夢の続きは果てしなく
(いつか見た夢完結編)
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 ゴッ!
 ギィシャッ!!
 衝撃。
 轟音。
 悲鳴。
 僅か1秒の時間。
 運命の歯車が軋み出す。
 体が痛い。
 変な臭い。
 助手席に座っていた子供が、意識を取り戻した時。
 目にしたのは、砕け散ったフロンガラス。
 ひしゃげた車の内装。
 そして………。
「お、お母さんっ!」
 車のハンドルが前にせり出し、運転手に食い込んでいた。
 鋭い金属の切っ先が、白いブラウスを紅く染め上げた。
「お母さん、だいじょうぶ?!」
 その声に、ぴくりと反応する目蓋。
 白い指先が、ゆっくりと持ち上がった。
「早く、にげ…なさい」
 娘の頬をそっと撫でた。
「柏木の…お屋敷に、行きなさい………」
 今にも消え入りそうな声で。
「行き方は、憶えているわね。わ、判らなかったら、と、隣のおばさんに……聞きなさい」
 娘に、語りかけた。
「おいっ! 大丈夫かっ?!」
 中年の男性が、血相を変えて車内に怒鳴り込む。
「早くっ! その子を外へ!」
 たまたま開けていた助手席の窓。
 伸びた腕が、子供の体を掴み、外へと引きずり出した。
「お母さん、お母さんっ!」
 ボッ!
 間一髪。
 吹き上がる炎。
 ドンッ!!
 黒煙と火柱。
 爆発音が、子供の悲鳴をかき消した。
 
 
 
「母さんっ!」
「きゃっ!」
 交差する二つの悲鳴。
 柏木綱(かしわぎ こう)は、まるでバネ仕掛けのオモチャのように跳ね起きた。
「あ、あれ?」
 すっとんきょな声を出しつつ、周りを見回した。
 見慣れた布団。
 見慣れた室内。
 そして………。
「驚かさないでよ、コウちゃん!」
 母親である柏木千鶴(かしわぎ ちづる)の姿。
「俺の……部屋?」
 窓から差し込む陽の光。
 雀の鳴き声。
 枕元の時計は、起床の時間を指し示していた。
「夢か」
 綱は目を擦りつつ、ポリポリと頭を掻いた。
「もう、心臓が止まるかと思ったじゃない」
 千鶴は胸を押さえつつ、息を吐き出した。
 朝食を作っていたのか、緑のエプロンを身に纏(まと)っていた。
 自慢の長髪は邪魔にならないよう、黄色いリボンで首の後ろ辺りに括られている。
 香水かどうかは不明だが、花のような匂いが綱の鼻腔を優しく刺激した。
 綱はいつも思う。自分の母親は年を取らないと。
 千鶴は既に四十を越えているにもかかわらず、二十代後半くらいにしか見ない。
 最近、顔に皺が増えたと騒いではいたが、パッと見ただけでは気づかず肌にもツヤがある。
 別段マザコンではないが、綱は自分の母親を、素直に美人だと思っていた。
「コウちゃん。怖い夢でも見たの?」
「う、うん。まぁね」
 ぽりぽりと頭を掻きつつ、綱は答えた。
「どんな夢?」
「それは………」
「何を、見たの?」
「えーっと」
 腕を組んで考えた。
「なんだっけ?」
 ずっこける千鶴。
「忘れたの?」
「ほら、俺ってもともと、夢はすぐ忘れるほうだし」
 誤魔化すように、綱は笑った。
「そう…」
「夢がどうかしたの」
「別に。少し気になっただけ」
 千鶴は残念そうな顔をした後、立ち上がり綱に背を向けた。
 長い黒髪が一瞬ふわっと宙を舞う。
「早く着替えなさい。朝ごはん、食べる時間がなくなるわよ」
 そう言い部屋から出ていった。
 綱は目を擦りながら学生服に身を包んだ。窓のカーテンを開けると、澄んだ青空が広がっていた。
 遠くで蝉が、夏の終わりを嘆くように鳴いていた。
 
 
 
 綱が身支度を終え居間に入ると、父親である柏木耕一(かしわぎ こういち)が、湯飲みでお茶をすすっていた。
 耕一は温泉旅館の鶴来屋で働いている。
 現在は部長で近い将来、社長に就任するというのが専らの噂。
 当人は『家族が不自由なく、幸せに暮らせればいい』と至って呑気だった。
「おはよう、父さん」
「ああ、おはようコウ」
 耕一はテレビを見つつ、返事を返した。
 テーブルの上には、ご飯に味噌汁、海苔、納豆、ほうれん草のおひたしなどが美味しそうに並んでいる。
 他の者はすでに食べ終えた後らしく、姿が見えなかった。
「いただきます」
 箸を手に取り、味噌汁を口にした。
 その途端、得も言われぬ味覚が舌を刺激する。
「父さん。もしかして、コレを作ったの…」
「何も言うな」
 耕一も眉をしかめながら味噌汁らしき液体を口にした。
「味噌汁がどうかしたかしら」
 千鶴が台所から顔を出した。
「「まずい」」
 二人の声が綺麗にハモる。
「そう?」
「千鶴。味噌汁の具にトマトを入れか、普通」
「甘酸っぱくて美味しいかなっと……」
 てへっと千鶴が小さく舌を出す。
「味噌汁が甘酸っぱくてどーすんだよ、母さん」
 脇腹にえぐり込むような非難の矢が、次から次へと繰り出される。
「だってぇ。お味噌汁って味にバリエーションがないから、新しい味に挑戦してみたんじゃない」
「応用は基礎をしっかり押さえてからにしてくれ」
「一生懸命頑張ったのにぃ」
 人差し指と人差し指を胸の前で突っつかせつつ、千鶴はシュンと落ち込んだ。
「千鶴お姉ちゃんは、何も悪くないよ」
 3人が同時に振り向く。
「初音姉……」
 紺色のスーツを身に纏った、柏木初音(かしわぎ はつね)が立っていた。
 コンコンと小さく咳をしながら。
 初音は、千鶴の妹、つまり綱の叔母にあたる。
 綱は、小さな時から姉のように慕っているため、『初音おばさん』とは呼ばず『初音姉(ねえ)』と呼んでいた。
 近所の会計事務所に勤め、家事では柏木家の三食全てを賄っていた。
 本来なら、仕事を辞め、専業主婦である千鶴が料理を作れば良いのだが、料理の才能が致命的な程欠如していた。
 本を見ながら『ハンバーグ』を作っても、何故か『カレー』が出来てしまうという程の腕前。
 夫である耕一に言わせると『昔よりは食えるようになっただけ、まだマシ』なレベルだった。
「わたしがちゃんと、起きられなかったのが、一番悪いんだから」
 すまなそうな顔をしつつ、初音は詫びた。
 どうしたら、こんなに優しくなれるのだろう。
 綱はいつも不思議に思っていた。
 今までに、初音の口から人の悪口を聞いた事は、一度もない。
 誰かが何かを失敗しても、その人の身になって一緒に悲しみ、励ましてくれる。
 『天使のような』と言う言葉は、初音の為にあるように思えた。
「初音。あなた頭痛がするんでしょ。熱は大丈夫なの?」
 千鶴が初音の額に手のひらを当てる。
「でも、今日は人が足りないから行かないと…」
「いくら化粧をして、顔色を隠してもダメよ」
「そうそう、初音姉は、ただでさえ真面目で無理をするほうなんだから」
 耕一も、その意見に賛同するするように首を縦に振った。
「初音、今日は休みなさい。病院の予約は私がしておくから」
「…………うん、判った。今日はお休みする」
 三人に諭されて、初音は椅子に座り、千鶴から渡されたお椀に口をつけた。
 一口すする。舌で味を吟味し、少し神妙な顔をした後、千鶴に声をかけた。
「千鶴お姉ちゃん。お味噌汁に、コンソメスープは使わない方がいいわよ」
「判る? 煮干しで出汁を取るのが面倒くさかったから、つい………」
 綱と耕一はお互い視線を交わすと、盛大な溜息をついた。
「耕一お兄ちゃん、また何かあったの」
 気まずい雰囲気を変えるためか、初音がテレビのニュースに話題を振った。
「あぁ。また昨日の夜に、二人死んだらしい」
 テレビでは女性のアナウンサーが、ヒステリックな声を出しつつ、事件現場より解説をしている。
「これで六人目だっけ」
「七人目だ」
 難しい顔をしながら耕一は味噌汁をすすった。
 綱の住むN市では、最近連続殺人事件が起こっていた。それも猟奇事件の類である。
 どの死体も大きなひっかき傷や、握りつぶされたように頭が潰されるといった、通常では考えられない死に方をしていた。
 そのため、犯人が巨大な獣とか、怪獣とかまで噂される始末である。
 普段静かなこの温泉町は、マスコミが多数押し掛け、ワイドショウの格好のネタとなっていた。
「コウちゃん、夜は出歩いちゃダメよ」
「母さんに言われなくても出ないよ。それよりも最近、しずり姉、夜遅く帰ってない?」
 綱はこの場にいない、もう一人の家族の名前を口にした。
「そうね、昨日も帰りが遅かったわ」
 綱の言葉に千鶴が同調する。
「ごめんなさい。母親代わりのわたしが、不甲斐ないばかりに………」
 初音がシュンとして俯いた。
「別に初音だけの責任じゃないわ。私も注意していなかったし」
「そういや朝から、しずり姉見てないけど」
「コウが来る前に食べ終えたわよ。多分仏間じゃないかしら。あの子、母親に似て、ご飯を食べるのが速いから」
 
 
 
 柏木しずり(かしわぎ しずり)。
 綱の姉。正確には従姉妹にあたる。
 母の千鶴は四姉妹の長女。初音は末っ子。そして三女が、しずりの母親である柏木楓(かしわぎ かえで)だった。
 今から10年ほど前の事…………。
 夏の激しい夕立の中を、一人の少女が柏木家の門を叩いた。
「大人の人、いますか?」
 それが、しずりと綱の間で交わした初めての会話だった。
 傘もささず、ずぶ濡れになった水色のワンピース。
 おかっぱの髪。
 目は赤く腫れあがっていた。
「ちょっと、待ってろ」
 そう言うと、綱は玄関を上がり居間へと走った。
「おかぁさ〜ん。女の子が、大人の人いるかだって」
「知っている人?」
 お煎餅を囓りつつ、千鶴はテレビから振り向いた。
「しんない人」
「誰かしら」
 よっこいしょと、千鶴は腰を上げ、居間を出て行った。
「ねぇ、コウちゃん。どんな女の子?」
 一緒にテレビを見ていた初音が、興味深げに尋ねた。
「えっとね、僕と同じくらいの女の子」
「同じくらい?」
「多分」
 初音は少し思案した後、急いで立ち上がった。
「わたしも行くわ」
 姉の後を慌てて追いかける。
 綱も右にならえと、玄関へと向かった。
「………楓?」
 千鶴は呆然としながら、呟いた。
 門に佇む女の子が、まるで妹の生き写しのようで。
 初音は、姉を尻目にサンダルを引っかけ、少女の前へと駆けつけた。
「あ、あの……」
 おどおどとした瞳が、目の前に立つ女性を見つめる。
 初音は腰を折り、その子に目線を合わせた。
「あなた。もしかして、しずりちゃん?」
 ピクリと反応する、幼い体。
 コクリと小さく頷いた。
「はじめまして。私、あなたのお母さんの妹、初音っていうの。よろしくね」
 にっこりと微笑む初音に、しずりはコクンと頷いた。
「しずりちゃん。今日、お母さんはどうしたの」
 ハッと見開く小さな目。
 日本人形のような整った顔立ちが、くしゃりと歪んだ。
「お母さんは、お母さんは………」
 震える声。
「……死んじゃった………」
 大粒の涙が、ぽろぽろと溢れた。
「そう、死ん…じゃったんだ」
 むせび泣く小さな体を。初音はギュッと抱きしめた。
「寂しかったね。でも、もう大丈夫よ」
 初音はギュッと抱きしめた。
「わたしが、今日から、あなたのお母さんになってあげる」
 おかっぱの髪を、そっと、いたわるように撫でた。
「初音。その子は……」
 後ろで事態を見守っていた千鶴が、二人に近づく。
「楓お姉ちゃんの、子供よ」
 初音はその体を抱き上げた。
「千鶴お姉ちゃん」
 凜とした声が、夕立の中に響いた。
「この子は、わたしが育てます。わたしが、この子の母親になりますっ!!」
 しずりを庇うように、高らかに宣言した。
 その姿に綱は、生まれて初めて、初音を怖いと思った。
 
 
 
 しずりの来訪は、当然ながら、柏木家に激震をもたらした。
 目に涙を浮かべながら、しずりは母親が交通事故で亡くなった事、そして自分の身に何かあれば柏木家に行くよう指示されていた事を、とつとつと語った。
 必然的に、しずりの父親は誰なのかが問題となった。だが、しずりは何も知らないと答えた。生まれた時から一度も会った事がないと。
 ともあれ、葬式や法事、納骨等一連の儀式が終わると、しずりは柏木家で引き取られる事になった。他に身寄りが無いからでもあるが、この件に関して、普段大人しい初音が、わたしが育てると強硬に主張した。
 あの日以来、初音は、しずりを我が子のように可愛がり育てた。
 そして、月日は静かに流れた。
 
 
 
「しずり姉?」
 綱が仏間を覗くと、しずりはいつもの用に仏壇の前に正座していた。
 特にお経を唱えるわけでもなく、じっと遺影を見つめていた。
 しずりは綱よりも歳が一つ上。今年で中学三年生になる。
 おかっぱだった髪も、今では肩を越えるほど長くなった。
 ストレートの、墨のように黒ツヤのある髪質が、しずりの肌の白さを際だたせていた。
「今日も、朝の挨拶?」
 ハラリと揺れる髪。無言で頷くと、ゆっくり立ち上がった。
 しずりは綱より1センチだけ背が高い。
 無論、綱はまだ成長期であり、背を抜く可能性はあるのだが。
 千鶴曰く、顔や性格は母親そっくりだが、スタイルは、しずりの方が良いらしい。
 セーラー服の上からも見て取れる豊かな膨らみが、それを雄弁に語っていた。
 仏間に来たついでと思い、綱は線香に火を灯した。
 綱は楓に会ったことがない。
 遺影の優しそうな微笑みを見て、何となく性格を思い描くのが関の山だった。
 チーンッ!
 静かな部屋に、鐘の音が響いた。
 ……あれ?
 立ち上がろうとした綱の足が、ふと止まる。
 いつも見慣れた遺影。
 それが、今日はいつもと違った感じで目に映った。
「どうしたの、コウ」
 しずりが、綱の様子に気が付いた。
「なんか、つい最近。似た人に会ったような気がして」
「つい最近?」
「うん。いつだったかな。本当に、つい最近なんだけど」
 一生懸命記憶を掘り起こそうとする綱を、しずりは静かに見つめた。
「もしかして、夢かな」
 なんとなく、そんな感じかした。
「……夢……」
 しずりはそう呟くと、楓の遺影を見つめた。
 そして何かを言おうとした時、廊下で誰かの近づいてくる足音が聞こえた。
「二人とも、そろそろ行かないと遅刻するわよ」
 千鶴だった。
「やべ。行くよ、しずり姉」
 しずりは静かに頷いた。
 長い廊下を歩き玄関に着くと、耕一が二人を待っていた。
「しずり、話があるんだ」
 耕一の言葉はどことなく、ぎこちなかった。
「なんでしょう」
 しずりの瞳が真っ正面から耕一を見つめる。
「その、なんて言うか。大事な話なんだが……」
 酷く、どもり気味だった。
「あのだな……」
 なかなか本題に入らない。
「あの、もし長い話でしたら、帰宅してからでも良いですか?」
 しずりは呟くように言った。
「そうか。そうだな。時間もないしな」
「行ってきます」
「車に気をつけるんですよ」
 出かける二人に千鶴は声をかけた。
 しずりがピシャンと開き戸を閉めると、玄関は夫婦、二人だけになった。
「はぁ〜ぁ」
 がっくりと項垂(うなだ)れる耕一。
「今日こそは、話すんじゃなかったの?」
 千鶴が腕を組んで耕一の隣に立った。
「あぁ……」
 力無く返事をすると、頭を掻いた。
「もう、あの子は気づいている筈よ。楓に似て勘が鋭い娘だから」
「判ってはいるんだが」
「だったら早く、自分が父親だと言ったらどうです」
 千鶴の声には棘が鋭く含まれていた。
「あの子をいつまで孤児(みなしご)にする気。あなたは自分のした事に、ケジメをつける気はないの?」
 耕一は千鶴に帰す言葉がなかった。
「別に私はどちらでもいいんですよ。夢で楓にうなされるのは、あなたなんですから」
 そう言い捨てると、千鶴は玄関から去っていった。
「ケジメ、か………」
 楓を抱いた夜の記憶。
 昨日のように思い出す。
 十六年前にもかかわらず。
 

 
「夢を見させてくれませんか。たった一度の、この世の儚い夢を」
 両頬に涙を流しつつ、楓は耕一に哀願した。
 姉、千鶴の結婚相手。
 義理の兄となる耕一に。
 重大な背徳行為と自覚しながら。
 この世で、たった一人の愛しい男性に乞い願った。
 耕一も薄々、楓が狂おしい程、恋慕の情を向けているのに気づいていた。
 たった一度だけ………。 
 そう約束して、耕一は楓を抱いた。
 一度だけの、最初で最後のセックスという状況が、二人を一層激しく燃え上がらせた。
 楓の躰に精を放つ度、耕一は楓の口を吸い抱きしめた。
 千鶴では得られない、癒されるような快感に耕一は溺れた。
 まるで薬毒中毒者のように二人は快楽を貪り、暗い闇夜が、朝の光により蒼くなるまで睦み合った。
 楓が、家を出たのは、その直後の事だった。
 約束を守るため。
 想い出だけを胸に秘めて。
 今生では、二度と耕一に会わないと固く決心をして。
 だが、運命の輪は、数奇な結果をもたらした。
 それは、楓が引っ越しをしてから三ヶ月後の事。
 楓は仕事中、激しい嘔吐感に襲われた。
 会社のトイレで吐瀉物を処理しつつ、あの日から、指折り数えた。
 妊娠。
 たった一度の交わり。
 楓の胎内に耕一の子供が宿っている事を確信した。
 力なく床に崩れ落ちた。
 涙が薄化粧を洗い流す。
 笑いが込み上げた。
 運命の皮肉と、姉に対する卑屈な優越感に。
 耕一と千鶴は、既に結納を済ませていた。
 結婚式の日取りも決まっていた。
 お腹子供を盾に、全てぶち壊すことも可能だった。
 楓は悩んだ末、誰にもこの事をつげず、密かに、一人で産む決心をした。
 私以外、皆、結婚式を楽しみに待っている。
 家族の仲を崩壊させてまで、貪欲に幸せになりたいとは思わなかった。
 お腹の中に、愛しい人の子供が息づいている。
 それだけで、充分だった。
 数ヶ月後、楓は行き先を告げず、別の町へと引っ越した。
 
 
 
 楓の失踪。
 耕一は動揺した。
 あの日以来、心にいつも楓の事が気になっていた。
 耕一自身、父から捨てられたと思い、内緒で引っ越した事がある。
 苦い思い出とともに、自分の無力さに歯がゆさを憶えた。
 無論、自分の子供を宿したなどと、思いもよらなかった。
 その為、楓の死と、しずりの存在を知った時、耕一は愕然とした。
 千鶴が耕一を問いつめたのは、葬式を終えた夜の事だった。
「楓に、何をしたのですか?」
 単刀直入に、千鶴は切り出した。
「しずりから、強い力を感じます。それも私達以上の」
 耕一の背中に、冷たいものが流れ落ちる。
「あの子は、あなたと、楓の子供じゃないの?」
 殺気。
 嫉妬。
 怒気。
 それらの感情が、オーラのように千鶴から立ち上る。
 耕一は、目を逸らすのが精一杯だった。
「あの子から、誕生日を聞きました。年齢も」
 千鶴の両手が、耕一の両腕を掴んだ。
「楓が、家を出たいと言った日を憶えています?」
「あ、あぁ」
 コクリと耕一は頷いた。
「ちょうど、あの子の受胎日と、重なります」
 二つの鋭い眼光が、怯える二つの瞳を睨みつけた。
「何度も、聞きません。楓に、何をしたのですか?」
 もし、下手な嘘をつけば………あなたを、殺します。
 両腕にギリギリと食い込む爪が、暗にそう語っていた。
「………した。一度だけ、抱いた」
 耕一は、洗いざらい白状した。
「そうですか。楓から………」
 全てを聞き終えた後、千鶴は耕一の胸に、もたれかかった。
「ふふふ」
 不気味な笑い声。
「うふふふふ。あはははっ」
 千鶴はクスクスと笑い出した。
「私は、今まで幸せでした。幸せだと思っていました」
 再び、耕一の腕が強く握られた。
「でも……」
 千鶴は顔を上げた。
「誰かの犠牲の上に成り立つ幸せなんて、私はいらないっ!!」
 涙が両目に溢れていた。
「もし、この事を知っていれば、私は…」
 再び顔を耕一の胸に埋めた。
「私は………」
 力なく呟くと、千鶴は号泣した。
 長い時間、二人で泣き続けた。
 その日以来、二度と千鶴はその話題を口に出さなかった。しずり対しては、綱と分け隔て無く、柏木家の子供として愛情を持って接した。
 しかし耕一は、いつも無意識のうちに、しずりを避けていた。
 嫌いなわけではない。
 むしろ、愛しくて守ってやらなければならないと、思ってはいるのだが。
 しずりに見つめられると、まるで楓が恨めしそうに自分を見ている錯覚に陥るのだ。
『私はいつまでも、耕一さんを愛しています』
 楓の言葉が、繰り返し頭の中をよぎる。
 それは現実世界だけではなく、夢の世界でも耕一を追いつめた。
 夢の中で、楓らしき女性が繰り返し耕一の名を呼ぶのだ。
 耕一も応えようとするのだが声は届かず、夜中に飛び起きた事は一度や二度ではない。
 耕一は、しずりに自分が父親である事を告げていない。
 最初は高校を卒業してから話すつもりだった。
 だが、悪夢にうなされる耕一を見るに見かねた千鶴が、しずりに全ての事を話すよう薦めた。
 全てを話そうと、耕一は決心したものの、打ち明けられぬまま、二ヶ月が過ぎ去っていた。
 今夜も、楓ちゃんの夢を見るのかな………。
 耕一は深い溜息をもう一度ついた。
 
