いつか見た夢(前編)


 トントントントントン。
 包丁に叩かれた俎(まないた)が、リズミカルな音をたてる。
 その横では、ふつふつとコンロにかけられた鍋が湯気を立てていた。
 楓は沸騰する寸前に、出汁(だし)取り用の煮干しを網ですくい上げると、まず赤味噌を、それが溶けると、白味噌を味見しながら溶かした。味噌の良い香りが、フワッと鍋から立ち上る。
 なめこ、豆腐、麩、最後に先ほど刻んだネギを入れて一煮立ち。
 楓の後ろでは初音が、コリコリと音を立てながら、ほうれん草のゴマあえに使う白ゴマを鉢で擦り潰していた。
 たまたま東京の大学から帰省していた梓が、妹達の手際の良さを感心しながら見つめていた。
 楓は一歳年上の姉に、出来上がったばかりの味噌汁をお椀に少しすくい差し出した。
 梓は、ふーっと少し熱を冷まし口をつけた
「おいしいよ楓。これ、あたしが作るより美味しいと思う」
 姉に褒められ、楓は頬を少し赤らめた。
「ちゃんといつも出汁を取っているんだろ。それだけでも偉いよ。あたしは面倒で出汁入りのお味噌使っていたからね。それに赤味噌と白味噌混ぜるなんて、よくそんな手間のかかる事する気になったね」
 楓は梓の問いに、微笑(ほほえ)みを浮かべただけで返答はしなかった。
 答えたくなかったから。
 理由は簡単だった。
 愛する人の喜ぶ顔が見たい。
 ただ、それだけだった。
 その愛する人の名前は柏木耕一。
 来年結婚する一番上の姉、柏木千鶴の婚約者。

 しゃかしゃかしゃか。
 納豆を混ぜる音がテーブルのあちこちから聞こえてくる。
「初音、悪いけどお醤油取ってくれる」
「はい、梓お姉ちゃん」
「サンキュ。ところで、この11月に台風来てるって本当?」
「梓、知らなかったの? さっきニュースでやっていたわよ。観測史上二度目の遅さだそうよ。あ、私にもお醤油頂戴」
 手早く自分の小鉢に醤油を差すと、梓は姉の千鶴に手渡した。
「ねぇ梓。東京での生活はどう?」
「ああ、順調だよ。授業も思っていたより面白いし」
 梓は空いている席に、ふと気がついた。
「あたしの入れ替わりに都落ちしたアレは、まだ起こさなくて良いの?」
「耕一お兄ちゃんなら、さっき洗面所でお髭を剃っていたと思うけど……、あ、来たよ、梓お姉ちゃん」
 初音が答えると同時に、紺の背広に茶色のネクタイを締めた耕一が、食卓に姿を現した。
「こういち〜。大学を中退して社会人になった感想は?」
「毎日昼まで寝ていた頃が懐かしいね」
 そう言いながら、耕一は椅子を引き自分の席に座った。
「もう一年くらい経つけど、鶴来屋の仕事は慣れたの?」
 耕一は首をフルフルと横に振った。
「全然。まだまだ憶える事が多くて大変だよ。旅館のアルバイトなんてした事なかったしね。タダでさえ、周りからのプレッシャーが厳しいし、千鶴さんの気持ちが良く判ったよ」
「大丈夫ですよ。耕一さんはスジがいいって、みんな褒めていますから」
 千鶴はやんわりフォローを入れると、お椀に味噌汁をすくい手渡した。
「そうだと、いいんだけどね」
 耕一はお椀を受け取ると口をつけた。
 その様子を、楓が無言で見つめる。
 一口含んだ後、耕一は楓の方を見た。
「楓ちゃん、味噌汁の味噌変えた?」
 こくんと、楓は頷いた。
「お口に合いませんか?」
 耕一は笑いながら慌てて首を横に振った。
「いつもよりとても美味しいと思うよ」
 楓は思わず安堵の溜息をついた。
「良かったね、楓お姉ちゃん」
 初音の声に頷きながら、楓はあることを思い出した。
「耕一さん、洗濯に出されたワイシャツですけど、ボタンが取れていたので繕っておきますね」
「ありがとう楓ちゃん。確かワイシャツの替えは他にも何枚かあるよね」
「ええ、昨日二枚アイロンがけしておきました」
「楓、あんた耕一のシャツにアイロンまでかけているの?」
 梓が呆れるように言った。
「ご飯作って、洗濯して、家の掃除までして………。千鶴姉、このままだと誰が耕一の婚約者か判らないねぇ」
 梓は意地悪そうな顔をつくり、千鶴の顔を覗き込んだ。
「だって、その、ここのところ仕事が忙しくて……」
