Poem & Essay
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「中村鶴城 琵琶リサイタル2005」によせて

 二十年以上も前のことでした。私がある知人に「琵琶でバッハのような音楽がやりたい」と語ると、彼は笑いながら即座に「そんなことは無理だ」と言い放ちました。それは、現代に一般的に行われている琵琶楽の、語られる内容とその音から受ける印象が、バッハの音楽のそれとはおよそかけ離れた異質のものと感じられたからでありましょう。彼でなくとも、今日の琵琶の弾き語りを一度でも聴いたことのある人は、誰しもがそう言ったに違いありません。悲劇、おどろおどろしいイメージ、何となく暗くてもの悲しい音色……。私は、反論できませんでした。その時、私自身にも明確な展望と確信が無かったからです。
 しかし、バッハのような音楽、つまり、いつも神の世界に向かっているような音楽への憧れは、その後失われるどころか、琵琶の道を進めば進むほどに、私の深い深い内奥からの叫びであることに私自身が気づかされてゆきました。そして、それ故にこそ、自ら望んでいる音楽世界と、現に演奏している音楽世界との乖離に苦しめられました。
 私は「芸術とは自らが感動することの表出である」と信じています。自分が感動しないことが、どうして人を感動させることができましょう。もはや芸術は私の人生です。だからこそ私は、芸術家の良心として、自分が心より歓び感動できる作品を演奏したい。もし、そうでなかったなら、一体何のための人生なのだと思うのです。
 知識や経験は大事なことであります。しかし、その過去の知識や経験からのみ導き出された未来ほどつまらないものはありません。過去がどうであったにせよ、大事なことは、自分がこれから未来に向けて何をしたいか、どうしたいかというビジョンです。夢です。憧れです。それこそが未来を決定し創造するのです。「琵琶は悲劇を語る陰の音楽である。なぜなら四、五百年に渡ってそうであったから……」私はその常識という過去に別れを告げました。もちろん、琵琶の伝統を創り、受け継いできた古人に敬意を払いながら。私は単に新しいことがやりたいのではありません。私の本心が望んでいることをやりたいだけです。その本心の望みとは、光の語りです。希望の語りです。「光明思想の弾き語り」です。ただただ、魂の歓びをもって「光の伝道者」になりたいのです。
 「それにしても、アッシジの聖フランチェスコとは! どうしてまた、そんな変わった題材を?大変でしょう……」と不思議がる人もいます。しかし私の答えはいつも一つです。それは私の内奥の自然な欲求なのです。情熱が溢れ出てきて、大変とかいう想いを忘れてしまうのです。それはまるで私の意志さへ越えたもののようにさえ思えます。何故そうなのかは、実は自分自身にもよく解りません。私が題材として選ぶ理由は、いつも「ある日、突然ふと思った」という、ただそれだけのことです。本で読んで感動したからではありません。具体的なことはほとんど知らないのに、ある日突然、意識に浮かび上がってきて「この人を語ろう!」と決心するのです。ヤマトタケルも、空海も、そして聖フランチェスコもそうでありました。
 私は、一年一年変わってゆきたいと切に希っています。バッハのような音楽を目指すというと「何を大それた事を」と思われるかも知れません。しかし、私にとって重要なのは、神の世界を目指しているというその方向性なのです。その「道」は何処まで行ってもゴールのない過程です。弛まなく歩み前進することこそが大事なのです。誰に何と言われようが、それが私の道なのですから。道は、ある処まで来るとその向こうが見えて来ます。見えてくるとそこに行きたくて仕方ありません。イメージも明確になります。だから私は進みます。そしておのずから私は変わってゆきます。ただ変わらないのは、神への憧れです。光に焦がれる強い想いです。魂の奧処(おくど)から突き上げてくるパッションです。
 そう、私は光を語りたい。希望を語りたい。生きる歓びを語りたいのです。「世界人類が平和でありますように!」という叫びを、心一杯にひびかせながら。それが祈りでなくて何でありましょう。私が語るとき、それは祈りなのです。私が奏でるとき、それは祈りなのです。生命のひびきを響かせよ、平和のひびきを響かせよと内なる何かが叫んでいるのです。
 だから私は今、聖フランチェスコの魂と共に祈らずにはいられません。混迷の世界に向けて「世界人類が平和でありますように!」と。

(「中村鶴城 琵琶リサイタル2005」チラシ裏面に掲載 )