 
 
「しずり姉、父さんの話って、何だと思う?」
 綱の問いに、黒い髪が小さく左右に揺れた。
「最近、父さんも母さんも何か仲が悪いよな」
 そう言いつつ、姉の顔をちらりと覗き込んだ。
 浮かない顔。
 しずりがこのような態度を取る時は、何か気に病んでいる証拠。
 長年の付き合いから、綱はその事を知っていた。
「あの二人が喧嘩するのはいつもの事だから、気にすることねえよ。どうせ、すぐ仲直りするんだし」
「…………」
 無言のまま、二人は緩やかな坂道を上った。
 照りつける太陽が、じりじりとアスファルトを温める。
 今日も暑くなりそうだった。
 時折制服に身を包んだ学生が二人の横をすり抜けていく。
 それが男であれば例外なく、しずりに目を奪われた。
 整った顔立ちと、文句のつけようのない容姿。
 学業は優秀であり、運動神経も抜群に良い。
 当然に愛の告白をする者は数多く、週に一度は恋文が舞い込む始末だった。
 しかし、手紙の封を切ることは一度としてない。
「どうかしたの?」
 綱の視線に気がついたのか、しずりが顔を傾げた。
「ん……。元気ないなって思っただけさ」
 しずりは一見、芯が強そうに見えて、実のところ酷く傷つきやすい性格だった。
 寂しがり屋のくせに、人と話すことが苦手。
 家族でも話すのは、綱と初音くらい。
 お節介と思いつつも、綱はこの姉の事が心配でならなかった。
「なあ、しずり姉。もう少し人と仲良くしてもいいんじゃねえのか」
「別に、私は一人でも寂しくないから」
「人と付きあった方が楽しい事も多いよ」
「そういうコウはどうなの。最近、友達がまた増えたんじゃない?」
 しずりは、綱が鞄と共に持っている竹刀袋に目をやった。
「また、喧嘩したんでしょ」
「判った?」
 あははっと、綱は適当に笑って誤魔化した。
 綱が武道に目覚めたのは幼稚園の頃。
 時代劇などチャンバラごっこが何よりも好きだった。
 家の近くに剣道の道場があり、柳生新陰流の師範がいたことも大きく影響した。
 小学生で全国大会に出場し、中学生になってからも快進撃は続いた。
 普段竹刀は剣道部の部室に保管しているので、登校時に持ち歩く必要はないのだが、綱は家での自主練習と称して携帯する事があった。
 何故か。
 綱は常に狙われていた。
 よく言えば、正義感が強い。悪く言えば、喧嘩好き。
 町中で、イジメの現場を見た時、禁煙の場所で煙草を吹かしている輩を見た時、順番待ちの列に平気で割り込んで来る輩を見た時、などなど、己の気に入らない行為を見ると、誰であろうと綱は大声で文句を言うのだ。
 当然、喧嘩に発展することも少なくはない。
 『喧嘩上等、売られたらものは全部買う』のが綱の性分。
 綱は剣道だけではなく、合気道の段位も持ち合わせている。
 素手だろうが、例え相手が何人いようが負ける気はしなかった。
 すると、皺寄せが行くのは両親の千鶴と耕一である。
 二人とも、良い顔はしないものの、息子の性格を熟知しており、耕一などは『少しは手加減してやれ』と言うくらいだった。
 そんなわけで、綱が登校時に竹刀を持ち出すのは、何らかの喧嘩をした証拠であり、現に綱は昨日、恐喝をしていた高校生を五人ばかり血祭りに上げていた。
「いつか死ぬわよ」
 しずりは呆れたような顔で言った。
「そりゃ、人間いつかは死ぬからな。死んだ時は死んだ時で運が悪いと………」
 不意に、しずりの足が止まる。
 綱が振り返り、
「どうした?」
 姉の目を見た瞬間、息が止まった。
 しずりが、恐ろしい形相で、キッと弟を睨み付けていた。
 綱の顔が一瞬にして強張る。
 喧嘩では、ほぼ無敗を誇っていても、姉には昔から頭が上がらなかった。女性全般苦手といっても良い。
 男の喧嘩はあくまで意地の張り合いであり、勝ち負けがハッキリすれば、それ以上の事にならない。しかし女の場合、命のやり取りまで発展しかねない怖さがあった。
 特に、しずりが激昂した時の殺気は凄まじく、ヤクザに絡まれるほうがマシと思えるほどだった。ただ、耕一の話によると、母である千鶴が激怒した時も恐ろしく、柏木家の女性全てにそういう血が流れているのかもしれない。
「じょ、冗談、冗談だよ冗談。死にたいわけねぇじゃん」
 必死でその場を取り次ぐろう綱。
 横目で流しつつ、しずりは再び早足で歩きだした。
 目の端に涙が少し浮かんでいた。
「俺が悪かったからさ、待ってよ、しずり姉」
 頭を下げつつ、しずりを追いかけた。
 二人が細い十字路に出た時だった。
 いきなり、それは来た。
 空気の切る音。
 鋭い殺気。
 綱はとっさに身を翻した。
 黒くて1メートルはあると思われる棒状の物が、勢いよく振り降ろされる。
 僅かな差で、綱はそれを避けた
 同時に、右手に持った竹刀を持ち替え、衝撃者が武器を振り上げる前に、頭頂部をしたたかに打ち付けた。
 パァーン!
 竹刀の甲高い音が周りに響く。
 その場で崩れ落ちる襲撃者。
 だが、綱は気づいていなかった。
 襲撃者は二人いたのだ。
 最初に右側から綱を狙った男とは別に、左側で待機していた者が背後から襲ってきた。
 綱がそれに気づいた時、すでに回避不能の状態だった。
 当たる。
 綱は直感的に悟った。
 バキャッ!
「ぐわっ!」
 激しい打撃音と悲鳴。
 無傷の綱。
 しずりが半身を捻り、学生鞄を襲撃者の顔面に叩きつけていた。
 よろめく襲撃者に対して、綱は素早く腹部を竹刀で突き飛ばした。
「ごふっ!」
 胸と腹の中間の溝を突かれた男が、胃の中身を地面に吐きながら悶えた。
 綱を襲ったのは、昨日成敗した高校生だった。
「行くわよ」
 じずりはスタスタと歩きだした。
 一息つくと、綱は姉を追いかけ礼を言った。
「しずり姉、助かったよ」
「どういたしまして」
 しずりはいたってクールに答えた。
 その後は何もなく二人の通う隆山中学校にたどりついた。
「じゃ、またな、しずり姉」
「待って、コウ」
 自分の下駄箱に向かおうとする綱を、しずりが呼び止めた。
「何?」
「朝の事だけど」
「もしかして、まだ今朝の事、気にしているのか」
 小さく、しずりは頷いた。
「どうせ、つまらねぇ事でもめてんだから…」
「もしもだけど」
 深刻な表情で、しずりは口を開いた。
「私が、原因かも」
 思い詰めた顔。
 綱は言葉に詰まった。
 しずりの生い立ちに、深い根があることを薄々とは感じていた。しかし、それに立ち入るほど自分が大人ではない事も自覚していた。
 実のところ、綱も喧嘩の理由が、しずりに原因があるのではないかと疑っていた。
「私は、いない方がいいのかな……」
 しずりがポツリと呟いたとき、校舎から予鈴のベルが鳴った。
 綱は何か言おうとしたが、しずりは玄関へと走っていった。
「あ〜あ」
 最悪の別れ方。
「しゃーねぇ。夜にでも励ますか」
 綱は独り呟くと、自分の下駄箱へと向かった。
 
 
 
 四時限目の授業が終わり、昼食を求めて生徒が学食に殺到する。
 綱はその様子を見ながら、休み時間に買っておいた焼きそばパンを頬張りつつ、しずりの事を考えていた。
「よう、元気ないな。愛(いと)しい、しずり様と喧嘩でもしたか?」
 振り向くと、日吉誠(ひよし まこと)が含みのある笑いを浮かべていた。
 綱とは小学校からの悪友であり、丸眼鏡に収まりの悪い寝癖が特徴だった。
「そういう日吉こそ、なんか良いことあんのかよ」
「ああ、今日も廊下で、しずり様のお姿を見たからな」
 日吉は熱烈なる『私設しずり様ファン倶楽部』の一員だった。
「そりゃ良かったな」
 綱は投げやりに返事をすると、牛乳のパックにストローを刺した。
「おまえはいいよな。毎日しずり様のお姿を見る事が出来て」
「そうかい」
「なぁ、一つ聞いてもいいかな?」
「なんだよ」
「しずり様は処女かな?」
 耕一は飲みかけた牛乳を危うく床にまき散らしそうになった。
 何度か咳き込みながら、必死に呼吸を整える。
「どうなんだ、コウ。おまえなら知っているだろう?」
 股間を蹴り上げたい気持ちを抑えつつ、綱は答えた。
「しずり姉が男と付きあった事なんて、一度もねぇよ」
「そうだよな、そうだよな。しずり様が非処女なわけないよな」
 日吉はやたら嬉しそうに頷いた。
「嗚呼。あのセーラー服の中には、雪のように白い肌が、白い腕、白い太股、白い乳房、そして秘部に隠されたピンク色の…」
 バキィッ!
 綱が蹴りを入れようとした瞬間、別の拳が日吉の頭に炸裂した。
「真っ昼間から、下品な事を叫ぶなっ!」
 日吉は激痛に涙を浮かべながら、自分を殴った男を見た。
 大柄な体格。
 厚い胸板。
 頬の喧嘩傷。
 日吉は苦笑いを浮かべつつ、愛想のいい表情を作った。
「さ、坂田先輩じゃないですか。こんな所に何かようで?」
「ああ、ツナに用事があってな」
 綱の目尻がピクリと引きつる。
「先輩、俺の名前は『ツナ』じゃなくて『コウ』ですよ」
「貴様は『ツナ』で充分だ。『コウ』なんて格好いい名前は、貴様に似合わん」
 そう言い放つと、坂田は笑った。
 酒田康光(さかた やすみつ)は隆山中学校、剣道部の主将である。
 綱が通っていた剣道場、師範代の息子であり、学校の中で唯一互角の腕を持っていた。天敵と言ってもいい。
 性格は至って豪快であり、明朗快活な人物だった。
「この、ツナめの為に、わざわざ教室まで足をお運びになるとは、如何なる所用で?」
 声は恭(うやうや)しく、態度は不貞不貞(ふてぶて)しく綱は尋ねた。 
「例の事件についてだ」
「それってもしかして、連続殺人事件についてですか」
 話に興味を持った日吉が首を突っ込んできた。
 酒田は大きく首を縦に振った。
 昨日、新たな犠牲者が出た事により、学校の中は朝から事件の話題で持ちきりだった。
「ツナ。今日の放課後、空けておけ」
「何をするんですか」
「殺人犯を捕まえに行く」
「へ?」
 綱は一瞬我が耳を疑った。
「あのぅ、先輩。今、何とおっしゃいました?」
「連続殺人犯を捕まえる」
 坂田はキッパリと断言した。
 目を輝かす日吉。
 渋い顔をする綱。
「お言葉ではありますが、警察が一週間以上も捜して見つからないんですよ」
「そうだ。その犯人を貴様と俺で捕まえれば、名を上げられるぞ」
 バンッと叩かれる肩。
 やべぇ、マジだ。
 綱は自らの置かれた状況に、げんなりとした。
「無茶ですよ、やられたらどうするんですかっ!」
「貴様、何のために剣道をしている。剣で名を挙げる、またとない好機だろうがっ!」
 綱は閉口した。確かに剣道は柔道と違ってオリンピックもない。
 よほど腕を上げたところで、学校を卒業してしまえば、それまでの事。
 綱が剣道をしているのは、趣味の領域を越えていない。
 しかし、酒田は違っていた。己の剣で名を上げたい、その為に日夜修行していた。
 歴(れっき)とした変人である。
 生まれた時代が戦国時代なら、さぞ武勲を上げたに違いない。
「貴様、嫌なのか」
 酒田は綱の表情を鋭く読みとった。
「乗り気はしませんね」
 今の綱にとって、しずりの事が何より最優先事項だった。
 この昼休みも、姉のクラスに行くかどうか迷っていたくらいである。
 放課後、酒田に付きあったら、帰宅が深夜になるのは目に見えていた。
「酒田先輩。悪いですが、今日はパスですよ、パス」
「俺の誘いを断るのか?」
「今宵は、大事な用が有りますゆえ、お断り致します」
「そうか……」
 酒田は腕を組むと、意味有りげな表情を作った。
「なぁ、ツナ。おまえ最近、部の朝練に参加していないよな」
 ギクッとする綱。
「日曜日も練習をサボッたよな貴様」
「あ、いや…」
「剣道部主将の俺としては、いくらおまえが強いとはいえ、このままでは他の部員に示しがつかん」
 酒田は、的確に綱の急所を突いた。
「剣道着をフル装備で、グランド十五周っていうところだが……」
 冗談じゃねぇっ!
 綱は心の中で舌打ちをした。
「先輩からの大命、謹んで頂戴致しますっ!」
 内心、苦虫を咬む思いで綱は叫んだ。
「そうか、詳しいこと放課後な」
 酒田は満面の笑みを浮かべて教室から去っていった。
 ………しずり姉、ごめん。
 綱は窓枠に、頭をゴツリとぶつけた。
 
 
 
 放課後。
 真っ直ぐ家に帰った。
「ただいま」
 玄関を開け、靴を確認する。
 しずりはまだ、帰っていなかった。
 急ぎ、自分の部屋に向かった。
「おかえりなさい」
 居間の方から、千鶴の声がした。
 綱は自分の鞄を部屋に投げ込むと、竹刀を持ったまま再び玄関に足を向けた。
「あら、また出かけるの?」
 千鶴が饅頭を口にしながら、居間から顔を覗かせた。
「友達と遊びに行ってくる。夕飯は食ってくるからいらないよ」
「あら、そう。せっかく腕によりをかけて、夕ごはん作ったのに」
 それを聞いて、綱は少しだけ先輩に感謝した。
 母親の殺人的な料理を食べなくて済むのだから。
「例の殺人犯がまだ捕まっていないから、遅くならないうちに帰って来なさい」
「わかった」
 『その犯人を捜しにいくんだ』と言ったら、どんな返事が帰って来るかな。
 靴を履きつつ、綱は思った。
 
 
 
「酒田先輩遅くなりました」
 綱は息を切らしながら、待ち合わせの場所に到着した。
「俺も今来たところだ。行くぞ」
 二人は一路殺人現場である公園に向かって歩き出した。
「酒田先輩。一つ質問してもよろしいでしょうか」
「何だ」
「何故我々は制服のままでいるのですか。夜にこの格好は目立ちません?」
「案するな。部の者には隣の中学に出稽古に行くと伝えてある」
「つまり、竹刀を持って夜遅く出歩いても不自然ではないと」
「そうだ。我々の訪問先になっている、剣道部の主将にも話は通してある」
「さようで」
 綱は素っ気なく答えた。
 とりあえず、事件の現場を全て回ってみる事になった。
 殺人事件は夕刻から深夜にかけて発生していた。
 現場も人気のない公園などが多かった。
 他の町から応援が来ているのか、警察官の数が多い。
 犯人を見つけるより、補導される可能性の方が高そうだった。
「なあ、ツナ。おまえ雨月山の鬼伝説は知っているか?」
 酒田が口を開いたのは、閑散とした公園の中央部に来た時だった。
「知ってますよ。昔この辺りに鬼が住んでいたという、おとぎ話でしょ」
「あくまで噂だが」
 酒田は一度言葉を切った。
「今回の犯人は、その鬼だという説があるらしい」
「みたいですね」
 綱は適当に相づちを打った。
 被害者の死体が、爪で引き裂かれたり、引き千切られたりと、通常では考えられない方法で殺害されており、事件当初から、オカルト番組の格好のネタとなっていた。
「実は俺達が生まれる前にも、同じような事件があったらしい」
「その時の犯人は誰だったんですか」
「薬物中毒者が犯人として逮捕されたんだが、実は未解決な点も多い」
「例えば?」
 興味なさ気に綱は返事をした。
 実際、興味がないのだが。
「未だに殺人方法が不明なのだ。死体の中には、握力で頭部を握り潰されたものもあったが、犯人の体格ではとても不可能。詳しく聞こうにも、犯人の精神は崩壊して何も判らなかった」
「つまり先輩は、その時の犯人が復活したとでも」
 酒田は不意に足を止めた。
「ツナ。もし仮に犯人が、本当に鬼だとしたら、どうする?」
 真剣な表情で酒田は綱に問いかけた。
 日が暮れかかっている為、公園の中は闇に包まれつつあった。
 不気味な静寂が、魔物の活動開始時刻を告げているように思えた。
「今。ここに鬼が現れ、俺達に向かってきたら、おまえはどうする?」
「どうするって……」
 綱は夢想家ではない。当然、鬼の話など頭から信用していない。
 よって存在しないものに襲われる話など、最初から想像しようがなかった。
「走って逃げますよ。人間ならともかく、鬼と戦う訓練など、したことがないですし」
「そうか」
 酒田は再び歩を進めた。
「実のところ、俺は犯人が鬼であって欲しいと思っている」
「なぜ、そんなことを?」
「そのほうが、面白いじゃないか」
 酒田は極めて明快に答えた。
「もし、俺達がその鬼を倒したとしたら、時代のヒーローになれるぞ」
 綱は確信した。
 酒田は生まれてくる時代を間違えたと。
「どうやって、鬼を竹刀で退治するんですか?」
 その問いに酒田は無言でニヤリと笑った。
 最初、綱はその真意が分からなかったが、酒田の背負っている竹刀袋を見てハッとした。
 真っ直ぐな筈の竹刀が、筈かに弧を描いている。長さも竹刀とは異なっていた。
「真剣持ってきたんですか?!」
「馬鹿っ! 声が大きい」
「警察に捕まっても知りませんよ」
「そん時は、居合いの練習をしていたと言って誤魔化すさ」
 この先輩あって、この後輩あり。
 綱も無茶なことをするが、酒田はその上を行く。
 背中を任される身としては、たまったものではない。 
「先輩。犯人がただの人間だったら、どうするんですか。斬り殺したら元もこもないですよ」
「普通の人間だったら、おまえが相手をしろ。伊達に毎日、他流試合やっていないだろ」
「なんの事でしょう」
「とぼけるな。おまえが今朝二人、返り討ちにした事くらい、俺の耳に入っている」
「…………」
 二人はその後あちこち歩いてみたが、何も起らぬまま、悪戯に時間だけが過ぎ去っていった。
 残暑が残るとはいえ、日が暮れると海風が冷たく吹き抜けていく。
 そろそろ潮時かなと思った時だった。
「コウ。そこにいるのはコウだろ」
 遠くで名を呼ぶ声が聞こえた。
「やっぱりコウか」
 声の方を振り向くと、灰色のコートに身を包んだ耕一が、二人に走ってくるのが見えた。
「おまえ、いつまで出歩いているんだ。みんな心配しているぞ」
 声に幾分苛立ちが含まれていた。
「申し訳ございません。少し部活の練習が遅くなりまして」
 酒田が礼儀正しく頭を下げた。
「君は酒田君だね。こちらこそ息子がいつも迷惑をかけてすまない」
 本当に迷惑だと綱は芯底思った。
「おまえが、携帯電話の電源切っているから悪いんだ」
 ゴン!
 耕一の拳骨が綱の頭に落とされた。
「イッテェー! 叩く事はねぇだろう。俺は電話をかける事はあっても、かけられるのは好きじゃないんだよ」
「だったら、マメに連絡入れろ」
「判ったよ」
 綱は頭に出来たコブをさすった。
「ところで、おまえらは二人だけか」
「そうだよ」
「しずりは一緒じゃないのか」
 綱は、一瞬耳を疑った。
「しずり姉は、まだ帰ってないの?」
「ああ、鞄があるから一度帰っては来ているみたいだが」
 やべぇ……。
 もしかしたら、朝の事と関係あるかもしれないと、綱は思った。
「俺も一緒に探すよ」
「そうか。町の東側は探したが、西側はまだなんだ」
「それでは酒田先輩。そういう事で今日のところは失礼します」
 綱はわざとらしく敬礼すると、耕一と一緒に歩き出した。
「明日も練習つきあえよ」
 聞こえない、ふりをした。
 