 バツの悪そうな顔をしながら千鶴は呟(つぶや)いた。
「楓ちゃんは、きっと良いお嫁さんになれるよ」
 耕一の言葉に、楓の表情が少し曇る。
「ごちそうさま」
 初音は自分の食器を片づけると鞄を手に取った。
「車に気をつけるんですよ」
 小学生の頃から変わらない言葉を、千鶴は投げかけた。
「うん。行ってきます」
 初音は廊下をパタパタと音を立てて、玄関の方に去っていった。続いて、耕一、梓、千鶴の順で席を立つが、楓は皆が席を立っても、まだ朝食を食べていた。
「楓、あんたいつからそんなにご飯食べるの遅くなったの?」
 梓の問いに、楓は無言で頷く以外何も答えなかった。
『耕一さんの顔を、少しでも長く見ていたいから』
 そんな言葉は死んでも口に出せなかった。

 家族が出かけた後、楓は朝食の後片づけをし、洗濯に取りかかった。いつも掃除と洗濯は一日置きに交互にしていた。それが一段落すると、自分のパート先に向かった。
 学生時代、楓の成績は常に上位ランクに入っていた。誰もが大学に進学すると思っていたが、楓は周りの説得をふりきり、地元の企業に就職した。しかしその会社も一ヶ月も経たないまま退職。今は十一時から夕方の四時迄事務のパートに就いていた。
「家の家事に専念したいから」
 楓は家族にそう説明した。
 梓が東京の大学に進学した当初は、楓と初音が家事を分担してこなしていた。しかしその直後、耕一が大学を辞め、鶴来屋に就職するため柏木家にやって来た。必然的に家事の手間も増大してしまった。千鶴は仕事が忙しく(手伝っても足を引っ張るだけなので、手伝わせてもらえないという理由もあるが)、耕一も幹部候補とはいえ、入社したての新人であり何かと帰宅が遅く、とても家事を手伝う余裕はない。まして初音は今年大学受験生である。楓が家事を全て取り仕切ると言ったのは、そんな時だった。
 初音は当初、姉に負担をかけることを心苦しく異を唱えたが、
「初音は学生なんだから勉強に専念しなさい」
 楓に大義名分を言われては反論のしようがなかった。千鶴や耕一も、楓にすべて押しつける事に後ろめたくはあっても、現時点ではそれが一番良い方法に思えた。
 もっとも当の本人にとって『家族の為』というは建前にすぎないのだが。

 午後四時。楓は職場を出るといつものように夕食の買い出しをして帰宅。先にお風呂の掃除をすませ、食事の用意に取りかかった。
 夕食後は初音に後片づけを任せてお風呂に入り、自分の部屋へと戻った。
 カチャリ。
 楓は部屋に入ると素早く鍵をかけた。
 これから自分のすることを知られないために。
 楓の腕には、ボタンをつけ直したばかりの耕一のワイシャツが抱き締められていた。
 それをおもむろに自分の抱き枕に着せると、抱きしめ臭いを嗅いだ。
 まだ洗っていないそのシャツには、耕一の汗や腋臭の臭いが染みついていた。
 楓は、とりあえず、現状は幸せだった。
 大学に進学しなかったのは、耕一が鶴来屋に就職するのを知っていたから。
 耕一の為に食事を作り、耕一の着る服を洗濯し、耕一の部屋を掃除した。
 いつもあの人の喜ぶ顔が見たい、あの人の側に居たい。あの人の役にたちたい。それらの願いはすべて叶えられた。だが、それらとは別に、どうしても叶えられない願いもあった。
 それは耕一に抱かれる事。
 人間、欲張り過ぎることは自分の身を滅ぼす。そう思い、楓はこの願いだけは断念した。でも、時折一人で寝ていると、言いようのない孤独感に襲われるときがある。あの人に抱いてもらえたら。そんな思いが募る時、楓は耕一の衣服を借りてそれを抱き、臭いを嗅ぎ、夢という名の妄想にふけった。
 耕一と二人きりで朝食を取る夢。耕一と二人で旅行に行く夢。耕一と結婚する夢。耕一に抱かれ子供を宿す夢。
 現実では決して叶わない夢を、叶えてはいけない夢を、楓は毎晩妄想に溺れる事により自分を慰めた。ただ、心の奥底から込み上げてくる涙だけは、止めようがなかった。

 翌日、梓が東京に戻るため、駅まで楓が車で送って行くことになった。
 空はどんよりと曇り雨がぱらついていた。
