私のFENリスニング具体的体験シリーズ(9)
語感は音を通じて、音の中で会得した。
お母さんが幼児に向かって喋る際、
速い音の操れそうもない幼児に
手心を加えて話すだろうか。そうはしない。
お母さんは幼児が分かっても分からなくても
速いスピードで話す。分からなければ
繰り返すだけである。
「ちょっと、こっちへおいで」というのに、
「ちょっ、と、こっ、ち、へ、お、い、で」などと
いわずに、ごく自然に
「ちょっと、こっちへおいで」という。
もし、お母さんが、ゆっくりと
「ちょっ、と、こっ、ち、へ、お、い、で」と
話したとすれば、そのお母さんは、
幼児がすでにそれらの言葉を知っている
前提に立っている。
実際はまだ何も分かっていない幼児の方が
お母さんの自然な言葉を聞いて
いつのまにか文を分節し
全体を理解していく。
ただし、幼児は声が分節できても
「ちょっと」が聞けたとか、
「こっち」が聞けたといって
一々興奮するようなことはしない。
四つの言葉に分解できることも知らない。
関心はお母さんが何をいったかだけである。
自然な速さの「ちょっと」「こっち」「へ」「おいで」
の四語の語群を、まるで一語かのように
感覚的に受け止めるが、
それは取りも直さず幼児が
心の中で言葉を統御し、
文全体を理解したからであり
このとき身につけた「こつ」のようなもの、
それが「語感」であると私はいいたいのである。
昔、中学時代に聞いたカムカム英語を思い出す。
テキストには「Come here a minute, Taro.」とあり、
「カメラミニタロ」と片仮名でルビがふってあった。
文字を見れば、5語であることは一目瞭然だが、
「カメラミニタロ」と声だけ聞くとまるで一語だった。
この一語にこそ語感は宿っていた。
だから、この速い言葉を何度も繰り返し耳で聞いて、
語感というものを身につけるべきだった。
しかし、耳より目にいった。
テキストがあるとどうしても目で追う。
文字に幻惑され5語に分解した。
それが悲劇の始まりである。
生き物である声をバラして死体にして解剖した。
ここは頭のcome、次は首のhereといった調子だ。
そこまでならまだよかったのだが、
これは動詞の命令形、これは場所を表わす
副詞、これは冠詞のaとやっているうちに、
文法にばかり気を取られ、
受験勉強の元祖のようになり、
声の声たる所以を理解しなかった。