 
 
「ここ数日だっけ、しずり姉が外を出歩くようになったのは」
「ちょうど一週間くらい前からだな」
 連続殺人事件と重なる事に、綱は気づいた。
 もしかしたら、しずり姉も犯人を追っているとか?
「たまには父さんが、ビシッと言ったら」
「本当はそうした方がいいんだろうな」
「父さんは、しずり姉に甘すぎるよ」
「そうだな」
 綱が予想するに、耕一は決して、しずりの事を嫌っているわけではないと思う。
 そうでなければ、わざわざ心配して夜の街を彷徨する筈がない。
 不器用な二人。
 昔からそうなのだ。
 しずりも耕一の事が嫌いだとは思えない。ただ、素直になれないだけで。
 まるで、見えない壁が二人を隔てているように見えた。
 いっそ二人の仲を取り持ってやろうかと、綱が真剣に考え始めた時だった。
「コウ、止まれ」
 耕一が右手で歩くのを制した。
「しずり姉、いた?」
「しっ」
 人差し指を口に当て『静かに』と綱に合図すると、耕一は周りの動きを探るように聞き耳をたてた。
「コウ、何か聞こえなかったか」
「えっ?」
 綱も耳を澄ませてみるが、特に何も聞こえなかった。
「コウ。おまえは先に帰っていろ」
 そういうが早いか、耕一は前方の暗闇に向かって全速力で走り出した。
 耕一はすでに四十に誓い年齢。
 だが、その走りっぷりは、陸上部員並の見事な脚力だった。
 ウチの家族って、なんか変だよな………。
 綱は改めて思った。
『先に帰れ』と言われたものの、家は耕一が走って行った方向。
 別段遠回りする必要も感じなかったので、そのまま真っ直ぐ歩く事にした。
 時刻は既に九時を回っていた。
 月が出ていないためか、辺りは暗かった。夜空は厚い雨雲に覆われ、湿った風が雨の到来を予告していた。
 家までは歩いて二十分ほどの距離である。なんとか雨が降る前に帰り着きそうだなと思いながら、十字路を右に曲がった。 
 ズサッ!
 綱は咄嗟に跳んだ。
 殺気。 
 朝、襲撃され時と同一のもの。
 跳躍と同時に竹刀袋の上から、竹刀の柄を素早く握る。
 だが………。
「あれ?」
 周囲には誰もいなかった。
 辺りの物陰を探ってみたが人の気配はない。
「変だな」
 竹刀で肩を軽く叩きつつ、綱は頭を捻った。
「ま、いっか……」
 もう一度辺りを見回すと、家路へと足を向けた。
 ザッザッ。
 足音が暗闇の中に木霊する。
 右手は竹刀の柄を握ったままだった。
 何となく嫌な予感がした。
 はっきりとは判らないが、襲撃から自分を幾度となく救った勘が、妙にざわついた。
 歩いている道に街灯はなく、家々から漏れる光だけが道を照らしていた。
 幅は3メートルに満たない裏道。人通りも少なく、現に綱以外誰も歩いていなかった。
 綱がそれに気がついたのは、十メートルほど手前に来た時だった。
 人が塀にもたれるように座っていた。
 酒に酔って寝ているのだろう。
 最初、綱はそう思った。
 だが、何か変だった。
 いくら泥酔していたとしても、生きている限り呼吸している筈。
 しかし、その男は微動だにしない。
 詳しく見ようにも、塀の陰になっているため、近づかない限り暗くて見えそうにない。
 警報が、綱の中で激しく鳴った。
 一瞬後ろに引き返す事も考えた。
 たが、この道を通らない場合、かなり遠回りすることになる。
 怖いもの見たさのような好奇心も少なからずあった。
 結局、前に足を踏み出す事にした。
 紺色のスーツに、黒の革靴。
 着ている服装から、座っているのが男性であるのは間違いない。
 竹刀袋を握る手が次第に汗ばんでいく。
 男は相変わらず下を俯いたまま動かないでいる。
 近づいて確認しようかとも思ったが、結局そのまま通り過ぎる事にした。
 ゴツッ。
「わっ!」
 何か蹴躓いた。
 予期せぬ事に、無様にその場で転倒した。
「いってぇ〜」
 腰をしたたかに強打した。
 男ばかり気になって、前に注意を払い忘れていた。
「何だぁ〜」
 腰をさすりながら、自分の足に引っかかた物を見た。
 二つの眼が、綱を見つめていた。
「なっ!!」
 心臓が止まりそうになった。
 女性の顔。
 恨めしそうに、カッと見開いた目。
 半裸の女性が、アスファルトの上に横たわっていた。
 家の塀が光を遮り、真っ暗闇の中に転がっていた。
 男性の方ばかり注視していたため、転ぶ直前まで気がつかなかった。
 女性の衣服は引き契られ、二つの白い乳房が露わになっていた。
 スカートは捲られ、下半身を覆う布はなく、陰毛が丸見えになっていた。
 綱は、遠くなりそうな意識に活を入れ、必死に意識を繋ぎ止めた。
 女性が、強姦されて死んでいる。
 こうなると、目の前に座っている男も死んでいる公算が高い。
 逃げようっ!
 まだ、犯人が側にいるかもしれない。
 そう思い、膝を立てた時だった。
 綱は、感じた。
 風のようなもの。
 音のようなもの。
 言葉では、表現しようのない圧迫感。
 剣道の師範代から、天性の授かりものと言わしめた直感が、それを感知した。
 来るっ!
 咄嗟に、地面を蹴り飛ばした。
 数メートルを低姿勢で跳躍した。
 ズンッ!!
 間一髪。
 綱のさっきまでいた場所に、巨大な塊が地響きと共に落ちてきた。
「何だぁっ?!」
 綱は叫びつつも、振り向かず前に駆けだした。
 全速力で、その場から逃げ出した。
 やべぇ!
 やべぇ!
 マジでやべぇっ!
 恐ろしく危険な場所に足を突っ込んだ事を、綱は悟った。
 腕を引き千切る。
 頭を捻り潰す。
 噂でしか聞かなかった犯人が、今、真後ろにいる。
 しかも、攻撃を仕掛けてきた。
 はなっから綱には、犯人を捕まえて町の英雄になる気など、まるでなかった。
 そんなものは、酒田先輩にでも任せたらいい。
 この道を抜ければ広い道に出る。
 きっと警官が巡回している筈だから、そいつらに事情を話せばいい。
 後の事など、知った事ではない。
 はっきり言って、まだ死にたくなかった。
 綱はあっという間に十メートルを駆け抜けた。
 幸い背後から追いかけて来る気配はない。
 次の十字路まで後、十メートル。
 綱が助かったと思った瞬間、背後に風を感じた。
 まさかと思った次の瞬間、目の前にそれは落ちてきた。
 綱の前方五メートルあたりに地響きと共に着地した。
 たまたま、電信柱に取り付けてあった街灯が、その姿を照らし出す。
 綱は言葉を失った。
 それは、手が有り足が有り、頭も有り、目鼻も人間と同じように付いていた。
 だがそれは、人間とは遙かにスケールが巨大だった。
 腕は熊のよりも太く、足も人間の二倍近く。
 二つのギロリした眼孔が綱を見つめ、頭にある二本の角が、この生物の名を雄弁に語っていた。
 鬼。
 古来から、人間の宿敵として忌み嫌われた鬼がそこにいた。
 フッシュゥ。
 鬼がゆっくりと息を吐き出した。
 綱は咄嗟に竹刀を構えた。
 それが役に立つかどうかすら怪しかったが、そうせずには居られなかった。
 体が未知の恐怖に震え出す。
 どうする?
 思考が交錯する。
 相手の力など判らない。
 ケタ外れに足が速いのは間違いない。
 すなわち逃げられない。
 勝てる気など、全くない。
 電話で助けを呼ぶ暇なんてない。
 どうして良いのか、全く判らない。
 しかし、鬼は綱の事などお構いなしに、一歩、また一歩と近づいて来た。
 ザッ。
 ズサッ。
 距離を取るように、綱も後退する。
 ザジュッ!
 鬼が突然跳躍した。
 綱の一足一刀の間境を瞬時に越えた。
 鬼の豪腕が唸りをあげる。
 ヒュパッ!
 綱は己の肉体に、限界まで動けと命じた。
 ザジャッ!
 右足が跳ぶ。
 半身を捻る。
 見える。
 綱の動体視力は、振り下ろされる腕を微かに捕らえた。
 恐るべき速さ。
 しかし、剣道の師匠の太刀筋より僅かに速いだけ。
 鋭い爪が、綱の体、紙一重の距離を通過した。
 反射的に、綱の右腕が振り上がる。
 握られた竹刀。
 鬼の脳天目がけて、振り下ろした。
 バチッイィィン!
 普通の男なら、気絶する程の打撃だった。
 ただの人間なら。
「グゥオオオオオオオッ!」
 雄叫び。
 戦いの始まりを告げるように。
 恐怖が、綱を蝕んだ。
 ヒュッ!
 シュヒョッ!
 爪が、連続して綱を襲う。
 避ける。
 避ける。
 さけ…られないっ!
 バベキッ!
 折れる竹刀。
 勢いは止まらず、綱の体は壁に叩きつけられた。
「ぐはっ!!」
 後頭部を強打した。
 意識が一瞬飛ぶ。
 頭を振り、顔を上げた時、目の前に鬼がいた。
 爪を高々と振り上げて。
 死という文字が頭に浮かんだ。
 死にたくなかった。
 初音の顔が。
 千鶴の顔が。
 耕一の顔が。
 そして、しずりの顔が頭に浮かんだ。
 鬼の、爪が動いた。
 シュバァッ!
 風を切る音。
 頭を抱える綱。
「ゥオオオオォ!」
 鬼が吼えた。
 その豪腕からは、赤い血が噴き出した。
 綱は何が起こったのか判らなかった。
 まだ、辛うじて生きている以外に。
 鬼が、キッと見上げる。
 綱も釣られてそれを見た。
 一人の女性が、壁の上に立っていた。
 黒いジーンズ。
 青のポロシャツ。
 風にたなびく長い黒髪。
 そして…………。
 赤く染まった鋭い爪。
 離れていても、ひしひしと感じる殺気と威圧感。
 綱はその女性の名前を知っていた。
 しずりだった。
「ヴォオオオッ!」
 ウォークライを上げつつ、復讐に燃えた鬼が跳びかかる。
 だが、しずりはそれを人ごとのように眺めた。
 綱を襲った凶暴な腕が、横なぎに弧を描く。
 爪が届く寸前、しずりは天高く跳躍した。
 数メートルほど離れた所に着地すると同時に、しずりが鬼に向かって跳んだ。
 風を纏うように。
 一瞬の閃光が駆け抜けた。
 スバッ!
 鮮血が飛び散った。
 広い鬼の胸板から。
「グゥオァ!」
 呻く鬼を尻目に、しずりは踵を返し襲いかかる。
 ダンッ!
 地面を蹴る跳躍音。
 巨体が空に向かい飛び上がった。
 塀を越え、屋根を蹴り。
 異形の姿は闇へ消えた。
 しずりは、追おうとはしなかった。
 気配が消えたのを確認すると、綱の方へ体を向けた。
 深紅に染まった腕。
 服に飛び散った返り血。
 怪しく光る目。
 身震いする程の威圧感
 歩みよってくる姉に対し、綱は戦慄を憶えた。
「来るなっ!」
 綱は無意識のうちに叫んだ。
 しずりがビクリと体を震わせて立ち止まった。
「そばに来るな!」
 もう一度大きな声で叫んだ。
 怖かった。
 どうしようもないくらい、綱は怖かった。
 戸惑いの表情を浮かべ、しずりはその場に立ち尽くした。
 綱の声に反応したのか、雪が解けるように、体から殺気が消えていく。
 そして…………。
 悲しげな瞳で綱を見た。
 唇が震え、寂しそうに目を伏せた。
 それは普段、綱が接している姉と何も変わりはなかった。
 綱は狼狽した。
 鬼を撃退した、人間とは思えない姉。
 泣き出しそうな顔で、自分を見た姉。
 まるで、悪い夢でも見ているようだった。
「…っ!」
 しずりが、ハッとした表情を作る。
 足音。
 何者かが、二人の方へ走ってくる。
 タッ!
 しずりは、音とは反対方向に走り出した。
「………ぁっ」
 追いかけなきゃ。
 咄嗟に思い、綱は足に力を入れた。
 今、しずりを追わなければ、二度と会えなくなるような気がして。
 だが………。
 思うように立ち上がれない。
 体が震えて。
 力が入らなくて。
 腰が抜けて。
 そうこうしているうちに、姉の姿が遠ざかっていく。
「くそっ!」
 何とか、壁に手をつき立ち上がろうとした時だった。
「ツナ、ツナじゃないか」
 聞き慣れた声。
 慌てて振り向く。
 走ってきたのは、先輩の酒田だった。
「おい、どうした! 何があったっ!?」
 腰の立たない綱。
 足下に砕けた竹刀。
「まさか、おまえ」
 遠くからパトカーのサイレン音が聞こえてきた。
「ツナ、立てるか?」
 酒田が綱に肩を貸す。
「警察に巻き込まれると面倒だ。とにかく、この場を離れるぞ」
 竹刀の残骸を拾い、二人はその場を後にした。
 
 
 
 雨が降り出したのは、綱が家の玄関をくぐるのと、ほぼ同時だった。
「ウチの息子が、ご迷惑をおかけしてすみません」
 玄関に入ると、千鶴が出迎えた。
「いえいえ。こちらこそ、ツナを遅くまで付き合わせてすみません」
 深々と頭を下げる酒田。足腰のしっかりしない綱を降ろすと、柏木家から傘を拝借し帰って行った。
「コウちゃん。こんなに遅くまでどこを歩いていたの?」
「あ、あぁ」
 母親の質問に、適当な返事を綱は返した。
 詳細な話しなど、出来るわけがなかった。
 千鶴は何か言おうと口を開けようとして、不意に止めた。
 人の気配を感じたから。
 カラカラと玄関が開く。
「ただいま」
 耕一だった。
「まいったよ。あと少しのところで降り出したから」
 ハンカチで顔を拭きながらぼやいた。
「あなた。しずりは?」
 千鶴の声に、二人の息が止まる。
「まだ、帰ってきていないのか?」
 千鶴は首を縦に振った。
「そうか」
 そう言うと、耕一は玄関の傘を一本掴んだ。
「もう少し探して来る」
 傘の留め具を外した。
「気をつけてね」
「判った」
 玄関の扉に手をかけて、耕一はふと動きを止めた。
「あなた、どうしたの?」
「しずりの傘」
 そう呟くと、傘立てからもう一本手に取り、家の外へと飛び出した。
「不器用な人」
 夫の背を見送りながら、千鶴は呟いた。
 
 
 
「ふはぁ〜」
 湯船のお湯が溢れ出す。
 綱は息を吐きつつ、体を伸ばした。
「あ……」
 指が震えていた。
 腕も。
 足も。
 そして、心も。
 ポチャン。
 温かいお湯越しに、自分の体を眺める。
「生きている」
 動く指。
 もしかしたら、死んでいたかもしれない。
 そう思うと、恐怖で心が潰されそうになる。
 人はいつかは死ぬ。
 そんな事、知っていた。
 綱は、それは遙か先の事だと思っていた。
 それが、数刻前、目前に迫った。
 そして、それを救った姉のしずり。
 アレは一体なんだったのだ?
 鬼が現実に存在した。
 それだけでも驚きだ。
 その鬼と同種の力を、しずりが持って行った。
 なぜ?
 どうして?
 しかも綱は、しずりを冷たく突き放した。
「俺、どうしたら、いいのかな?」
 答えが出ぬまま、綱は湯船に浸かり続けた。
 
 
 
 居間を覗く。
 千鶴がテレビを見ていた。
「しずり姉は?」
 頭をバスタオルで拭きつつ尋ねた。
「まだよ」
 息子の質問に端的に答えると、再びテレビの方を向いた。
 画面には、昨日の事件を伝えている。
 今日の、さっきの死体のニュースは、まだ流れていない。
 雨が激しく屋根を叩く。
「母さん」
「なぁに?」
 アラレを口に銜えつつ、千鶴は息子に振り向いた。
 …………何から話せばいいんだ。
 鬼の事か。
 しずり事か。
「どうしたの、コウちゃん」
「………なんでもない」
 畳の上に腰を落とした。
 ポリ。
 アラレの囓る音。
 雨の降る音。
 じっと、千鶴は息子の顔を見つめた。
「……帰って来たみたい」
 綱が弾かれたように顔を上げる。
 引き戸の開く音が聞こえた。
「しずりかしら?」
 のほほんとした口調で、千鶴は玄関のほうに目を向けた。
 ドバタンッ!
 何かが倒れる音に、二人は顔を見合わせた。
「母さん。今の音」
 千鶴は頷くと、立ち上がり廊下に出た。
 綱もそれに続く。
 けたたましい音を立てながら、板張りを走る。
 二人同時に玄関へと飛び込んだ。
 白いブラウス。
 水色スカート。
 栗色の長い癖毛。
 全身びしょ濡れになった初音が、玄関から廊下へと身を投げ出すように倒れていた。
「初音っ!」
「初音姉っ!」
 名を呼ばれた初音が、ぴくりと顔を上げる。
「初音、あなた上で寝ていた筈じゃなかったの?!」
 息苦しそうに喘ぐ初音。千鶴は額に手を当てた。
「酷い熱」
「し、しずりは……」
 妹の問いに、千鶴は首を横に振った。
「ち、千鶴お姉ちゃん。まだ、しずりは、帰っていないの?」
「今は自分の身を心配しなさい。コウちゃん、初音を上に連れて行くのを手伝って!」
「判った」
 綱は短く返事を返すと、母親と共に初音の体を抱き上げた。
 
 
 
