子供の頃、夜は今よりズ〜ッと早くやってきていたように思いませんか?
 ぼくの暮していた山科は、いわゆる“碁盤の目”と言われる京都市内からひとつ山を超えたベットタウンで、当時まだたくさん田んぼが残っていて、陽が暮れると申し訳程度に街灯がともる小さな街でした。

 ある夜、ぼくは母からお使いを頼まれ一人自転車で出かけました。人っこ一人いない路地を曲がると、すぐに小さな橋が見えます。最初は気ずきもしない小さなせせらぎの音も、ハッキリと聞こえるようになってきました。 川幅は5メートルほどなので、チラッと川面に目をやる暇もなく橋を通り過ぎて、サラサラと聞こえていた音もだんだん聞こえなくなりました。そして、お使いを終えた帰り道でも、来る時と同じようにせせらぎの音が聞こえ始め、やがてぼくは橋の上までやってきました。
 ぼくは自転車から降りて、誰もいない橋の上で川を眺めてみました。当然なんだけど、川はいつものように流れていました。 その時、ふと不思議な思いがアタマをよぎったんです。
 「誰も見ていない、音さえ聞いていない時、川は流れてるんやろか?」
 「そん時、川は“ヌルッ”と止まるんちゃうやろか?」

 「誰かがその射程に入って来ると、すぐに川は動きはじめて人間に絶対気ずかれることはない。そうなると、誰も見てないんやから確かめようもないなぁ。」

 そんな事を考えはじめると、ぼくの目の前を流れる川はそれまでの川ではなくなって、キラキラと街灯を反射する黒い川面の中に何か得体の知れないモノが潜んでいるように思えて、なんだかスゴク恐かった。そして、ぼくはその夜遅くまで布団の中で聞こえるはずのない川の音を探し続けました。

 もちろん、今では“川がヌルッと止まる”なんて思う事はないんですよ。でも、いつもいつも川が流れているって誰が言えるんだろう?誰も知らない時に、川が枯れてしまった事も凍ってしまった事もあるでしょ。 誰も知らないんだから、確かめようもないワケ。
 もし、人が見えるものだけを“確かなもの”って信じるんなら、見ることの出来ない確かめようのない事も、ただただ信じるしかないワケじゃない?
 『科学的じゃ〜ない!』という信仰。 むかしむかし、宗教と仲の良かった科学も進歩を続けて“昨日の科学”は“今日の科学”に敗北して、新しい“現実”ってヤツがイキナリ登場してしまう。そして、おエライさんに認められた“現実”を庶民であるぼくらはよく解らないままに、ただ信じるだけなんだよ。
 『水が重力により高い所から低い所へ流れる』それが川なんでしょ、でもぼくはその重力ってヤツをよく知らない。

人ってスゴクたくさんの事を信じて、日々過ごしてるんじゃないか。 神様も悪魔も、超能力もUFOも信じない人でも“科学”は信じてる。 ダーウィンの進化論だってあくまで“論”であって、誰もまだ確認してないんじゃない。 何処かの動物園でサルがいきなり「メシくれ〜。」って言い出したら、もう『猿の惑星』だもんね。

 日曜日が終われば、月曜日がやってきて、みんなは仕事や学校に行かなきゃなんないんだけど、 ぼくにも明日はやってくるのかな?
 ほぼ確実なことは、ぼくが明日ポックリ逝ってもあの川は流れているに違いないということです。