飼い主イタリア留学記−前半−

−2008年10月29日〜2008年11月7日までの記録−


前半へ 週末旅行 後半へ

ローマに到着

これからフィレンツェへ

10月29日(水)〜30日(木)
アリタリア航空で無事に関空からローマに到着しました。ローマの空港内にあるホテルヒルトンに一泊して翌朝、国内線でフィレンツェに向かいます。
ローマのアリタリアのカンウンターでのこと、私の荷物の重量が重すぎると言われ、追加料金を請求されました。関空からローマまでの国際線では大丈夫だったのに、何で?過去の海外旅行でも、23sの重さで追徴金は取られたことがありません。しかし今更トランクを開けて中の物を出して手荷物にするのも面倒なので料金を払うことにしました。聞けば、30ユーロとのこと。日本円で約4000円、ちょっと高いと思ったけれど、仕方ない。で、どこで払うのかと聞けば、早口でまくし立てられ聞き取れません。「レンタメンテ」(ゆっくり言って下さい)と言って、やっと分かったのがカウンターの裏側にある支払場所、そこで領収書をもらって、もう一度ここに来い、ということでした。
支払い証明書をもらって、再度チェックインカウンターに行くと、先ほどの担当の女性がなんと泣いているではありませんか。ん?私のせい?私の荷物が重すぎたから?んなことはあるはずはないと思いながら待っていると、その女性は上司と思われる男性に抱えられ更に泣きじゃくっている…あらーっなんか映画のワンシーンみたいと感心して見ている私なのでした。
すると、その女性はバッグから取り出した華やかなピンク色のハンカチで鼻をチーンっとかむと突然席を立って帰ってしまいました。私はただただ呆然。他のカウンターはもういっぱいで行列も出来ているしこれから最後尾に並ぶなんて考えただけでもめまいがします。どうしたものかと立ち尽くしているとやっと上司らしい男性が手続きをしてくれ、搭乗することができたのでした。
アリタリア航空はショーペロと言って、よく組合のストがあります。それなりに言い分はあるのでしょうが、上記のことは客のことを全く考えない職場放棄です。あーやっぱりなぁ〜、知人たちがイタリアに行く時、ローマまで直行便なのにアリタリアを使わない理由がちょっと分かりました。でもでも、時間通りに飛び立ったし、これでやっとフィレンツェに行けるのです。件(くだん)の女性は何があんなに悲しかったのかしら、どなたかのご不幸?それとも失恋かしらん、お気の毒に〜などと暢気なことを考えながらいた私…これから起こる身の不運も知らずに…。



フィレンツェ到着〜☆

10月30日(木)
さて、ローマの空港はあの芸術家の名前にちなんでレオナルド・ダ・ビンチ空港と名付けられています。アリタリア航空の本拠地でイタリア最大の空港のひとつです。何度も繰り返し拡張工事がなされた為に空港内は複雑で分かりにくいです。国際線は「ターミナルC」と「ターミナルB」、国内線は「ターミナルA」に分かれていて中2階の連絡通路からでないと各ターミナルへはスムースに移動出来ません。
私も「ターミナルC」に到着後、うっかり1階の出口を外に出てしまった為にヒルトンに行く通路が分からなくなり右往左往しました。やっと中2階へのエレベーターで通路に上がり、“ヒルトン→”の表示に従って歩き始めましたが、これがなかなか遠くてそのうちに人の気配もだんだんとなくなり最後は私一人が暗い通路を歩くことになりました。
薄暗い通路を延々と歩いていく この表示だけを頼りに…
空港の前からは送迎バスも出ているのだけど、到着ロビーから歩いて5分といううたい文句につられた格好でしょうか。歩いているのが私一人になった時、スリラー小説ならこんな場所で襲われるよなぁと何度も後ろを振り返りました。私って意外に小心者…それでも通路の突き当たりのエレベーターに乗って一階に下り、ホテルの正面玄関を見た時にはほんとに安堵しました。
翌朝、国内線のカウンターでは荷物の超過料金(通常は荷物の重さの制限は20s、2〜3sの超過なら大目にみてくれる)を払うことにもなり、泣きじゃくる女性スタッフの冷たいあしらいも受けましたが、それでもフィレンツェに向けて飛び立つことが出来ました。
小さなアリタリアの国内線の機内はほぼ満席で、日本人は私一人です。ローマからフィレンツェまで1時間余り、フィレンツェに着くと「歓迎−!!アルママさんっ」と書いたボードを持った学校のスタッフが迎えに来てくれています。やっとフィレンツェに来たのだ、と私の胸は高鳴っていました。
やがて機体は下がっていき、ついに到着。トランクもすぐに受け取れて私は勇んで到着ロビーのドアへ向かいました。ところがドアの外には迎えが来ていません。道路でも混んでいて遅れているのだと思い、待つことにしましたが10分待ち、30分待ちしても迎えは現れません。そのうち、一緒に乗ってきた乗客たちも三々五々居なくなり、私一人がポツンと空港に取り残されました。フィレンツェの空港は地方の小さな小さな空港だと聞いた通り、誰も居なくなるとほんとに寂しい。さすがに私は心配になり辺りを見渡して、やっと気付いたのです。ここはフィレンツェではないと。