 ベットに運び込まれた初音。
 濡れた衣服を取り替えられ、水で絞ったタオルが頭に乗せられる。
 体温計を見つつ、千鶴が眉をひそめた。
「コウちゃん、暫く初音の側にいてあげて。私は暖かい飲み物を作ってくるから」
 脱いだ衣服を手に持ち、千鶴は初音の部屋を出て行った。
 綱はタオルを洗面器の水で濡らし直し、叔母の頭にそっとのせた。
「ごめんね、コウちゃん。迷惑、かけて」
「気にしないでいいよ。いつも世話になっているのは俺の方だし」
 初音の様態が悪いのは、その顔色からも明白だった。
「ねぇ、コウちゃん」
「なに、初音姉。何かして欲しい事、ある?」
「わたし………しずりの母親失格かな」
 寂しそうに呟いた。
「やっぱり、本当の母親じゃないと、ダメなのかなぁ。わたし、一生懸命、やってきたのになぁ」
 涙の雫が目尻から流れ落ちた。
 綱の胸が、ぐっと切なくなる。
「そんな事はないよ。初音姉は、ちゃんと、やってるよ」
 励ます言葉が、上手く浮かばない。
「コウちゃん。あの子が、ここに来た時の事、まだ憶えている?」
「あぁ、憶えてる」
「あの日も、こんな雨の日だった。あの子、全身ずぶ濡れで、玄関の前に立っていた」
 おかっぱの髪。
 寂しそうな瞳。
 沈んだ顔。
 幼い日の記憶が、昨日のように綱の脳裏に蘇る。
「あの時。わたしが最初に話しかけた言葉、憶えてる?」
「え?」
 綱は、記憶の棚をひっくり返した。
「確か、名前を聞いたんだっけ?」
「そう。『あなた、しずりちゃん?』って聞いたの」
「うん。そうだった気がする」
「おかしいとは思わない?」
「なにが?」
「わたし、あの子と会ったのは、あの日が初めてなのよ?」
 謎々のような問いかけ。
「初めて会った時から、名前を知っていた?」
 何か引っかかるものを、綱は感じた。
「初音姉が、しずりに会ったのは、あの日が初めてだよね」
 こっくりと頷く初音。
「母さんも、父さんも驚いて……え?」
 何となく、パズルが当てはまっていく。
「もしかして初音姉は、しずりの事を、しずりが来る前から知っていたの?」
 甥の言葉に、初音は微笑んだ。
「知っていたわ。あの子が、母親の、お腹の中にいた時から」
 綱は息を飲んだ。
 知っていた?
 お腹の中にいた時から?
「母さんや父さんは、しずりの事を知らなかったんだろう?」
「わたしだけ………知ってたの。楓お姉ちゃんが身籠もった事も、失踪した理由も。でも、ずっとみんなに内緒にしてた」
「どうして?」
 初音は甥の顔を、じっと見つめた。
「楓お姉ちゃんと、約束したから」
 写真立てでしか会ったことのない叔母の名前。
「しずりの母親と?」
「そう」
「誰にも話さないって約束したから。だから、わたしだけ、あの子の名前を知っていたの。産まれる前に付けた、あの名前を」
「じゃぁ初音姉は、しずりがココに来る前から、会っていたんだ」
 その言葉に、初音は首を横に振った。
「楓お姉ちゃんは、しずりが産まれる前に、黙って引っ越したの。誰にも行き先を告げず。みんなに迷惑をかけるのを恐れて」
 まるで神に懺悔するかのように、初音は綱に告白し続けた。
「わたしは、敢えて探そうとしなかった。そっとしてあげた方が良いと思ったから。でも、楓お姉ちゃんは、楓お姉ちゃんは………」
 ぽとり、ぽとりと。シーツの上に涙が零れ落ちた。
「楓お姉ちゃんは死んでしまい、あの子だけがひとり残された。私が、しずりの母親をしているのは、楓お姉ちゃんを助けてあげれなかったから。せめて、あの子だけは幸せにしてあげたかった。でも、駄目………。私じゃ、あの子を………」
「初音姉だけの責任じゃないよ」
 綱は、初音の言葉を遮るように話しかけた。
 自分の事を責め続ける叔母が、いたたまれなくて。
 突然、窓の外がら強烈な光が走った。
 続く轟音。
 雷が近くに落ちた。
 相変わらず、雨脚は衰える様子を見せなかった。
「あの子、寒くないかな。どこかで雨宿りしていればいいけど」
 窓に目を向ける初音。
「長袖着てたから、濡れていない限り…」
 突然、初音は甥の腕を握った。
「コウちゃん。あなた、今、なんて言った?」
「えっ?」
 綱は叔母の顔を見た瞬間、心臓が飛び上がった。
 殺気に満ちた形相。
 綱が初めて見る、初音の顔がそこにあった。
「コウちゃん。今、長袖を着てたって、言ったわね」
「あ、あぁ」
「あの子が、この家に帰ったところを誰も見ていないのよ。どうしてコウちゃんは、しずりが長袖を着ている事を知ってるの?」
「あっ!?」
 思わず口を押さえる綱。
「コウちゃん。あなた何か隠しているでしょっ?!」
「う……」
 鬼気とした表情で、甥に迫る初音。
「話しなさいっ!」
 その気迫に、綱はたじろいだ。
「話しなさいっ!!」
「あ…会った。しずり姉と、外で会った………」
 取調室で刑事に罪状を話すが如く、綱は見たことを全て、訥々(とつとつ)と吐露した。
「そうだったの………」
 全容を聞き終えると、初音はベッドから身を起こした。
「行かなきゃ。あの子を迎えに行かなきゃ」
「そんな体じゃ、無理だよっ!」
 叔母を止めようとして綱は、思いも寄らぬ腕力で突き飛ばされた。
「速く行かなきゃ、あの子がっ!」
 部屋を飛び出そうとする初音。
 気持ちとは裏腹に、病魔はその体を深く蝕んでいた。
 足がもつれ、絨毯の上に転倒した。
「その熱じゃ無茶だってっ!」
 引き留めようとする綱の手を振り払い、這ってでも廊下に出ようとする初音。
「初音姉っ! こんな体で外に出たら、風邪こじらせて死んじゃうよっ?!」
「死んでも構わないっ! あの子に何かあるくらいなら、死んだ方がいいっ!!」
「初音ねぇっ!」
 暴れる初音を後ろから抱きかかえながら、綱は叫んだ。
「俺が必ず連れて帰るっ!!」
 綱は宣言した。
「しずり姉は、俺が必ず連れて帰るっ!!」
 初音の細い体を抱き締めながら。
「コウ、ちゃん」
「初音姉が死んだら……初音姉が死んだら、しずり姉はどうなるんだよぉ」
 その言葉に、初音は動きを止めた。
「しずり姉は、母さんを亡くしたんだろ? その上、初音姉まで死んだら………」
 抵抗を止め、少しずつ力が抜けていく。
「初音姉。しずり姉は必ず俺が連れて帰る。だから、お願いだから、この部屋にいてよ。俺が必ず連れて帰るからさ」
 初音は、自分の体を抱き締める腕に、そっと手を置いた。
「コウちゃんはまるで、梓お姉ちゃんみたいな事を言うのね」
 今は遠くにいる姉の名前を口にした。
「梓ねぇ、みたい?」
「うん、そうだよ。きっとここにいたら、同じ事をわたしに言ったと思う」
「そう…かな」
「きっと、そうよ」
 クスッと微笑むと、初音はフラフラと元居たベッドへ戻って行った。
 それとほぼ同時に、廊下から千鶴が姿を現した。
「どうしたの二人とも?」
 二人の声が聞こえたのか、慌てて駆けつけたようだった。
「千鶴お姉ちゃん」
 初音は長年親しんだ、姉の名を呼んだ。
「しずりは、きっとどこかで雨宿りしているよね。もう中学生なんだから」
 布団を自分の体にかけ直しつつ、そう呟いた。
「初音。しずりは、あの人が探しに行ってるから、そのうち一緒に帰ってくるわ」
 千鶴は、床に落ちたタオルを拾い、妹の額に乗せると、息子の方に振り向いた。
「コウちゃん。初音の面倒は、私が見るから、あなたは自分の部屋に戻りなさい。学校の勉強とか、何もしていないでしょ?」
「判った」
 綱はそう言うと膝を立てた。
 もう少し、叔母と話しをしたいとも思ったが、母親の前では話し辛かった。
「コウ…ちゃん……」
 初音は、部屋から出て行こうとする甥を呼び止めた。
「呼んだ?」
「………がんばってね…………」
 力なく、初音は微笑んだ。
 
 
 
 バレーボールが宙に上がる。同時に上がる黄色い声。
 紺のセーラ服が風に舞った。
 昼休みの見慣れた風景。
 それがなぜか、綱の目にはいつもと違って見えた。
「なに黄昏れてるんだよ」
 日吉の声が聞こえる。
 綱は無視して、窓の外を見続けた。
「元気ないぞ。しずり様と喧嘩でもしたか?」
 思わずオレンジジュースの紙パックを握りつぶす。
「てめぇの知った事じゃねーよ」
「ほぉ」
 日吉は意味ありげな表情を浮かべつつ、綱の隣に腰を下ろした。
「なぁ、コウ。しずり様はどうして今日、学校をお休みになられたんだ?」
「誰に聞いた?」
「私設しずり様ファン倶楽部の情報網を舐めて貰っては困る」
「ストーカー集団の事か?」
「親衛隊と呼んで欲しいな」
「あぁ、そうかい」
「それより、しずり様はどうして、お休みになられたのだ?」
「風邪を引いた」
 適当なウソを綱は口にした。
 昨日、結局しずりは帰って来なかった。
 だが、それを素直に話す義理は何一つない。
「それじゃ、見舞いに行ってもいいか?」
「それ以上言うと、お前の顔に一発見舞うぞ」
 綱は溜息を吐き出した。
 本当は学校を抜け出して、しずりを探したかった。
 無論、母親に止められた。
 父親も『会社が終わってから探しなさい』と、咎められていた。
「コウ。一つ聞いても良いか?」
「今度は何だ」
「お前は、しずり様の事をどう思っているんだ?」
「…………へ?」
「お前はどう思っているんだよ」
「どうって、姉としか………」
「そうか、そりゃ良かった」
 日吉はホッとした表情を作った。
「どういう意味だよ、それ」
「お前、姉とはいえ、しずり様と血は繋がっていないんだろ?」
「ま、まぁ。従姉妹だけどな」
「もしかしたら、しずり様の事が好きなんじゃないかって、思ってさ」
「ば、馬鹿いうなよ」
 そう口にしつつ、綱は胸が騒いだ。
「じゃあ俺が、しずり様と結婚したら祝福してくれるのか?」
 胸騒ぎが、嵐と変化していく。
「そんなわきゃねぇだろっ!」
「じゃぁ誰と結婚したら、祝ってやるんだ?」
 しずりがどこかの誰かと結婚。
 想像するのを、何故か綱は躊躇った。
「素直になれよ」
「何がだよっ」
 日吉の言葉に、語気が荒くなる。
「お前も、しずり様の事が好きなんだろう」
「そんなこと………」
 『あるわけない』と、何故か口に出すのを綱は憚(はばか)った。
「コウ、お前とは小学校の時からの付き合いなんだぞ。俺には何を考えているのか、大体想像が付くんだよ」
 日吉は綱の耳に口を寄せた。
「好きなら好きと、さっさと告白しな。後悔しないウチに。しずり様は狙っている奴がたくさんいるんだからな」
 悪魔の囁き。
 今まで、綱は考えたことがなかった。
 正確にいえば、考える事を避けていた。
 封印させていた想いが、ゆっくりと、カマをもたげるのを綱は感じた。
「あほらしい………」
 冷静を装いつつ、そう答えるのがやっとだった。
「ツナはいるかぁっ?!」
 廊下から聞こえる酒田の声。
 綱は苦虫を噛みつぶした。
「コウなら、ここに居ますけど」
 日吉が、人差し指で綱を差す。
「そこにいたか」
 酒田はズカズカと教室の中に足を踏み入れて来た。
「ツナ、今日も頼むぞっ!」
 バンッ!
 と、勢い良く背中を叩く音が響いた。
「酒田先輩。何か面白いことでも?」
 日吉が目を輝かせながら問いかけた。
「あぁ、とっても楽しいことだ」
 それを聞いて、綱はますますゲッソリとした。
 昨夜、鬼と交戦したことを酒田に話した。
 無理矢理白状させられた。
 酒田が、狂喜乱舞した事は言うまでもない。
「ツナ、後で携帯に連絡入れるからな」
「判りましたよ」
「じゃぁ、放課後な」
 そう言うと、愉快そうな笑みを浮かべ、酒田は教室から去って行った。
「コウ。お前、携帯は持たない主義じゃ無かったのか?」
「まぁな」
 綱は普段使わない携帯電話を、ポケットから取り出した。
 何か判れば、連絡が入るようになっていた。
「アレ?」
 メールが一件入っていた。
 中身を確認する。
「どうした? しずり様からメールでも入ったか?」
 日吉が覗き込む。
「それはないから安心しろ。俺以上に、コレを嫌っているから」
 綱はメールを一読すると、携帯を折りたたみポケットにしまい込んだ。
「俺、今日はもう帰る」
 鞄に、必要なモノを詰め込む。
 嬉々とした表情を浮かべながら。
「午後の授業は、どうするんだよ」
「気分が悪くて帰ったと、先生に言っといてくれっ!」
 そう言うやいなや、鞄を掴み廊下へと駆けだした。
 メールの送信相手に、会いに行く為。
 
 
 
 喫茶店の前に、一人の女性が立っていた。
 紺のジーンズにポロシャツ。
 ひさしの長い帽子を被り、靴はスニーカー。
 背中にはパックパック。
 その姿は誰しもが旅人を連想させた。
 耐ショック性の時計に目をやり、ポケットのたくさん付いた、釣り人が着るようなメッシュベストから、煙草の箱をつまみ出した。
 セロハンの封を切り、中身を出そうと思った時、遠くから走ってくる一人の青年が目に入った。
「来たか」
 煙草を戻し、帽子を振った。
 久しぶりに見る甥の姿に、頬をほころばせながら。
「梓おばさん、元気だった?」
 綱は、息を切らしながら、叔母である渡辺梓(わたなべ あずさ)に声をかけた。
「コウ……」
 近づく甥に、梓は振り上げた手で素早く首を締め上げた。
「だ、れ、が、お、ば、さ、ん、だって?」
「ほ、本当に、叔母だ、ろ………」
「じゃあ何故、初音の事を『初音ねぇ』って呼んでいるんだい?」
 今度は、腕を関節技に極めた。
「イテーッ!」
 あまりの痛さに、綱は悲鳴を上げた。
「俺が悪かったです。梓おねえさまっ!」
「最初から、そう言え」
 気が済むと、梓は甥を解放した。
「まったく、梓姉は相変わらずなんだから」
「いきなり喧嘩をふってくる、あんたが悪い」
 そう言いつつ、梓は喫茶店の扉に手をかけた。
 
 
 
 梓は千鶴の妹であり初音の姉。柏木四姉妹の次女であり、綱の叔母にあたる。
 進学先の都内の大学で、カメラマン志望男と知り合い結婚。渡辺家に籍を入れた。
 だが、海外の旅行先で爆弾テロに遭い、夫は死亡。梓も重傷を負った。
 今では亡き夫の意志を継ぐように、フリーのカメラマンとして海外を渡り歩いていた。
「ここも変わんないね」
 店に入るなり、梓は呟いた。
「そうなの?」
「あたしの学生時代、そのままさ」
 店内には、静かなピアノの調べが流れていた。
 適当な席を見つけ、向かい合わせに腰を下ろした。
「コウ。あんたも何か食べる?」
「じゃぁ、梓姉と同じ物を」
 注文を取りに来たメイド姿のウェートレスに、梓はパスタと珈琲を注文した。
「まさか、梓姉が来るなんて予想していなかったよ」
「あたしもさ。こんな時期に来る事になるなんて、思ってもいなかった」
 さっき封を破った煙草を、再びベストから取り出した。
「もしかして、例の事件で来たの?」
「あぁ。ちょと大手の雑誌で、カメラマンが足らなくてね。あたしのようなフリーにもお声がかかったのさ」
 カチン。
 ジッボーの蓋を開け、
 ジュッ。
 炎が燃え上がる。
 カチンッ!
 再び、元の鞘へとライターをしまいこんだ。
「まぁ、ここ最近。仕事が立て込んで忙しかったからね。暫くはコッチで居るつもりさ。温泉にでも浸かってゆっくりするよ。最近、古傷も痛み出したし」
「古傷って、十年近く前の?」
「正確には十三年前かなアイツが死んだのは」
 白い煙が、ゆっくりと立ち上っていく。
「酷い新婚旅行だったよ。突然轟音がして、吹き飛ばされて。気が付くと、あたしの傍らでアイツが死んでいた」
 遠くを見るような目。
「悲鳴と怒号が飛び交い、人の千切れた手足が鮮血の中に転がっていたよ。あたしが生きていたのは、奇蹟みたいなもんさ」
 溜息と共に、梓は煙草の煙を吐き出した。
「あの爆弾テロで、あたしも重傷を負った。一時は医者からも見放され、病院を退院出来たのは事件から二年後。歩けるようになったのは更に二年後。友人のツテで台湾にリハビリに行ったりして、走れるようになったのは、つい最近。済んでしまえば、あっという間の出来事さ」
 短くなった煙草を、ガラスの容器に押しつけた。
「梓姉。結婚した相手は、どんな人だったの?」
「そうねぇ。有り体にいえば、カネにだらしがなくて、飲めないクセに酒が好きで、頭が悪いってところかな。なにせ、大学を三浪して入ったらしいから」
「そんな奴なの?」
 予想外の返事に、綱は面食らった。
「どうして梓姉は、そんな男と付き合いだしのさ」
「大学の飲み会がきっかけさ」
「ナンパされたとか?」
 その問いに、梓は苦笑いをしつつ首を横に振った。
「アイツが一人酔い潰れてさ。冬だったから、放置して帰るわけにもいかず、しかたなく部屋まで連れて帰ったのが、縁の始まりさ」
「はぁ…」
「でも、写真の腕だけは確かだった。在学中に賞とかも取っていたし。あたしを連れて海外へ撮影旅行に行ったよ。そして何より………」
「何より?」
「誰にでも優しかったよ。子供が何よりも好きだった………」
 クスリと口元が微笑んだ。
「そんな事よりコウ」
 叔母に呼ばれ、綱は顔を上げた。
「みんなは元気にしている?」
 琥珀色のコップに次がれた水を、梓は口にした。
「しずりとは、上手くやっているの?」
 その言葉に、綱の表情が曇った。
「梓姉。ちょっと相談したいことがあるんだけど」
「ん、あたしでよければ聞くよ」
 気さくな表情で、梓は微笑んだ。
 昔からそうだった。
 綱は、この叔母と気があった。
 性格も似ていた。
 二人とも回りくどいことが嫌いで、なんでも本音で話す性分だった。
「実は昨日なんだけど……」
 綱は今まで起こった事を全て話した。
 鬼を見た事。
 しずりの事。
 初音に話した内容を、ほぼそのまま伝えた。
 無論、それだけ叔母の事を信用しているからである。
 話しを聞いた後、梓はソファーに背中を倒し、暫く思考を泳がせた。
「そっかぁ…………。まだ、千鶴姉も耕一も、あの事を話していないんだ」
「あの事って?」
 綱は思わず身を乗り出した。
「あたし達、一族に伝わる呪われた血の事さ」
「呪われた?」
「声が大きい」
「あ、悪りぃ」
「コウ。ちょっと耳を貸しな」
 梓は、甥の耳元に語り出した。
 柏木家に代々受け継がれる、不思議な力。
 呪われた力について。
 綱は最初、それを素直に信じる事が出来なかった。
「梓姉。女は力が制御出来て、男は出来ないのか?」
「正確に言えば、極めて難しいのさ。殺戮と性行為の衝動が止められず、本物の鬼となる」
「じゃあ、ウチの父さんは?」
「耕一と、あたしの祖父さんは例外の範疇さ」
「あの親父がねぇ」
 そう言いつつ、綱は重大な事に気が付いた。
「ちょっと待った。それじゃ、俺にもその血が流れているのか?」
「あんたは、大丈夫さ」
「大丈夫って?」
 梓は、コップの水を呷(あお)った。
「たまに血の薄い奴ってのがいてね。あんたもその一人さ。可能性がゼロではないけど、限りなく低い。それに関しては安心してもいいよ」
 綱はホッとした表情を浮かべた。
「つまり、今の連続殺人事件も?」
「多分、その筋だと思う。この辺りの人間は、薄かれ濃かれ、鬼の血を引いている奴が多い。おそらく偶発的に鬼の力に目覚めた奴がいるのだろう」
「その鬼の力が暴走したら、止める手段はあるの?」
「今のところは、無い。殺すしかない」
 梓はキッパリと言い切った。
「だから、あんたも自分の血が暴れないことを、神にでも祈るんだね」
「マジかよ。シャレになってないじゃん」
「大マジだよ」
 綱は溜息を付きつつ、椅子に身を倒した。
「じゃぁ、しずり姉は、その鬼を追いかけていたのか?」
「さぁ。その辺は本人を捕まえてみない事にはね。ただ………」
「ただ?」
「正面切って戦うと、女より格段に男の方が強いんだ」
「しずり姉が負けるって事?」
「その可能性が高いって事さ。負けた場合、殺されるかもしれないが、そのまま鬼に強姦され、子供を孕ませられる危険性がある」
 昨日の女性死体の事が、綱の脳裏に浮かんだ。
 しずりが鬼に犯され、その子供を身籠もる。
 綱は、頭を振ってその考えを追い出した。
「とにかく。あんたは、しずりを探しな。暴れている奴については、あたしと耕一でケリをつけるから」
 そう、梓が結論づけたところで、注文した料理が運ばれてきた。
「とりあえず、食べよう」
「ごちそうになります」
「あとで、金額請求するからな」
「えっ!? おごってくれるんじゃねぇの?」
「ウソだよ。これくらい出してやるよ」
 綱はフォークを握り、遠慮無くスパゲティーを口に運んだ。
「ところで、コウ。千鶴姉の料理は、少しはマトモになった?」
「……………」
 甥の苦り切った顔に、梓は思わず口に入れた物を噴き出しそうになった。
 
 
 
