Poem & Essay



薩摩琵琶は波動楽器

薩摩琵琶の響板はなぜ膨らんだのか
 薩摩琵琶の響板(ふつう腹板(はらいた)という)は、球面状にふっくらと曲面(カーブ)を描いて美しく膨らんでいます。それが、薩摩琵琶の楽器としての際だった特徴のひとつです。日本の他の種類の琵琶、あるいは中国の琵琶などと比べても、このように響板が膨らんでいる琵琶は他にはありません。この大きな膨らみがあったお陰で、鶴田流では、「ハタキ」や「ハタキ撥」という奏法が産み出されることになりました。ハタキというのは、柘植(つげ)でできた扇状の撥の広い面を使って、響板を強くパシンと打ちつける(叩(はた)く)奏法のことです。撥と響板が衝突するときに強烈な衝撃音を生じます。これは、もし響板が他の琵琶のようにフラット平面であったならば、決してできない奏法です。しかし、この衝撃音が出せるように響板を膨らませたわけではありません。ハタキなどの奏法が産み出される前にすでに響板は大きく膨らんでいたわけですから。
 それでは、なぜ薩摩琵琶は響板の膨らみが大きいのでしょうか。このことは、私自身にとっても長年の疑問でありました。
 楽器の歴史を見てみますと、系譜としては、薩摩琵琶は薩摩盲僧琵琶を受け継いでいます。薩摩盲僧琵琶の響板は僅かに盛り上がっていますが、ほとんど平らであるといってよいでしょう。そうすると、響板が膨らんだのは薩摩琵琶以降ということになります。しかし、はじめから今日の薩摩琵琶のように響板が大きく膨らんだ楽器が、突然誕生したとは考えにくいような気がします。というのは、響板をこんなに大きく膨らませなければならない必然性、演奏家の音楽的欲求や何らかの社会的な要求が今のところ明らかになっていないからです。楽器の形の変化には、必ず何らかの理由があるのが普通です。そうでなければ、わざわざ形を変えたりはしないでしょう。
 それにこの膨らみは、楽器製作の立場からみると、技術的に大変面倒で難しい作業を要するものです。響板と胴は、それぞれ一枚板でできており、それを昔は、膠や麦漆(むぎうるし)で張り合わせました。張り合わせるためには、響板の片面だけを蒸気で蒸し、強く反らせて曲面を作ったのち胴に合わせます。そして、厚い鉄の枠を、その反らせた響板にあてがって万力で締め付け、さらに何十本もの楔を打って強く圧着させます。その圧着力は相当なものです。このように強制的に接着してありますから、響板は常に元の状態に戻ろうとする強い応力が働いており、それが響板の剥がれをしばしば起こす原因となっています。ときには、この膨らみ(張り)のカーブがきついと、響板が耐えられずに裂けてしまうこともあるくらいです。
 このように、響板を膨らませるというのは大変なことです。また、そうしない方が、楽器に不具合が起きることをずっと減らすことができます。製作もずっと楽です。ですから、何らかの強い欲求、例えば音楽に直接関わるような強い切実な欲求がなければ、このような大きな膨らみを敢えて与えるということは非常に考えにくいことなのです。
 ただ唯一、少しばかり理由として思い当たることがあります。薩摩琵琶の伝統的な奏法上の理由です。
 薩摩琵琶の奏法の、最も特徴的なものの一つに「打ち撥(うちばち)」という奏法があります。これは、弦を撥でもって弾くだけでなく、打弦したその勢いで、そのまま響板に強く打ちつける打楽器的奏法です。薩摩琵琶は、薩摩武士の嗜む楽器として誕生しましたが、この打ち撥の奏法は、薩摩藩独自の剣法、示現流(じげんりゅう)から想像されるような、豪放勇壮な薩摩武士気質の顕れといっていいかもしれません。その打ち撥は、響板が平らかであるより、ややふっくらと膨らんでいた方が弾きやすい奏法です。従って、この打ち撥が弾きやすいように、いつの頃か、誰かが、響板をゆるやかに膨らませる工夫をし始めたと考えることは許されることかも知れません。そして一端、膨らませるための楽器の構造を考え出し、その製作技術を修得したのちは、自然な流れとして、さらに膨らみを大きくして美学的に洗練させてゆくという方向に進み、今日のような非常に美しい膨らみの響板に至ったのではないかと想像するのです。極めることが好きな日本人ならやりそうなことです。
 ただ、打ち撥は、響板が平面でも可能な奏法ですので、この理由は少し説得力が弱いようにも思います。