「台風、こっちに直撃みたいね」
 助手席に座った梓が、運転手である楓に呟いた。
「そうみたい」
 楓は覇気のない声で答えた。
「どうしたの、楓」
「ちょっと、風をひいたみたい。少し微熱気味で頭がボーッとするだけ。それより、電車は大丈夫なの? 梓姉さん」
「大丈夫だと思う。台風がコッチに来るのは夜だし、北陸線を東に進む電車で帰るから、多分台風が近づく頃には新潟に抜けている筈」
「それなら、いいけど」
 町中は台風に備えてか、昼間から雨戸を閉めている家があるほどだった。すでに家を出てから、風が少し強くなってきたように楓は感じた。
「楓、東京に来ない?」
 交差点で信号待ちをしている時、梓は優しい声で語りかけた。
「今のままだと、あんたこの先辛いだけだと思うよ」
「どうして、そんな事を私に?」
「耕一の事好きなんだろ」
 楓の表情が硬くなる。
「楓、今はいいかもしれないけど、来年二人は結婚するんだよ。このままだと……」
「梓姉さん、私はとても幸せよ」
 信号が青に変わるのを視認すると、アクセルを踏み込んだ。
「私、都会に行っても、きっとなじめないと思う。それにみんな仲良くやっているのに、どうして辛くなるなんて梓姉さんは思うの。私は今のままで充分幸せよ」
 梓は少し考えた後、楓の顔を見てこう言った。
「楓、あんた千鶴姉に似てきた」
「え?」
「今のあんた、二年前の千鶴姉そっくりだよ。自分の本音を隠し、外面の良い言葉を並べる、その偽善くさい仕草とかね」
「………………」
 楓は車を駅の駐車場に止めると、二人で駅の改札口に向かった。
「じゃあ、後はよろしくね」
「梓ねえさんこそ、元気で」
「楓、東京に来たくなったら、いつでも連絡よこしな。あんたが居候するくらいのスペースはあるからさ」
 そういうと、梓は改札をくぐりホームへと消えていった。
 完全に姿が見なくなるのを確認して帰ろうと思ったとき、遠くから人が走ってくる足音を楓は聞いた。
「間に合った」
 それはとても聞き慣れた声だった。
「千鶴姉さん?」
 ふと見ると、千鶴がショルダーバックを抱え、息を切らしながら緑の窓口で切符を購入していた。
 千鶴も楓の存在に気がついたのか、お金を払い終えると、財布を懐にしまいながら楓に声をかけた。
「楓、梓を見送りに来たところなのね」
「千鶴姉さん、今からどこかへ行くの?」
「鶴来屋が外食産業を経営しているのは、楓も知っているわよね。実は東京支店で問題があって、私が行かないと問題が解決しないらしいのよ。すでに足立さんは前の電車で向かったわ」
「長くなりそう?」
「早ければ明日には帰って来ると思うけど。ただ、台風が来ているから、耕一さんにはなるべく早く帰るよう言っておいたわ」
「気をつけて」
「あなたも気をつけてね」
 楓は千鶴の背中を、手を振って見送った。

「……六時のニュースです。大型で風の強い台風は現在速度を速めながら北上しており……」
 楓は夕食の準備をすませ、テレビを見ながら初音と耕一の帰りを待っていた。
 外は風が強まる一方で雨が激しく雨戸を叩き始めた。
 プルルルル。プルルルル。
 電話の受話器を急いで取り上げる。
「もしもし、柏木です」
『あ、楓お姉ちゃん? わたし、初音だけど。今ね、お友達のところにいるの。それでね、もう風がかなり強くなって、帰るの危険だからって、お友達の両親がいうの……』
「そうね。今帰るのは私も危険だと思う」
『じゃあ、泊まってくるね。明日には帰るから』
「気をつけてね。お友達のご両親によろしく言っておいて。それじゃ」
 楓は受話器を置いてから、ふと気がついた。
 今夜は、耕一と二人きりだということに。
 だが、すぐ頭を振って邪念を追い払った。別に二人だからといってどういう事はない。いつものように振る舞えばいいと。
 その後、一時間以上が経過したが、一向に耕一は帰ってくる気配を見せなかった。
 ついでに風邪のせいか頭が重かった。
 とりあえず耕一が帰って来るまで、自分の部屋で少し横になっていようと階段を登り、自室のドアノブに手をかけた時だった。
 ガラガラガッシャーン!!
