Poem & Essay



音楽と音霊━日本的音楽観


音に何を求めるか
 西洋の古典音楽(クラシック)を聴くと西洋人は調和(ハーモニー)ということを音楽のひとつの理想として求めてきたことが感じられます。このことは歴史的に、オーケストラという大合奏の形態が発達したということが、何よりもはっきりと物語っています。
 オーケストラは実に様々の楽器から編成されています。交響曲などを聴くと、そのそれぞれの楽器の音色の聴かせどころがありますが、それは他の楽器の音色とも完全に溶け合っていて、結局は全体としてひとつの音色に向かっているように思えます。オーケストラ全体がひとつの楽器なのです。ひとつの楽器であるがゆえに、オーケストラにはそれぞれ固有の音色があるといわれるのでしょう。
 ひとつの音色を実現するためには、オーケストラを構成する個々の楽器の音と音との調和的関係を導かねばなりません。そのためには、ひとつひとつの音を常に統一的、全体的な視点で解釈し、全体の中の一部として意味を成し機能するよう構築しなければなりません。ですからひとつひとつの音自体はできるだけ色づけされない方がよいのです。色づけされた音は全体の調和を乱してしまうからです。
 つまり西洋人にとって自然が、二元対立の構図の中で、人間に対峙するものとして捉えられてきたのと同じように、音もまた人間の外部にあり、主体(=自分)と客体(=音)という関係のなかでとらえられているのではないでしょうか。音は操作する対象として存在しており、それぞれの音はあくまで音楽の一部でしかなく、音そのものが音楽であることはありえないのです。
 日本の古典音楽の場合はどうでしょうか。日本の古典音楽は能、歌舞伎、文楽などのように、演劇とむすびついていたり、それぞれの音楽の在りようがかなり違っていたりします。ですから、一概には言えないとおもうのですが、極めて大ざっぱないい方をすれば、日本の古典音楽は、ひとつひとつの音への執着が強く、それぞれの音の、音色の階調、余韻の変化、音から音への推移を非拍節的、直観的に把握する間(ま)の感覚などを大切にしようとする傾向が強いといえるのではないでしょうか。音は操作する対象ではなく、自己が同化してゆく対象であって、結果、主体と客体との関係はかなり曖昧であるような気がします。特に薩摩琵琶のように、拍節という概念が極めて希薄で、自分の呼吸の間合いに従って音を産みだし、語ってゆく音楽においては、音に自己が移入し同化していく感覚がより一層強いものとして感じられるのであります。
 雅楽や長唄などは、いろいろな楽器がひとつの音楽を一緒に演奏するという意味では、ある種の合奏(アンサンブル)といえなくもありません。しかし、西洋古典(クラシック)音楽の調和(ハーモニー)というイメージとは結びつきがたいものがあります。そう感じられるのは、それぞれの楽器の音色の個性が強すぎるためではないでしょうか。日本では、その強烈な個性をもった音色をむしろ大切にし、育ててきたといえるでしょう。

日本人の感性
 音色や余韻、間というのは、音の移ろいゆくなかに立ち顕れるものですが、日本の楽器はその移ろいのなかに収斂(しゅうれん)し、その内部に潜行してゆくのです。そのとき音はもはや対象ではなく、自己と音とは一体化し、その内部宇宙(ミクロコスモス)の中に自己を解放しようとするのです。
 芭蕉の「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」という有名な俳句は、この日本人の音に対する感性を見事に象徴しているのではないでしょうか。重要なのは「岩にしみいる」と感じることのできる感性です。
 古神道の鎮魂行のひとつに「音霊法(おとだまほう)」というものがあります。ひとつの音、たとえば水のせせらぎとか梵鐘の音など、そうした音にひたすら耳を傾け集中します。そして、自分をその音に融け込ませる、あるいは音そのものになりきってしまう。そうすると、いつしか自分というものを忘れ、自己という狭い枠が取り払われて真我(しんが)(本来の自己)があらわれる。真我はもとより宇宙と一体のものであるから、自ずと生命(いのち)は輝き躍動する。これが音霊法という行法の目的です。
 芭蕉が「岩にしみいる」と感じたのは、自らが蝉の音に融け込んでしまっていたからではないか。芭蕉はそのとき蝉の声を媒体として宇宙との一体感を体験していたのではないか。ならば、音霊法と本質的に全く同じことが、芭蕉の心境に起こっていたと推測するのです。こうした自然との一体感を感得できる感性は、第一に芭蕉のすぐれた天稟(てんぴん)に帰するとしても、日本人であれば誰しもが持っている、日本の自然豊かな風土に育まれた、すばらしい感性なのではないでしょうか。対象を二元論ではなく一元論的にとらえることのできる感性、それは、日本人が誇るべき天与の資質です。

