパンに入れてふたをし、火を付けて強火で2分。裏返して中火で3分。その後、火を止めて3分待つ。

 これは、少量の水で、ふたをしたフライパンの中で蒸らすことによって、解凍することなく、そのまま料理できる方法として紹介されていたもの。
 少量の水分が、ふたをされたフライパンの中で蒸気をつくり、食材に当たって水に戻るときに発生する凝縮熱という大きなエネルギー
で、料理が短時間でできて、なおかつおいしく食べることができるそうなのだ。
 (牛肉の場合は、自らが持っている水分を活用している)


2012.3.13 「へ〜」「へ〜」「ほ〜〜」
 以前、きつい蓋の開け方について書いたが、もうひとつ情報を得た。
 時々、他の人に頼むことがあるが、大きく息を吸い、そのまま息をとめて「グっゅ!」などという意味不明の掛け声とともに開けようとすることが多い。しかし、息を吐き出した後のほうが、リラックスした良い状態を保ちつつ、集中力は高まって、開けやすくなるらしい。
 さっそく自分でやってみた。普通にひねって回そうとすると、先日は開いたのに、また開かない。試しに息を吐き出した後に回してみた。「もう少ししたら土から新芽が出てくるかもしれないなァ」程度の気配は感じたが、やはり開かない。
 そこで、テレビで見た立て膝ポーズを取り、息を吸って吐き出したが、また吸ってしまった。吸った息がもったいなので、そのまま開けてみた。開いた。
 残念なことに、開け方の大極意をマスターしてしまったので、呼吸法による小極意の差はわかりにくくなってしまったかもしれない。
 ちなみにいまのところ、まだ開けられない蓋は出現していない。開くだろうという自信がそうさせているのかもしれない。この間、横着をして濡れた手のまま開けようとしたら開かなくて、改めて驚いた。
 ふだん自分も他人も含めて気にとめることのない呼吸だが、近くにいる人のため息で、この人が呼吸しているという根拠が多くの人に晒される瞬間がある。
 ため息には、それほどいいイメージはない。疲れたとき、呆れたとき、困ったときなどにつく、というイメージがあるからだ。
 ため息には分類されないかもしれないが、何かを行なう前に落ち着こうとするときや、緊張感を解くために息を軽く吐き出したり、深呼吸をすることもある。
 違いは、声のような音を伴うことが多いということである。共通しているのは、平常時の自然体になるために、リラックスしようと努めていること。
 たとえば、ご主人の行動に呆れて、奥さんが小言を言おうとする前に「ふ〜」と、ため息をつくのは、無意識に怒りを多少でも静めるためと思われる。会社では立派でも、家庭ではかよわい立場のご主人に与えるダメージを、少しでも減らそうとする神様からのプレゼントなのだろう。
 息を吐き出すといえば、なんといっても有名なのは、「極楽、極楽」と言いながら、おじいちゃんやおばあちゃんが、フゥ〜、と大きく息を吐き出す行為だ。最近はあまり聞かなくなったようだが、「極楽」という夢や希望を持つ必要がないほど幸せに満ちあふれているのか、あるいは心のゆとりがなくなったのだろう。
 そういえば、おじいちゃんおばあちゃんというときのイメージの中の自分は子供だが、ふと気づくと、おじいちゃん、おばあちゃんのほうに近い年齢になった。それから、おじいちゃんとお風呂に入ったことはない。
 駆けつけ一杯でビールを飲んだ後の店内は、あちらこちらでため息だらけになる。夏の暑い日には一気に飲み物を飲み干した店先や自動販売機の前も。
 ちなみに、これは飲むときに息を止めていたために、飲んだ後、一気に吐き出そうとする行為なのだとか。ゴキブリを見つけたときにも一瞬息を止める。そして吐き出しながら「ギゃぁ〜」などと叫ぶ。
 たとえばお風呂に入るとき息を吐き出しながら入ったとしたら、次は吸うことになる。息を吸いながら声を出すことができるのは、さんまサンの引き笑いか、仰天したときの「ひぃ〜」という声くらいだろう。なので「極楽、極楽」とも言いにくくなるはずだ。言えないとなると、きっと極楽気分は半減するだろうから、お風呂に入るときは息を吸い、浸かりながら息を吐いたほうが良いように思う。
 そういえば、ラマーズ法で、息を吸うときは「ひ」で、吐くときは「ふ」なのは、それが一番自然だからなのか、といま気づいた。似ていても、「へ〜」「へ〜」「ほ〜〜」ではおかしくて、余計な力が入ってしまうからかもしれない。
 呼吸を意識して活用すると、身体を整える効果もある。たとえば、鼻から吸って、口で息を長く吐き出すという呼吸を何回か意識的に繰り返すことで自律神経が整い、気持ちを落ち着けることはよく知られている。最近聞いた話では、その結果として、腹部辺りの余分なお肉もスッキリするらしい。腹部がスッキリするなら、ぜひ試してみたい。

2012.3.12 記憶力は邪魔になる
 スポーツに限らず、どんなものにも勝者がいる。
 競技スポーツでは当然、1位になること。他に、希望の学校や会社に入れたとか、欲しかった不動産や美術品を手に入れることができたとか、夢だったポストや計画が実現した人なども勝者とされる。
 すんなりと手に入れられれば、想像もしていなかった奇蹟が起きたかのように、驚きを持って賞賛され、苦労や努力の末、大きな成果を手に入れた場合には、感動と賞賛が贈られる。
 しかし、歴史には記されないだろうが、
本人の日記では(書いているとしたら)間違いないくTOPニュースになる出来事、たとえば、大失恋の後に、今の相手に巡り会うことができたとか、希望していた学校や会社に入ることができず仕方なく選んだ道が自分にとって良い選択だったとか、希望していたものが手に入らず、やむを得ず他のものにしたところ、そちらのほうが良かったとか、なども、宝物を手にした勝者なのである。
 なかには、どう考えても強がりの言い訳にしか聞こえない本人の思い込みがあるにしても。いや、この先、どんなことが起こるとも限らない。つまり、本人が、信じている限り、まだ勝利への道は開けているのである。
 勝者を表すときは、結果に比べて感情は置き去りにされることが多い。自分の思い描く物や事柄が既に手にあることは勝者の証かもしれないが、イコール幸せとはいいきれない。たとえば、常に美味しいものを食べ慣れていてる「セレブ」より、たまに美味しい物を食べる人の方が幸福感は大きいに違いない。勝利をまだ手に入れていない人には、追い求める夢があるという幸福感がある。
 1つ手に入れば満足するほど人間は欲深くない、ことは無い。
 夫のゴミ出しが習慣になれば、次にお風呂洗い、買い物、皿洗いなど、どんどん家事分担が平等に近くなっていくことを見ていてもわかる。そのうち、どうしても女性にしかできないこと、たとえば、母乳をあげる、気をつけていてもどうしても赤ちゃんが泣いている声に気がつかず起きることができない、とか、近所の人と社交を楽しむなど以外の仕事は、すべて負担させられることになるかもしれない。しかし、そのお陰で「主夫」が向いているという発見と喜びを得る場合もある。
 つまり、一瞬を切り取って一喜一憂するよりは、何かに挫折しても、再トライするか、あるいは目標を変更するのもアリなのだ。
 なまじっか、過去を考えると反省や後悔に時間が掛かりすぎるので、しばらくの間、封鎖してしまうのも良いかもしれない。記憶力の良い人は、残念ながら多少の苦労が伴うことになる。きっと記憶力の良さを疎ましく思うことだろう。記憶力がなく、年とともにますます薄くボンヤリしてきていて良かったと思う。
「参加することに意義がある」オリンピックだが、いろいろな規定があって、誰でも参加できると言っているわけではない。競技の場合は、他の人を露骨に妨害すると失格になるが、人生においては有罪判決がくだるまでは、何でもありだ。コネを使っても良いし、相手の悪口を吹聴したとしても、嘘を真実のように語っても、訴えられない限り、罪に問われることもない。
 そのように理不尽なことも多いようだが、人生の参加チケットだけは誰もが持っている。見えないけれど、お金や金券より、失ってはいけない大切なチケットだ。

