『小唄』が楽しい理由って?



え〜、実はうちの親父、小唄が大好きでして、よく家で練習してます。
(上手って話です、たしかどっかの流派の跡継ぎになるって話もあったそうですから)
自分もかなり幼いときから聴いているんですが、さっぱり分かりません。

妙ちきりんな楽しさ『テクノポップ』から始まって
快適な『フュージョン』
名曲多し『ゲーム音楽』
壮大な『映画音楽』
素晴らしく感覚的な『ジャーマンプログレ』
人の声なのかコレが!?の『ホーミー』とか
果ては、聴けばイヤなことが一瞬で吹っ飛んでいく怒濤の『ポンチャック』(笑)とか
日常からかなりレアな音楽ばかり聴きまくってる自分にとっても謎でした、小唄は。
ようするに「何処が面白いのコレ?」です。

和音はなさげ(3和音はほぼ無いです)、
おなじようなフレーズ、
唄は間延びで聞き取りづらい、
モチーフは現代とかけ離れていてピンとこない、等々
自分の考える音楽の楽しさとしては理解不能なんですよ、小唄って。



ある日、親父に何処が面白いのか訊いてみました、
そしたら「この楽しさが分からないとは…コドモだね」(意訳)
なあんて、言われましてねえ……

……だから、どう面白いのか説明しろというっとるんじゃあ!
「見とれよお! 小唄というものに触れないで、核心を読みとっちゃるわい!」
というわけで、ムキになって考えて見たんですよ(爆)

で、早々に仮説が出来ました。 <早いな、おい
(まあ、この仮説の誕生までの経過は割愛します。あまりに関連性の無いところから
 生まれたアイディアだったもんで、自分でも上手く説明出来ないし……)



その仮説:
小唄における三味線のフレーズは言語的な約束事に縛られているのではないか?
フレーズ一つ一つが情景描写の約束事なのではないかということです。
つまり、あのありがちフレーズ一つ一つがたとえば「雪がちらちら降ってきた」とか
このフレーズは「祭囃子」とか、勝手に定義したものの集合体なのでは?ってことです。

そうすると、この三味線のフレーズは風景描写や心理描写などを
言語以外の方法で厳密に伝えることができます。

唄で語られてる意外にメロディーが的確に描写を担っている……
(もちろんそれが可能なのは厳密で融通のきかない定義がなされているからなんですが)

最初は何もない舞台に
三味線がフレーズを奏でる度、大道具や小道具等々が舞台に現れ、
そこに唄(登場人物)が絡んで物語が進行する。
そんなイメージでしょうか?

なるほど、たった一人で、舞台をつくって芝居を表現出来るってことか!
おお、これは面白そうだ!

……でも、問題も……
楽しむ為には、膨大な定義を覚えて、
フレーズが出た瞬間にその定義された情景を
思い浮かべなくてはなりません。
その訓練はかなり面倒なような気がします。

おまけに定義を知らない人間から見ると(いや、『聴くと』が正しいか)
さっぱり訳が分かりません。(当たり前だよ!!)

音楽のフレーズを言語としてとらえるのもなんといいますか……
まあ、考えてみると『抑制』(ルールの縛り)が美につながる日本らしい芸術なんですけど、
自分的には……自由表現を奪う芸術はどうも苦手です。



で、まあ親父にある日、訊いてみたのですよ、こういう解釈で良いのかって
そしたら……

絶句してました(大爆笑)

ん〜、図星だったみたい(にやり)
でもちゃんと言葉で説明しなくちゃ駄目だよ〜

どうしたものか、案外簡単に言葉で説明出来るものを、
言葉にする努力をしないで体で理解れってのが多すぎます、この日本。
専門用語ばっか喋ってる専門家が、理解出来ない一般人無視してる見たいでイヤです。
食べ物じゃないんだから、すぐ理解るってわけでもないしね。

その前に言葉に(勿論分かり易い言葉で!)する努力をしないと、若者から見捨てられちゃうよん♪
説明も無しに頭ごなしに強要するの嫌う人多いんですからねえ。
(特に自分、『理由』がないものを強要されるのが大嫌いですんで、
 環境や状況でたやすく変わる『掟』より絶対不動の『意味』ですね、やっぱり)


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