フィレンツェ到着〜NO.2

10月30日(木)
私はイタリアには過去2回来ています。しかしいずれも添乗員同行のツアーだった為、切符も移動も少々のトラブルも全部添乗員さんやガイドさんが担ってくれ、私はただただ後を付いて行くだけでした。ツアーの旅行を好まない人もいますが、この時ほどツアーの団体旅行がどんなに楽で贅沢な旅行かを思い知りました。
実は私が到着した場所は、目的地のフィレンツェではなく、フィレンツェから北へ107q、列車で約1時間余りのところにあるボローニャ空港だったのです。どういう訳でアリタリア機がボローニャへ到着したのか今となっては分かりませんが、機中で到着地変更のアナウンスがあったはずです。情けないことにそれを私が聞き取れなかったのでしょう。しかし、乗客、誰一人としてクレームを付ける訳でもなく騒ぐ訳でもなく、なぜ静かにそのまま降りて行ったのか、これも不思議な話です。少しでもおかしな気配があれば私だって気が付いたかも知れません。又、到着ロビーでアリタリアのスタッフから何か一言あれば事情が理解できたのにほんとに不親切極まりない(いや、もしかしたらこれがイタリア人の大らかさか)…それでも、アホタリアじゃなかった、アリタリアのバカぁ−(;-""-);と心でののしりながら、さてこれからどうするか、私のちっちゃな脳みそは沸騰寸前でした。
持って行くなら持っていきな〜#ヤケクソ 今からユーロスターに乗るワンコ
携帯電話で学校に連絡を取ると、自力でフィレンツェまで来てくれと言います。それはそうです、いくらなんでもボローニャまで迎えに来てくれとは言えません。ボローニャ空港のインフォメーションで聞くと、タクシーでボローニャ駅に行き、そこからユーロスターに乗れと教えてくれました。時刻表も打ち出してくれて、私はそれを持ってタクシーに飛び乗りました。空港から約15分、ボローニャ駅にすぐに着いたのは幸いでした。
この一年、時間があればイタリアの地図交通列車バスの乗り方を見ては楽しんでいたのですが、まさかそれがこんな形で役に立つとは思ってもみませんでした。ボローニャ駅では本に書いてあった通り、切符の購入や予約をする人でいっぱいです。時刻表をみるとあと10分で発車するユーロスターがあり、その切符を購入しました。ユーロスターは日本で言う新幹線、しかも国際列車で全車指定席です。イタリアの国鉄は遅れたり、発車直前にホームが変わったりすることがよくあると聞いていたので、何度も何度も駅の時刻表で確かめました。遅れはないしホームも変わりがないようだけど、ここで一難去ってまた一難です。
発車のホームが一番端っこの10番線。入り口が1番ホームとなっているから、あと5分の間に、重い荷物を持って地下に続く階段を下り、遠く離れた10番線まで移動しなければなりません。人は必死になるとどんな行動をするか、この時の私は、まさに世に言う火事場の馬鹿力を発揮しました。あの重くておっきなトランクを軽々と下げ、階段を駆け下り10番線まで全力疾走したのです。さすがに乗車するときは力尽き、周囲の人がトランクを引き上げ(イタリアの列車は乗り口が非常に高い)、列車に乗せてくれましたが、誰だったかスポーツ選手の名言、今でもこの時の自分を誉めてやりたい心境です。列車の中でトランクを置く場所は、指定席より随分離れていましたがもう放りっぱなし、盗まれる心配もなきにしもあらずですが、こんな重い荷物、持って行けるものなら持って行きな〜でした。(持って行かれたらこれ又悲惨ですが…)危機的状況を脱したら、人間ってなんと気の大きくなることでしょうね〜。
アパートの私の部屋 ここで二週間お世話になります
こうしてやっと国鉄のフィレンツェの駅、サンタ・マリア・ノベッラ駅(SMN)に到着し、学校のスタッフとも合流出来て、これからお世話になるアパートへたどり着いたのでしたアパートはフィレンツェの町の中心から少し離れた郊外の閑静な住宅地の一角にあります。大家さんは一人暮らしのクララ、物静かで、品が良くて、もしかすると私がこのクララから学んだことが今回の一番大きな収穫だったかも知れません。とにもかくにも明日からいよいよフィレンツェでの生活が始まります。