波動スピーカーとの出合い
 さて、話は変わりますが、私は最近、ある機械技術者(発明家でもある)の方と知り合いました。寺垣研究所所長の寺垣武氏です。氏は少年時代から実用的な発明に貢献してきた天才肌の技術者です。氏の業績は大変ユニークなものばかりで多岐にわたるようですが、中でも特にオーディオの分野で画期的な製品を開発され、今日オーディオ業界で彼の名を知らない人はいません。その中で私が大変興味を持ったものがありました。「波動スピーカー」です。
 これは聞き慣れない言葉です。氏はある静かな夜、布団の上であおむ仰向けになっていました。離れたところに置いてある目覚まし時計から、秒針のカチカチという小さな音が聞こえてきます。やがて氏は、耳を枕に押し当てて横向きに寝ました。すると、先ほどの秒針の音は聞こえなくなって、かわりに「ジャラン、ジャラン」という別の音がはっきりと聞こえてくることに気づきました。よく調べてみると、それは時計の髭ゼンマイがテンプ(左右に揺れて時を刻む部品)を揺らすときに起きる微(かす)かな音でした。起きあがって耳をそばだてても、その音は聞こえません。ところが、枕に耳を押し当てて聞いてみると聞こえてくるのです。時計は畳の上に置いてあります。畳には布団が敷いてあり、さらに枕があります。そうした、常識的には、本来、音を吸収し伝達しないと考えられている物体を経て、その微かな音は聞こえてくるのです。不思議な現象でした。しかし、このことは、自然界の一つの重要な事実、原理を示唆していました。「音には二つの伝わり方がある。空気振動と波動である。そして自然界の音のほとんどは波動である」ということです。この体験をきっかけにして、氏は波動原理を研究し、それを応用した製品の開発に着手しました。そうして、産み出されたものの一つが「波動スピーカ」です。これは、それまでの一般的なスピーカーの原理とは全く異なったものです。
 大まかに説明すると、普通、スピーカーは、円筒形の強力な永久磁石に、ボイスコイルを巻いた筒がかぶ被さっており、その筒はコーン紙という振動紙に固着されています。ボイスコイルに信号である電流が流れると、筒は磁石の電極と反発しあって前後に振幅運動をします。それがコーン紙で増幅され大きな音を発生する仕組みになっています。
 一方、寺垣氏の開発した波動スピーカーは、この振動紙として、コーン紙の替わりに非常に軽い南洋材である*バルサの板が用いられています。ところが、そのバルサの板はストレスをかけられて湾曲しており、そのカーブを支えるために表面は、三角構造の補強材(リブ)によって念入りに補強してあります。この振動板は、緻密で硬い材質の頑強な木の本体枠に、緩衝材を間に挟んでしっかりと収まっています。ボイスコイルと磁石は、無垢の金属製の駆動ユニットとして一体構造になっています。従ってボイスコイルに電流が流れたとしても、その筒が前後運動する余地は全くありません。駆動ユニットは木の本体枠にしっかりと固定されてあります。また波動棒があって、それが駆動ユニットと振動板をつないでいます。ボイスコイルの筒が、視覚レベルで全く前後運動をしませんから、振動板も見た目には全く動きません。ですから、振動板というのは変で、波動板というべきでしょうか。まったく常識では考えられない不思議なスピーカーです。
 私はある日、知人に誘われて氏の研究所を尋ね、この波動スピーカーを聞かせてもらうことになりました。
 波動スピーカーは全体の大きさが、高さ約九〇、幅八〇センチ、振動板そのものは縦約五〇、横三〇センチ位です。左右二チャンネルに分かれています。
 その音は驚くべきものでした。いままで経験したことのない、本当にすばらしい音でした。音の輪郭にどこもぼやけたところがなく、変な色づけのない自然な音というのが第一印象でした。しかも、大音量で聞いても少しも圧迫感がありません。また、普通のスピーカーのように音源が明確でありません。形は平板なスピーカーなのに全志向性型で、スピーカーのおもて面と裏、どちらで聞くことも可能なのです。横から聞いても音はほとんど変わりません。音は三六〇度四方に拡がっているようです。音が鳴っているときに振動板に手を触れても、音に一切、変化はありません。