2012.3.10 ホームでのマナー
 地下鉄の地下通路を通ってホームへ上る階段を歩いていると、後ろから賑やかな声と走ってくる足音が聞こえてきた。
 振り向くと若い女性2人が必死の形相で走ってくる。
 2つしか乗り場の無い地下通路を走る理由で考えられるのは
1.電車の到着時間が迫っており、乗車ホームに向かって走っている。
2.待ち合わせか何かで、その場所に向かうため、電車を降りて反対ホーム側の出口を目指して走っている。
3.ホームに設置してあるトイレに行こうとしている。
4.ホームから階段を下りて、通路を走り、また階段を上って反対のホームへ行くまでのタイムを競っている。
5.電車の時間の3分前にはホームに到着していなくてはいけない、という個人的なルールがある。
6.1〜5以外の理由。
 この場合、1は無い。
 なぜなら、私もそのホームから電車に乗ろうとしているのだが、到着時間までにはあと4分も余裕がある。
 2、3、4はもう少し待てば、結果が出る。
 2の場合は、ホームに上がっても、そのまま駆け抜けて行くだろう。
 3の場合は、勘違いしている。残念ながら、トイレのあるホームは反対側である。
 4の場合は、おそらくどこかの時点でタイムを計るだろう。
 これらが違っていた場合は、5あるいは6の理由だ。
 私を追い越してホームへ駆け上がった女性たちから、「えっ」という大きな声が聞こえてきた。「な〜んだ」と少し責めるようなトーンの声。「だってぇ」。そして大爆笑が起こった。
 どうやら、勘違いで電車が来ると思い込み、必死で走っていたようだ。時刻はもう少しで24時。本数がそれほど多くない時間帯なので、1本でも乗り遅れるのは確かに嫌だ。
 たまに、到着時間までにあまり余裕がないときには、前の人が走り出すのにつられて、つい走ってしまうことがある。しかし、この時間帯は、電車が遅れてくることもあって、接続の電車に1本遅れてしまうことはあったとしも、早く来て、時間より早く発車してしまうことはない。それは、どの時間帯でもない。
 電車の到着時間まで、あと3分になった。ちなみに反対ホームには、そろそろ電車が入ってくる頃だ。そういえば、発車時刻は、それぞれのホームに表示されている。まさか隣のホームの表示を見て走ったわけではないだろう。時々横の信号機を見て、車を出してしまう人もいるらしいが。
 それにしても、4や5の理由でなかったのが少し残念だ。そういえば、電車のドアから入るとき、一礼して入る礼儀正しい人にも、まだおめにかかったことはない。 

2012.2.29 Great Wave
 入口を入ろうとしたら、前を歩いていた男の人がいきなりドアの中にいた女の人に怒られた。
 うろたえてしまったのか、男性が一歩下がったので、ぶつかりそうになる。どうやら周りに気を配るゆとりも吹っ飛ばされたようだ。
 右側のスペースから通り過ぎると
「○○で待っている、って言ったじゃないの」という女性の声が聞こえてきて、
「駅だと思って・・・」と男性が言い訳しながら、女性の持っている荷物を受け取りる。
「ちゃんと聞いていないからよ」と女性は、聞く耳なんて持っていない。
 60前後くらいの年齢の夫婦のようだが、荷物があるから迎えに来てと言われた旦那さんは駅だと思って待っていたのだけれど・・・というところかな。
 振り返ると、奥さんの姿は視界から消えていて、大きな荷物を持って反省しながら歩き始めた男性の姿が見えた。

 19世紀後半、パリに流出した浮世絵がブームとなり、葛飾北斎は画家たちにも注目された。
 20年前、パリの中心にある地下道に、ある若者がアクリルペンキで描いた幅8mの「Great Wave」は、今も多くの人の手を経て、ペンキが塗り直され続けている。グレート・ウェーブとは、北斎の「富獄三十六景 神奈川沖浪裏」のこと。
 喜多川歌麿、東州斎写楽などの人気を見て、勝川派にいながらも狩野派、琳派、土佐派の門を叩くなどの破天荒な行動をとり、「世界一の画工」になることだけに邁進した北斎。 30代の頃、売れない絵師だった歌川広重が葛飾北斎を訪ねたことがあるそうだが、とりつく島もない態度や家の汚さに嫌気がさして、北斎のような絵は絶対に描かないと誓ったとか。その後、広重の「東海道五拾三次」は脚光を浴びる。
 嘉永2年(1849年)4月18日、90歳の東京浅草の長屋で、同居していた三女のお栄に「もし天があと10年命をくれれば、あと5年生かしてくれれば、"真正の画工"になれたはずなのに」と言って亡くなった北斎。稀代の名人と称えられるようになった80代の頃には、6歳から筆を持たなかった日はないのに自分の思い通りに画けないといって娘の前で涙を見せたことも。ちなみに、お栄は、葛飾応為の名で、絵をわずかに残しており、美人画は、北斎も上手いと認めるほどだったとか。
 何十年連れ添っても女房の言葉をうっかり聞き漏らしてしまうご主人。これが、仕事の待ち合わせだったら大変だ。何十年か経って、雪の中を迎えにきてくれたご主人に怒りを顕わにしてしまう奥さん。気持ちはわかるけど・・・。
 何十年経っても、まだまだ発展途上です。

2012.2.28 奇妙な生卵
 悲しみにくれる友人を訪ねたとき、なぜか、その友人は真っ赤な目をしながらも、微笑んで迎えてくれた。なぜ悲しいときに笑顔がつくれるのか、日本人はまったく不思議である。正気を失ってしまったのではないか。あるいは、悲しみや傷みに対して鈍感なのではないか。と外国人は思ったそうだ。
『武士道』で新渡戸稲造は、その理由について、日本人は、どうしようもない悲しみに対して笑顔をつくることでバランスをとっているのではないだろうかと書いている。
 悲しいときや困っているとき、笑みを浮かべることは、たぶん日本人にとって、それほど奇妙なことではない。ドラマを見ていても、多く出てくる。
 たとえば、世界には、日本文化からすると奇妙な形や味、素材の食べ物をごく普通に食べている人たちがいる。でも、なんでも食べると思われている中国人や、生で卵を食べる習慣の無い国の人からは、生卵は奇妙な食べ物なのだそうだ。
 確かにジッと眺めると不思議な物体に見えてくる。このまま、生飲みしろといわれれば、少し、いやかなり躊躇する。
 日本人はどんなときでも、何もいわず笑顔をつくる不思議な人だと思われているようだが、悲しいときにも笑顔をつくろうとするのは、相手を心配させまいとする気遣い。自分の感情を表に出すまいとするたしなみ、あるいは恥(?)を隠そうとしているのかもしれない。
 笑顔は、シャイな日本人が、惜しみなく見せることのできる唯一の表情だけど、それは相手に見せるものではなく、自分の悲しみも悔しさも傷みも辛さも恥ずかしさも怒りもすべて笑顔に包み隠す。そうして、心の均衡を保つものなのか。
 その表情を見た相手も、気づかないふりをするのも日本的な作法(?)。優しい言葉をかけたら、きっと均衡を崩してしまうことになるから。じっと見守るか、あるいはちょっとつついて、感情を吐き出させてあげたほうが良いのか、迷うときもあるけれど。
 やっぱり、少し複雑すぎるかも。