フィレンツェ散策

10月31日(金)
日本とイタリアの時差は8時間(日本が8時間進んでいます)ですが、私は大した時差ボケにもならずフィレンツェの生活をスタートさせることができました。授業は月曜日からなので、始まるまでの三日間学校の場所を確認したり行き方を調べたり、町の中の散策時間に当てました。
学校は、上記のサンタクローチェ教会のある広場の真ん前でアパートからはバスで約15分のところにあります。大家さんのクララから、14番のBかCのバスで、「POSTE(ポステ)」というバス停で降りるように教わりました。日本語で言うと「郵便局前」というところでしょうか。バス停を降りて少し歩くとこの教会がすぐに目に入ります。毎朝見ていても、見るたびに「わぁ凄いなぁ」とその偉容さに思わず声が出ました。この教会の内部には、マキャヴェッリ、ブルーニ、ガリレオ・ガリレイ、ギベルティ、マルコーニ、ミケランジェロ等有名人のお墓が安置されていて観光スポットの一つです。今日は広場で何やら催し物が行われている様子、外国人観光客(私もその一人…)で溢れています。
フィレンツェは、以前来ているはずなのに確かにこのを歩いたはずなのに全く覚えていません。情けない…きっときっとあの時、ガイドさんの振る旗の後ろから、この学校の近くも歩いたはずだと思うと何か感慨深いものがありました。あれから十年、ウフイッツィ美術館もポンテベッキオもピッティ宮殿もすぐそこにある…まさかこんな形で再びこの地に立てるとは。
学校の入り口 フィレンツェ名物Tボーンステーキ
学校の場所を確認したあと、以前から噂に聞いていた「トラットリア・アニータ」のランチを食べに行きました。幸いなことに学校からすぐ近く。このフィレンツェ名物の骨付きステーキ、サラダとパンが付いて10ユーロ。ステーキはほんとに美味しかったです。これからしばらく、私はあちこちのお店に一人で食べに行くことになるのですが、この時はまだ大事なことに気が付いていませんでした。行く先々のお店で支払うお金が如何に高額なのか。アニータはランチだったので適当な金額でしたが、夕食になるとどのお店も安くて30ユーロ〜50ユーロ。日本円では4000円〜6000円になります。観光本を片手にパスタやピザを初めトスカーナの料理を調子に乗って食べ歩いたけれど、一品は量も多くて食べきれない。そしてこんな高額に掛かる食生活が現状生活していく上で続くはずはないのです。


























料理教室へ

11月7日(金)
早いもので通学し始めてもう一週間が経ちました。授業は順調に進んでいます。文法は毎日宿題が出るのですが、日本で習っていた過去分詞や近過去などは復習が出来て良かったし、ややこしい前置詞の使い方はクララが教えてくれるので助かります。

今日はフランス人のセリーヌと日本人のふみこが予定の授業を終了するのでお別れです。セリーヌは現役のデザイナー、彼女とは授業でペアを組んで物語の作文をしました。ふみことは一緒に食事をしたり最初から話をすることが多くて、この二人が居なくなってしまうのは淋しい気持ちです。お互いにメールアドレスを交換して別れを惜しみました。又いつかフィレンツェで会いましょう。
授業を終えて帰国するセリーヌとふみこ。淋しくなるなぁ…
学校では午前中の一般コースの授業を終えると、午後は様々な課外授業があって、今日は私は料理の講習に参加することになっています。場所は、料理研究家、フィアメッタの自宅です。今回の参加者は私一人だということで、学校から手渡された住所に一人訪ねて行くことになりました。