 もう一つ、不思議だったのは、この音は、鼓膜ではなく身体全体の細胞で聞いているように感じたことでした。身体の細胞に浸透するように聞こえてくるのです。音は、先述したように音源が定かではなく、身体を包み込むように鳴ります。そして、前からも後ろからも優しく身体に浸透してくるのです。普通のスピーカーの粗密波(後述)のように鼓膜を強迫しませんから、大きな音で長時間聞いても疲れませんでした。
 とにかく、常識を超えた現象が多く、吃驚(びっくり)することばかりでした。

波動原理の実験
 さて氏は、波動スピーカーの原理を説明するために、簡単な実験をして下さいました。
 氏は、むき出しの小さなオルゴールの本体と、A4判くらいのプラスチック製の下敷きを持ち出しました。氏はまず、オルゴールのねじ螺旋を巻いておもむろに鳴らしてみせます。本体だけのむき出しのオルゴールですから、当然音は大変小さいものです。次に氏は下敷きの一辺にオルゴールをあてがって、同じようにオルゴールを鳴らしてみせました。下敷きに共振し増幅されたのか、オルゴールの音は少し大きくなりました。ここまでは特に驚くことは何もありません。さて、更に氏は、下敷きの上下両辺にストレスをかけて撓(たわ)ませながら、先ほどと同じように、その一辺にオルゴールをあてがって鳴らしました。するとどうでしょうか。オルゴールの音は突然、想像できないほどの非常に大きな音で鳴り始めたのです。驚くばかりの音量の違いでした。
 さらに驚かされたことがあります。ストレスをかけて鳴らしていたとき、氏が下敷きを身体に密着させたのですが、音の振動は全く妨げられることなく、同じ大きさで鳴り続けたのです。もし、音というものが物理的に空気振動であって、オルゴールの振動が下敷きに伝わり、その下敷きがぶるぶると振るえて空気を振るわせ、その空気の振るえが私たちの鼓膜に届いて音として聞こえているとしたなら、その振動板である下敷きを身体に密着させたならば、その途端に音は鳴らなくなるはずです。ところが、実際はまったく音量に変化がなかったのです。この現象は何を意味しているのでしょうか。

音は空気振動ではなく波動である
 つまり、ここに音の秘密があります。結論からいいますと、音は本来、自然界では、空気振動ではなく波動として存在するものだということです。空気振動とは粗密波であり、波動とは定在波であります。粗密波とは、空気が圧縮されて濃度の粗と密を繰り返しながら音が伝わっていくことです。定在波とは、波動や振動が物体の内部に入ったときに、その物体の材質、形状、大きさによって固有の分子レベルでの共振をすることです。
 オルゴールは鉄の塊であり、音源である振動板はじつに小さなものです。それには空気を直接に振るわせて、大きな音として聞かせるだけの、つまり十分な粗密波を起こさせるだけのエネルギーはありません。実はオルゴールの音は、その鉄の物体の分子の波動(定在波)なのです。分子の波動はエネルギーです。その分子の波動が、下敷きに伝わり、下敷きの分子間で伝播(励振(れいしん)という)され、さらに下敷きに接触している空気の分子に伝達される。波動はさらに空気の分子間を移動し、私たちの耳の鼓膜に到達します。鼓膜は空気振動ではなく、波動、すなわち分子エネルギーの変化を感知して、最終的に音として認識していたのです。そして、これが自然界におけるもっとも一般的で自然な音の姿なのです。
 私たちはすぐに、コオロギの鳴き声を思い浮かべるでしょう。コオロギはあんなに小さな身体で羽を振るわせて鳴いていますが、その声は驚くほど遠くまで、はっきりと強く聴き取れます。時には、遠くで鳴いているのに、直ぐ近くで鳴いているように聞こえることがあります。なぜでしょうか。あの小さな羽が空気振動をおこしているのでしょうか。羽の振動が粗密波を生じさせているのでしょうか。違います。波動なのです。左右の羽は重なって、擦り合わされているだけです。擦り合わせることによって、羽の内部に定在波が生じ、波動として空気中に放射されているのです。羽の大きさがあんなに小さいにもかかわらず、音は空気分子間を波動エネルギーとして伝わってゆくために、粗密波よりもエネルギー損失が少なく、もの蔭から鳴いていても鳴き声は遠くまではっきりと浸透してゆくのです。
 それでは、音が分子間の波動の伝搬によるものだとしても、下敷きにストレスをかけたときに音が大きくなるのはなぜでしょうか。