2012.2.11 いろ色イロ
 日光の「黄」系の色からエネルギーを受け取りながらも、有害な紫外線は避けていたことから、単細胞生物が最初に感知した色は「青」と「黄」。約4000万年前に霊長類は、エサとなる果物や草の色から学習することで、さらに「赤」と「緑」を感知するようになったといわれている。
 暮らしの中で必要な色は表す言語も多くなり、色は心理作用にも大きな影響を与えるとして、様々に活用されている。
 心理面でよく用いられるのは「赤」。
 たとえば、巣鴨の赤いパンツや、ちらしの赤い数字、注意を促す標識の赤、そしてレストランの赤っぽい照明は空腹を促すなど。
 日本の首相は会見のときに「赤」と「青」の背景が用意されているが、「青」は気持ちが落ち着き、理知的なイメージを与える反面、パワー不足の人が「青」い背景の前に立つと、自信の無さを増幅するような気がする。
 実際に、審判が判定をくだすスポーツにおいては赤い服を来た選手のほうが優位に見えるという実験結果もある。
 また、赤い部屋では時間がゆっくりと流れるため体感時間が長く、逆に青い部屋では実際より短く感じられるらしい。ということは、会議の時には白熱灯、夫婦げんかには蛍光灯がいいかもしれない。あれっ、ということは、このページの背景の色は、青い色にしたほうが長く読んでくれるのか?・・・。
 それはさておき、テストの前などに赤い色を見ると、強い不安や緊張を感じてミスを起こしやすくなり、点が下がるという実験結果もある。とすると、会議の前や試合の前に、赤い部屋に入るという話を聞くが、どうなのだろうか。
 では、本人が赤い色を着けるとどうなるか。
 赤い衣服を身につけて試合を行なったときの実験では、優位に立ったときに分泌されるテストステロンの値には差がなく、ストレスを受けたときに分泌されるコルチゾールの値はやや低めになったそうだ。闘争本能には変化がないが、不安や緊張というストレスは低くなる可能性があるということになるらしい。
 赤の対局にある「青」は、人間の目にある、体内時計を調節し、睡眠や覚醒に関わる「光感受性 神経節細胞」が反応する、ただひとつの波長なのだそうだ。つまり、落ち着きを感じる「青」も覚醒の色となる。そういえば、夜、お酒を飲むところでは青っぽい照明が多い。
 それは、夜になっても青い光(蛍光灯やパソコンの光など)を浴びていると、体内時計のバランスが狂うということでもある。
 そろそろ寝なくちゃ。

2012.2.10 「香り」のデザート
「食後のデザート代わりに、フルーツの香りのする食器洗剤でお皿を洗う」
 流れてきたテレビコマーシャルに、食器洗いとデザートとは、さすがに無理があるだろう、と、ひとりでつっこむ。
 しかし、ふと思い直した。年末に、洗剤の残りが少なかったのを思い出して、洗剤を買ったのだが、棚にしまおうとして、前使っていたのと、同じ洗剤だったということに気がついた。そこまではいいが、年末の大掃除のときに、古い洗剤ではなく、新しい洗剤のほうを使ってしまった。
 失敗した、と思いつつも、それ以上に、気になったことがあった。特別、きれいになったわけではないが、なぜか、掃除が楽しかったような気がしたのである。
 洗剤の香りだということに気がつくまでに、しばらくかかった。ボトルが同じだったので気がつかなかったが、古いボトルのふたを開けても洗剤の匂いしかしないが、新しい方は、明らかにいい香りがする。香り付きの洗剤を買ったことはあったが、たぶん、好みの香りではなかったのだろう。洗剤のふたを開けて匂いを嗅ぐと、幸せな気持ちになった。こんなことで掃除が楽しくなるなんて、意外と単純だ。
 そういえば、いつの年末だったか、あともう少しで終わりそうというところで洗剤が無くなったので、人から貰った重曹で掃除を続けることにした。しかし、あまり、きれいになったとは思えず、やっぱり、買いに行けば良かったと少し後悔した。
 でも、そうではなかった。重曹は、キッチン周りの油汚れをこすって洗っても落ちるわけではなく、つけておくことで効果を発揮するのだそうだ。使い方を間違っては意味がない。きっと人生でも同じようなことをしてるんだろうな〜、と少し哲学的に考えてみる・・・。
 話を戻すと、弱アルカリ性の重曹には得意な汚れや消臭効果があり、生ゴミの臭いにはほとんど役に立たないが、靴下などの酸性の皮脂汚れには効果がある。それも、靴下にふりかけるのが良いらしい。同様に、汗や皮脂汚れの洗濯物には効果を発揮するが、それ以外の汚れには逆効果になることもあるそうだ。
 勝手に疑いを持っていた「重曹」に謝らなくては。

2012.2.9 1.男脳は近くのものが見えにくい
「気持ちがわかる」<「むかつかない」ために
 脳の大きさ、仕組みは性別によって特徴がある。
 たとえば、女脳は近くのものの微妙な変化を捉えるのが得意で、男脳は遠くのものを見ることが得意なのだそうだ。それは、女性は子供を育て身近な木の実などを採取し、男性は遠くの獲物を捕まえる狩猟に出る役目を担うことから、そうなったのではないかといわれている。
 いつものように冷蔵庫を開けて、「無い無い」と騒いでいる男性に、その話を思い出して、「少し下がって見てみれば」と言ってみる。
つい先日、男脳と女脳の話をしたばかりだったので、思い出したのか馬鹿にしたように鼻で笑っていたが、その日は、私が「出動して」見つけてあげるまでには至らなかった。「こんなところにあったら、わからないはずだ」と減らず口を叩きながらも、自分で見つけたからである。
 どうやって見つけたかはともかく、案外、使えるかもしれない。
 もちろん、すべての男性に当てはまるわけではない。実際、他の男性に話したところ、近くのものを見つけるのが得意だと言い、目の前の物を探している男を見て、不思議に思う、とも言っていた。そして、「探すのが面倒くさいから言っていることもあるのではないか」とも付け加えていた。
 そう。そう考えてしまうから、頭にくるのだ。でも、きっと老眼鏡をかけている人に針に糸を通してくれとは頼まないものだ。そう考えれば腹も立たない。
 でも、ひとつわかったことがある。当てはまらない男性もいるが、目の前のものが見つけにくい男の人はやはり多いということだ。
 男女を問わず、星座、血液型、出身県、生まれた順番などによって特徴がある、といわれることに懐疑的、かつ、一括りにされたくないと言い張る人がいる。でも、屁理屈をいえば、兵法書や剣術書だって、囲碁や将棋の本も、パソコンのマニュアルだって、そのまま使うのでは意味がない。料理も、最初はレシピを見たり、聞いたりしながら、それを自分の好きな味や、好きな素材に変化させるではないか。
 それに、男性は男脳100%、女性は女脳が100%ではなく、混在しているものなのだ。さらに、1人の人間が、いつも同じパターンの行動をとるとも限らない。
 相手のことを理解するのは言葉でいうほど容易くないのだから、自分のストレスを少なくするために活用してみる、くらいの軽い気持ちで使ってみるのも良いではないか。

2012.1.31 お年玉の4
 自宅に来た年賀ハガキのお年玉抽選番号を探していると、下2桁「44」が1枚。やった!! 切手シート1枚ゲット。
 と思ったら、2枚、3枚、4枚あった。
 下二桁といえど、わずか数十枚のうちの4枚、それも「44」となると、奇妙な一致である。
 郵便局で番号札をとると、「544」番。惜しい。「444番」だったら、話のネタになったのにな。
 って、してるけど。

2012.1.30 月が立派に見える謎
 今日の月はとても大きく見えた。
 時々、いつもより大きく見えることがあるけれど、沈むときの太陽が大きく見えるのと同じように、角度で大きく見えるのだろう、ぐらいに思っていた。
 それが、2000年もの間、科学者が解き明かそうとしてきた「謎」らしい。
 月の大きさはもちろん変化しない。単純に目の錯覚だということはわかっている。
 月と地球の距離はほとんど変わらないし、赤っぽい色で膨張して見えるのでもないし、建物など対象物との比較でもないそうで、あらゆる説が唱えられているが、実際のところ、なぜ錯覚を起こすのかはわかっていないそうだ。
 不思議。
「今日は月が大きいね」と言うことがあるけれど、その時、他の人にも大きく見えているのだろうか。だって、「今日は寒いね」と言われたとき、内心「そうかな」と感じることもある。
 堂々とした態度や、体型のバランス、洋服のコーディネイトなど、あるいは自分の心理状態で、実際より大きく見える人もいる。
 月の外的条件が関係ないのだとしたら、月が堂々としているわけはずは(たぶん)ないので、見ている人間の心理状態が関係していることもあるのかな。