 突然、けたたましい大きな音が聞こえてきた。
 なんだろうと思い、音のした方に向かうと、洗濯物を干す場所に辿り着いた。
 ガッシャーン!!
 再び、戸の向こうから大きな音が聞こえてくる。
 楓は危険を承知のうえ、戸を思い切って開けた。
 突風と雨が廊下に吹きこんで来る。それにかまわず外を覗いた。
 大きな音の理由はすぐに判った。洗濯に使う物干し竿が突風に煽られ一階に転げ落ちた音だった。3本の内、2本が下に落ちている。残りの一本もすぐにでも落ちそうな雰囲気だった。
 変なところに落ちると困ると思い、楓は思い切って、戸を開き物干し台に出た。とたんに服が風雨でびしょ濡れになる。
 楓は構わず風に跳ばされないように進み、一本だけ残っていた物干し竿を床に降ろした。
 家の中に戻ろうとした時、風切り音が耳に届いた。
 楓は咄嗟に体を傾けると、間一髪で目の前を黒い物体が通過した。壁に当たり砕けたそれは屋根瓦のように見えた。
 体の血の気がさっと引く。
 早く中に戻ろう。
 そう思い、家の中に戻ろうとした時、さらに、何かが飛んでくるのに気いた。楓はさっきと同じように、それを避けようと体捻った。
 その瞬間、強い突風が楓を襲った
 ゴオウッゥウウウゥ!
 体が一瞬にして床から離れた。
「しまっ……」
 次の瞬間、楓は二階の高さから、地面に叩きつけられた。

 耕一が家の異変に気がついたのは、帰ってすぐの事だった。食事の用意がしてあるにもかかわらず、家の中に誰もいなかった。この嵐の中を外に出かけるとはとても思えない。
 二階に上がると、家の中に吹き込む風音から、物干場への戸が開いているのに気がついた。
「どうして、ここの戸が?」
 独り言を呟きながら、念のためと思い濡れるのもかまわず物干場に足を踏み入れた。
 暗いなか周りを見回し、ふと地面に目を向けたとき、耕一は我が目を疑った。
「楓ちゃん?!」
 地面に横たわる楓。耕一は一瞬、息が止まった。
 次の瞬間、耕一は物干場から地面へと飛び降りた。
 着地すると同時に、泥を拭くんだ水飛沫が勢いよく飛び跳ねた。
 耕一はすぐさま楓の体を抱き起こした。
「楓ちゃん! 楓ちゃん! 楓ちゃん!」
 耕一は楓の体を強く揺すった。
 服は泥に染まり、髪も乱れていた。
「楓ちゃん! 楓ちゃん!」
 楓はゆっくりと意識を取り戻した。
「こ……、いち……さ…ん?」
「良かった………。怪我はないかい?」
「頭が少し痛いです……」
「病院に行こうか」
「そこまでは、痛くないです」
 楓は耕一に捕まりながらも、よろよろと立ち上がった。
「とりあえず、家の中に戻ろう」
 二人は強風に押されながら、倒れ込むように玄関へ辿り着いた。
 耕一が急いで開き戸を閉める。
「本当に大丈夫かい?」
 耕一は楓の体を見回したが、多少擦り傷が有る程度で特に目立った怪我は見あたらない。ただ、長時間雨に晒された為か、寒そうに震えていた。
「シャワー浴びたほうがいいね」
 楓は無言で頷いた。それと同時に、フッと家中の電気が一斉に消えた。
「停電か」
 耕一が一目で分かることを口にした。
「どうする、楓ちゃん。暗い中だけどシャワー浴びるかい」
 楓は首を横に振った。
「家の給湯器は、確か電気で制御していたはずです。お湯は多分出ないと思います」
「とりあえず、着替えてきた方がいい」
 そういうと、二人はお互い手探りで自分の部屋へと向かった。