 波動、すなわち定在波は、物体内部で反射を繰り返しながら伝わっていきます。下敷きを曲げると、曲げないときに比べて、下敷きのプラスチック内部に於ける定在波の反射が、より密に短い周期で繰り返されるため、より多くの定在波が空気中に放射されるためである、と今のところ考えられているようです。その結果、音が大きく聞こえるのだそうです。

薩摩琵琶は波動楽器
 寺垣氏の研究所に於けるこの実験を体験し、波動理論を知ったとき、私は、はっと閃きました。
 「そうだ、この波動原理だ!薩摩琵琶は波動原理を応用した波動楽器なのではないか。ストレスをかけた下敷きの膨らみは、ストレスをかけて膨らんだ響板、そしてオルゴールは覆手(ふくじゅ)と銀杏柱(いちょうばしら)なのではないか」。覆手は、弦を一端でつなぎ留め、弦の振動を響板に伝える役割を果たす部分。銀杏柱は、覆手の裏手にあって、覆手と響板をつないでいる小さな柱のことです。
 薩摩琵琶は、楽器の構造上、敢えてあまり振動しないように作られていると考えざるを得ません。それはまるで、波動スピーカーの構造とそっくりです。内部空洞は容積が小さく、響板は約五?七ミリ、胴は十五?二〇ミリと非常に分厚い。おまけに、厚い「渡し(わたし)」と太い「根柱(こんちゅう)」が響板裏に固着されており、振動をさらに押さえている。にもかかわらず、琵琶の音は非常にクリアーで遠音がさす。あのコオロギの鳴き声のように。これはサワリの音のせいだけではない。波動原理で鳴っている楽器だから、いっそう遠音がさすのではないか、と気がついたのです。
 波動スピーカーに魅せられた私は、寺垣氏に無理をお願いし、後日、小型の試作品を譲っていただくことになりました。それを自宅に持ち帰って色々と試してみました。すると、不思議な現象に気づきました、隣の部屋や、あるいはもっと離れた部屋で聞いても、普通のスピーカーに比べて音が良く通るのです。この聞こえ方はある楽器に似ていました。薩摩琵琶です。薩摩琵琶も離れた部屋で聞くと、驚くほど明瞭に聞こえることが多いのです。私は益々、薩摩琵琶は波動スピーカと同じ原理で鳴っている、薩摩琵琶は波動楽器であるという確信を強めてゆきました。この音の聞こえ方は、確かに波動の音なのだと。
響板の膨らみの謎
 そして、問題はいよいよ響板の膨らみの謎です。
 薩摩琵琶の弦は、弦楽器としては張りがとてもゆる緩いのですが、それは奏法上の理由によります。薩摩琵琶は、柱と柱の間を強く押し込んで、張力を加減することで様々の音高を出す仕組みになっています。もし弦を強く張ると、弦は硬くなって押し込むことが困難になります。だから琵琶の弦は緩いのです。緩いために、当然、音は小さくなります。あまり響きません。実音の音域もヘ音記号の領域で表されるくらい低いのです。その鳴りの悪さ、音の小ささを補うこともあって、サワリという独自の発音の仕組みを取り入れたのではないかと思うのですが、それにしても、わざわざ、楽器の構造を振動しにくく作る必要はありません。これは理屈に合いません。常識で考えると、波動スピーカーと同じくらい変な作りです。
 その響かないはずの音が、どうしてあんなにも強く、芯があって、空間に透徹し、身体にも心にも深く浸透する、クリアーな音になるのか。その理由は一体何なのか。
 薩摩琵琶の響板は、あのストレスをかけた下敷きなのではないでしょうか。そして、弦を繋ぎ止めている覆手と覆手の下にある銀杏柱は、音源としてのオルゴールに相当する。私は、波動原理の実験を見て、そう直観したのです。
 先述したように、薩摩琵琶の響板は、強烈にストレスがかけられて湾曲しています。それが、結果的に、薩摩琵琶の音色や音響の特徴を、あの波動スピーカーのような性質のものにしているのではないかと、秘かに推測しているのであります。昔、誰かが、何らかの理由で響板を少し膨らませてみたところ、音が大きくなることが解り、しかも染みこむような細やかな良い音(波動音の特徴)になることに気がついた人がいて、それを追求研究した結果、今のような膨らみに至った、という推論が可能性としてはあるように思えるのです。もちろん、波動原理などという理論は知らなかったでしょう。しかし昔の人の直観や勘は決して侮れません。波動とは、生命の原理でもあります。形あるものなきもの、生きとし生けるもの、在りとし在るもの、この世の全てのものは突きつめれば波動です。波動である生命という神秘力に対する直観的理解はむしろ、昔の人の方が現代人よりも優っていたように思うのです。