「ただいま」
 綱は家の玄関をくぐり、靴を脱いだ。
 そのまま、自分の部屋に直行。学生鞄を投げ込む。
 時計は、夕方の五時を指していた。
 九月に入ったとはいえ、まだ外は明るい。
 念のため、しずりの部屋を覗く。
 帰って来た形跡は見あたらない。
 階段を降り、綱は台所に向かった。
 誰もいない。
 居間も無人だった。
「みんな出かけたのかな」
 そう思い、玄関へ行こうとした時だった。
 話し声が聞こえた。
 そっちの方に足を伸ばす。
「………なたは歳を取らなくていいわね」
 仏間に誰かいるらしい。
「私なんて、最近白髪が増えたわ」
 千鶴の声が聞こえた。
 綱は『夕飯は入らない』と言おうとして、
「楓。全部あなたが悪いのよ」
 口から出かけた言葉を呑み込んだ。
「あなたのせいで、みんな苦労しているのよ。少しは反省しなさい」
 そっと、部屋の中を覗く。
 母親が仏壇に座りながら、手にしたお茶に息を吹きかけていた。
「楓。私の煎れたお茶。美味しい?」
 遺影の前に、草色をした小振りの湯飲み茶碗が置かれていた。
「あなたが去り、梓が家を出て随分立つけど、家事って難しいわね。洗濯や掃除は出来ても、料理だけは未だに駄目。お皿を割らなくなった程度よ。上手くなったのは、お茶を煎れる事くらい」
 千鶴は、今は亡き妹に、訥々(とつとつ)と語り続けた。
「楓。もし暇なら、しずりや初音の夢にでも出てあげてよ。きっと喜ぶと思うから。………でも、私の所には来ないほうがいいわ。きっと、お説教しちゃうから」
 お茶をすする音が、綱の耳に届いた。
 どうする?
 綱は進退窮まった。
 盗み聞きするのは趣味ではない。
 しかし、しずりの母親の事となると、耳を傾けずにはいられないのも事実だった。
「楓。私、知っていたのよ。どうして、あなたがこの家を出て行く気になったのか。流石に子を宿した事までは見抜けなかったけど」
 溜息を付く音が聞こえた。
「悪いのは、きっとこの私ね。幸せを独占しようとした、私が一番悪いのよ」
 悲しげに呟いた。
「楓。お願いだから、せめて、あの子達を守ってあげて。それくらいしてあげても良いでしょ。今でもきっと、あなたの事を愛していると思うから…………」
 綱は、ゆっくりと足を一歩、後ろに引いた。
 これ以上、話しを聞くのは悪い気がしたから。
 そっと、その場を離れようと思った。
「コウちゃんっ!」
 突然呼ばれる名前。
 綱は心臓が止まるかと思った。
 バレていた。
 気まずいバツの悪さを感じつつ、母親の前に姿を現した。
 千鶴は息子の方を見ず、楓の写真を見続けながら、
「気をつけて、行ってらっしゃい」
 優しい声で、そう言った。
 
 
 
 綱は玄関の戸を出ると、外には行かす家の蔵へと急いだ。
 武器が欲しい。
 昨日の戦闘で、竹刀がなんの役にも立たない事が判明した。
 木刀でもダメージを与えるのは難しい。
 真剣なら。
 綱も酒田と同じ結論に至った。
 警察に見つかったら、ただではすまない。
 しかし、しずりを探す段階で、あの鬼と遭遇する可能性は十分考えられた。
 実のところ、居合い切りなら酒田の道場で、先輩とこっそり練習した事がある。
 経験があまりない為、腕に自信はない。
 正直、鬼を倒せるとは思っていない。だが、自分の身くらいは自分で守りたかった。
 勝てなくとも、一時的に逃げる隙を作り出せれば良い。
 綱は、勝手に持ち出した鍵を開け、重い扉を開けた。
 灯りをつけ、狭くて急な階段を登る。
 幼少の頃から蔵を探検していた綱は、日本刀の収納されている場所を知っていた。
 適当に、一本拝借していこうと思った。
「あれ? 変だな」
 有るべき場所に、有るべき物が見あたらない。
「確か、この辺の筈」
 蜘蛛の巣を払いながら探してみるものの、刀らしき物はどこにもなかった。
「あっちか?」
 思いつくところを手当たり次第、開けてみるものの、徒(いたずら)に時間ばかりが過ぎてゆく。
「まじいなぁ」
 綱は頭を掻いた。
 計画が狂った。
 どうしょうかと思った時、誰かが蔵の中に足を踏み入れる音を聞いた。
 板張りの床を歩き、階段へ。
 まるで綱が、そこに居るのを知っているかのようだった。
「コウちゃん。こんな所で何をしているの?」
 特徴のある癖毛。
 初音だった。
「初音姉、体の具合は?」
「うん、なんとか。もともと体は丈夫な方だし」
 薄明かりの下、あまり良くない顔色で初音は微笑んだ。
「コウちゃんは、こんな所で何を探しているの?」
「うん、ちょっとね」
 流石に日本刀を探しているとは、口に出せなかった。
「捜し物は見つかった?」
「いや、全然」
 首を横に振りつつ、綱は苦笑した。
「もしかして、コウちゃんの必要な物は、これかしら?」
 差し出される、緑地の布袋に包まれた棒状の物。
 綱はそれを受け取ると、結んである紐をほどいた。
 姿を現す、一本の白鞘。
 はやる気持ちを抑えつつ、ゆっくりと柄を引いた。
 薄暗い空間の中に、煌めく白銀の刃。
 綱は息を飲んだ。
「わたしのお爺ちゃんが、居合い用に使っていた刀よ」
 その刀身は大刀よりは短く、小刀よりは長い。綱が扱うには丁度良い大きさだった。
「多分、耕一お兄ちゃんも、その刀の事までは知らないと思う」
「じゃぁ、ここに有った刀を隠したのは……」
「そういう事」
 クスリと初音は笑った。
「初音姉。本当にいいのかい?」
「何が」
「俺に、こんな危険な物を渡して」
「男はね。一度決めた事は、ちゃんとやり遂げなきゃ駄目なんだよ。例え、それがとても危険な事でも、女は邪魔をしちゃいけないの」
 一度決めた事。
 綱は、叔母の言葉を心中で反芻した。
「初音姉。しずりは必ず連れて帰るよ」
 小さく初音は頷いた。
 刀を鞘に戻し袋に入れると、予め用意しておいた野球バットのケースへしまい込んだ。
「しずりは、幸せな子ね」
 小さな呟き。
「こんなに立派な男の子に、愛されているのだから」
「そ、そう?」
 綱は、ちょっと照れくさく返事をした。
「そうよ。正直羨ましいわ。だって、わたしには………そんな人、いないから」
 潤む瞳で、初音は甥を見た。
「愛してくれる人も、守ってくれる人も、いないから」
 その、とても寂びそうな目に、綱の心は揺れ動いた。
「しずりには、もったいないかな」
「へ?」
 初音の手がスルリと綱の腕を抱く。
「わたし、コウちゃんの事、誘惑しちゃおうかな」
 綱の腕が、豊かな初音の乳房に埋(うず)められる。
 甥に頭をしなだれ、栗色の髪が絡まる。
 ドク。
 ドク。
 綱の心臓が、強く打ち出す。
 自分のより年上の叔母が、まるで年下の女の子のように見えた。
 それも、か弱くて寂しがり屋で、守ってあげたくなるような。
 今まで、叔母に対して向けたことのない感情に、綱は戸惑った
「………冗談よ」
 初音は、甥の腕を解放した。
「コウちゃんは、しずりの大事な人なんだから、わたしが好きになっちゃいけないよね」
 そういって、クスリと笑った。
 その笑みは、なぜか綱の胸に痛みとして突き刺さった。
「コウちゃん。下に降りよ」
「あぁ」
 脈打つ胸を押さえつつ、綱は階段へと向かった。
「初音姉、先に降りるよ」
 急で狭い階段に、注意深く足を下げていく。
 綱に続いて、初音が足を降ろした。
 ズボンの上からでも、形の良いヒップがハッキリと見て取れる。
 別に綱は、それが見たくて先に降りたわけではないのだが。
「きゃっ!」
 初音が足を踏み外した。
 細い体が、宙に浮いた。
 綱は咄嗟に腕を広げた。
 ドサッ!
「ぐはぁっ!」
 衝撃に息を吐きつつも、叔母の体を抱き受けた。
 勢いを殺せず、床に転がる。
 その間も、綱はしっかりとその体を離さなかった。 
「あ、ありがとう。コウちゃん」
 息を切らしつつ、初音は礼を述べた。
 こんなに、軽かったんだ。
 こんなに、華奢で。
 綱は思わず、叔母の体を強く抱き締めた。
「守ってあげる事くらいなら、俺にでも出来るよ」
 小さな体が、ピクリと震えた。
「…………コウちゃんの手、とても温かい」
 初音は自分を受け止めてくれた腕を、そっと撫でた。
「でも、やっぱり駄目。しずりに悪いから」
 そう言って、綱の手を振り解いた。
「気持ちだけ、ありがたく戴くわ」
 膝を曲げ、立ち上がった。
「コウちゃん。幸せというのわね、欲張ったら神様に嫌われるのよ。わたしは母親として、しずりを育てることが出来るだけで、充分過ぎるほど幸せだから」
 叔母の言葉に、一つの疑問が綱の頭に浮かんだ。
「なぁ、初音姉。聞きたいことがあるんだけど良いかな」
「聞きたい事?」
「答えたくなければ、無視してくれても………」
「どんな事?」
「もしかして……もしかしてだけど」
 おずおずとした口調で。
「初音姉も、しずりの父親の事………好き、だったの?」
 思い切って、聞いてみた。
 気を悪くするかなと、ドキドキしながら。
 その問いに、初音はすました顔で。
「好きよ。今でもその人の事が、大好きよ」
 明るく、どこか寂しさを交えながら答えた。
 綱は、思わず拳を握った。
「初音姉。そいつの名前、教えてくれないか?」
「どうして?」
「五、六発ぶん殴ってやる」
 怒りに声が震えた。
「その男は、しずりの母親を捨て、初音姉を振ったんだろ。そんな女を泣かせるような男は、絶対に許せねぇっ!」
「そうね…………。そのうち、コウちゃんにも教えてあげるわ」
 甥の言葉に苦笑しつつ、初音は入口近くに置いてある、小さなバッグを取り上げた。
「コウちゃん。コレを持って行って」
 綱にそれを手渡す。
「初音姉、コレは?」
「おにぎりを作ったの。しずりに会えたら、一緒に食べて。飲み物も入っているから」
「判った」
 頷くと同時に、それを肩にかけた。
「じゃぁ、行って来るよ」
「気をつけてね」
 手を振る初音に見送られ、綱は家の外へ出た。
 すでに日は暮れ、夜の帳(とばり)が降りていた。
 綱は、携帯電話を胸元から取り出した。
 着信は、無い。
 酒田との約束の時間は、とうに過ぎていた。
 かけたくはないのだが、とりあえず電話をしてみる。
 コール音は鳴る。だが、電話に出る気配はない。
 十回コール音を数えた後、電話を切りポケットにしまった。
 もともと、酒田との約束に付き合う気はあまりない。
 これ幸いと、綱は姉探しを優先する事にした。
 きっと、別の用事でも出来たのだろう。
 軽く考えた。
 酒田が、電話に出られぬほど切羽詰まった状況に陥っているとは、露にも思わなかった。
 
 
 
 携帯電話の音が夜の公園に鳴り響く。
 酒田はそれを無視した。
 無視せざるを得なかった。
 来る。
 熊のような腕が風を切り裂いて襲いかかる。
 速い。
 だが、遅い。
 爪の軌跡を見極めると同時に、足をスススと繰り出す。
 紙一重で攻撃を交わすと、抜き身の日本刀を振り下ろした。
 手元に肉を絶つ不気味な感触が伝わる。
 浅い。
 両者、切り結んだ後、お互い距離を取り、相手をにらみつけた。
 鬼。
 酒田はそれを一目見た瞬間、これが綱を襲った鬼であることを確信した。
 公園の水銀灯が二人を青白く照らし、静寂な闇夜の中、お互いの呼吸音と虫の音以外何も聞こえなかった。
 チラリと酒田は日本刀に目をやった。
 すでに三回以上は斬りつけている。しかし、皮一枚ほどしか切っていないことは、相手の動きを見れば明白だった。
 今のところ、酒田も体に傷を負っていない。
 確かに、鬼の繰り出す攻撃は常軌を逸した威力とスピードを持っている。だが、剣の師である祖父の太刀筋を思えば、余裕を持ってよけられる程の速さだった。しかも、体が大きいという事は、次の行動も読みやすい。酒田は相手の攻撃を誘い、攻撃を避けたところで、反撃に出る『後の先』の戦術をとった。
「グゥルルルルルルルル」
 鬼は軽くうなり声をあげながら、酒田を値踏みするような目で見ている。
 コイツ、楽しんでいやがる。
 相手をにらみ返しながら、酒田は舌打ちをした。
 あまりにも分が悪い。
 今はまだ良い。だが、10分後は?
 30分後は?
 いくら上面(うわつら)を斬ったところで、倒せる相手ではない。
 逆に酒田は、一度でも太い腕から繰り出される爪を喰らえば、即、致命傷になるだろう。
 スタミナも相手の方が圧倒的に見える。
 勝率は極めて低い。
 死ぬな、これは。
 そう冷静に分析しながらも、酒田には不思議と恐怖感はなかった。
 むしろ、全身にぞくぞくとした高揚感が沸き上がってくる。
 鬼が咆哮し、爪が空を裂き、白刃が月光に煌めく。
 酒田の求めていた世界が、今ここにあった。
 剣に生き、剣に死す世界が。
 動乱の時代が過ぎ去り、剣が不要になった昨今。戦国時代ならいざ知らず、剣の役に立つ場所などあるわけがなし。
 剣道の試合に勝ったところで、一生食べていける訳でもなし。
 平和な世では、スポーツの一種にしか過ぎず、所詮趣味の娯楽でしかない。
 酒田はこの世に生まれた事を後悔した。
 なぜ自分は戦乱の世に生まれなかったのだろう。
 剣の腕が上がれば上がるほど、その思いが強くなっていく。
 決して平和が嫌いというわけではない。だがそれ以上に生きるか死ぬかという、極限の状態の中で、自らの運命を剣に託す。そんな生き方に憧れてきた。
 しかし、現実にそんな世界などありはしない。
 剣の時代はすでに終わり、現代は銃の時代である。
 仕方なくやるせない思いを、たわいもない空想に委ねるのが関の山だった。
 一昨日までは………。
 ヒュオゥッ!!
 風切り音とともに、頬に激痛が走る。
 肉が抉(えぐ)られるのもかまわず、酒田は歩を進めた。
 切っ先は、喉元、一点のみ!
 イケる。
「ハッ!」
 気合いと共に、刃を切り出した。
 ズグッ。
 狙い違わず、切っ先が喉もとを捕らえた。
 ………が、刃は肉の中にめり込まず、首筋切り裂くように滑った。
 狙いが甘かったか?
 筋肉に阻まれたから?
 だが酒田は、今までにない出血が、鬼の首から吹き出すのを見逃さなかった。
「グゴゥッ!」
 吼えながら、初めて鬼は焦りの表情らしきものを見せた。
 足が一歩後ろにさがる。
 今しかないっ!
 僅かに見えた勝機に、酒田は喰らい付いた。
 危険を顧みず、相手の懐に飛び込む。
 刃を返し、相手の傷口目がけて、刀を振った。
 シュカッ!!
 白銀の線が闇夜に飛んだ。
 握っていた柄が、突然軽くなる。
「何っ?!」
 日本刀は、鉄の刀身と、それを握る柄の部分を『目釘』と呼ばれる木の棒で留めている。
 刀身が抜け飛んだという事は、すなわち目釘が抜けたか、砕けた事を意味していた。
 形勢が逆転する。
 今度は、鬼がその隙を見逃さなかった。
 肉薄した酒田に向け、丸太のような膝を放つ。
 その攻撃を、酒田は交わす事が出来なかった。
 ゴボッ!!
 鳩尾(みぞおち)に深く蹴りを食らうと、バットで打ったボールの如く、放物線を描くように宙を飛んだ。
 ズタンッ!
 地面へと、体が叩きつけられる。
「ぐはっ!」
 呼吸が、ままならない。
 肋骨(あばらぼね)の何本か、確実に砕けていた。
 むしろ、それで済んで幸いというべきか。
 内臓も破裂までには至っていないが、大きくダメージを受けているのは確実だった。
 鬼は思いもよらず自分を苦しめた相手に、トドメを刺すべく歩み寄った。
 酒田は握った柄を見やった。
 刀身は遠くに飛んでいってしまった。
 よしんば見つける事が出来たとしても、それを柄に戻す暇はないだろう。
 今更走って逃げたとしても、追いつかれる事は目に見えていた。
 近づいて来る相手をにらみつつ、酒田は柄に巻いてある紐をほどいた。いざという時の為に巻いておいた小刀を取り出すために。
 勝機は最早ない。
 だが、大人しくやられるつもりはなかった。
 冥土の土産に、片目の一つも貰っていくつもりだった。
 鋭い爪がゆっくりと上がる。
 酒田は最後の跳躍をする為、身を縮ませる。
 ふと、脳裏に後輩の顔が浮かんだ。
「コウ、後は、任せた」
 後輩の名を、小さく呟いた。
 パアンッ!
「グガッ!」
 鬼が顔に突然手を当てた。
 何だ?
 酒田は、一瞬何が起こったのか判らなかった。
 バスッ!
 何かが、鬼の顔に当たった。
「グォォ」
 鬼が呻いた。
「鬼さんこちら。手の鳴る方へ」
 闇夜に歌う、女の声
 パシンッ!
 飛礫(つぶて)が、狙い違わず鬼の鼻に命中した。
「鬼さんこちら。手の鳴る方へ」
 暗闇に立つ、人影。
 その手には、これから投げるであろう小石を弄んでいた。
「ウゴォオオオオオッ!」
 鬼が雄叫びを上げて、顔に石を見舞った人間に突進する。
「危ないっ!」
 逃げることも忘れ、酒田は叫んだ。
 獣の豪腕が風切った。
 だが………。
 腕を振り下ろした時、獲物は消えていた。
 ほんの一瞬で、襲われた人物は、鬼の死角へと回り込んでいた。
 虚を掴まされた鬼の爪は空を切り、勢いを殺せず公園の樹木に激突した。
 酒田は、何が起きたのか理解出来なかった。
「あんた、強いねぇ」
 鬼を軽々とあしらった人物は、軽いステップで唖然とする青年に近づいた。
 短く切った髪。
 端正な顔立ち。
 紺のジーパンにメッシュのベスト。
 クスクスと愉快そうに笑う女性の顔を、外灯の光が照らし出した。
「アイツを相手に正面切って戦うなんて。最近の若い男も捨てたもんじゃないねぇ」
 酒田は驚いた。
『アイツを相手に正面切って戦う』
 明らかに、鬼の正体を知っている言葉にほかならない。
「さっさと逃げな。闇の眷属がうろつく時間に、人間は家の外にいちゃぁ、いけないのさ」
 差し出される右手。酒田はその手を握り、身を起こした。
「危ないところを救って戴き、ありがとうございます」
「礼は後だ」
 女性は酒田に背を向けた。
「アイツが、来る」
 鬼が立ち上がり、コチラを睨んでいた。
 スニーカーが前に踏み出される。
 それに呼応するかのように、鬼も筋肉の束のような足を前に出す。
 お互いの距離があっという間に詰まる。
 先に動いたのは鬼だった。
 丸太のような腕が、爪という鋭い凶器共に繰り出される。
 しかし、またさっきと同じように、その女性は軽々と避けた。あまつさえ、巧みに鬼の背後へと回り込んでいる。
「グゥオウッ!」
 鬼は相手を打ちのめさんと、腕を振り回すものの、その度に、ひらりひらりと蝶の舞うが如く、女性はすべての攻撃を交わした。
 剣道の足裁きに似ていると酒田は感じた。
「八卦掌っていう中国拳法、知ってる?」
 女性は戦闘中にもかかわらず、穏やかな声で語り出した。
「面白い拳法でね。相手の正面に立ってはいけないって、いうのさ」
 まるで、鬼と酒田に講義しているような口ぶりだった。
「常に正対せず、側面や背後にまわり込む。相手より有利な立場に立った上で、円運動の力等を利用し、相手の急所に攻撃を叩き込む」
 女性は、ただ逃げているわけではない。
 まるで、氣を練っているように、酒田には見えた。
「そろそろ、やらせて貰うよ」
 ヒュオッ!
 特異呼吸音。
 次の瞬間は、低く腰を落とした姿勢から、女性は両掌を鬼の横腹目がけて付きだした。
 ドンッ!
 低く、重い音が鳴った。
 巨大な肉塊が宙に浮いた。
 酒田は思わず目をむいた。
 ズンッ!
 地面に巨体が転がる。
 飛ばされた方も、自分の身に何が起きたのか理解できないようだった。
 ただ一人、それを成し遂げた女性が、涼しげな顔で立っていた。
「人間って言うのはね。弱い生き物なのさ。鋭い爪もない。肉を噛み砕く牙もない。腕力では熊に劣る。でも人間は、強くなろうって日々努力し、工夫を重ねてきたのさ」
 一歩、一歩、女性は鬼に向かって歩く。
「ウゴォッ!!」
 再び、怒声と共に、巨躯を駆って女性に迫る。
 だが、結果は先ほどの再現だった。
 豪腕は一度として、そのしなやか肢体に爪をかける事叶わず、したたかな逆襲を下腹部に打ち込まれた。
「ガハッ…」
 重い打撃が息を詰まらせる。
 間髪入れず、迫り来る両掌を防ぐ事が出来なかった。
 ズドンッ!!
 同じ場所に、狙い違わず女性は衝撃を打ち込んだ。
 デジャブーのように、宙に飛ばされる鬼。
 まるで、酒田は夢でも見ているようだった。
 さすがの鬼も、すぐに立ち上がることが出来ず、荒く息を吐き出した。
「どうだい。『氣』を腹に打ち込まれた感想は」
 無邪気に、その女性は微笑んだ。
「あんたらの皮膚が、とても硬い事はしっているよ。刃物が通らない程ね」
 足を一歩前に踏み出す。
 それに対して、鬼は一歩、足を退いた。
「だけどね。『氣』はその厚い皮膚を通り越し、あんたの内臓を破壊するのさ。水袋を振動によって揺さぶると言えば、判りやすい?」
 女性が前に進む度、鬼はその倍の距離を後ろに下がった。
「あんたはねぇ、所詮でかい熊と一緒なのさ。ただ、力が強いだけで、その使い方も、闘い方も知らない」
 明らかに、焦りと恐れの色が、鬼の形相に浮かんでいた。
「悪いけど、そろそろ死んで貰うよ」
 暗く闇に包まれた公園で、女性は鬼に、死を宣告した。
 酒田は唾を飲み込んだ。
 ダンッ!
 地面を蹴りつける音。
 次の瞬間、鬼の体は夜空に飛翔していた。
 月光を背に浴びながら、素早く遠ざかって行く。
 その無様な逃走ぶりを眺めつつ、女性はメッシュのポケットから、小さなプラスチックの塊を取り出した。
「もしもし? うん、あたし」
 携帯電話に耳を当てつつ、鬼の逃げた方角に顔を向けた。
「アイツなら、山の方に逃げたわ。うん。そう。予定通りよ。あたしも後を追いかけるから」
 カチャッ。
 電話を折りたたみ、ポケットにしまう。
「あんたも、早く帰りな」
 そう、酒田に言うやいなや、足を一歩踏み出した。
「待ってくださいっ!!」
 大声で、去りゆく背中を呼び止めた。
「礼なら、言うに及ばないよ」
 ひらひらと女性は手を振った。
「せめて、お名前だけでも」
「名前?」
 キョトンとした顔。
「名前ねぇ」
 ぽりぽりと、頭を掻いた。
「あたしの名前は、梓。縁が有れば、また会おう」
 そう言い残すと、公園の出口へ駆けていった。
「あ、ず、さ……さん」
 一陣の風のように去っていく背中を、呆けたように酒田は見つめた。
 その格好良さに、胸が熱くなった。
 またいつか会いたいと、真剣に思った。
 