2012.1.27 ナポレオンのクレープ占い
 2月2日、フランスでは、キャンドルに火を点して、春の訪れを祝う聖燭祭(La Chandleur)が行なわれる。暖炉に火をつけて家を暖め、その儀式は始まる。
 クレープを焼き、片面が焼けたら、左手にコインを1枚握って、右手でフライパンを振って裏返す。そのとき上手に受けとめられるかどうかで新しい春から1年を占う「クレープ占い」である。
 実は、ナポレオンも毎年クレープで占っていたといわれている。1798年のエジプト遠征、1800年のイタリア遠征、1804年フランス皇帝即位、1805年のウィーン占領・・・。しかし、ある年、クレープがうまく受け止められなかった。それが理由かどうか、1812年のロシア遠征は失敗したのだとか。
 ちなみにクレープの作り方。
 小麦粉に砂糖と塩を入れて軽く混ぜる。
 そこに溶いた卵を入れて、牛乳を2、3回に分けて入れながら、ダマにならないように混ぜる。
 溶かしたバターを入れて混ぜたら、漉して、ラップをかけて冷蔵庫で1時間ほど寝かせる。
 フライパンに適量を流し込み、周りが薄く焦げてきたら、ひっくり返して10秒ほど焼く。
 ついでにキャラメルソースで飾り付け。
 グラニュー糖を中火にかけて溶けてきたら混ぜ、茶色くなってきたら、生クリームを少しずつ混ぜる。最後にバターを入れてゆっくり混ぜると香ばしいソースのできあがり。

2012.1.26 血管のストレッチ
 必要以上の食事量を摂ることなどで糖が体内に増えると、糖化という現象が起こる。たとえば、3層構造になっている血管の2層目、平滑筋にある、網目状のコラーゲンに糖がくっつくと、筋肉は柔軟性を失う。いわゆる「身体がかたい」という状態。
『ためしてガッテン』(NHK 1月25日放送)によると、筋肉を動かすことで繊維芽(せんいが)
細胞が活性化し、筋肉を動かす際に傷ついた古いコラーゲンが、新しいコラーゲンに修復されて、血管の柔軟性が改善されるらしい。
 国立健康・栄養研究所の宮地元彦氏らが、600人の血管の柔軟性を調べたところ、40代以上の人では、身体の硬い人ほど血管もかたいという結果が出た。そこで3週間、ストレッチを行なった結果、ほとんどの人が身体の柔軟性が増し、血管年齢も若くなっていた。なかには、逆の結果になった人もいたが、3ヵ月〜6ヵ月継続することで改善されるだろうとしていた。
 有酸素運動を行なうことで一酸化窒素(NO)が出て血管の柔軟性が高まるとされているが、ストレッチには血管の壁そのものを再生する働きがあるそうだ。
 大きな筋肉のある大腿四頭筋、大でん筋、腹直筋などを動かすのが効果的で、気をつけることは、呼吸は止めないようにして、痛くない程度に、ひとつの動作を30秒続けること。身体のやわらかいお風呂上がりや、就寝前などに、1日、合計で10分程度行なえば良いらしい。
 また、肺の筋肉を鍛えるためのストレッチもあり、昭和大学医学部 本間生夫教授によると、胸郭を動かす呼吸筋(肋間筋、横隔膜)を動かすことで肺の機能が改善されるそうだ。
 呼吸筋は、喫煙、そしてストレスでもかたくなる。
 ちなみに深呼吸は、心を落ち着けると同時に、副交感神経が優位になって血管が広がり、手足の血流を良くする。感情をつくる脳の中枢は、呼吸のリズムが関係していることが最近わかってきたそうで、リラックスして呼吸をゆっくり行なうのも精神上、良いらしい。

2012.1.25 求む! 「開かないビンのふた」
『すいエんさー』(NHK Eテレ 2012.1.24放送)で「何の道具も使わないで超かたいビンのふたを開けた〜い!」をやっていた。
 ビンのふたが開かないと、「超!!」アタマにくる。ふたをコンコン叩いたり、便利グッズを使ってみたり、温めてみたり、いろいろやっても開かない。
「開かぬなら 壊してしまえホトトギス」
という信長モードになる。
 まだ壊したことがないのは、中身がダメになるから。
 食べることができないのはいいが、それでは、結論は変わらず、ただ自分の怒りをぶつけただけ、というみじめな結果になる。
 なので、「開かぬなら 開くまで待とうホトトギス」の家康モードで、時々仕掛けながら、そのときがくるのを執念深く待つことにする。
 番組は、いろいろ実験をしながら答えを導き出す構成で、最初の方法は、ふたを叩いたときの固有の高さ(周波数、音階)、つまり、一番振動が大きい音で共振させて開ける、というものだった。そういえば、別の番組で、子供が自分の声でグラスを共振させて割っているのを見た。
 まさか・・・。そんなことで開くのを待つほど悠長な答えはお断り。
 焦らされつつ、ようやく出てきた答えは、
1.手の油分などを取るため、しっかり洗う。(滑りにくくする)
2.片膝を立てた態勢を取る。
3.立てたほうの膝近くの脚にビンの底をしっかり固定させ、片方の手(右利きの人は、左手で)で押しつけるように置く。
4.手でふたを持ち、手首というよりは全体重をかけるイメージで、回す。
 確かに、番組では、非力そうな女の子たちが次々に簡単に開けていた。
 いやいや、そんなことくらいで開くはずがない。と思いつつ、年末から開いていない、叩きすぎて、ふたがボコボコになったビンを持ってくる。
 なかなか取ることのない立て膝ポーズの態勢をおごそかに取る。
 ビンを乗せて、全体重をかけて、ふたを回してみた。
 スルッと回った感触・・・。
 開いた後も、今までの努力が重なって、偶然、今日開いたのかも、などと少し疑っていたけれど・・・。こうなったら、次の開かないビンを手に入れなくては。

2012.1.4 平将門と菅原道真
 そういえば、一昨年の正月、いつものように神田明神に行くと長い行列ができていた。並んで時間を過ごすのは回避したい。グルグル考えているうちに浮かんできたのが、23区の写真集で使った亀戸天神社の太鼓橋。社長が撮った「赤」が印象的な写真で、機会があれば行ってみようと思っていた。
 住所は覚えていないが、駅は亀戸に違いない(おそらく)。亀戸駅は何線か、およその時間もわかる。思いつきで行動することはほとんどないが、体感温度は「行きましょう」と勧めている。
 電車の窓から見る初めての景色。
 電車の中は、買った荷物を持っている人が多く、用事を済ませて家に帰ろうとしている人たち。あきらかに異質な私。
 この時期、道順が駅に書いてあるはずと思った通り、駅に看板が立っていて、ラッキーにも近そうだ。そのうえ、通り道にはいくつか神社もある。
 太鼓橋は、残念な方の
予測があたって、写真のインパクトほどではなかった。それは、赤い色が闇に沈んでしまっていたせいもあるけれど。
 無事にお参りを済ませ、お守りを覗くと、どうやら鎮座三百五十年らしく、特別記念御守がある。祀ってあるのは菅原道真公。
 今日、断念した神田明神には平将門が祀ってあることを思い出した。
 歴史は詳しくないが、どちらも怨霊として恐れられていたことは知っている。不思議なつながり。ここは、怨念→「強い思い」→「信念」→「新年のスタートにはうってつけ」と捉えることにしよう。と自分で納得。
 新年早々、優柔不断で行動が遅くなり、行列に負けた意思の軟弱さにあわせて、自分勝手なポジティブ思考で気分を取り直し、ついでに近くの神社も見たいというわがままな欲求にも抗えず、他の神社にもお参りしてしまった、一昨年の正月だった。