薩摩出来と東京出来
 それともう一つ、気になっていることがあります。
 薩摩琵琶は明治の後期になって初めて製作の専門家が出現しました。私たち鶴田流の演奏家が好んで用いるのは、そうした明治後期から、大正、昭和の初めにかけて薩摩でつくられた琵琶です。そうした琵琶を「薩摩出来(さつまでき)」と呼んでいます。一方、薩摩琵琶が東京に進出して全国的に大流行すると、東京にも製作者が現れます。その琵琶を「東京出来(とうきょうでき)」といいます。この二つの「出来」には、それを区別できる、形の上での類型的特徴がありますが、その一つは響板の膨らみ方、張り具合です。薩摩出来の方が、東京出来よりも一般に、張りが強いのです。大きく膨らんでいるのです。美学的にも美しく感じられます。そして、最も重要なのは、薩摩出来の方が、音質がこま緻やかで浸透力がある場合が多いという事実です。それで、薩摩出来は珍重されるのです。
 これは材質の違いのせいであるとも考えられます。ふつう薩摩出来は南九州地方の山桑(やまくわ)、東京出来は八丈島、御蔵島などの島桑(しまぐわ)を用いていると考えられます。材質は確かに、見た目にも、手に触れた感じもはっきりとした違いがあります。音質に反映して当然の違いであります。あるいは製作者の腕の違いと片づけることもできるかも知れません。また、製作されてからの年数の違いも要因として考えられます。しかしこれは、この場合あまり問題にならないと思います。大きくても数十年のことだからです。一年と十年の違いは大きいですが、例えば五十年と七十年の違いはほとんど問題にならないと思われます。
 しかし、私は、この音質の違いのもっとも大きな原因は、響板の膨らみの違いにあるのではないか、と秘かに推測しているのであります。つまり、ストレスをかけられた響板は、波動原理によって、音が大きくなるだけでなく、それが丁度良い塩梅のストレスの場合には、音質もまろやかで浸透力のあるものになるのではないかと想像しているのです。響板が、その丁度良い塩梅に張られているのが「薩摩出来」だということです。ストレスをかけると、物質内部の定在波の反射が短く繰り返されるということは、波長が短くなる、密度が高くなり、反射速度も増すということでしょうか。これはすなわち、波動が緻(こま)やかになるということを意味します。それはそのまま、良い音になるということだと思います。なぜなら音とは波動なのですから。
 この推論は、私の全くの思いつきに過ぎませんし、いささか、牽強付会(けんきょうふかい)の傾向(きらい)もあります。それに、もとより私は、この推論、仮説が正しいかどうかを研究するつもりはありません。兎にも角にも、波動スピーカーとの出合いによって、「薩摩琵琶の響板はなぜ膨らんだのか」という私の長年の疑問に、今ようやくひとつの、思いもかけない答えが出た、なにかしら面白い推論ではないか、と独り悦に入って楽しんでいるのであります。・・・・というより、この推論の是非はまったく別問題として、音の神秘、不思議をあらためて認識させられ、そして波動原理の面白さに強く魅せられてしまったのであります。
 波動は、私が音楽探究の中でつねに求めている「ひびき」の世界に通じるテーマです。「ひびき」とは単なる音響ではなく、本源的な生命の気配のようなものです。生命の根元というべきでしょうか。そして「ひびき」とは、言い換えれば波動であります。すなわち「波動(ひびき)」です。音楽とはまさに波動(ひびき)の神秘の探究に他ならないと思うのであります。

(2003.12中村鶴城・記)
*『邑心』第65号(邑心文庫刊)に掲載
*スプルース、メイプルなど様々な材質を試した結果、もっとも無色透明の音質のバルサが採用された。スピーカーはそれ固有の音色を持ってはならないからである。つまり、スピーカーは、個々の演奏家の演奏を伝達する忠実な媒体でなければならない。大切なのは、演奏家の個性であって、スピーカーの個性ではないというのが氏の一貫した姿勢である。その意味で氏は、オーディオは音楽に奉仕する従僕であって、鑑賞者側の趣味嗜好であってはならないと訴え、オーディオそのものが目的となっている現状を批判している。