 
 
 暗黒の中に星々が煌めく頃。
 綱は走り続けていた。
 町の東側は梓と別れた後、家に帰る前に探し尽くした。
 西側も九割方まわった。
 にもかかわらず、姉の姿は未だに見えず。
 途方に暮れること、はや三度。
 後はアソコしかない。
 そう思い来たのが城跡だった。
 町の外れにある小高い山。
 子供の頃、姉と一緒に手を握りつつ駆け上った長い階段を、綱は一人で登った。
 人気は無い。
 石垣。
 草木。
 他に見えるのは、街の灯りくらい。
 虫の音が、逢い引きの相手を探し声を上げていた。
 綱は溜息をついた。
 正直、ここ以外にもう探す場所はない。
 友人の所に身を寄せているのだろうか。
 とりあえず、もと来た階段に足を向けた時、綱は有ることを思いだした。
 あの場所は、まだ見ていない。
 三メートル石垣を登った所にある、二坪程の芝生。子供の密な遊び場。
「この上だ………」
 石垣の隙間に足を入れ、指で手がかりを探しつつ慎重に登る。
 祈るような気持ちで。
 後ろに背負った日本刀と、弁当の入ったバッグが、体のバランスを微妙に崩す。
 灯りはなく、岩の間に蛇が巣くっている可能性もある。
 危険は承知の上だった。
 あと、少し。
 右手が、目的地に指をかける。
「ぅりゃっ!」
 一気に体を引き上げた。
 目線が開ける。
 素早く辺りを見回した。
 特に、何も見えない。
 念の為、今一度目をこらした時、白銀の薄い光が辺りをそっと照らした。
 雲の隙間から抜け出た、真円の月。
 綱は息を飲んだ。
 スニーカーの靴底が見えた。
 つま先を出っ張りに引っかける。
 左手も頂上に届いた。
「せぃっ!」
 気合い共に、石垣の上へと登りきった。
「ふぅ」
 汗を拭きつつ、綱は前方を見た。
 黒いジーンズ。
 青のポロシャツ。
 雪のように白い頬。
 しずりが、探し求めた姉が、草の上にその身を横たえていた。
「しずり姉」
 小さな声で呼ぶ。
 返事はない。
 その代わり、小さな寝息が聞こえた。
 綱は大きく息を吐き出した。
 緊張の糸が弛み、安堵感に全身が包まれた。
 背中の荷物を降ろし、ポケットから携帯電話を取り出す。
 梓と連絡を取る為に。
「あれ?」
 コール音はするが、いっこうに出る気配はない。
 一旦通話を切り、今度は家へと電話。
 コチラも状況は同じ。
 もしかしたら、全員出払っているのだろうか。
 とりあえず、現状と位置を皆にメールで送信した。
 さて、どうしよう………。
 綱は迷った。
 起こして方がいいのだろうか。
 気持ちよさそうな寝顔を見ていると、少し気が引けた。
「無理に起こす事もないか」
 綱は荷物を脇に置き、姉と平行に並ぶ形で身を横たえた。
 少し湿り気を帯びた、秋の涼風が吹き抜ける。
 厚い雲の間に、ぽっかりと浮かんだ月。
 とても綺麗だった。
「は〜る〜高楼の〜花の宴〜」
 荒城の月が、自然と口から紡ぎ出された。
 剣道の師が好んで歌っていた。別に教えられたわけでもないのだが、子供の頃いつの間にか憶えた。
「巡る盃かげさ〜して〜」
 ふと、歌が止まる。
「この、後なんだっけ………」
 ポッカリと後半部分が記憶から抜けている。
「植うる剣に……それは二番か」
 色々と考えて見たものの、どうしても思い出せなかった。
「千代の松が枝わけ出でしー」
 歌の続きが、綱以外の口から吟じられた。
 ハッとして声のする方を見る。
 桜色の唇。
 小さく動いていた。
「昔の光ー、いまいーずこー」
 高く澄んだ歌声が、草むす古城の静寂に吸い込まれていった。
「しずり姉。いつから起きていたの?」
 しずりは夜空を見上げた。
「ついさっきよ。コウの歌声に、目が覚めたわ」
「起こして、ごめん」
「いいのよ。このまま寝ていたら、きっと風邪をひいていたから」
 長い睫毛が、小さく瞬いた。
 綱の胸が、不自然にときめき騒ぎ出す。
 見慣れた筈のその髪が、とても艶っぽく見えて。
 見慣れた筈の横顔が、何故かとても愛しくて。
 日吉のせいだと、綱は思った。
 アイツがあんな事を言うから、しずりを家族でなく、一人の異性として意識してしまうのだと。
「どうか、したの?」
 綱の視線に気付き、しずりは首を弟の方へと向けた。
 口の元に、小さな笑みを浮かべて。
「ちょっとね。しずり姉が……あっ!」
 しまったという表情で、綱は身を起こした。
「どうしたの?」
 弟の慌てる姿に、しずりは問いかけた。
「しずり姉、ごめんっ!!」
 手をつき、頭を下げる綱。
「昨日は酷い事を言って、本当にごめん」
「酷い事?」
 首を傾げる。
「ほら。夜に、助けて貰って」
 釈明に首を上げる綱。
「その後、しずり姉に来るなって………」
「あぁ…」
 小さな頷き。
「俺、何も知らなくて。その、ウチの家族が変だって思っていたけど、本当に普通じゃないって知らなかったんだ」
 しずりは上半身を起こし、弟に体を向けた。
「コウは、何も聞かされていなかったのでしょ。仕方ないと思うわ」
「本当に、ごめん」
 黒髪が左右に舞った。
「謝るのは、私の方よ」
 済まなさそうな表情で、
「今まで黙っていた、私が悪いのだから」
 しずりは詫びの言葉を口にした。
「コウは、誰に教えて貰ったの?」
「梓姉に、今日会って」
「えっ?」
 ちょっと驚いた顔。
「梓叔母様が、来てみえるの?」
「あぁ。今日の昼間に、コッチに来たよ」
「そぅ……」
 低く呟くと、しずりは街の光に目を向けた。
 綱も一緒に下界を見下ろす。
 小高い山の上だけあって、市街から温泉街のホテル群まで一望できる。
 夜景として申し分なかった。
「なぁ、しずり姉」
「ん…?」
 微笑みを少し浮かべつつ、しずりは呼びかけた者を見た。
「お腹、空かない?」
 少し、照れ笑いしつつ綱は言った。
 さっきから腹の虫が鳴いていた。
「しずり姉は何か食べた?」
「まだだけど」
「じゃぁ、一緒に食べよう」
 綱は脇のバッグを引き寄せた。
 ジッパーを開き、中身を取り出す。
 おにぎりが三個と四個。後は小振りのペットボトルのお茶が二つ。
「いただきま〜す」
「いただきます」
 食事の挨拶をしつつ、二人は握り飯に口をつけた。
 綱はあっという間に一個平らげ、お茶で喉を潤した。
 しずりは二口ほど食べると、手を止めた。何か考えるような表情で。
「しずり姉。どうかした?」
「コウ。この、おにぎりを作ったのは……」
「初音姉だよ。持って行けって渡された」
「そう」
 しずりの口が止まり、両手で持つご飯をじっと見つめた。
「私の事、心配………してた?」
「聞くまでもないだろ」
 綱の返答に、表情が曇る。
「やっぱり。私がいると、みんなに迷惑…」
「馬鹿な事言うなよ」
 綱は姉の言葉を断ち切った。
「家族というのは、迷惑を掛け合うものだろうが」
 昨日、言いそびれた言葉。
「他人じゃねぇんだから、気兼ねする必要なんてないんだよっ!」
 伝えようと決めていた想いを、綱は叫んだ。
「でも……」
「心配すると言うことは、それだけ大事にされている証拠だろ? 父さんなんか昨日一晩中、しずり姉の事を探していたぞ」
「伯父様が?」
 ハッとするような表情で、しずりは顔を上げた。
「なぁ、しずり姉。ウチの家族に嫌いな奴でもいるのか?」
 綱の問いに、しずりは首を左右に振った。その数秒後、視線を落としつつ、もう一度大きく頭(かぶり)を振った。
 それを見て、綱は少しホッとした。
「しずり姉。俺と一緒に家へ帰ろう」
「家に?」
「嫌いな奴はいないんだろ。みんな、心配して待っているから」
 しずりは、何も答えず下を向いた。
 呼応するかのように、辺りが再び暗闇に包まれる。
 厚い雲が、月光を遮った。
「わたし、まだ、帰れない………」
 消え入りそうな、小さな声。
「どうして。どうしてなんだよ、しずり姉」
「綱。私には、しなけれ…ば……」
 不意に言葉を切る。
 抱えた膝から顔を離す。
 スッと、しずりは音もなく立ち上がった。
「しずり姉?」
 唖然とした顔で、綱は姉を見上げた。
 先ほどまで、小さくなり、おどおどとしていたのに、今では背筋をピンと伸ばし全身に緊張感が張りつめている。
「綱。荷物をまとめて」
 そう、手短に用件を伝えると、しずりは宙に身を躍らせた。
 今までいた空き地から、数メートル下の場所へ、フワリと羽毛のように舞い降りた。
「ちょ、ちょっと待って」
 綱は慌てて、荷物を担いだ。
 飛び降りようしてと、躊躇した。
 着地の地点が、暗くて見えない。
 だが、姉は先に進んでいる。
「どうにでもなれっ!」
 思い切って飛び降りた。
 ドスッ!
 草を踏みしめつつ何とか着地すると、綱は急いで姉を追いかけた。
「しずり姉っ!」
 十字路の真ん中で、しずりは足を止めていた。
「いったい、何が…」
 闇夜に光る瞳。
 人ではない輝きが、しずりの目に宿っていた。
 あの時と同じ殺気を、細い肢体から発しながら。
「コウ。アイツが、クる」
 低い声。
 ゾクリと綱の背中に冷たいものが走った。
「あいつ? 彼奴って、アイツかっ?!」
 昨夜の晩、襲ってきたモノ。
 二メートルの巨体。
 熊のような豪腕。
 頭に生えた、二本の角。
 綱の全身が、小刻みに震え出す。
 体が、あの時の恐怖を覚えているかのように。
 辺りが静寂に包まれた。
 虫が鳴くのを止めた。
 背負ってきた黒いバットのケースを急いで降ろす。震える指でジッパーを開け、草色の袋に入った日本刀を取り出した。
 心臓の鼓動が徐々に速くなっていく。
 しずりは耳ををすまし、辺りを警戒している。
 袋の結び目が、上手くほどけない。
 気は焦るばかりだった。
 なんとか、紐をほどき白鞘を取り出した瞬間。
 体が宙を浮いた。
 しずりが、綱の体を抱え跳躍した。
 ズンッ!
 重い、地響きが聞こえた。
 さっきの場所から、数メート先の地面を転がりつつ膝をたてる。
「フシュルルルルルゥゥゥ」
 不気味な、息を吐き出す音。
 顔を上げた綱の前方。
 暗い外灯に照らされて。
 ヤツがいた。
 人間の姿をして、人間で有るざるモノ。
 獣の力を有し、獣で有らざるモノ。
 人に忌み嫌われ、地獄で人を懲らしめるモノ。
 鬼。
 おに。
 オニ。
「グォオオオオォッ!」
 狩りの始まりを告げる雄叫び。
 ザッ!!
 しずりが跳んだ。
 体に風を纏わせつつ、攻撃を挑む。
 だが、鬼は攻撃を交わした。
 太い足で地面を蹴った。
 巨体が宙を飛ぶ。
 綱、目がけて。
「なっ!」
 身を捻り、綱は咄嗟に横へと跳ぶ。恐怖で腰が抜けなかった事を、神に感謝した。
 着地と同時に、日本刀の鞘に手をかける。
 息つく間もなく、目の前に鬼が迫った。
 次から次へと繰り出される鋭利な爪。
 必死に攻撃を避ける。
 とても刀を抜く暇がない。
 空を斬る音。
 威圧する眼光。
 死。
 死。
 死。
 綱の体を、死神がまとわりつく。
 体の自由を妨げる。
 頭の中が、思考が恐怖で、白く塗り潰されていく。
「コウ、逃げてぇっ!」
 しずりが、側撃を加えつつ、間に割って入った。
 間一髪だった。
 綱は、転げながらその場を脱した。
「早く逃げてっ!!」
 膝を立てる。
 両目が素早く、逃げ道を探す。
 あった。
 綱は、一目散に逃げ出した。
 戦場から。
 姉を置いて。
 無様に逃げ出した。
 生きる為に。
 死から逃れる為に。
 義理も約束も何もかも投げ出して。
 格好悪いこと、この上なく。
 男らしく無いこと、この上なく。
 足が、まるで意志を持つかの如く、疾走し続けた。
「キャァッ!」
 短い悲鳴。
 ハッと足を止める。
 無理矢理、両足に言うことを聞かせ、踏み留まる。
 声のする方を見た。
 しずりが、アイツに掴まっていた。
 両手首を握られ、鬼の片手に吊るし上げられていた。
 しずりの首が垂れている。
 動かない。
 ドク。
 ドク。
 心臓が破れんばかり脈を打つ。
 助けなきゃ。
 しずり姉を助けなきゃ。
 だが、両脚は杭が打ち込まれたように動かない。
 本能が、そこに行くことを拒否するかのように。
 僅か十五メートル程の距離が、遙か遠くに見えた。
 ブチ。
 何かを引き千切る音。
 しずりの白い太股が、外灯に晒された。
「まさか……」
 息を飲む。
『負けた場合、そのまま鬼に強姦され、子供を孕ませられる危険性がある』
 梓の言葉。
 綱の奥歯が軋む。
 ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ、ドクッ。
 血が熱く滾り出す。
「まさか」
 まさか。
 アイツ……。
 ビリ。
 貞操を守っていた、ショーツ。
 引きちぎられた。
 ザッ!!
 綱の足が、地面を蹴り出した。
 弓から放たれた矢のように。
 今来た道を。
 姉を汚さんとする獣へと。
 駆けだした。
 鞘から刀身を引き抜く。
 闇夜に煌めく白銀の刃。
 殺す。
 ころす。
 ブッコロスッ!
 生まれて初めて抱く、生々しい殺意。
 全身が沸騰するかのように熱い。
 恐怖など、どこかに吹き飛んでいた。
 鬼は、しずりを嬉しそうに舐め回していた。
 近寄る綱の事など、お構いなしに。
「外道ぉおおおおっ!!」
 綱の絶叫。
 鬼が振り向く。
 その額目がけて、綱は刀を大上段から振り下ろした。
 ズジャッ!
 血飛沫が飛ぶ。
 鬼の右目の上から頬にかけ、刻まれる一筋の線。
 声にならない悲鳴が上がった。
 返す刀で、今度は足を斬り上げる。
「ウガッ!!」
 鋭い爪が、横一文字に空を切る。
 綱のいない方向を。
 傷口から溢れた鮮血が、鬼の視界を塞いでいた。
 ザシュッ!
 放たれた刃が、今度は袈裟懸けに背中を切り裂く。
「グァアアッ!」
 鬼が、獲物を持つ右手を離した。
 しずりの体が、ドサリと地面に落ちる。
 ダンッ!
 巨体が空へと跳躍した。
 顔に手を当てながら、刃を逃れ、闇の中へと落ちていく。
 綱は息を吐き出しつつ、鬼の気配が消えた事を確認すると、姉の元へ走った。
「しずり姉っ!」
 肩を揺する。
 目蓋は開かない。
 耳を口もとに近づける。
 息吹が、僅かに聞こえた。
 体に外傷は?
 そう思い、体に目を向けた時、白く美しい脚と、僅かに生えた股間の茂みが目に映った。
 息が止まる。
 初めて見る、艶めかしい姉の姿。
 目を逸らした。
 とりあえず、怪我はしていないように見えた。
 綱は、しずりのズボンを探した。
 すぐにこの場を離れたかった。
 鬼は逃げたとはいえ、再び襲ってくるかもしれない。
 下着は見つけたものの、千切れていて役にたちそうにない。
 ズボンの方は、ベルトが切れていたが、まだ履けそうだった。
 綱はなるべく、姉の下腹部から目を逸らしながら、それを履かせた。
 次いで、刀の鞘を探した。
 幸い、すぐに見つかった。
 だが………。
「アレ?」
 刀身が鞘の中に上手く入らない。
 日本刀は硬いモノを斬ると、ソリが伸びる場合がある。
 有る程度まで刺し込むと、細長いバッグに入れた。
「しずり姉、しずり姉」
 再び揺すって見る物の、起きる気配はない。
 綱は舌打ちをすると、姉の体を強引に背負った。
「ぐぅ……」
 ずしりと、背中に重量がかかる。
「しずり姉って、わりかし重いんだなぁ」
 本人が起きている時には、とても言えない事を口にしつつ、綱は退却戦を開始した。
 天守閣跡から、二ノ丸、三ノ丸へと目指す。
 足下が暗い上に、長い下り階段。
 うっかり躓くと、どこまで転がっていくか判らない。
 梟の鳴き声。
 虫の音。
 風が木々を揺らす音。
 物音がする度、胃が縮み上がる。
 刀は、すぐ抜けるように用心しているものの、この状態で襲撃されたら、しずりを守りきれるかどうか自信がなかった。
 ポツ。
 冷たい。
 頭が濡れる。
 綱は嫌な予感がした。
 ポツ。
 ポツ。
 ポツ、ポツ。
 ポツツ、ポツポツ、ポツ。
 大粒の水滴が周囲に降り出した。
「マジかよ」
 運の悪さを噛みしめた。
 濡れた石の階段は、滑りやすい事この上ない。
 周囲の状況も、雨音に消され、鬼が近づいても容易に判別しづらい。
 遠くから、雷らしき音も聞こえた。
「………コウ。そこを右に曲がって」
 耳元に囁く声。
 道の分かれ目に差し掛かっていた。
「しずり姉、大丈夫か?」
「そこを、右に……」
「右?」
 綱は顔を上げた。
 左に曲がれば、街へと降りる階段。
 しかし右は、山の中腹を沿う石畳の道
 街へ行くのであらば、左に行くべきなのだが、
「判った。右だな」
 綱は姉の言葉に従った。
 天から落ちる雨粒の数が、徐々に増えていく。
 本降りまで、あと僅か。
 鬱蒼とした林の中を進み、木の根を越え、石垣を回り込んだ時、突然視界が開けた。
 大きな木造の建物。
 立派な屋根瓦。
 古びたお寺が、二人の目の前に姿を現した。
 
 
 