2011.12.14 電車を止める?
 隣のホームに止まった電車。電車の最後尾のホームに立っている駅員が確認してすべてのドアが閉まった。
 と同時に駆け寄った若い男性が
「ダメですか?」
と駅員に聞く声が聞こえた。
「ダメです」
 そりゃそうだ。
 よほど、約束の時間に遅れそうだったのか。
 それにしても、すごい交渉である。
 驚いた。まるで、発車間際のバスに駆け寄って、運転手に乗せてくれ、と頼んでいるような感じだったので。似たようなものだが、影響する人数が違う。
 場合によっては、駅員自らの判断でもう一度、ドアが開く場合もあるけれど、この場合、開いていたら、やっぱり、びっくりしたでしょうね。

2011.12.12 捨てる? 捨てられる?
 大掃除の季節がやってきた。
 捨てよう、捨てようと思いながら溜まってしまっているものがある。
 どちらかといえば捨てられない性分。
 本や洋服をサクサク捨ててしまう人を見ていると、この人は、人間関係もサクサク切って捨てるのかな、などと余計なことを連想しながら、だとしたら、捨てられずになんでも持っているタイプも、別の意味で怖いでしょ、と自分でつっこむ。
 古くなっても、無ければ無くてもいい物でも、不必要と思うものも、似合っていない洋服でも、なかには捨てる決心がつかないものもある。あまり、たくさんの葉を残しておくと、日当たりや成長面で、植物にとっては良くないと聞いたときも、どの葉を、どの枝を切り落とそうかと躊躇してしまって、それが原因なのかどうなのか、枯れてしまった。
 取捨選択ができない優柔不断さは、人生に置き換えて考えると、あまり良いことではないとも思う。すべてのものを背負えるほど、タフではないし、器用でもないし。
 選択はきっとかけがえのない大切な物がしっかり心の中にあることなのかもしれない。しかし、「執着」になると、それは、まだ心がふらついている。でも、あれもこれもと選んでいるうちは、まだまだ…

 それから、時々、思うのだ。主導権が一見、自分にあるように思う関係も、実は、そうではなく、選択されているのは自分のほうなのかもしれないと。

2011.12.11 解読できない絵
 絵の中の文字を入力してください
 画面には、抽象的な絵のような何桁かの英数字がある。
 ときどき読みにくい文字もあって、知能テストか?と思っていたら、この絵から文字を読み取ることができないコンピュータと、人間を区別するためのテクニックなのだそうだ。では、読みとれない場合は、コンピュータと認識される?
 コンピュータは定義が明確だが、ほんの少しでも違っていれば受け付けてくれない融通のきかないところがあり、定義にさえあっていればスルリと騙すこともできる。最近は、人間もちょっと似てきているように思える場合も多々あるけれど

 記憶や計算力ではかなわないものの、人間の脳は見えていないもの、聞こえていないものも、経験で補完することができる。しかし、すばらしいと思える、ソノ能力は、ときに面倒なことを起こす。
 たとえば、「言った」「言わない」。
「言った」と主張する側は、言葉を言ったか言わないかではなく、言葉の持つニュアンスも含めて「言った」と言っていることが多い。「言わない」とする側は、流れの中で口から出てきただけなので覚えがまったく無い場合、もしくは「そんな意味で言った覚えはない」という場合が多い。そんな判断は、コンピュータには不可解だろう。
 人間が決めた定義ーー契約書や法律であれ、決着がつかないこともある。
 利害関係のない第三者も、結局、主観なので、たとえ10人中10人がどちらかの意見に賛成して、正しいと言ったとしても、当事者が納得しない以上、意味がない。それに、本当はただの意見の食い違いを判断するだけのつもりが、多くの人が加わっていく過程で、考えていた結論とは違う方向性にすでに歩み始めていることもある。
 解読できない絵は、解読しようとするのではなく、自分の気持ちに素直になることが大切なのだ。
 素直に選択したあとも迷いは生じる。でも、それは、コンピュータが相手でない限り、誰も拒否する権利はない。誰も認めてくれなくても、自分の決断したことに対して、自分だけは味方であるという強い気持ちがあれば、なおのこと。

2011.12.10 考えないことについて考える
「考えるな」というキーワードでまるで呪文のように「チップを抜かれかけたロボット」になる。
 ボールを投げようとしたら、どちらの足を動かせばいいのか混乱してわからなくなるようなカンジ。そんな人はあまりいないけど。
 以前、引き継ぎのために制作していたマニュアルが膨大な量になって、自分では簡単な仕事と思っていたので驚いたことがある。
 説明した通りに行なえば簡単なことだと言われても、慣れないうちはやはり、わからないことだらけ。わからない部分は「説明されていない」のかもしれないし、聞いていながら忘れているのかもしれない、基本的に経験不足には違いない。だから説明を受けているのだけれど。
 人に説明する機会があると、相手によって様々な反応のあることがわかってくる。一度覚えてしまえば簡単だと思えるような機械的な作業が不得手な人もいるし、最初から適当にしか聞いていない人、聞いてはいるけれど自分で勝手に違うことをやってしまう人も。
 技を伝承する師匠やスポーツコーチでもない限り、相手に「自分の考え」を持たずに動いてもらおうと思うほうが間違っている。疑問に答える煩わしさがなく、自分にとっては都合がいいと思う考え方も。
「腑に落ちる」ためには、実体験と時間と自分なりの考えが必要だ。なかには、そつなく立ち回れる人もいるが。経験の違いや能力の違い、意見の違いは確かに煩わしくて、スムーズにいかないことも多いけれど、それはそれでおもしろい。なにより、相手ではなく、自分の幅も広がってくる。
「考え方が同じ」「似ている」人なんて、きっと、誤解。
 夫婦、兄弟、友達、親子・・・。子供の反抗期は、無くてはならない、相手との距離感を知覚する大切な時期であるなら、関わりを持った他人同士だって、ぶつかったとしても、そのうちには相手との距離感もつかめて、きっと関係もこなれてくる。
 何十年かかったとしても。関係を築くのに、時間は関係ない。そこに、その人と向き合う気持ちがあるのなら。

