Poem & Essay
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慾─恐るべし

 以前にも書いたことがあるが、書家の中林悟竹が『悟竹堂書話』のなかで次のような言葉を述べている。
 「書家に忌むところの者は慾なり。慾の躬(み)にある、なお塵の水に在るがごとし。人の神明
(しんめい)をして昏昧(こんまい)ならしむ。故に筆画の間(かん)に露わるる者は、自然渾濁して俗気を帯ぶ。拙はなお観るべし。俗は終に観るべからず。」

 ある素人(プロではなかったという意)の舞手で、仕事上の理由からだったろうか、修錬の途中で踊ることををいったん断念したが、舞への想いが断ち切れず、かなりの年月を経たのちプロを目指して再出発した人がいた。Aさんとしておこう。その舞の姿は天性の透き通るような気品があり美しかった。ただただ舞いたいという一心が、無心の芸となっているように思った。澄んだ水面に光のさざなみを揺らして躍る、清らかな白鳥のようであった。心洗われる舞に出会うことは少ない。私はその人の舞を観ることをいつも楽しみにしていた。心からのファンを自認していた。

 ところがAさんはある年から、何を思ったのか、ある有名な賞を得んとして奮闘し始めた。どうしていまさらそんなものを目指すのか。どうしてそんなものが欲しいのか。私は理解に苦しんだ。嫌な予感がした。
 その人は毎年挑戦し、遂に念願(?)の賞を得た。
 しかし、賞に挑戦し始めたその年から、すぐに舞台の姿に変化が現れた。あの心洗われるすがしさは失われた。純粋な結晶のような美も失われた。私は裏切られたような気持ちになり淋しかった。予感は当たったのである。私の足は遠のいた。
 何がそうならしめたのか。悟竹のいう慾ではなかったか。

 私は、全くの世間知らずであるが、長年邦楽界に身を置く者の一人して、多少はこの世界の慣習のことを知っている。私自身も、あいた口が塞がらないような悪習の存在に暗澹たる気持ちになった経験が何度かある。
 このような世界であるからこそ、踊りの世界で賞を目指すとなれば審査員への様々な気配りがさぞ大変だったに違いないと想像するのである。いや実際に本人はそうした様々の慣例慣習に相当閉口したらしい。耳を疑うような話もあった。私はその話を聞きながら、Aさんの舞姿から輝きが失われた理由を確信したのである。もちろん、その方の名誉のために言うが、ただ賞を得るために裏であくどく何かをするというような方ではない。しかし、ある程度のお付き合いは仕方ないとしても、そうした俗世間的な腐心に多くの時間と労力を割かれるようになれば、本人も気づかぬうちに心は手垢にまみれてしまわないだろうか。純粋さが失われていきはしなか。「君子危うきに近寄らず」というではないか。

 もちろん、これは私の勝手な主観的な想いである。あくまで推測に過ぎない。世間的には成功したのだと思う。本人もそれで満足しているのだろうと思う。私がどうこう言う筋合いの話ではない。それに、賞を得て以来お客さんも賑々しいらしい。
 しかし私は、一人のファンとしてひそかに悲しむのである。その賑々しさが、如何なる賑わいであるのか………。
 これは油断すれば、私自身にも明日にも起きることである。慾、恐るべし。心して自戒すべし。