 滝の様な雨が、辺り一面降り注ぐ。
 その中を、傘も差さず疾走する二人の男女。
「多分のこの辺だ」
 立ち止まり、息を切らしながら辺りを見回した。
「アイツの気配を、強く感じ…」
「耕一、これ見てっ!」
 梓の声に、耕一は振り向いた。
 木の幹に飛び散る血痕。
 懐中電灯で照らし出す。
 雨で流れたとはいえ、地面にも赤いものが附着していた。
「梓。コウから、この場所にいると連絡があったんだよな」
 暗い表情で、梓は頷いた。
「ん?」
 耕一の視界に、白い物が目に入る。
 屈み、それを拾い上げた。
 女性の白いショーツ。
 引き千切られていた。
「まさか………」
 最悪の予想が、耕一の頭をよぎる。
「もう一度、コウに電話してみるよ」
 梓が防水仕様の携帯に、指を這わす。
 突然、二人の背後で電子音が鳴り出した。
 ハッと顔を見合わせ、息を飲んだ。
 恐る恐る音のする方に足を踏み出す。
 大きな木の根本に、チカチカと光る物が見えた。
 耕一は、それに手を伸ばした。
「コウの、携帯だ」
「もしかして、あの二人……」
 梓の言葉に、耕一は返事をすることが出来なかった。
 引き裂かれたショーツ。
 残された携帯電話。
 血痕。
 ドクン。
 ドクン。
 ドクン。
 ドクン。
 ドクン。
 全身が、沸き起こる怒りに脈動し出す。
 だが、耕一は頭を振り、理性により感情を抑え込んだ。
 まだだ。
 まだ、早い。
 相手の姿を見るまでは。
「梓。子供達を追うぞ。まだ、やられたと決まったわけじゃない」
「そうだね。あたし達の子は、強いんだから」
 梓の声も、震えていた。
「追うぞ。まだ遠くには、行っていない筈だ」
 再び、二人は走り出した。
 二人の子供の、無事を祈りつつ。
 
 
 
「結構、中は広いんだな」
 綱の声が、暗い本堂の中に吸い込まれる。
「灯り、つけるわよ」
 白い蛍光灯の光に、綱は一瞬視界を奪われた。
 外からは、激しく地面を叩きつける雨音が聞こえた。
 ほんの僅かな差だった。もう一分遅ければ、二人はずぶ濡れになっていただろう。
「しずり姉。良く鍵のありかを知ってたね」
「昨日、ここで泊まったから」
「どうりで」
 高い天井。
 奥には仏像。
 左右の壁にはガラス棚が有り、色々な物が陳列されている。
「しずり姉、ここの住職は?」
「一昨日から出かけたままよ。暫くは戻って来ないって」
 巻き絵や着物、刀。綱はガラス越しに展示物を眺めた。
「知り合いなんだ。住職と」
「ええ。このお寺には、古い文献が色々と有って、それを見せて欲しいってお願いしたら、親切にしてくれたの。留守の間も、好きに出入りしても良いって」
「住職は修行にでも行ったのかい」
「ツーリングだそうよ。大型のバイクに乗って出かけたわ」
「坊主がバイクねぇ」
 何となく想像しづらい。
「文献って、何か調べ物?」
「雨月山の鬼についてよ」
 しずりの言葉に、綱は顔を上げた。
「確か、次郎衛門の出てくるヤツだっけ。その昔、この辺りにいた鬼を退治した話しだろ」
「そうよ。伝説によれば、次郎衛門は鬼の娘により、自らも鬼の血を宿した」
「聞いたことがあるよ。その鬼の娘は死に、妹を娶った………」
 綱は、姉の顔を見た。
「まさかウチの家系は、次郎衛門の子孫で、鬼の血を引いているって事?」
「確証はないわ」
 確証はなくても、姉の力を目の当たりに綱にとっては、真実味のある話だった。
「じゃあ、このお寺は………」
「次郎衛門のお墓が有る所よ」
「やっぱり。子供の頃に来たきりだから、忘れていたよ」
 一通り展示物を見学し終え、綱は姉の元へと歩み寄った。
「しずり姉、体の方は大丈夫かい?」
 心配そうに眺める弟に、しずりは首を縦に振った。
「コウ」
「ん?」
「助けてくれて、ありがとう………」
「礼なんて、言うなよ」
 綱は照れくさそうに答えた。
「しずり姉だって、昨夜、俺を助けてくれただろう」
「そうだけど」
 心なしか、しずりの頬が赤い。
「ね、ねぇ、コウ」
 どもりながら、弟に問いかけた。
「何だい、しずり姉?」
「わ、わたし、下着履いていた、筈なのに………」
 その言葉に、綱の顔も熱くなる。
「お、俺見てないからなっ!」
 答えつつ、思わず顔を背けた。
「アイツが、その、しずり姉のズボンを脱がし、パンツを引き千切っただけで、俺は触っても見てもいないぞっ!」
 抗弁したところで、何もしていない証明など出来るわけがなかった。
「コウは見ていないの?」
「ああ、見ないように、ズボンを履かせた」
「見なかったの?」
「見ていないっ!」
「そう……」
 しずりは、しょんぼりとした。
「私の体、そんなに酷かった?」
「へ?」
 予想外の回答に、綱は面食らった。
「目を背けるくらい、私の体、醜かったかしら………」
「そ、そんな事ないっ!」
 思わず、綱は姉に振り返った。
「しずり姉の体はとてもきれ……い………」
 しまったという顔で、口を押さえる。
 しずりは、じと目で弟の顔を見つめた。
「やっぱり、私の体。見たんじゃない」
「ここで誘導尋問やるかぁ? 普通」
 あたふたと狼狽える綱。
 その姿を見て、しずりはクスクスと笑い出した。
「冗談よ。救って貰って、文句いう筋合いなんて、あるわけないわ」
「ひでぇ」
「ちょっと確認しておきたかっただけどよ」
「確認ねぇ」
 結局信用してねぇってことじゃん。
 後に続く言葉を、綱は呑み込んだ。
「しずり姉、これからどうする?」
 雨は当分止みそうになかった。
「アイツは追ってくると思うかい?」
「来るわ」
 しずりは即答した。
「かなり怪我をしていたぜ」
「アレくらいの傷、大したことないわ。有る程度なら、すぐに回復するから」
「そうなの?」
「そうよ」
 綱はポリポリと頭を掻いた。
「私はここで鬼を待つわ。山を下りれば、他の人を巻き込んでしまう」
 声の端が、重く暗かった。
「コウ。ここにアイツが来たら、あなたは逃げて」
 弟の顔を、じっと見つめた。
「私がここに引きつけておくから………」
「そんな事、出来るわけねぇだろっ!」
 思わず、感情的に綱は叫んだ。
「しずり姉を見捨てるなんて、俺には出来ないっ! 逃げるなら、二人で一緒にだ。そもそも、今回の件について、しずり姉には何の責任も無いだろうっ?!」
 しずりは弟の言葉に、ゆっくりと首を横に振った。
「私の、せいだから」
「え………?」
「あの鬼を覚醒させたのは、この私だから」
 悲痛な声。
「しずり姉が、覚醒させた?」
 綱は姉の言葉を、ゆっくり反芻した。
「コウ。今から一ヶ月の前の事よ。私が鬼の力を解放させたのは」
 しずりは静かに語り出した。
「私の中にある力を、試してみたくて。今日のような満月の夜に、過ちを犯したの」
「過ち……」
「でも、力に目覚めたのは、私だけじゃなかった」
「あの鬼も一緒に?」
 綱の問いに、しずりは小さく頷いた。
「力を解放させた次の日から、私は夢を見るようになったわ。鬼に心を支配されそうになる夢を」
 綱はその場で胡座をかき、姉の言葉に聞き入った。
「最初は自分の事だとばかり思い、とても怖かった。でも、一週間前の事。私はついに夢の中で、人を殺した」
 震える声。
「夜が明けたら、本当に人が死んでいた。夢と同じ状況で」
 両腕を抱き締めながら、しずりは告白し続けた。
「最初は、自分が殺したとばかり思っていた。でも、違った。私が家で寝ているのを、見ている人がいたから」
「そういえば数日前、夕飯を食べている時に、初音姉とそんな会話をしてたね」
 しずりはコクリと頷いた。
「私は、夢の内容が、どうしてこんな事になったのか知りたくて、いろんな資料を探した」
「……んで、何か判ったの」
「ほとんど有益情報は無かったわ。でも、一つだけ気になる伝承があったの」
「どんな?」
「鬼は、互いに意識を共有しあう。遠くに離れていても、お互いの存在を確認し合う事が出来るという事」
「つまり、しずり姉が鬼の力を覚醒したら、それに釣られてアイツが目覚めたのというわけか?」
「多分」
「多分ねぇ」
 綱は胡座をかいたまま、後ろにゴロンと転がった。
「でも、それはあくまでも予想だろ。証拠とかあるなら別だけどさぁ」
「コウの言うとおり、私の仮説で物証はないわ。でもね……」
「でも?」
「感じるの」
「感じるって、何を」
「あの鬼の想いを」
「想い?」
 今度はゴロンと綱は前に転がり、しずりに正対した。
「あの鬼は、私を求めている。この体を欲している。普段はそうでもないけど、鬼の力を発揮している時は、相手の心情が私の中に流入してくるの」
「それで、しずり姉を付け狙う」
 綱は再び畳の上に寝転がった。
 子を残さんと、女を犯す。そして女が鬼の血を引いていれば尚更良い。
 現に鬼は、しずりを殺さず犯そうとした。
「史上最悪のストーカーだな」
 呟きつつ、綱は嫌な気分になった。
「コウ。私はアイツの慰みものになる気なんて更々ないわ。そんな事になるくらいなら…………」
 自ら命を絶つ…………か。
 綱は、姉の考えそうな事を予想した。
「それで、しずり姉は一人で何とかしようと思ったわけか?」
「えぇ………」
 返事が重い。
 現に多数の死者が出てしまった事に、しずりは責任を感じていた。
「…………気に入らねぇ」
 綱は天上の梁を見つめながら呟いた。
「気に入らねぇな」
 苛立ちの含まれた声。
「どうして、そんな大事な事、誰にも相談しなかったんだよ」
 畳に手を付き、綱は身を起こした。
「穿った見方をすれば、俺達に頼っても、役に立たないと思っていたんだろう」
「違う、そんなんじゃない」
 弟の言葉を首を振って否定した。
「じゃぁ、どうして初音姉や俺に話さないんだよ」
「迷惑をかけたくなかったから。それに………」
 しずりは途中で言葉を止めた。胸元で拳を握ったまま。
「…………私は、いないほうがいいから」
 綱は、しずりが喉に止めた言葉を口にした。
「そう、思ったんだろ? しずり姉」
 返答はなかった。
 ただ、姉は下を俯くばかり。
「どうして、そう自分勝手なんだよっ!」
 静かな堂内に、怒声が響き渡った。
「どれだけ、周りが心配しているか、判ってんのかっ! 初音姉も母さんの父さんも梓姉も、みんな、しずり姉の事を探しているんだぞっ!」
「……………」
「初音姉なんか、しずり姉の母親の事で、ずっと自分を責め続けているんだ。この上、しずり姉が死んでみろ、首吊って自殺しちまわぁっ!」
 しずりの細い指が、顔に当てられた。
 一筋の涙が零れ落ちるのを、綱は見た。
「………まぁ、今、こんな事言ってもしょうがねぇ。起きちまった事は変えられないしな」
 ちょっと、言い過ぎたかなと、綱は後悔した。
 姉の涙が止まるのを待って、これから先の対策に話題を振った。
「なぁ、しずり姉。正直言って、アイツに勝つ自信、あるかい?」
 しずりは暫く思案した後、口を開いた。
「………判らない。あの鬼は、日に日に力を増しているから」
「マジかよ」
 膝に頬杖を付きつつ、綱は溜息を付いた。
 さっき鬼を撃退出来たのは、奇襲が成功したからにほかならない。
 正面から対峙して勝てるとは、流石に思わなかった。
 例え、姉と二人で戦ったとしても、勝算が弾き出せない。
「しずり姉。俺にも一応、鬼の血が流れているんだよな」
 小さく、しずりが頷く。
「俺の力を解放する事、出来ると思うか?」
 今度は大きく、しずりは首を横に振った。
「難しいと思うわ。もし、仮に出来たとしても、それを制御できなければ、鬼が二体に増えるだけよ」
「そういや、梓姉もそんな事、言ってたなぁ」
 後ろに手を付きつつ、綱は天井を仰ぎ見た。
「私も詳しくは判らないけど………」
「でも、アレだろ。梓姉の話しだと、俺の父さんは……」
 カバッと、綱は身を起こした。
「父さんっ?!」
 顔を見合わす二人。
「そうか、父さんを呼べば良いんだ」
「伯父様を?」
「そうだよ。梓姉や母さんも、しずり姉と同じ力を持っているのなら、力を併せれば充分アイツに対抗出来るんじゃないか?」
「多分」
「そうか、そうか。どうして簡単な事に気が付かなかったんだろう」
 綱は携帯電話の入っているポケットに手を伸ばした。
「みんなをさっさと呼んで、アイツを退治………へ?」
 ポケットの中をまさぐる。
 見つからない。
 首を傾げつつ、しずりは弟を見守った。
「ない、無いっ?! ウソだろぅ? マジかよ」
 服のあらゆるポケットに手を突っ込む。
「コウ。もしかして、落としたの?」
「……………みたい」
 二人の盛大な溜息が、お堂の中で漏れた。
「しずり姉は携帯持ってないよな」
「聞くまでもないでしょ」
「ここのお寺に、電話はないの?」
「私、電話が鳴った記憶も、見た記憶もないわ」
「じゃぁ、近くの公衆電話に…」
「最短でも、山を降りた所にある、コンビニよ」
「そこまで走る?」
「無理ね」
 しずりは、すくっと立ち上がった。
「アイツが、動きだしたから………」
 建物の入り口を見つめた。
「多分、あと十分もしないウチに、ここに来るわ。私の気配を追ってね」
「あちゃぁ〜」
 手元に転がって来た幸運が、指の間からスルリと逃げ出したように、綱は思えた。
「恐らく、今度はコウも襲う気だと思う」
「だろうな。顔を斬り付けたし」
「コウ。私がここでアイツを引きつける。その間に、コウは山を下りて伯父様達と連絡を取って」
「しずり姉。アイツに勝つ自信、ないんだろ?」
「足止めくらいなら、出来るわ」
「足止めねぇ」
 ここから、大急ぎで山を下って約五分。急いで駆け登って八分。
 十三分持つとは、とても思えない。
 しかも、耕一や梓が近くにいるという保証もない。
 かといって、しずりを一緒に連れて行く事も出来ない。
 八方塞がりだった。
「しずり姉を置いて行くなんて、俺には出来ないよ」
 綱は、弱音を吐くようにぼやいた。
「でも、他に良い手段があるの?」
「……………」
「コウは、逃げるわけじゃないわ。伯父様を呼びに行くだけよ」
「すぐに来ないかもよ」
「来るわ。アイツとは違った。大きな気配を側に感じているから」
「でも…」
「これで全てが終わるのよ。もう誰も死ななくてすむなのら、それで良いじゃない」
 しずりは弟に向け、微笑んだ。
 その笑顔が、綱はどこか悲しく見えて。
 これ以上、死者を増やさない為に、私が死ぬ。
 そう、言っているようにしか、聞こえなかった。
 死を覚悟した者に、何を言っても無駄だという事を痛感した。
「判ったよ」
 綱は、覚悟を決めた。
「しずり姉と、一緒に死んでやるよ」
「……え?」
 予期せぬ返答に、しずりは息を飲んだ。
「わたしと、いっしょに?」
「そうさ」
 綱は頷いた。
「俺、初音姉と約束したんだ。しずり姉を絶対に連れて帰るって。もし、このまま山を下りて、しずり姉が死んだら、俺はどんな顔をして、初音姉に会えばいいのさ」
 綱の問いに、しずりは沈黙した。
「それに思うんだ。もし俺が逃げて、しずり姉が死んだら、きっと生きている間、ずっと後悔し続けるだろうって。そんな人生送るくらいなら………」
 綱は、はにかむみながら笑った。
「しずり姉と、一緒に死んでやるよ。人間いつかは死ぬんだし、それに……」
 鼻の頭を掻きながら、ずっと言い出せなかった言葉を、思い切って口にした。
「俺、しずり姉の事、好きだから…………。しずり姉と一緒なら、どこに堕ちても怖かねぇや」
 風が、雨戸に吹き付けた。
 雷が、どこか遠くで鳴っていた。
 暫しの沈黙。
 しずりが、口を開いた。
「コウ。気持ちは嬉しいけど。私、まだ死ぬ気はないわよ」
「本当に?」
 しずりは大きく頷いた。
「コウ。雨月山の伝説。次郎衛門が最後にどうなったか知っている?」
 綱は素直に首を横に振った。
「次郎衛門はね、鬼の力を封印するため、自らの角を切り落としたの」
 ハッと、綱は息を飲んだ。
「思い出した。確かこの寺にその時の角が奉納されているって」
「私、特別に見せて貰ったの。その角を」
「どうだった?」
「同じだったわ。アイツの二本の角と」
「もしかして、しずり姉は、ずっとそれを狙っていたのか?」
「ええ。一度も成功しなかったけど……」
 綱は傍らに置いたケースから、日本刀を取りだした。
「次郎衛門は、自らの手で角を切ったんだよな」
「そうよ」
「じゃぁ、しずり姉がアイツを引きつけ、俺が角を狙えば………」
「上手くいくかもしれないわ」
「やってやらぁっ! 尻尾を巻いて逃げ出すよりは、よっぽどコッチの方が性に合う」
 僅かに見えた勝機に、綱は喜々とした表情を浮かべた。
 それとは対照的に、しずりの顔は沈んだままだった。
「………ん? しずり姉、まだ気になる事があるのか?」
 綱は刀を床に起きつつ、しずりの顔を覗き込んだ。
「結局。コウを危険な事に、巻き込んじゃったから」
「気にするなよ。月を見ながら言っただろう、迷惑を掛け合うのが家族だって」
「そうだったわね」
 しずりは微笑みながら、綱の顔を見た。
「コウ。もしも、これが上手くいったらだけど。私にして欲しい事があったら何でも言って。出来るだけ叶えてあげるから」
「して欲しい事ねぇ」
「何でも良いわよ」
「ん〜。特には、今のところ…」
 無い、と言いかけて、綱は一つだけ思いついた。
「何でも良いの?」
「私に出来る事ならね」
「じゃぁ、しずり姉のキスでも、貰お…」
 言葉が、遮られた。
 しずりの唇によって。
 綱の両頬は白い指に包み込まれて。
 唇が重なりあった。
 口を吸われた。
 生まれて初めての感触に、頭の中が真っ白になった。
 チュプッ。
 名残惜しそうに、離れる二人の唇。
「これで、いい?」
 しずりの頬が、桜色に紅潮した。
 ガバッ。
「きゃっ!」
 綱は姉の体を抱きしめた。
 ふわりと柔らかくて。
 心地良い匂いがした。
「生きてやる。アイツに勝って、何が何でも生き延びてやるっ! こんな楽しい人生、そう簡単にくたばってたまるかっ!」
 綱は高らかに宣言した。
 とても、嬉しそうに。
 
 
 