 濡れた衣服を脱ぎ、乾いた衣服に身を包んだ。耕一は濡れていただけなので問題なかったが、楓はそうはいかなかった。体中泥がついているため、タオルで体を拭きながら着替えた。髪の毛は拭いただけでは泥が落ちず、洗面所の冷たい水で凍えながら髪を洗うほかなかった。冷えた体を暖めようにもポットにお湯はなく、コンロも電気式のものに変えたため役に立たなかった。エアコンも停電で動かない。結局、楓は自分の部屋で、毛布と蒲団にくるまって暖を取るしか方法がなかった。
「楓ちゃん、部屋の中に入ってもいいかい」
「はい……」
 ドアが開くと同時に、懐中電灯の光が部屋の中を照らし出した。
「楓ちゃん、初音ちゃんはどこにいったの?」
「初音はお友達の家にいます。この雨と風で帰れなくなったみたいで」
「そうか。無理して帰るよりいい。安全だからね」
 そう言いながら耕一は、液体の入ったカップを手渡した。
 震える手で差し出されたものを受け取ると、楓は素直にそれを口にした。
「ジンだから、体が少しは暖まると思うけど」
 一口ずつ楓はカップの中の液体を飲み込んだ。
「耕一さん……胃の中は熱くはなったのですが……」
 体の震えは一向に収まる気配を見せなかった。
 耕一は迷った。楓の体調が刻一刻と悪化している。今すぐに体を温めないと間違いなく風邪を引くだろう。でも、どうやって?
 ひとつだけ妙案が頭に思い浮かんだ。しかし……その方法を取ることに耕一は躊躇した。かといって、他に良い考えが有るわけでもなし。もし、このことが原因で、楓が肺炎にでもなったら………。やはり命には代えられない。耕一は覚悟を決めた。
「楓ちゃん、ごめん」
 それだけいうと、耕一は楓の毛布を取り上げ、楓に後ろから抱きつき、再び二人の体を毛布で包んだ。
「楓ちゃん、暖かくなった?」
 楓は予期せぬ出来事に思わず固まった。
 返事が無いのをみると、まだ寒いと思ったのか、耕一は楓の体を自分の方に向けると、正面から体を抱き締め直した。
 こんなに細かったんだ……。
 少し力を加えただけで折れてしまうように耕一は感じた。
 腕の中にいる楓は両掌を耕一の脇腹に、顔を胸の中に埋め、親犬に寄り添う子犬のように、じっと体を重ねたまま動かなかった。
 あれはいつからだろう。
 ふと気がつくと、耕一は楓の姿を探していた。
 姿を見ないと母親を見失った子供のように、寂しく不安になってしまうのだった。別段婚約相手である千鶴に不満が有るわけではない。現に彼女の事を愛している。しかし、楓と目を合わせると言いようのない幸福と安堵感に心が満たされてしまう。理由は判らなかった。ただ、楓に対する想いだけが、日に日に増していくのを実感していた。
 もしも、楓が千鶴の妹でなければ、もしも、千鶴と婚約の契りを交わしていなければ、耕一は間違いなく楓に胸の想いをうち明けていただろう。そして、華奢な体を思いっきり抱き締め、その唇を心ゆくまで吸い続けていたに違いない。
 だが、耕一は千鶴を裏切る事は出来なかった。千鶴は自分を必要としている。結婚して一生支えてあげると誓ったから。
 朝会えば「おはよう」と挨拶をした。料理を「美味しいよ」と褒めてあげた。眠る時は「おやすみなさい」と声をかけた。
 それで我慢した。
 我慢してきた。昨日までは……。
 今、何時なのだろう。楓を抱き締めてから30分ほど経過していた。楓の体の震えも収まっていた。耕一としてはこれ以上、事を起こすつもりはなかった。もし、さらに一歩進んでしまえば、もう引き返せなくなるのが判っていたから。
 もう、離れてもいいだろう。
 そう思い、名残を惜しむようにもう一度、楓の体を強く抱き締めた。
「耕一さん」
 今までずっと沈黙していた楓が、耕一の名を呼んだ。
「耕一さん」