2011.11.27 独裁者
「大阪秋の陣」に一応の結論が出た。
 最初の1歩が決まった。
 都構想に賛成している人が多いということだろうか。いや、選んだ理由はそれぞれに違うはずだ。選ばれたからといって諸手を挙げて、すべて受け入れたわけではないだろうし、選ばれなかったからといって拒絶されたわけでもない。
 結果に至るいろいろな要素はあるにせよ、やはり言葉、内容というよりは、強い意志を感じとれる迫力を持つ、耳に心地良い「音」が、強味となることは確かなようだ。
 郵政民営化の選択選挙以後、
「でも、これが民意ですから」
という錦の御旗を振りかざすようなセリフが鼻につくようになった。聞くたびに違和感や不信感を抱く。
 私はそんなことは思っていない。自分の答えと、各局が行なっているアンケート調査の答えが同じときには、そのアンケート結果も少しは考慮に入れて欲しい、と思うことがある。もちろん、為政者がアンケート結果に揺れ動いているのが民主主義でもないし、アンケート結果だって総意ではない。
 国民の思いとは違っていても決断するときにはするべきだろうし、理由がわからなければ一時非難は浴びるだろうが、なんといっても、直接関わっていなければ見えないものもある。
 強い態度でのぞむことが良いとき、一見、相手の言いなりになっているかのように見える決断も、戦術のうち。いちいち、理由は求めないし、そんなことをしていたら物事は進まない。ただし、結果だけはないがしろにはできない。そのための代行者であり、リーダーなのだから。
 世の中の情勢もあって、いまは特に強いリーダーシップを求められているようだ。しかし、もともと強い信念がなければトップは務まらない。織田信長や豊臣秀吉や徳川家康のように、曹操、劉備、孫権
のように、何を基本にしているかは違えども、強いリーダーシップがあったことに変わりはない。つい、タイプに分けてしまいがちだが、1人の人間の中にもいろいろな面がある。
 NHKの大河ドラマ「江」が最終回だった。織田信長も、豊臣秀吉も、徳川家康も(役者の力量を脇においても)、いままでにはない、とても魅力的な人間に描かれていたと思う。
 独裁的な傾向が強いように思われるタイプは、一方から見れば、強い指導力があるかのイメージを持っており、また、そういう人も多い。その指導力は、うまくいっているうちはリーダーシップであり、うまくいかなくなると、あるいは道を外れて私心が強くなってくると、人の言葉に耳を傾けない「独裁者」と呼ばれる。
 人々の関心の的になりやすいため、ヒーローにもヒールにもなるのがトップを走る人の宿命。最近は、本筋とはずれたところでマスコミが煽るので、ますます、混乱する。
 ヒーローではなく、「希望」や「夢」が必要。その結果において初めて生まれてくるのがヒーロー。
 複雑で難しい状況下では尚のこと、ときに失敗があったとしても、それが、進んでいくための失敗であれば仕方ない。だが、失敗を恐れて、あるいは保身のために、日和見策を選んで、その失敗の穴埋めだけを求められるのはたまったものではない。
 独裁者の道は厳しい。失敗は、部下や環境が整っていなかったという言い訳は通用しない。その覚悟を持っているのなら、独裁者もOK。
 権力だけ持ちたがる独裁者はお断り。また、部下の仕事までとってやってしまうやり方は、部下の意欲を失わせ、ときには反発も起こる。
 さて、今回、「変革」のモデルケースになるのだろうか。国もモタモタしてはいられない。
 

2011.11.26 見直したゾ!! ちりめんじゃこ
 コラーゲン鍋を食べるとコラーゲンが増えるか。
 残念ながら、そうはいかないらしいが、翌日、皮膚の水分や油分をはかってみると、いいカンジになっているらしい。触った感じも良いことは多くの人が感じている。
 コラーゲンは、体内で新陳代謝を繰り返している。新しいコラーゲンをつくる能力は20歳をピークに下降を始め、50代くらいでは代謝能力が半分以下になってしまう。
 さらにがっかりなのは、表皮はケアによって保つことができるが、若い頃の食生活の乱れや紫外線をたくさん浴びていたことで、コラーゲンをつくりだす能力が発揮できず、シミやシワの原因となるのだそうだ。いまさら言われても・・・。
 骨はカルシウムとコラーゲン50%ずつでできており、筋肉も、コラーゲンを長期にわたって摂ることで維持しやすくなる。真皮の70%はコラーゲンでできているので、代謝が悪くなると、毛根に栄養がいかなくなって抜け毛となる。抜け毛には、海草より、コラーゲン、です。
 食物繊維と同様、コラーゲンに栄養はないが、身体にはなくてはならないものなのだ。
 たくさん食べても害はないが、体内に取り入れられる量は決まってるため、1日5g程度で大丈夫だが、1ヵ月以上摂取することが望ましいそうだ。
「世界一受けたい秋の緊急授業! 食・美容・健康のマル秘 ワザスペシャル!」(11月26日 日本テレビ)での、東京農工大学 野村義宏 准教授の"授業"によると、5g摂るためのそれぞれの食材の量は、さんまで16匹、マシュマロ約250g、鶏ガラスープ約1.2リットル、皮付きの鮭 約2切れ半、鶏のなんこつ 約125g、手羽先 約4本、牛すじ約16g、ちりめんじゃこ約22g、うなぎ約14g、フカヒレ約7g。
 マシュマロ250gって、簡単で良さそうだけど、糖分も多い・・・。
 魚や手羽先などは、どうやら皮の部分にコラーゲンが多いようで、ちりめんじゃこが少量で良いのは、皮も一緒に食べるから。
 ちりめんじゃこは好き。たくさん目が集まっているけれど、他の魚に比べて目力無いので、思わず、目があっちゃった、ということもないし。
 めざしなんて、目の辺りを刺されているから、抜くとき、なんだか文句言われているように感じて、好きだけど、申し訳ないのですよ。

2011.11.25 平安時代の遺伝子
 髪型は顔の造作以上に印象を左右する。特に女性は。
 ぽっちゃりした顔は髪の毛で覆うより、すっきり出した方がシャープに見えるとか、日本人に特に多い、前髪をすべておろす髪型よりも、額を出した方が明るくシャープに見えると言われるが、黒い前髪パッつんは、黒目がちの大きな瞳や切れ長の目にはとても印象的だ。
 でも、ある瞳の大きな女優さんが、前髪をつくったときには違和感があった。女優さんの場合はイメージもあるので、きっと「切りたくなっちゃった」という思いつきではないと思うが、そうだったとしても、ヘアメイクさんが、どのような髪型でも似合うようにしてくれるだろうにと思うのだが、見るたびに「似合わない」と思っていた。前髪はほんの何ミリかで印象が変わるほど、難しいものらしいけれど。
 何年か前に、似合わなくてもいいから、生まれて初めて額を出してみようと決意した。額の形が嫌いだし、前髪はなかなか分かれてくれない生え方をしている。
 前髪無しも落ち着いた頃、また前髪をつくってみようと思いつき、美容院に行った。いよいよ前髪を切る段になって、美容師さんが緊張しながら「切りますよ」と声をかける。以前、初めて髪の毛を伸ばしてみようと思い、納得できる長さまで頑張ったので、切ろう、と決意したときよりも不安そうだった。
 はさみが入った瞬間、鏡を見ながら、「あれっ、失敗しちゃったかな?」と思った。ドライヤーで乾かした後、少しホッとしたような顔の美容師さんが言うには、「切った瞬間は、一瞬、やめれば良かったかなと思った」そうだ。思わず笑ってしまった。
 以前、美容研究家に、こんな話を聞いたことがある。
「年を重ねると、ケアしていても、髪質や顔つきは少しずつ変わってくる。長く伸ばした髪が細くなって、艶もなくなっているのに絶対に切ろうとしない女性がいて、理由を聞くと、『主人が長い髪が好きだと言ってくれたから』。でも、髪型を変えれば、もっと魅力的になれるのにと思うと残念」
 確かに、ある程度の年齢の男性の中には、髪が長いほうが好き、ポニーテールが好きなど、女性の髪型のタイプを言う人がいる。好みはいつまでも変わらないものなのかもしれないが、いまでも、ご主人は、その言葉を覚えているのだろうか…。
 女性のほうは、ご主人の言葉をずっと守って、かわいらしい人だが、たぶん、髪型を変えることも怖いのだろう。
 女性の髪型を見ていると、顔のつくりから受ける印象より、その人の性格が表れているように思うことがある。顔のパーツは親からもらったものだが、髪質、顔型などの条件はあっても、ある程度、自分で決められる髪の形には、その人の意思が反映される。
 そういえば、職業柄、髪の毛が短い方が都合良いだろうと思うのに、毎日の手入れが大変そうだと思うほどの長い髪の女性がいた。何度か会っているうちに、なんとなく理由がわかってきた。
 長い黒髪への憧れは、平安時代からの遺伝子なのかもしれない。

2011.11.11 ホットケーキ+抹茶
 ホットケーキの粉と水、砂糖、少量の塩に、抹茶の粉を入れて、混ぜる。
 焼くのではなく、ラップをかけてレンジで3分。
 そして、冷蔵庫で30分くらい冷やすと、見た目もとってもおいしそうな、'ういろう'のような和菓子に変身。
「世界一受けたい授業」(日本テレビ)で見ました。