イタリアの住所表記は、道路を挟んで一方が偶数番地、反対側が奇数番地になっています。これを頼りに右往左往してやっとたどり着いたフィアメッタのアパート、これも異国の地での実地勉強ですが、それにしても方向音痴で地図の読めない女には余分の苦労があるものです。出発前にフィレンツェの地図を頭に入れていたつもりですが、「地図は現地ではないよ。」と笑いながら忠告してくれた主人の言葉がイヤでも蘇りました。
さてフィアメッタのところには、これまでも沢山の日本人が習いに来ているらしく教え方は慣れたものです。日本茶を入れてくれて自己紹介をし、片言の日本語を駆使しながら、手際よく料理の手順を教えてくれました。今日作るのは、トスカーナ料理の4品、シーフードのクロスティーニアッチューゲ(片口鰯)のスパケティ、サーモンの香草焼きティラミスです。たった二時間ほどの間にこの4品、フィアメッタのモットーは「早い、簡単、美味しい」だそうで、まさしくそのモットー通りの料理が出来上がりました。
キッチンに掛かっていたモットー メッザルーナ(半月包丁)で香草切り
取れたてのオリーブオイルも使います 少しづつ出来上がる料理
フィアメッタの家には、ホームスティしているアメリカ人の女の子サラが居ます。毎日美味しい料理を食べているのでダイエットしなければと笑っていましたが、なんと羨ましい。

早くて簡単で美味しくて特に片口鰯のスパゲッティは材料が日本でも簡単に手に入るのでお勧めです。魚臭さはなく濃厚なsugo(パスタソース)がからまり美味しいです。

以下はレシピです。
※正式名:Spaghetti al sugo di acciugha(スパケッ゙ティ・アル・ス-ゴ・ディ・アッチューガ)
■材料6人分
スパゲティ   400グラム
片口鰯     300グラム
トマト缶     300グラム
ニンニク      1片
パセリ      大さじ1
オリーブオイル  〃 3
白ワイン     適量
塩・唐辛子     〃   
■作り方
@フライパンにオリーブオイル、ニンニクみじん切りを入れて火に掛け、頭と内臓と小骨を取って半開きにした片口鰯を入れ軽く炒める。
A2分たったら白ワインを少々入れアルコールを飛ばす。
Bトマトを角切りにして加える。パセリのみじん切り、唐辛子、塩で味を調え、時々かき混ぜながら15分煮る。
Cパスタをアルデンテに茹で(9分表示なら8分くらいで)Bに加えて強火で1分炒め合わせる。



エノテカで

11月6日(木)
朝食は毎朝クララと一緒に食べるのですが、それはそれはささやかな食事です。クララはパーネ・トスカーナという種類の、塩の入っていないパンを切って焼き、それに直火で点てたエスプレッソとヨーグルト、私は、紅茶とスーパーで買ったクロワッサンデニッシュ(フィレンツェにパン屋さんはないのです)にやはりヨーグルトです。クララから日本の朝食はどんなの?と聞かれ、ご飯にみそ汁に納豆に大根おろしやそれに焼き魚、と答えると、日本の主婦は朝からそんなに料理をするのかと驚かれました。そして、とても豪華だと。そりゃパンとコーヒーだけで済むならどんなにか楽かと思いますが、食事の習慣というものはいかんともしがたい、食生活が最もお国柄を表すものかも知れません。そんな日本人の私がパンと紅茶だけの食事をしているのを見て、クララはこれであなたも立派なイタリア人ねと言って笑いました。
パンを焼くクララ 質素な朝食を頂いてま〜す
学校へ行く途中には、バールでエスプレッソとコルネットやビスコットだけの朝食を摂る人も沢山居て、成る程、家庭の食事のみならず、日本の喫茶店のモーニングさえも贅沢な品揃えだと、クララの感想にも合点がいきました。
そんな質素な朝食の私のランチの場所は、クラスメートが教えてくれたエノテカ「ベルディ」です。いつも人がいっぱいで食事時には中に入れないので時間をずらして食べに行くのですが、私の悪い癖で、一度行って気に入ると日参です。きょうは、もう午後3時も回っているので、さすがに店内には誰もいません。しばらくすると、近所の常連さんたちがやってきました。「ボンジョルノ♪」と挨拶をすると、さすが陽気なイタリア人。一緒に飲もうといってワインをご馳走してくれました。(あのぉ…まだ昼なんですが…まっいっか…)このご近所の常連さんは、日本人びいきのようで、「フジヤマ」を知っていると言います。そこで広島の宮島を知っていますか、と聞くと全く知らないし(もっとも日本でも知らない人は沢山いるから当たり前か)、更にショックだったのは広島が、原爆が投下された被爆地だということも知らないことでした。宮島は世界遺産に登録されているし、広島は世界で初めて原爆が投下された都市なんだぞ〜まだまだ世界に認知されていない日本なのですね。
フリット(揚げ物)も一個から買える ワインをご馳走になったよ〜
さてこのエノテカはとてもリーズナブルで、トスカーナ(フィレンツェはトスカーナ州)の料理が熱々で食べられます。入り口で注文をして容器に入れて貰い、お金を払えば、店内でも食べられるし、持って帰ってもいい。これまで何十ユーロも出して食べては食べきれずに残していた当初の食事とうってかわって、やっと美味しくて適量を安価で買える店を見つけることが出来ました。こうしたお店は観光本には載っていない、やはり地元の人や経験則のある人に聞くのが一番でした。