 か細く消え入りそうな声で耕一の名を呼んだ。
「なんだい、楓ちゃん」
 耕一は答えながら、ゆっくりと腕の力を抜いた。きっと自分から離れたがっているのだろうと思ったから。
「耕一さん、これは夢ですか?」
「夢?」
「これって、夢ですよね。そうでなければ、私が耕一さんに抱かれる筈がありません」
 楓は小さな声で、訥々(とつとつ)と語った。
「私はいつも夢を見ていました。決して叶えてはいけない夢を………」
 ゆっくりと耕一の背中に腕をまわした。
「耕一さん、どんな夢だと思います?」
 クスリと自嘲的な笑いが口の中から漏れた。
「……馬鹿な私は毎日その夢の中で、愛する人の胸に抱かれ、口吻(くちづけ)を交わしてるんです。所詮、実現不可能な事と知りながら、何度も何度も何度も自慰行為のように夢想していました」
「楓ちゃん………」
「だから、これは夢ですよね、耕一さん。現実の世界で、私が耕一さんに抱いてもらえる筈がありません。だって、そんな事、決してあってはならない事でしょう?」
 耕一の胸から顔を上げた楓の顔から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「お願いです。現実の世界なのなら、今すぐ私から離れて、この部屋から出ていってください! これ以上、これ以上、私に辛い思いをさせな………」
 楓の唇が耕一の唇によって塞がれ、別離の言葉を遮った。
 お互いの腕が背中でお互いを強く抱き締めた。
 長い長い接吻の後、耕一は楓に言った。
「これは……夢だよ」
「夢、なんですか?」
「そうさ、夢さ。そうでなきゃ、大好きだった楓ちゃんと、こうして抱き合えるはずがない」
「耕一さん!」
 再び二人は唇を吸い有った。永い間離ればなれになっていた恋人が再会するように、お互いを求め合った。
「ねえ、楓ちゃん。夢の中ではこの後何をしていたんだい?」
「そ、それは………」
 耕一は慎ましやかな双丘の膨らみにそっと手を乗せた。
 楓が短い声を上げる。
 乳房の上に乗せられた掌が、楓の乳首を探し出すと、指の間に突起を挟み込み優しくもみ上げた。
「あ……、もう少しやさし……ァア…」
 徐々に膨らんでいく乳首を刺激しながら、耕一は楓の首筋に舌を這わせた。
 その瞬間、楓の体がびくりと硬直する。
「楓ちゃんて、けっこう敏感なんだね」
「多分、夢ですから……」
「夢だと、敏感になるのかい?」
「ええ、夢ですから、どんなに恥ずかしい事されても平気です」
 楓の右手が耕一の股間に触れた。
「恥ずかしい事もできるのかい?」
「ええ、耕一さんが気持ちよくなるのなら、どんな事でも……」
 細い指が、布越しに耕一の男根を包み込むように刺激した。
「じゃあ、俺も楓ちゃんをもっと気持ちよくしてあげる」
 耕一は楓のパジャマを下着ごと剥ぎ取ると、楓の秘部に指をあてがった。
「どうじて、こんなに濡れているのかな」
 既にクリトリスは皮が捲れ、真珠のような陰核が顔を覗かせていた。
 耕一は楓の腰を自分の方に引き寄せると、赤く充血した陰唇に舌を這わせた。
「嫌……耕一さん、そこは汚いから……は、ふはぁああ!」
 楓が短い悲鳴を発しながら、悶え体をよじった。
「だめ! 耕一さん、イッちゃう!」
「イキたいのなら、イッてもいいよ」
「イヤ、イヤッ!」
 楓は激しく首を横に振った。
「私、イクなら耕一さんとイキたい……。ひとりでイクのは嫌……」
「判ったよ楓ちゃん」
 耕一は楓の下腹部から顔を離した。
「二人で一緒に行こう……」
 ゆっくりと楓の膣口に自分の性器をあてがった。
「楓ちゃん、痛かったら我慢せずに言ってね」
