Poem & Essay



忘れ得ぬ想い出 


秋田杉の学校
 秋田県鹿角(かづの)市の花輪(はなわ)の駅から車で約三十分、八幡平(はちまんたい)温泉郷の中にキャプテン翼(つばさ)荘というペンションがあります。今から十年前の平成六年五月上旬、演奏活動の合間をぬって、数日間、そこに逗留させていただいたことがありました。サッカー漫画として有名になった「キャプテン翼」の作者がオーナーで、経営は金沢定雄さんという方に任されています。金沢さんとは八幡平音楽祭という小さな音楽祭をきっかけに知り合いました。逗留三日目のこと、その金沢さんのはからいで、鹿角市の隣町、小坂町にある学校を表敬訪問することなりました。
 十和田湖の西岸、湖を一望に臨む小高い丘に、その学校はありました。小坂町立十和田小中学校。小学校と中学校が一緒になった学校で生徒数十六名。教員が確か十七名であったか、とにかく教員の数が生徒数よりも多い学校です。
 その校舎が実に感動的でした。地元産の秋田杉の尺角の柱を二八〇本も使用した木造建築。壁も廊下も天井も、秋田杉の無垢の板張りで、四月に完成したばかりの校舎は杉の真新しい香りが漂って、清(すが)しい空気に満ちていました。秋田杉の学校です。中央にガラス張りの広い中庭を囲み、各教室の窓からは十和田湖を見晴るかすことができます。教育にこそ一番お金をかけるべきだという小坂町長の意向によって、何億という予算を費やして建てられた町一番の贅沢な建物だそうです。
 中庭に面して、そこに突き出すように、団欒室と呼ばれる一角がありました。円形の空間です。中央の一段低くなったところに円卓があり、それを取り囲んで、ひと抱え以上もある杉の巨大な円柱が、五、六本も聳えています。それは部屋というよりは、部屋全体が柱そのものであるような印象でした。まるで天と地を結ぶかのごとく、力強い垂直の律動に満ち溢れ、光とエネルギーがそこに収斂(しゅうれん)しているように感じました。なるほど、柱というものはこういうものなのだと、その意味と働きを理解できたような気がしました。豊かな、心地よい、清らかな空間でした。このような環境で学べる生徒たちの何と幸せなことでありましょう。

演奏は真剣勝負
 実は、表敬訪問の目的は琵琶の演奏でしたが、その日の演奏は私にとって、その空間体験の感動の余韻であったようにも思えます。場が人間に与える精神的影響はことのほか深いものです。このすばらしい校舎で日々学ぶ生徒らの眼差しは、この校舎と同じように清らかで、生気に溢れていました。その眼差しが何か私に力を与えてくれたように感じました。
 新緑の芽吹く十和田の春、あたかもその春のような新鮮さと清々しさを感じながら、演奏会場の畳の部屋に向かいました。といってもその部屋は特別の準備はしてありません。その日の朝に学校に連絡して、突然、訪問したからです。にもかかわらず、急遽、全学年揃っての琵琶楽鑑賞の時間をつくって頂いたのです。
 生徒はすでに勢揃いしています。小学一年生から中学三年生までの十六人です。いったい今から何が始まるのか、子供たちは興味津々といった面もちです。みんな足を両手で組んで坐っています。
 演目は「川中島」一曲。私は黒紋付きに袴の姿で端座(たんざ)し、普通の演奏会と何ら変わらないスタイルで演奏をします。子供だからといってなめてはいけません。実は子供が一番手ごわいのです。
 いよいよ本番。私は、謡い出しの弾法(だんぽう)を奏でた後、おもむろに「天文(てんもん)二十三年、秋の央(なか)ばの頃かとよ…」と歌い始めました。
 とそのとき、最前列にいた小学校低学年生たちが、皆、くすくすと笑い始めました。彼らは、組んでいた足を投げ出して、身をくねくねさせながら必死で笑いをこらえているようでした。何が可笑しいのか。私の格好か、歌い方か。恐らく生まれて初めて聴く音楽には違いありません。琵琶歌の詞は古文調です。意味を理解してもらうことは期待できません。しかし、事もあろうに笑い出すとは何事か。
 「しまった!」。不意を付かれた私は、手痛い一撃を喰らい、一瞬心が揺らぎかけました。しかし、そこで動じてしまったのでは負けです。いや、音楽に勝ちも負けもないのですが、舞台は一回性の真剣勝負。聴き手をいかに自分の間合いの中に引き込むかにかかっているのです。それが、今日は最初で大きく躓(つまず)きました。これまで経験したことのない強烈な一撃でした。小学一年生の必殺カウンターパンチ!
 しかし、そのパンチが私に火をつけました。私は気合いを入れ直し、いつにも増して集中してゆきました。そして曲なかば、謙信と信玄の合戦の場面。烈しい崩れの弾法に入ったところで、おもわず手が動いて即興的にハタキ撥(ばち)を多用しました。ハタキ撥とは、撥の扇状に広がった面を琵琶の響板に強く打ちつけて、パシンという強烈な打撃音を出す奏法です。はじめて薩摩琵琶を聴くひとは皆びっくりする奏法です。それを気合いを込めて何度も何度も打ち込んだのです。気合いの掛け声も入りました。私は剣術は全く知りませんが、テレビや小説で何となく知っている薩摩示現(じげん)流の剣法さながらに、エイッー!パシン!パシン!イヤー!  裂帛(れっぱく)の気合い。いや、気合裂帛。それに肝を潰されたのか、あるいは真剣に語り続ける姿に何かを感じたのか、ついに形勢逆転!
 くすくすと笑っていた小学生たちは、いつしか笑うのをやめていました。そして、視よ、小学一年生の足を。私の前にだらしなく投げ出していた足を。
 私と最前列の聴き手とは一足(いっそく)の間合い。邦楽の演奏は、見台の譜面に視線を落として、その視線を動かさない、聴衆を見ないというのが原則です。しかし、その視線を動かさずとも、前列の生徒たちの動きは視野の内です。その視野に動きの気配あり。一人、二人……三人。もぞもぞと足を動かし始めている。前列の小学生たちが、投げ出していたその両の足を、そろそろと引っ込めたか思うと、何と端坐をし始めているではないか。
 聴衆の気配は演奏しながら敏感に感じます。音に集中しているのかどうかがはっきりと判ります。もはや彼らは完全に私の間合いに引き込まれている。そう判断した私は、気息を長く曳くようにして、押しては引きとメリハリを利かせて歌いながら、その一方で烈しい弾法の手を次第に緩めてゆく。
 「鞭声(べんせい)粛々夜河(よるかわ)を過(わた)る……」。
 曲の最後、謡(うた)い止(ど)めの詩吟を朗々と詠じるころ、生徒たちは寂静(じゃくじょう)として鎮まっていました。大げさではありません。シーンとなっていたというより、まさに寂静とした空気だったのです。
 終尾(しゅうび)のひと撥を払い、その撥を膝の上に収めると、私は軽く一礼。すると生徒たちもつられて一同一礼。
 楽(がく)を以て制す。ゆっくりと顔を上げ、生徒たちを見渡すと、一人残らず背筋を伸ばして神妙な面もちで端座していました。それは思いもよらぬ驚きの光景でした。
 勝った! そう、自分に。