アペリティーヴォ

11月5日(水)
イタリアには、「アペリティーヴォ」という食習慣があります。これは夕食の前に軽くお酒を飲み、つまみを食べながら、友人や同僚達と楽しく過ごすという、陽気なイタリアならではの習慣です。どのお店も日没後、大体午後7時過ぎ頃からこのアペリティーヴォが開店します。お店では、カウンターや特設のテーブルに、味や工夫を凝らした料理がずらりと並べられ、何か飲み物を一杯頼むと料理は全て食べ放題。日本人ならこの食事だけで夕飯が済んでしまうほど満腹感があり、それでいて料金は7〜8ユーロというリーズナブルさです。そんなお店の一つ、「リフルッロ」で授業終了後待ち合わせをして、一人の日本人女性ちづさんとお会いすることになりました。
実は日本のわん友さんから預かって、ちづさんにお届けする物があったのですが、実際にお会いしていろいろとお話をお聞きすると、この異境の地でたった一人、堂々と仕事をし、イキイキと生活をしておられる様子に私はすっかり感心させられました。そういえば、フィレンツェには、料理人を目指す男の子やデザイナーを夢見て勉強している女の子、その他志を持った沢山の日本の若者が居ます。私はこの年齢でこのタイミングでしかフィレンツェには来られなかったけれど、こんなにも若い人達が夢を持ってこの地に居るかと思うと、胸に熱いものがこみ上げます。みんなみんな夢を叶えて欲しい、頑張れと心の底から応援したくなります。先般イタリアで40億円の宝くじが出たらしいのですが、もしももしも私にこの宝くじが当たったら、この若い人達の夢の実現の為に提供したい、日本のメディチ家になりたいなどと、そんな熱い想いにもさせられました。あっちょっと酔ってきたかな〜(^^)
店内ずらりと並ぶトスカーナ料理 ちづさんとお友達のアントニオと
そうそう、この「リフルッロ」は、ちづさんに教えていただいたのですが、歴史地区からアルノ川を渡りミケランジェロ広場に上がる入り口のすぐそばにお店はあります、日本人はほとんど来ない、地元の常連さんでにぎあう、とても感じのいいお店です。お料理も美味しかったし奥にはレストランもある、次回も訪ねたいお店でした。どなたかフィレンツェでアペリティーヴォに迷われたら是非行ってみて下さい。ちづさん、アントニオ、楽しいひとときをありがとうございました。