 楓は耕一の言葉にクスリと笑った。
「耕一さん。これは夢なんでしょう。痛いわけありません」
「それもそうか」
 耕一も思わず笑い返した。
「じゃ、入れるよ」
 楓は目をつむると首を縦に振った。
 それを確認すると、耕一は下半身に力を加えた。
 ぬろっと、耕一の男根が楓の体内に進入する。途端に耕一の背中にまわしてあった楓の腕が、強く耕一を抱き締めた。
 楓の膣内は狭く、耕一の分身を強く締め付ける。
「大丈夫かい?」
 楓は涙を浮かべながら無言で頷いた。その涙が波瓜の傷みによるものか、歓喜の涙なのか、耕一には判別しかねた。
 耕一は注意深く奥まで進めると、後はゆっくりと前後に刺激し続けた。お互いの熱い吐息と、下半身の擦れ会う音が部屋の中に満ち溢れた。
 耕一は一分事に己の中で膨れ上げる、楓への愛情と欲情に溺れていった。このまま二人で何時までも繋がっていたいと真剣に考えた。
「楓ちゃん、俺、そろそろ………」
「そのまま、イッてください」
「え……」
「私はかまいません」
「でも……」
「お願いです。後生ですから、最後まで夢をみさせてください」
「判った」
 耕一は楓と掌を会わせると、腰を楓の膣深くへと突き上げた。
「耕一さん、耕一さん、耕一さん!」
「楓ちゃん、楓ちゃん!」
 ビクッビクッビクッビクッビクッビクッ。
 耕一の子種が楓の小袋の中に注ぎ込まれていく間、二人は涙を浮かべながら互いの唇を吸い合った。
 その後、二人は夜が白み始めるまで何度も愛し合った。


 コトコトコトコトコト。
 味噌汁を暖める鍋が、沸騰の近い事を音で知らせる。
 楓はコンロを止め、あらかじめ刻んでおいたネギを、さっと鍋の中に入れた。
 耕一がシャツのボタンをハメながら、台所に姿を現した。
「おはようございます。耕一さん」
「おはよう、楓ちゃん」
 いつもの挨拶を二人は交わした。
「ごはんの準備ならできていますよ。そこに座ってくださいな」
「ああ」
「今日は寝坊したので、少しおかずが少な目ですけど」
 茶碗にご飯を盛ると、耕一に手渡した。
「初音からさっき連絡がありました。朝はこっちによらずそのまま学校に行くそうです」
「そうか」
 いつもの朝食。いつもの会話。すべてがどこか、ぎこちなく聞こえた。
「味噌汁のお味はいかがですか?」
「うん、美味しいよ」
「良かった……」
 楓は味噌汁を一口すすった。
「耕一さん。私、この家を出ることにしました」
 耕一が驚いて顔を上げた、そして何か言おうとして、言葉を詰まらせた。
「私は昨夜、夢を見ました。決して見てはいけない夢を………」
「楓ちゃん……」
「きっと私の事ですから、また昨日の夢を見たいと思うことでしょう。そして私はその思いを押さえることが出来ないと思います。初音や千鶴姉さん、そして耕一さんにも、迷惑をかけるのは判っています。でも、このまま私がここにいるよりは……良いと思います」
「そうか……」
「耕一さん。私は後悔していません。きっとあの夢を一生忘れることはないでしょう……」
 楓は急須を手に取り、お茶の葉を入れるとお湯を中に注いだ。
 お茶の香りが周りに漂い、湯飲み茶碗を耕一に手渡したとき、楓は有ることに気がついた。
「耕一さんもしかしたら、これも夢なのでしょうか?」
 楓は微笑みを口に浮かべながらこう言った。
「こうして、耕一さんと二人っきりで朝食を食べるのも、私の夢でしたから」

<いつか見た夢(前編) 終わり>

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