 木の雨戸に鋭い爪が伸びる。
 水を滴らせながら、一体の鬼が寺の中へと侵入した。
 灯りのついた本堂。
 注意深く足を踏み入れた。
「私はここよ」
 凛とした声。
 鬼が声のする方を見た。
「逃げも隠れもしないわ」
 全身から放つ妖気を放っていた。
 鬼が攻撃を仕掛ける。
 同時に、しずりも動いた。
 木造の建物が、軋みを上げる。
 綱は影に隠れ、息を潜めていた。
 抜き身の刀を持ち、氣を静めながら。
 目を閉じ、耳を澄ませ、飛び込む間合いを計っていた。
 空気の斬り裂かれる音。
 鬼の雄叫び。
 目を開かずとも、手に取るように判る。
 無心。
 剣道の師の言葉。今になってその意味を知った。
 鬼はまだ、辺りを警戒している。
 それが、消えるまで。
 しずりに攻撃を専念するまで。
 じっと待つ。
「グゥオオオオォッ!」
 鬼が呻き声を上げる。
 しずりの攻撃が、傷を負わせたらしい。
 憤る鬼。
 足音が加速した。
 今だ。
 綱は、物陰から飛び出した。
 低く、静かに畳の上を滑るように走る。
 鬼は、しずりの方を向いている。
 完全な奇襲となった。
 ダンッ!
 畳を蹴り、宙に舞う。
 刀を力を込めて振り下ろした。
 ガッ!!
 刀身が、鬼の角に食い込む。
 だが……。
「グォオオオオッ!」
 鬼が綱の体を認めた。
 豪腕が襲いかかる。
 すんでの所で、綱はそれを避けた。
 それと同時に、しずりの攻撃が鬼に繰り出される。
 血飛沫が、上がった。
「ちっ!」
 綱は舌打ちをした。
 まだ、角は折れていない。
 むしろ、刀の歯が欠けたように思えた。
 再び、しずりが激しく攻撃を仕掛ける。
 それを避ける鬼。
 隙が出た。
 今一度、綱は躍りかかった。
 刀が空気を切り裂く。
 ガキッ!
 宙に、小さな物が飛んだ。
「ウガァアアアアアアアアッ」
 悶える鬼。
「やったかっ?!」
「まだよっ!」
 鬼は再び二人に襲いかかった。
「二本やらないと駄目かっ!」
 必死に攻撃を避けた。
 だが、その速度は、明らかに低下していた。
 しずりと綱が、お互いの顔を見合わせ、目で合図を送る。
 まず、しずりが攻撃を仕掛ける。それも足を重点的に狙い、相手の機動力を削いでいく。
 そして、鬼の死角を付き、綱が角へと斬りかかった。
 どうやら、城跡で斬りつけた左目が完治していないらしい。
 遠慮無く、左後方から接近した。
 ガカッ!
 残った右角に、刀が切れ込みを入れていく。
 その度、鬼の力が弱まっていく。
 後少し。
 しずりが大胆にも鬼の正面に立った。
 突撃する鬼。
 ひらりと、しずりが避けた後ろには、太い木の柱が立っていた。
 大きな激突音。
 柱が軋みを上げ、建物全体が揺れた。
 鬼の動きが止まった。
「もらった!」
 綱は、振り上げた刀を力一杯振り下ろした。
 勝利を確信しながら。
 カキンッ!
 さっきと同じように、細長い物が放物線を描いて飛んだ。
「あ……」
 綱の目が点になる。
 刀が、短くなっていた。
 鬼の角は残ったまま。
 折れて飛んだのは、綱の刀の方だった。
「コウッ!」
 姉の声に、綱はハッとした。
 鬼の丸太のような足が、綱に向けて振り回された。
 避けきれないっ!
 綱は咄嗟に刃を鬼に向け、刀の峰に左手を添えた。
 ドッ!
 衝撃が綱を襲う。
 日本刀の刃が、鬼の向こう臑に埋まる。
 だが、その運動量を受け止める事は出来ず、綱の体が後方に飛ばされた。
 ガシャーンッ!
 ガラスの砕ける音。
 後頭部から背中を、したたかに打ち付けた。
 意識が、ふっと遠のく。
 必死に繋ぎ止めた。
「コウッ!」
 しずりの呼ぶ声が聞こえた。
 首筋に温かい物が伝い落ちる。
 続いて頬にも。
 それが体から流れ出た血液である事を、綱は直感的に悟った。
 綱は、展示物の飾ってあるガラスケースの中で、尻餅を付くような格好で座っていた。
 早く、立ち上がらなければ。
 綱は焦った。
 今、こうしている間、しずりが鬼の攻撃を一人で引き受けている。
 起き上がる為、左手をつく場所に目を向けた時、ある物が綱の視界に入った。
 一振りの日本刀。
 綱の持って来た刀は、折れてしまった。
 どうする?
 使うか?
 綱は戸惑った。
 ドガッ!
 壁に激突する音と共に、短い悲鳴が綱の耳に届いた。
 迷う暇はない。
 綱は展示物である刀を持ち、立ち上がった。あちこちが多少痛いものの、幸い大きな怪我はなかった。
「しずり姉っ!」
 玄関近くの壁に、姉がうずくまっていた。その左足、膝から先が、本来なら向かない方向に曲がっていた。手で膝を押さえ、苦痛に顔が歪んでいた。
「しずりねぇっ!!」
「私に構わないでっ!」
 涙を落としつつ、しずりは叫んだ。
「私よりも、アイツをっ!!」
 鬼が、綱の方を向いた。
 しずりが最早、攻撃力の無いことを確信して。
 事態が最悪な方向へと転がりつつある事を、綱は認めざるを得なかった。
 姉は暫く戦えないだろう。
 鬼も、重なる攻撃を受け弱ってはいるものの、人の手には余る攻撃力を残している。
 ここで負ければ、死あるのみ。
 綱は覚悟を決め、拝借した刀の鞘に手を掛けた。
「え?」
 鞘から刀身が引き出せない。
 力を込める。
 やはり、抜けない。
 ヤバ……。
 自分の置かれた状況の悪さに、綱は青くなった。
「コウッ!」
 姉の声。
 跳躍し、迫り来る鬼。
「おわっ!」
 すんでの差で交わした。
 だが、二撃目は来なかった。
「グゥルルルル……」
 鬼が、肩で息をしている。片方の足を引きずりながら。
 足を狙った作戦が、漸く効を奏しはじめた。
 相手に注意を払いつつ、刀に目を向けた。
 御札。
 墨で文字の書かれた紙の札が、封印の如く二枚貼られていた。
 綱は息を飲んだ。
 御札が貼られ、寺に祀られる日本刀。
 祟る。呪われる。その手の曰く付きの物である事に違いなかった。
「ウゴォッ!!」
 再び、鬼が攻撃を仕掛ける。
 交わす綱。
 畳みの上を転がると同時に、御札を破り棄てた。
 起きるかどうか判らぬ災いよりも、今を生き抜くことが先決だった。勝てさえすれば、悪魔だろうが悪霊だろうが味方にしたかった。
 鬼は、相手を逃げられぬ壁へと追い立てた。
 綱も、その意図には気づいていたが、どうする事も出来なかった。
 刀が抜けない事を悟られぬよう、居合いの構えを取った。
 もう、後ろはない。
 鬼が間合いを詰める。
 綱は刀身を全力で抜きにかかった。
 祈るような気持ちで、力を貸して欲しいと刀に頼みつつ。
 ダッ!
 巨体が跳んだ。
 僅かに、ゆるむ鯉口。
 襲い来る鋭い爪。
 気合い共に、綱は刀身を滑らせた。
 ズバァアアアアッ!!
 鮮血が跳んだ。
「コウッ!!」
 しずりの叫びが、お寺の本堂に響き渡った。
 折れた左足の激痛をおし、しずりは上半身を起こした。事態の成り行きを見極める為に。
 動かない人と、鬼。
「グゥガアアアアアッ!」
 鬼が、狂ったように叫んだ。
 闇雲に、綱に向かって爪を振り回す。
 円を描き、煌めく刃。
 シュバッ!
 肉を切り裂き、骨を断った。
 まるで紙に鋏を入れるが如く、鬼の体が切り刻まれてゆく。
 恐るべき切れ味。
 切っ先が肉にめり込む度、赤い血が刀身を濡らす度、その威力は増していった。
 綱は身震いした。
 その刀は、家から持ってきた物より長いにもかかわらず、とても軽く感じた。刀身の重量が絶妙なバランスで、まるで自分の腕の延長のように操る事が出来た。
 一降りする事に、手元が確かになり。
 一降りする事に、精神が研ぎ澄まされていく。
 まるで、刀が戦い方を教えてくれるが如く、太刀筋が明確に見えるようで。
 鬼が繰り出す攻撃も、まるで止まっているかの如く見え、伸びきった手足をついて、容赦なく攻撃を浴びせかけた。
『斬れ』
『切れ』
『人に仇為すモノを滅せよ』
『鬼を斬り刻め』
 封印を解かれた刀が、歓喜の声を上げていた。
「ウォオオオオッ」
 鬼が、後方へと跳んだ。
 綱との距離が開いた。
 畳みを蹴り、侵入した玄関へと駆けだした。
 全身を切り刻まれ、命からがら鬼は逃げ出した。
 追う綱。
 だが、すでに鬼の体は部屋の出口へと差しか掛かっていた。
 ダンッ!!
 壁を蹴る音。
 しずりが低空を這うように飛んだ。
 残った右足で壁を蹴り、逃亡を阻止せんと攻撃をしかけた。
 鎌鼬のような鋭い刃が、僅かに鬼の脚部を捕らえた。
 ズパンッ!
 腱に入る切れ目。
 鬼の足がもつれ、板の間に転倒した。
 綱が、飛び込んだ。
 刀を振り上げた。
『殺せ』
『首を斬れ』
『首を跳ねろ』
 刀が騒ぎ出す。
 このまま振り下ろせば、鬼の首が跳ぶような気がした。
 これで終わりだっ!
 綱は、渾身の力を込めて刀を振り下ろした。
 ガキンッ!
 最後の、角が飛んだ。
「ウゴァゥアグアァアアガハァァァ……」
 激しく悶える鬼。
 事の成り行きを見守る二人。
「ウガァォオォォ……ァァ」
 鬼の体が崩れだした。
 皮膚が、筋肉が、ボロボロと砕けていく。
「…ゥ…ォ………」
 天に差し出す腕。鋭利な爪が剥がれ、赤黒い皮膚の中から、ピンク色の人肌が姿を現した。
 数分後。
 二人が目にしたのは、背の低い全裸の男だった。
 大人ではなく、顔にどこか幼さを残していた。
 その横顔に、綱は見覚えがあった。
「ひよし?」
 同級生の名前を、綱は口にした。
「日吉、おい、まさか、お前」
 体に手を触れる。
 温かい。
 胸が僅かに揺れ、微かな呼吸音が聞こえた。
「コウの、知り合い?」
 姉の問いに、首を振って答えた。
「俺と同じクラス……」
 不意に喋るのを止め、綱は耳を澄ました。
 遠くから、近づく足音。
 お寺に向かって真っ直ぐ走って来た。
「こっちだっ! 間違いない」
 聞き覚えのある男の声。
 二人の男女が、けたたましく寺の中へと駆け込んだ。
「二人とも無事かっ?!」
「コウッ!」
 父親の耕一と、叔母の梓だった。
「遅ぇよ、今頃っ!!」
 綱は思わず、怒鳴り返してしまった。
 
 
 
「それじゃぁ、この子が鬼の正体だったの?」
 お寺の畳みに寝かされた日吉を見ながら、初音は訪ねた。
「多分、そうでしょう。たまたま鬼の血の流れる者同士が結婚し、偶然に血の濃い子が生まれたんだと思うわ」
 後から駆けつけてきた千鶴が解説を加えた。
「コウ。コイツの名前、日吉っていうのか?」
「そうだけど。梓姉、知り合いでもいるのか?」
「………いや、多分、別人だと思う。あの子は今、東京にいる筈だし」
 梓は苦笑いを浮かべた。
「しかし、アレだね。鬼の角を削って力を沈めるなんて、しずりは良く考えついたね」
「そうね。わたしだって、全然思いつかなかった」
 梓の言葉に初音が同調した。
「違うんです」
 しずりはフルフルと首を横に振った。
「私が、考えついたわけじゃありません」
「じゃぁ、誰の考えなの?」
 千鶴の問いに、しずりは俯きながら、
「………母が、私の小さい時に、話してくれたんです」
 静かに答えた。
「母って、楓お姉ちゃんが?」
「はい。幼少の頃。枕元で雨月山の話をしてくれた時に、言っていました。私自身、一昨日に母の夢を見るまで忘れていましたが」
 しずりの言葉に、皆、思い思いの視線を飛ばした。
「そうか。楓がそんな事を……」
 そう言うと、梓は側にいた綱の首に腕をまわし、ヘッドロックをかけた。
「良かったな、コウ。これでお前の鬼が暴れても、何も心配する事ないよ」
「痛ぇって、梓姉ぇっ!」
 暴れる綱。
「あんたの血は薄いから、多分大丈夫だとは思っていたけど。…………良かった。本当に、良かった」
 梓の目に涙が浮かんでいた。
「しずり。足は、もう大丈夫かしら?」
 千鶴は自らの鬼の力を解放し、姪の膝を治癒した。
「歩けるとは思うけど、まだ痛みが残ると思うわ。しばらく無理しちゃだめよ」
「………あの、千鶴伯母様」
「どうかした?」
「この、お寺の事ですが………」
 しずりは済まなさそうな顔で、破壊してしまった、お寺の本堂を見やった。
「大丈夫よ。ここの住職とは、私、知り合いだから。あなたは何も気にしなくても良いの」
「お手数、おかけします」
「しずりは何も悪くないわ」
 優しく姪を労ると、その頭を千鶴はそっと撫でた。
「あなた。その日吉君は、とりあえず家に連れて帰りましょう」
「そうだな」
 耕一は日吉の体を抱き上げた。
 数分後、全員揃ってお寺の外へ。
 いつの間にか雨は止み、白い大きな月が姿を現していた。
「綺麗な月ね」
 初音が感嘆の声を上げる。
「本当だ」
 綱がそれに続いた。
「………………しずり姉?」
 綱が振り向くと、一人ぽつりと建物の前に佇んでいた。
「しずりちゃん、どうしたの? 足が痛むの?」
 初音もそれに気がついた。
 皆の足が止まった。
 しずりは、しばし無言で俯いた後、ゆっくりと顔を上げた。
「耕一伯父様。二人だけで話したい事があるのですが、よろしいでしょうか」
 決意に満ちた声だった。
「判った」
 耕一は即答した。
 それを見て、千鶴は安堵の息を漏らした。
「あなた。その子は、私が連れて帰るわ」
 耕一が抱えた日吉の体を、千鶴は受け取った。
「私が居ると、話し辛い事もあるでしょ」
 そう言うや否や、背中に少年を背負ったまま、人外の力で天高く跳び上がった。
「うわ………」
 その飛距離に、あっという間に遠くへと飛び去った母に、綱は思わず声を上げた。
「梓姉。もしかして、母さんも結構強いのか?」
「なんだ、コウ。戦ってみたいのか?」
「いや、辞めとく」
 うんざりとした顔で、綱は答えた。
 
 
 
 虫が、甲高く鳴いていた。
 秋風に、草花が揺れていた。
 空には、白くて大きな月。
 そして、無言で立つ一人の少女。
 俺を見据えて、動かぬ二つの瞳。
 まるで、いつも見る夢のようだと耕一は思った。
 だが、違う。
 声を出せば答えてくれる。
 近づくことも出来る。
 なぜなら、これは現実なのだから。
「話したい事って、なんだい?」
 最初に切り出したのは、耕一だった。
 話す内容は予め予想がついている。しかし、糸口を掴まなければ、いつまでもここに立ち尽くすばかりだった。
 しずりは、視線をゆっくりと上げた。
 母親譲りの、深く透明な瞳。
 嗚呼。
 耕一はまるで、楓と対峙しているような錯覚を受けた。
「私は、伯父様と母の間に、何があったのか知りません」
 静かに囁くような声だった。
「何があったのか、知りたいとも思いません。きっと、母には、母なりの考えがあったのしょうし」
 閉じられる唇。
 二人の間を吹き抜ける風。
 沈黙が訪れた。
 耕一は、しずりの言葉を静かに待った。
 トク。
 トクリ。
 速まる鼓動を感じつつ、しずりは意を決した。
「伯父様、一つだけ。私のお願いを、一つだけ聞いていただけないしょうか?」
 緊張で、張り裂けそうになる、しずりの胸。
 耕一の首が、ゆっくりと縦に振られた。
「俺に、出来る事ならば」
 薄い月光に照らされながら、しずりは想いを口にした。
「お父さんと、呼んでも良いですか?」
 ずっと、言えなかった言葉。
 十年間、ずっと胸に秘めていた言葉を、しずりは伝えた。
「いいよ」
 短く。
 その返事は、とても簡単だった。
「お父さん」
 ずっと、夢見てきた言葉。
「お父さん」
 生まれて初めて使う言葉。
「お父さん」
 しずりは噛み締めるように、繰り返し口にした。
「お父さんっ!」
 耕一の足が、前へと踏み出される。
 両手を広げながら。
 その、父親の胸元へと、娘は飛び込んでいった。
「お父さん、お父さん、お父さん、お父さん、おとうさぁんっ!!」
 抱きしめた。
 泣いた。
 ずっと離れていた距離を縮めるように。
 涙を流しながら、二人は強く抱擁しあった。
 これで、いいんだよね。楓ちゃん…………。
 夜空に浮かんだ月を見上げつつ、耕一は胸の中で呟いた。
 
 
 
「えぇ〜っ! しずり姉は、父さん子供だって〜?!」
 石畳みの続く帰り道。綱は絶叫した。
「コウ。もしかして、本当に気づいてなかったの?」
「ウソだろ? ウソだと言ってくれよ梓姉ぇっ!」
「コウちゃん。それは本当の事なのよ」
 初音が、ショックを受ける綱に追い打ちをかける。
「そんな……そんな、そんなのねぇよ〜」
 へなへなと力なく、綱はその場にへたり込んだ。
「どうした、コウ。そんなに落ち込んで」
 あまりの虚脱ぶりに、梓が心配そうに声をかけた。
「しずりが父さんの子だと言うことは、従姉妹じゃなくて、実の兄弟ってことじゃねぇかよ」
「あ、いや、その………」
「俺。本気で、しずり姉の事が好きだったのにぃ………」
 盛大な溜息が、綱の口から漏れた。
 その姿を見て、初音は肘で、姉の梓を小突いた。
 何かを促すように。
 梓は、頬をポリポリと掻きながら、どろどろと今にも溶け出しそうな綱の前に立った。
「付き合えよ、コウ。おまえ、しずりの事、好きなんだろ」
「はぁ? しずりは父さんの子だろ?」
 呆れたように顔を上げる綱。
「良いんだよ。しずりは耕一の子供だけど、お前とは血が繋がっていないから」
「んなわけないだろうが。どう考えたって、血の繋がった実の兄弟だろがぁっ!」
 憤るように、綱は立ち上がった。
「わかんねぇガキだなぁ」
「わかんねぇ事を言うのは、梓姉のほうだろうがっ!」
「それじゃ、耳の穴をかっぽじって、よぉく聞きやがれっ!!」
 梓をは、ガシッと綱の両肩を掴んだ。
「てめぇは、耕一と千鶴の子じゃ、ねぇんだよっ!」
「何ふざけたこと、言って………え………ぇええええええええっ?!」
 今度は、石のように綱は固まった。
「ウソ……だよな」
 それも本当と、初音が首を横に振った。
「コウ。私が十三年前、新婚旅行で事故に遭ったのは話たよな」
「あ、あぁ」
「おかしいとは思わない? あたしが結婚したのは十四年前なんだよ。普通、一年後に新婚旅行なんて行くかい」
「どういう…事?」
「アイツと結婚式を挙げた時、あたしのお腹には、妊娠六ヶ月の子供がいたのさ」
「へっ?!」
「子供が産まれ、九ケ月ほど経った時の事、ある国で事件があってね。どうしてもアイツは行かなきゃいけなくなって、でも、あたしの代わりの通訳が手配出来なくてさ。仕方なく、あたしは子供を千鶴と耕一に預け、新婚旅行も兼ねて出かけたら………あの爆弾騒ぎさ」
 梓はその時に出来た、頬の古傷を撫でた。
「アイツが死に、あたしは重傷を負った。それも歩けないほどの。失意のドン底に落ち、子供を育てる自信が無くし、あたしは自分の子を姉夫婦に託した」
「それが、俺?」
「コウ。お前、自分の名前の由来を知ってるか?」
 綱は首を横に振った。
「お前の本当の名前は、渡辺綱(わたなべ こう)だ。あたしも詳しくは知らないけど、アイツは由緒ある武士の家系らしくてね。その先祖にあやかり、アイツがその名前を付けたんだよ」
「俺の、本当の、父さん……」
「だから、しずりとお前の血が繋がっていないというのは……そういう事なのさ」
「そ、そんなぁ〜」
 ふにゃふにゃと、再び綱は崩れ落ちた。
「本当は、あんたが大人になってからと思っていたんだけどね」
「それ、洒落になってねぇよ〜」
「まぁ、ずっと隠していたのは謝るよ」
 地面へ這いつくばるように沈む綱。
「だって、それが本当なら………俺、すげぇ頭が悪いって事じゃんっ!!」
「……ふへっ?」
「確か、俺の本当の父さんは、大学入るのに三浪したんだろう? 梓姉だって成績悪くて、スポーツ推薦で大学に入ったって聞いたぞ。絶対、俺の頭が良いわけねぇじゃんっ!」
「コウ……」
 梓の眉がピクリと震えた。
「俺、一生懸命勉強して弁護士になろうと思っていたのに、100パーセント無理じゃん。俺の人生設計、どうなるんだよっ?!」
「コウ、貴様ぁ〜」
 梓の手が動く。
 電光石火の早業で、綱の体にコブラツイストを極めた。
「実の父に向かい、母に向かい、頭が悪いだとぉ〜? 天国に居る父さんに今すぐ謝れっ!」
「うるせぇっ! てめぇが母親なんて、ぜってぇーに認めねぇっ!」
「今度は、母を愚弄する気かぁっ!」
 ギリギリと綱の体が軋み出す。
「痛っ、イテッ、ま、まじでコレ痛いって、梓姉ぇっ!」
「じゃぁ、今すぐ『ごめんなさいお母様』と言えっ!」
「誰がそんな……イタッ! 痛、いあっ、は、初音姉ぇっ! 見てないで助けてよぉ〜」
 ジタバタと暴れる二人。初音は可笑しくて吹き出した。
「あはははっ」
 お腹を抱えて笑った。
「あはっ、あははははっ」
 両目から、大粒の涙が溢れた。
「あははははっ、あははっ、あはっ、あははははははっ!」
 頬をグショグショに濡らしながら、いつまでも楽しそうに初音は笑い続けた。
 いつまでも…………。


〈終わり〉



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