ウフィッツィ美術館へ

11月4日(火)
学校は午前9時から始まります。文法90分、休憩をはさんで会話の授業が90分あります。私が入ったクラスは9月に授業が開始され、既に二ヶ月勉強が進んでいるクラスです。私は付いて行けるかとても心配でした。もしついて行けないのなら、下部のクラスに替えて貰えるのですが、クラスの雰囲気もいいし、このクラスに席をおこうと思いました。
一時間目は文法です。先生はフランチェスカといいます。勿論授業は全てがイタリア語。クラスには9月から勉強している日本人が3人、アメリカ人が1人、そしてフランス人が1人居てそれぞれ自己紹介をしました。
フランチェスカはとてもやさしく、一人一人の話に説明を補いながら又時折質問をはさみながら授業を進めていきます。言葉もゆっくりと丁寧でほんとに分かりやすかった。一時間目を終えて、私が安心したのはいうまでもありません。しかし、問題は二時間目の会話の授業です。先生の口からは、難しい単語が次々と飛び出し、私はこの授業の目的をなかなか汲み取ることができませんでした。例えば、それはイマジネーションで物語を作ることだったり、人間の一生を段階的に表現することだったり…理解するのに随分苦労しました。後で分かったことですが、他の人達もみんな同じ思いだったらしく、最後にはとうとうクラスを変わる人も出てきました。結局のところ、私に限っていえば語彙の足りなさが理解不足につながっただけの話だったわけですが…
こうして、なんとか授業を終わったあと、午後は待望のウフィッツィ美術館に出掛けました。この美術館は学校から歩いて10分ほどのところにあります。私は以前来たとき、延々と2時間並んで入ったことを思い出しました。今日は事前に予約をしていたので、案内の先生と一緒にすぐに入館できました。当たり前のことですが、先生はイタリア語で絵画の説明をしてくれます。しかし私には難解で結局日本語のオーディオガイドを借りて(借りるのにパスポートが必要)見て回ることになりました。閉館時間が来て、追い出されるまで、ダヴィンチやボッティチェッリ、ロレンツォやラファエッロなど、心に迫る名画を堪能しました。ここでは、窓の外以外の撮影は一切禁止なのでしっかりと目に焼き付けて…。
美術館のテラスで 美術館の前のパフォーマンス、人間です
さて明日の夜、私はデートの約束があります。初めて会う方なのですがとても楽しみです(*^_^*)




初登校

11月3日(月)
いよいよ今日から授業が始まります。今朝は6時半に起床、食事をして身支度を調え、クララから教えて貰ったバス停から14Cのバスに乗りました。フィレンツェのバス路線は充実していて、10分おきくらいに学校に行く14番のBとCのバスがやってきます。
緊張するのはバスの中では何のアナウンスもないことです。自分が降りたいバス停が来るとブザーで知らせることになっているので、私は降りる目安として周辺の景色を覚えるしかありませんでした。幸いなことに私が乗るバス亭は、始発になっているのでいつも一番前の席に座り、ずっと窓の外を眺めていました。降りるバス停の手前の曲がり角にはエディーコラといって新聞スタンドがあります。このエディーコラが見えると私が降りるバス停、POSTE(ポステ)なのです。この新聞スタンドが見えると、ほんとに一息つきました。
学校では校長先生が迎えてくれて簡単な面接がありました。
校長先生:よく来ました。歓迎します。フィレンツェではどこに住んでいますか?
     :リーパー通りです。バスで15分くらいのとこ…¢£%#&*シドロモドロ
校長先生:イタリアは初めてですか。
     :いえ、3回目です。でも一度目と二度目は観光で…¢£%#&*シドロモドロ
校長先生:あっそ…
という訳で、予め受けていたクラス分けのテストとこの会話で私のクラスが決まリました。
今日が共に初登校のクラスメイト。ドイツ人のクリス、日本人のフミコ、イギリス人のグレイス
皆さんにはほんとに仲良くしていただきました。最高のクラスメートだったです。



クララのこと

11月2日(日)
アパートは学校が無料で斡旋してくれます。私の希望は綺麗で明るく清潔、そしてお風呂が付いていることという条件を出していました。食事は自分で自由にできる様にキッチンだけを使わせて欲しい、そんな条件に見合ったのがクララのアパートでした。町の中心の住居は歩いて登校できるし便利なのだけれどその分、私の希望は叶わないことになります。
クララは一人暮らしでこの広いアパートに住んでいますが、こうして時々日本人の留学生を受け入れてくれています。私が来る前には長崎県の女性が居たそうで彼女の話も私が分かる範囲で話してくれました。何でも学校までアルノ川沿いを歩いて登校していたとか、元気な女の子だったようです。クララは語彙の乏しい私の話を一生懸命聞いてくれ、文法やおかしい表現を直してくれます。学校から帰ると、その日の出来事を私はクララに話すようにしていたのですが、これはほんとうにいい勉強になりました。当初、独立アパートの一人暮らしを考えていましたが、やはりこうして話の出来る相手がいることは有り難いことでした。
クララは、Flaut(フラウト)というヨーロッパの古い楽器(日本でいえばリコーダーに近い)の演奏をします。生徒さんも持っていて水曜日の夜はレッスンです。そして一週間に二回、健康の為に体操教室にも通い、充実した毎日を送っています。見ていると、水道も電気も食べるものも、ひとつひとつをとても大切に扱い、感心させられました。私はと言うと、日本では電気も水道もガスも使い放題で、自分の生活をイヤでも反省することになりました。例えば、クララは電気は周囲が暗くなるまで付けません。窓際の薄明かりで静かに本を読んだりクラックを聞いていたり、そして寒ければ毛布で自分の身体を覆います。私は暖房機は付けっぱなし、身体が温まるとセーターを脱ぐ、一時が万事で、考えさせられることばかりでした。思えば、町の中心は観光客相手に華やかですが、実際のフィレンツェの人達の生活は、きっとこうして慎ましやかで静かなものなのでしょう。
セキュリティの効いたアパートでした 明るく広いリビング
クララも隣の部屋に居るので、実質ホームステイとなりましたが、クララは決して私の時間に踏み込んでくるようなことはありませんでした。お互いに帰りが遅くなるときは相手に伝え、翌日の予定も連絡し合って安心して生活することが出来ました。いよいよ明日から学校です。たった二週間ですが何十年ぶりかの学生生活がスタートします。

