Poem & Essay
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光の語り──次なるステップへ


 昨年で「光の語り」十周年を迎えた。自分でも良くやってきたと思う。伝統音楽というと、まるで昔の通りにやることと勘違いされることが多い。音楽は生きている。博物館のように過去の遺物をそのままに永久保存するものではない。「伝統」とは形を受け継ぎつつ、心をつなぐことである。心が活き活きと躍動しなければ形は虚しい。心が悦ばなければ生命
(いのち)は躍動しない。悦ぶとは己の心のことである。己自身が悦ばぬ芸術など誰が悦ぶか。己の歓喜を形に注ぎ入れる、それが芸術本来の姿だ。その姿は伝統の世界においても何ら変わらない。

 しかし、形を踏みつつ心を活かすとは生中
(なまなか)なことではない。だがそれでも、その困難に挑まなければ伝統音楽をやる意味は、少なくとも私の中には無い。この十年はその意味を問う、挑戦の十年だったと思う。そしてそれは、私が舞台に立ち続ける限り終わることはない。

 芸術は常に時代を先取りする。それも一年や二年のことではない。十年先、二十年先、あるいはもっと先の未来かもしれない。だから芸術家は、同時代に中々認められない。それは宿命である。ある意味、すぐに認められるようなものは大したことはないとも言える。

 認められないことは苦痛である。無視されることは屈辱である。心血を注ぎ注ぐほどに、その孤独の煩悶はいや増す。しかし、孤独とは惨めなことではない。狭い仲間うちのなれ合いの中で慰め合うことのほうが余程惨め極まりない。

 芸術家は、時代が自分の跡を追うのだという位の気概や自負がなければ到底立ちゆかぬ。そんな高い志を掲げ、その求道
(ぐどう)の道をまっすぐに歩まんとすれば、真の同志は中々に得難い。ゆえに孤独とは芸術家の勲章と知る。

 かのダヴィンチは「孤独とは救われることである」と手記に識した。これは人間存在の本質を謂う言葉である。人はそもそも、孤独でなければ己に出会えない。孤独の深淵に己の真の姿がある。その己とは神なる己である。孤独の深淵こそ、無限なる存在に出会える聖なる場所である。

 無限なる存在に触れてこそ、芸術は力を得る。無限を背後に背負うからこそ永遠の生命を獲得する。「光の語り」とはその無限なる存在への憧れである。全身全霊を以てする希求
(ききゅう)である。無限に焦がれ焦がれ続け、無限を想い想い尽くし、ひたすらなる希求の果てに、ついにはその憧憬や欣求(ごんぐ)の想いすら消え去る。そのときこそ、己が無限とひとつになる瞬間に違いない。己の真の姿とは、己無き己の姿である。「光の語り、光の語り」などと叫んでいるうちはまだ己があるのである。

 道はまだ遙か半ばである。しかしいつしか、全ての想いを尽くして無限なる存在と一体となる日を夢見る。そのとき、語るものすべてが自ずから「光の語り」となると信ずる。