京都市の生活用水は滋賀県の琵琶湖から“疎水”と呼ばれる水路を通ってやってくる。その疎水と山に挟まれるようにぼくの通う高校はありました。  
  2年生の夏、疎水に沿った遊歩道を歩いていると突然その答えがやってきたんです。『人は何故、生きるのか?』っていう、いかにも健全かつ、高校生らしい、しかもかなり青臭〜い問いに対しての答えが...。

 「人は何故、何の為に生きるのか?」そのシンプルで難解な問いを前にして、 ぼくは“食物連鎖のピラミッド”その頂上に君臨する人間サマとしてまず、「犬は何の為に生きるのか?」さらに「鳥は?」「魚は?」「細菌は?」と見下ろして考えてみた。
 生命は細菌のような単純なものから、より複雑なものに進化したという。しかし細菌も人間も、あらゆる生物の設計図はDNAという遺伝子に書き込まれているワケ。その遺伝子がその生物の形態や行動までも決定してるのなら、種の違いに関係なく遺伝子こそ生命体そのモノと言えるのではないか。
 遺伝子は希望も不安も抱くこともなく、ただ機械的に増殖をくりかえして己の分身を将来にわたって増やそうと、せっせと働いているワケ。つまり『子孫を残す。』ってことこそ生命の究極の目的じゃないの。
 『子孫を残す』って目的の為に遺伝子はその設計を変更して、環境に適応してきた。もしくは変化した設計図が環境に適応した結果、その種は繁栄している。
 だとすれば、犬や鳥、人間にいたるあらゆる種、それらの形態はより環境に適応した最適の『遺伝子の乗り物』にすぎない。『種の繁栄』っていう辿り着く事のない目的地に向かって進む為の、『乗り物』。ヒトが旅行するのに、自動車や
電車、飛行機なんかを使うのと同じで、 ヒトという形は遺伝子が乗る自動車や電車でしかないん
だ。

 遺伝子の増殖が“生きる”って言うことになるなら、人生ってあまりに味気ないものになってしまうんだろうか。
 でも、楽天家のぼくはそうは思わなかったんです。
 人生にはあらかじめ用意された使命も目的もなくって、完全な自由だけが存在すると思ったワケ。生きると言うこと自体に大きな意味はないんだ。「どう生きるか、また生きたか」ぼくの人生に与えられた“完全な自由”をどのように行使するかが重要だって思った。だって、“完全な自由”を行使できるのは人間だけに許されているワケでしょ?。
 
 ヒトは脳を発達させることで種を存続させてきた。その発達した脳は、芸術を生み、科学は自然のスゴさも教えてくれる。でも、発達した脳は他の種を滅ぼし自然さえも破壊してきた。
 ヒトは自然から生まれたにもかかわらず、自然の範疇に治まらないくらい“完全な自由”を持っちゃった。
ヒトの得た“完全な自由”って1つの道しるべもない、途方ないくらいの自由。 みんながみんな「私は自由だ!」って好きかってにしていたら、大変だ。だから宗教なんてものを作ったんだろうけど、日本じゃ殆ど死滅しちゃってる。

 じゃぁ、人は何を道しるべに生きてゆけばいいんでしょう?
 こりゃもう核兵器と同じで『持ったはイイけど、使うに使えない』って状態かな。 どう使うか、それとも使わないのか、選ぶのも人間の自由でなんだけど。