フィレンツェ散策NO.2

11月1日(土)
フィレンツェの世界遺産となっている歴史地区とその郊外はアルノ川をはさんでそれぞれ広がっていますが、は端から端まで歩いても1時間余りで回れるほど小さいです。私がお世話になるアパートはこのアルノ川沿いにあります。今朝は教会の鐘の音で目が覚めました。土曜日は教会の祭礼があるのだそうです。お天気もいいし、アパートの周辺を散歩することにしました。
アパートは古い石造りながらセキュリティはしっかりとしていて、私はクララから3つの鍵を持たされました。アパートの入り口の鍵、そして部屋に入るための2つの鍵、写真を撮るのを忘れましたが、重々しくていかにもヨーロッパの鍵といった風情です。コピーは出来ないらしく無くすと大変なので鍵の管理はほんとうに気を付けました。その鍵をしっかりとバッグにしまい川沿いに歩き始めたのですが、そこで一頭のワンコに出会いました。そういえば、アパートの2階にもおっきなシェパードが居て、この住宅地からははっきりと大型犬だと分かる何頭かの犬の吠える声が聞こえてきます。イタリア人は大きな犬を好むらしく、初日に駅で見たわんこを初め、町の至る所でゴールデンレトリーバーラブラドールアフガンニューファンを連れた人達に出会いました。そのたびに私はアルファを思い出し、ちょっと切なくなるのですが、それでもこうしてワンコの姿を見られるのは嬉しいことでした。そうそう、このワンコたち、口輪をするなど条件はあるものの、飼い主と一緒にバスにも電車にも乗れるのです。羨ましい。
イタリア語でわんこのうんちのことを「Cacca(かっか)」と言うのですが、このかっか、町のあちこちに容赦なく落ちています。それでなくても歩きにくい石畳なのにかっかを踏まないように結構気を使います。このワンコの飼い主さんも、かっかの後始末をすることもなく去っていきました。わんこはみんな訓練されていて立派なのになぁ…

フィレンツェは、以前来ているはずなのに確かにこのを歩いたはずなのに全く覚えていません。情けない…きっときっとあの時、ガイドさんの振る旗の後ろから、この学校の近くも歩いたはずだと思うと何か感慨深いものがありました。あれから十年、ウフイッツィ美術館もポンテベッキオもピッティ宮殿もすぐそこにある…まさかこんな形で再びこの地に立てるとは。
学校の入り口 フィレンツェ名物Tボーンステーキ
学校の場所を確認したあと、以前から噂に聞いていた「トラットリア・アニータ」のランチを食べに行きました。幸いなことに学校からすぐ近く。このフィレンツェ名物の骨付きステーキ、サラダとパンが付いて10ユーロ。ステーキはほんとに美味しかったです。これからしばらく、私はあちこちのお店に一人で食べに行くことになるのですが、この時はまだ大事なことに気が付いていませんでした。行く先々のお店で支払うお金が如何に高額なのか。アニータはランチだったので適当な金額でしたが、夕食になるとどのお店も安くて30ユーロ〜50ユーロ。日本円では4000円〜6000円になります。観光本を片手にパスタやピザを初めトスカーナの料理を調子に乗って食べ歩いたけれど、一品は量も多くて食べきれない。そしてこんな食生活が現状生活していく上で続くはずはないのです。