横浜・散歩(その9)
7月16日、横浜港シンボルタワ−は昭和61年7月に横浜港に出入りする船の信号所と市民の展望施設を兼ねて完成しました。世界一周で横浜に寄港
し、シンボルタワ−まえを最終寄港地の神戸に向かう飛鳥の勇姿を見学しようと待ったが
、7号台風の影響で大桟橋に接岸が遅れ、出航時間も遅れ、残念ながら見ることが出来ませんでした。
48.19mのタワ−に登れば房総半島も三浦半島も遠くに富士山も望むことができます、横浜港に出船、入り船が目の前を通過して、港湾作業も手に取るように見え社会科の勉強になり、芝生もあり、家族で
遊べる素晴らし
い施設です。
交通=市バスは26系統(横浜駅東口・桜木町・海づり桟橋)横浜港シンボルタワ−行き
自家用車(本牧D埠頭の先端駐車場あり) 開場時間有り注意(7/21〜8/31間は9:30〜20:00)
神奈川宿は
お江戸日本橋より・品川・川崎・神奈川と3番目で海に面して旅籠が並ぶ長細い宿場で近くに袖ヶ浦と言う名所があり風光明媚のところで通行の人のみならず、物見遊山の人が沢山集まったようでした。
下図の神奈川宿を通過する旧 東海道は現在のJR横浜駅北側の崖の途中を通り、次の宿場、程が谷(保土ヶ谷)を経由して京都えと続きます。
神奈川県の名前はここから取られたようです。(横浜市の中には東海道五十三次の内の神奈川・程が谷(保土ヶ谷)・戸塚と3宿が有りました)
神奈川宿=京浜急行神奈川新町(下車)オランダ領事館跡よりJR横浜駅正面の北側旧東海道に架かる上台橋までが神奈川宿であった
下の写真の黒い線のあたりが神奈川宿の中心で滝野川を挟み本陣が二軒あり賑わった宿場であった。
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東海道「神奈川宿」 手前の船の付近が 現在のJR横浜駅 (MM21地区は海の中) |
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たどり行くほどに金川(神奈川)の台に・・・・ (弥次郎兵衛、喜多八の東海道中膝栗毛) |
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海岸の景色の良い 見晴らし所でした (上の絵の坂の途中 ここからは今は何も見 えませんビルだけです) |
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神奈川宿の「桜や」の茶店 「ジオラマ」 (上の絵の中にある家 東海道中膝栗毛の弥次喜多が休んだ御茶屋) |
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安政時代の東海道 神奈川台の風景 |
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浮世絵の手前の神奈川宿左は し た (神奈川宿は江戸時代は旅籠も多く茶店も多く賑わい風光明媚の場所でした。(総家数1341軒) 当初開港場所をこの神奈川湊に要求されたが江戸幕府は少しでも遠いところをと考え現在地より遠い濱にしました。その後「横の濱→横濱」と呼ばれました。) |
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湊の 記念碑 |
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浮世絵の手前、神奈川湊より開港場所 への渡し船が出ていました。 今は須崎神社の正面にありました神奈川湊は街の真ん中 になりました、わずかにスロ−プが感じられます。 全面に見えるビルの手前は国道15号かっての国道1号 (U字形の入り海があり一番狭い所に渡し船がありました) |
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御開港横浜之全図 (一部) 万延元年(1860年)初編で本絵図は慶応元年(1865年)夏以降翌2年10月大火以前の再刻刊と推測されている。 |
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浦賀絵図 1856年(嘉永6年)アメリカ合衆国のペリ−提督が軍艦4隻を引き連れ浦賀沖に来航開国を迫った当時の東京湾海防絵図 (左の2枚の絵図は横浜市歴史博物館収蔵) |
旧三菱造船の跡地を中心に再開発地域を作成MM21地区としました
。MM21地区は明治14年(1881)内務省地理局測量課編の地図によると海の中でした、安政6年(1859)
5月横浜開港直前の様子を示す「神奈川御開港横浜絵図」によると現在のJR横浜駅の付近はU字型の入り江になって
おり海の中でした、そのあと埋め立てがあり新橋〜横浜間の鉄道が敷かれ
現在のJR桜木町近くに横濱駅が出来ました。
埋め立てて区切られた入り江の海を内海と言い、昔の人より、沢山「あさり」が取れた話を聞いたことがあります。
新しい交通=平成16年2月に「みなとみらい21線」地下鉄が開業します。東急電鉄が乗り入れします。
(従来の横浜→高島町→ 桜木町間が16年1月30日終電で営業終了の予定)
横浜→新高島→みなとみらい→馬車通→日本大通→元町中華街(その間8分)