教育は言葉ではない
 子供たちは何故、誰に言われるでもなく自ら背筋を糺(ただ)して端坐したのでしょうか。何がそうさせたのでしょうか。
 教育とは斯くあるべきかな。私は深く感動しました。子供には、自らを律する尊い能力が備わっているのだと深く深く感じ入りました。その姿に私の方が打たれてしまったのです。大人が、こうしろああしろと言葉で命令し諭すのではない。子供は大人の何か奧にあるものをしっかりと見ている。言葉ではない、その奧の生きる姿を学ぼうとしている。そう、その奧にある姿こそ大切な何かなのだ。そして、それこそ教育の要だ。私はそう思いました。
 中国古代の儒教的音楽論の礼楽(れいがく)。『礼記(れいき)』の『楽記(がっき)』に「楽は天地の和なり。礼は天地の序なり」とあります。楽は和合の原理、礼は秩序の原理ということ。音楽は統一の働きをなすものです。演奏者が自らの奏でる音と一体になったとき、その一体になった音霊が、さらには聴衆の心とも融けあって、すべてが一体化する。音楽とは同化の力です。そして、同化されたとき、自ずとそこに礼なる秩序が生まれる。節度が生まれる。義が生まれる。正しい言い方なのか解りませんが「楽を以て礼を成す」とでもいうのでしょうか。子供たちは、私の演奏した音楽の中に、足を投げ出していてはいけないんだ、心を糺(ただ)して聴かなくてはいけないんだ、という何か強いひびきを感じたのでありましょう。音楽が子供の心を自然に徳化(とっか)したのであります。
 古代、聖者が礼楽によって世を治めたというのは本当に違いありません。かつて昔、薩摩琵琶人が「楽を作(な)して徳を崇(たか)くする」音楽を志したというのも、まこと本当に違いありません。同じく『楽記』に「徳音(とくおん)」という言葉があります。徳の備わった音楽、倫理性に優れた音楽、人間性にあふれた音楽のことです。つまり音楽は本来、道徳や倫理、人間性と深く関わったものであるべきだということです。「徳音これを楽と謂(い)う」とはそのことだと思います。
 私は、こうした先哲の英知を、学問ではなく身をもって体験したのです。そして、この体験は、私が目指していた音楽の姿を私自身に確認させ、その後の方向性に少なからず影響を与えたのでありました。  すばらしい想い出をありがとう。十和田小中学校、そして生徒の皆さん!
 春が巡り来るたびに、十和田湖を渡るそよ風のような心地よさをもって、この想い出が私の心を過(よ)ぎるのであります。
(2004.6.30 記)

*『邑心』第70号(平成16年7月、邑心文庫刊)のp80~87に「ピパルス通信〈20〉」として掲載