2011.11.7 鎖国がいっぱい
 TPPについて、いろいろな意見が出てけれど、国としてどうすればよいかではなく、個々の損得を気にしているだけのような気がして、大丈夫なのかなと思う。
 誰かが言っていた。これはどこのグループ(仲間)に入るかという選択であり、その選択で様々な摩擦が起こりうるが、どのグループに入ってからが始まりなのだと。
 知れば知るほど、というより、私なんかにはわからない、まだまだたくさんのことが故意に隠されているようで、ますますわからなくなるけれど、賛成意見の人が「鎖国」状態に例えているのを聞きながら、鎖国状態は世の中にはたくさんあることに気がついた。
 ルールを決めるのに外部の意見を取り入れなくても良い、それで成り立つ「場所」。
 小さな集団では「家族」。そして、「近所」「学校」「職場」や、元は同じところから派生したはずなのに、なぜか近いものほど反発意識が強く見える「様々な流派」や「宗教団体」なども。
 それぞれに独自のルールを持ち、外部の人間が踏み込むときには、その独自の「ローカルルール」を進んで受け入れる場合は良いが、そうせざるを得ない理由があって従う場合は、かなりのストレスとなる。おそらく中にいる人たちは、それが常識となっているため、多少一般的ではないルールにも気がつかない。あるいは麻痺している。
 そうしたルールが決まっていたほうがやりやすい場合も多い。一つひとつ、その都度考えることも少なくなる。
 TPPでは、そうはいかない。妥協やかけひき、折り合いをつけるなどの、様々なテクニックが必要になり、反対派には、そうしたことが果たしてできるのかを危惧している人もいる。
 昔、友人がバイトをクビになった理由は、皆の昼食のお弁当を買ってきたときに「おかずにかかっていたソースがごはんに染みていた。そのような感性の人にこの会社の仕事は合わない」というものだった。特別、繊細であることが必要な業種のようには思わなかったという記憶がある。十数年も前の話で、そのときは、その言葉をそのままに受け取って聞いたので、なんと不思議な人たちがいると思い、その後、そうしたことに象徴されるような他の理由が何かあったのだろうかとも思った。しかし、だとしたら、そちらを理由にしたはず。
 本当の理由を隠すための方便だったのか、もしかしたら、それほど深い意味はなかったのかも。
 でも、どのような理不尽に思えることも、「ダメなものはダメ」なのだ。そこに理屈はない。周りの話を聞いていたら、こんなことをしているのは、自分の家族だけだった という話はよく聞くし、学校でも同業者であっても、それぞれ独自のやり方がある。
 外部と交わることがなければ、それでも問題はない。
 しかし、外部との接触を拒んだり、恐れているだけでは、環境が変わったときには絶滅するしかなくなる。動物も植物も、長い歴史のなかで様々なものと交流して、環境にあわせて進化を遂げたものが生き延びた。逆に、他のものと接触しない環境を選び、生き延びてきたものもある。
 どちらを選ぶか、なにを選ぶか、危険も安全も背中合わせ。どの選択にもリスクがまったくないものはない。活路が見いだせるのはどちらなのか、あるいはどちらのリスクを選ぶのか。
 すべての人にとって、幸せな選択って難しい。だけど、「『本当に』弱い立場」の人にだけ、将来の希望もない、犠牲だけを押しつける選択肢は選んではいけないと思う。

2011.11.5 ネコのゴロン
 いつも笑っている人。というか、いつも笑っているような顔の人。そういう俳優さんが悪人役をやると、とても怖い。
 なんでだろう。
 いや、怖いからこそ、そういう配役にしたのだろうと思うけれど。
 怖い顔の人は凄味があって怖いけど、それはイメージ通り。そんな人がトーク番組ではにかんだような顔をすると、そのギャップに惹きつけられることもある。
 逆に、邪心のない笑顔で、とんでもないセリフを口にしているのを見ると、背筋が凍るほどとてつもなく不気味。でも、妙にそのセリフが似合っている。もっと幸せなセリフと差し替えても似合うのだけど。
 笑っているからといって、いい人ではないし、怖い顔の人だからといって悪い人ではない。逆に、笑っているけど、おなかの中では腹黒いこと考えているかも、とか、怖い顔しているけど、本当はいい人、ということもない。顔(表情)は関係ない。そんなことはわかってるのに、自分でつくったイメージに騙される。
 チンパンジーが歯をむき出しにしている表情が「相手に敵意がないことを示している、人間でいうところの笑顔」だということを知ったとき、う〜ん、今日、私がチンパンジーになったとしたら、その顔、敵意だとしか思えない顔だけれど。
 そういえば、猫が、こちらを見ながら、ゴロンとおなかを見せて横になるのはなんだろう。わからない。おなかを見せるということは、敵意はないんだよね?? でも、それほど親しくもないのに、いきなり、腹を割って見せられると、人間の場合でもちょっと怖いものなんだよ。私には、その猫の姿が不気味に見える。

2011.11.2 どっちが似合う?
 奥さんや恋人の買い物につきあわされて「どっちが似合う?」と聞かれ、適当なほう(恐らく、自分が好きなほう)を指す。すると、「ふ〜ん」と不満そうに、服を元に戻して違う店に行こうとする女の人の行動がわからない、という男性が少なくないらしい。こういうときは、似合うかどうか、男の人のセンスを聞きたいわけではなく、どれほど自分のことをわかってくれているのか確認していることが多いので、女性がどちらを選んでほしいと思っているかどうかがポイントなのだ。
 よく見ていると、たぶん、しぐさなどにヒントがある。
 でも、それを見つけるには観察していなくてはいけない。そんなことができていれば、苦労はしない。うん、そう思う。
 今度、答えをはずしちゃったときには、「君によく似合っている○○の服とコーディネイトするといいかな、と思ったんだけどね」と言ってみたら?
「そうかな〜」なんて、態度が変わるかも。
 毎回同じセリフばかりでは、気づかれてしまうけど。
 それに、よく似合っている服が思い出せないと"アウト"だし、それもはずしちゃうと最悪になるかも。責任は持ちません。

2011.11.1 占い
 帰る時間、いつも同じ場所にいる50代くらいの男の占い師。
 カップルや女の子の2人連れなどが見てもらっているところに行き会わせることもあるけど、ほとんどはタバコを吸ったりして、ボ〜っと座っている。
 占い師は、人の悩みや迷いを聞いて、方向性を見つけられるような答えを出してくれるのが仕事。でも、美容師やネイリスト、エステティシャンのような、一対一でお客様を相手にする仕事、あるいは営業マンも、実は同じようなことをしている。ただ、最終目的がそれぞれに違う。
 相づちが絶妙で、「この人、私の気持ちをわかってくれている」と感じると、心を開いて相談したくなる。親しい人には慣れすぎていて見えないことや、あるいはわかっていても言いにくい場合もある。
 占い師さんは、ちょうどいい距離感。占ってもらう方も真剣であればあるほど、一生懸命に語る。親しくもない相手に、ベラベラと自分のことを話す相手は、お医者さんと占い師さんくらいかも。
 ちょっと興味があるのは、恋人と別れようかどうしようか迷っているときや、結婚してもいいのかどうか迷っているとき、初めて仕事をする相手とのことを知りたいとき、同じ占い師に、時を変えて、個々で占ってもらったら、同じ結論の答えになるのだろうか。
 たぶん、答えは同じ。だけど、それぞれへの伝え方は、どんなふうになるのかな? 占い師さんも、気を遣って話すんだろうな。
 それはともかく、どのタイミングで占ってもらうかで、同じ答えでも受け止め方は変わる。
 状況が良いときや、欲に眼がくらんでいるときは、悪い理由は見ないふりだけど、うまくいかなかったときは、その逆の理由ばかりをピックアップして、自分への言い訳に使う。
 努力だけではうまくいかないこともあるけれど、努力もしなければ、うまくいかない。結論が良いからといって、行動を起こさなければ、手に入るものも手に入らなくなる。結論は当然変わってしまう。
 自分にとって悪い結果が出た場合、やめてしまうのも一つの選択肢だけれど、もし進むのなら、見ないふりではなく、自分の考え方のクセを変えなければ、運命(占い)通りになるのかもしれない。
 もし、運命が変えられないのなら、努力してもそれは無意味なことなのかな?でも独り相撲であったとしても、何もしなかったより後悔は少なくなるよね。

2011.10.12 回転テーブル
 中華料理店にある回るテーブルは、日本生まれ。そんなこと考えたこともなかった。
 ちょっと緊張感漂うメンバーでの会食でも、中華料理だと、取りやすいように回してあげるだけでOK。気を遣わなければいけないと思うだけで、緊張している割にビールのコップが空になっているのを見つけて、冷や汗かくこともない。
 しかし、お皿が空っぽなので、「どうぞ」と声を添えてテーブルを回しても、自分でとらない人もいる。他の人もテーブルを回せないままの膠着状態に、「この人の奥さんは大変だろうなぁ。もしかして、靴下もはかせてもらっているの?」などと考えながら、小皿に取って回して上げる。すると、食べる。
 中華料理の「回るテーブル」を考えたのは、日本で初めて総合結婚式場をつくった目黒雅叙園の創設者、細川力蔵氏なのだそうだ。披露宴でテーブルの上に並べられた料理をとるために席を立つ人を見て、席を立たずにとることができるようにと、大工さんに相談してつくったのが始めだったとか。1932年のこと。
 それを中国人が見て、中国で広めた、ということらしい。
 きっかけを聞くと、これはもう、絶対、日本人の発想のようにしか思えなくなった。
 でも、イタレ〜リ・ツクセ〜リも度が過ぎると、小皿に料理をとり分けることもできなくなってしまうけれど。

2011.10.11 物を食べる部屋
「ない」「ない」
 また、始まりました。恒例の「ないコール」。
 (もうひとつ「なぜコール」もあるのだが、これはまた、次の機会に)
「ない」「ない」とまるで、人にアピールしているかのようにやや大きめの声で騒ぐ主は、ガサガサと音を立てて探しはじめる。
 自分の周りをチラッと確認すると、次に、人の周りを探し始める。
 パソコン横に置いて見ている校正資料であってもお構いなしにパサパサひっくり返す。もう慣れてはいるものの、
「絶対にココにはない」心の中で、少し奥歯を噛みしめ気味に、声に出さずに思う。
 最初の頃は、「何がないの?」と探すのにつきあっていたが、こう毎日(に近いほど)やられると、つきあう気も失せてくる。
 何回もその状況を見て、分析したこと。
1. 困っているには違いないが、本人に「絶対に見つける」というような真剣さがないところに矛盾を感じる。つまり、誰かが探してくれると思っている。
2. 失せ物(と思われている物)は、本人の座っていた近くで見つかることが多い。
3. すぐに仕事ができるからと言いながら、敷きっぱなしの布団のごとく、資料や本を次々出してきては片付けていないのが悪い。
4. 自分の所にない=人が間違えて持っているのではないか、と思いこむのが早すぎる。
 急を要するとき以外は、手伝うと図に乗ってしまうので、手出ししない。面倒くさいし。
 しかし、「ない」「ない」と一定時間、セミのように鳴き続けて(?)、そのうえ、電球に集まる虫のようにドタバタ飛び回るので、ジッと我慢しているほうも大変である。多くの場合、根負けする。
 あるとき、ジッと耐えて密かに見ていると、書類をパサパサしているだけ。そんなことで見つかるはずがない、と納得した。
 しかし、本人は探したつもりになっており、次第に腹が立ってくるのか、最後におきまりのセリフを絶叫する。
「なんで、この部屋は、こんなに物がなくなるんだ!」
 決して、そんなことはない。いままでのデータをグラフ化すれば一目瞭然である。そんな無意味なことはしないが。
 もしかしたら、この部屋にはブラックホールが存在しているのかもしれない。でも、ブラックホールは、どうして、私のものは吸い込まないのだろうか。

2011.10.6 首がない
 ひゃあ〜首がない
 前を歩いていた女性に視線をやって、ぎょっ!!
 ありえない、ありえな〜い。
 5mほど前を歩いている、高齢の女性の、そのシャツの襟あたりを凝視するのだが、どう見ても、ない。
 でも、普通にスタスタ歩いている。
 目はウロウロしながらも、首の辺りに釘付け。
 すると、ヒョイと下から首が出てきた。
 あ〜、なんと、首が下に向いていて、見えなかっただけ。
 ゴメンナサイ。

2011.10.4 ほほえみ
 キャッシュサービスの順番が回ってきて、2台しかない個室型のキャッシュコーナーに入ると、そこに取り残された「杖」。
 ドアですれ違った女性が忘れたのだ。振り返るとガラスドアの向こうに居た。
 ドアをあけて声をかけたが通帳をバッグにしまうことに一生懸命で気がつかない。
 仕方ないので、肩に手をふれて「すみません、コレ」と言って杖を差し出した。
 すると、
「まあ、まあ、一番大切な物を忘れちゃって」と、顔をクシャッとさせて笑った。
 その言葉がおもしろくて、知り合いでもないのに、声を出して、一緒に笑ってしまった。
「一番大切な物は、通帳じゃなくて、杖」。なんだか嬉しくなって、機械に向かって操作しながら、今度は声を出さずに、笑った。

2011.9.14 ギュッギュ
 電車が駅に滑り込んでいくとき、窓に映る、1人の女性の行動が目に留まった。
 口の横に片方の手を添えて、1回、キュっと頬のほうに引き上げ、それが、きっかけになったのか、今度は、親指と人差し指で口角の両端を持ち上げるように、窓ガラスを見つめながら何回もギュウギュウと引き上げはじめた。
 年齢は50代後半くらい。確かに口角が下がるのが気になる年齢。
 まるで洗面所の鏡の前にいるかのような行動は、クセになっているのか、それとも、これから大事なお客様に会うとか・・・。
 やや飽きてきて、目を転じると、その女性の対面に座っていた20代の女性が、目をぱちくりさせて見つめていた。当の女性に視線を返してみたが、2人にみつめられていることなど気づいていないほどに、自分の行為にはまっている。
 男の人が見ていたら、何をやっているのかさえわからず、さらに奇異な行動に見えたかも。ああ、でも、最近は、プチ整形に、女性タレントの写真を持っていく男性も増えたそうだからなぁ。
 そういえば、10代の頃、どうしてもとれない寝癖が気になって、手で押さえては髪がピョン、押さえてはピョンを、授業中も、友達と話しているときも、無駄に繰り返していたことを思い出した。
 最近、寝癖がつかなくなったのは、やはり、年齢とともに、髪の毛も性格が丸くなったからだろうか。 

2011.9.7 切符がない
 あれっ。切符がない。
 電車の中で気がついた。
 なんで? いつも、クセで、握りしめるように持っている、右手にも左手にもない。足元を見ても、落ちてない。
 いつから、ないのか・・・。
 さっきの自動改札機で取り忘れたんだ。連絡切符だったのに、
 しょうがない。
 きっと、改札の駅員さんにぶっきらぼうに
「どこから?」「 120円ね」などと言われるんだろうな

 これが初めてではない。
 車内で落として、偶然、人に踏まれて、言い出せなかったとき。ふとした瞬間、手を離れた切符が、エスカレーターの下に飛んでいってしまったとき・・・。
 回数は少ないけれど、時々、買った切符が手元にないことがある。
 気が重い。ズルをしようとしているのではないか、というような駅員さんの目つきに傷つくし、悔しい。
 電車を降りて、駅員さんのいる窓口に怖ず怖ずと向かい、
「すみません。切符を改札で取り忘れちゃったんですけど・・・」
というと、
「すみません。お支払いいただかなくてはいけないんですけどぉ」
 最近、記憶にないほど馬鹿丁寧な物言いの若い駅員さん。そして、なぜか、尻上がりのイントネーション。
 クスッ。
 駅員さんの「感じ良い人・作戦」に負けました。120円は、この話が書けた代金?
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