音の内観的認識
 音に対してこのような感覚を働かせることを、私は「音の内観的認識」と呼んでいます。薩摩琵琶には、サワリのついた独特な音色(ねいろ)、音の陰翳(かげり)、揺(た)ゆたうて消えゆく余韻、演奏ごとにまったく異なる絶対的間(ま)、そしてその間の空間に醇々として充ちている深い静寂、といった音楽的要素や特徴があります。そうした非常に豊かな音の諸相が内観的認識を産み出したともいえるし、逆に内観的認識がそうした豊穣な音の諸相を産み出したともいえるでしょう。
 つまり、薩摩琵琶の演奏という行為は、内観的認識そのものであるといえるのです。内観的認識によってひとつの音の諸相の中に一心に没入してゆくとき、我れが我れと感じていた狭隘(きょうあい)な自己が溶けゆき、世界が渾然一体としてひらけてくる。音の内部に宇宙を視るのです。そして、演奏する側も聴く側も、この内観的認識を音楽のなかで知らず知らずのうちに、自然に実践しているのではないかと思うのです。いうならば「音楽のなかで音霊法を行じている」「音楽そのものが音霊法の行である」といってもいいでしょう。

「一音成仏」の象徴する音楽観
 こうしてみると西洋と日本の音楽は、その拠って立つ音楽観が根本的に異なるようにおもいます。
 今日、一般的に理解されている「音楽」という概念は、明治になって西洋からもたらされたものですが、それに照らせば日本の古典音楽は根底において音楽であることを欲求していないとさえいえるかもしれません。極言すれば、ひとつの音に徹し、そこに深い精神的(霊的)至福、魂の解放を得ることができるならば、音楽は僅かに一音のみで完結するのです。普化(ふけ)尺八の世界でいう「一音成仏(いちおんじょうぶつ)」とは決して概念上のことではないはずです。あるいは「白髪三千丈」の類の大仰な表現でもないでしょう。まさにそのようなことがあり得るのだと思います。私はそのことを踏まえて、薩摩琵琶の音楽に「一音一擲(いちおんいってき)」という言葉を用いています。ひとつの音の中に、自分のすべてを擲(なげう)つという意味です。こうした極限的な表出として音が産み出されるとき、ひとつの音は部分であると同時に全体でもあるような多次元的とでもいうべき不思議な感覚を覚えることがあります。そうしたとき、「間の感覚」は最大限に研ぎ澄まされていて、時間と空間を超越して統一的、直観的に把握された「間の空間」は、邃(ふか)い静寂とともに穢れなきエネルギーに充たされ、生命(いのち)の蘇生と悦びを体感するのであります。
 ギリシャ生まれの作曲家、イヤニス・クセナキス(1922~)が、義太夫三味線を聴いて、そのひと一撥(ばち)の音の濃密さに驚嘆し、羨望したと伝えられていますが、こうした濃密さを西洋音楽に求めるとしたら、あまりにも重苦しくバランスを欠いた音楽になるに違いありません。

音霊に秘められた力
 このようにひとつの音に豊かで濃密な表現を託そうとする日本人の感性は、森羅万象に神を視(み)、生命の神秘を感じ取ってきた日本人の古神道的世界観によって培われてきたのではないでしょうか。
 西洋では例えばピュタゴラスは、数を宇宙万物の根本原理、原型と考え、また『旧訳聖書』の創世記の「神光あれといひ言たまひければ光ありき」云々という有名な一節にも象徴されるように、音としての音声(おんじょう)もまた宇宙創造の根本原理・原型と考えられて来ました。音には直接にものを産み出す力があると考えるのです。
 その不思議な力を日本では音霊と表現し、その霊力を古来より鋭く直観して来ました。言霊は音霊の一部と考えてよいでしょう。
 万葉集の柿本人麿の歌に「志貴島(しきしま)の日本(やまと)の国は事霊(ことたま)の佑(さき)は国(ふ)ぞ福(まさき)くありこそ」とあります。「事霊(ことたま)」は言霊のことです。万葉のむかし、言を発するということは、それがそのまま事実であり行為そのものであったのであり、そのことを「言事融即(げんじゆうそく)」というのだそうです。音声は力であるということ、発声するということは大変重大なことであって、だからこそ言葉を大切にして、むやみと言挙(ことあ)げしなかったのでしょう。古代人は音に潜む力を十分認識していたのです。
 音楽は音を表現の手段としますが、日本人にとっての音楽とは、言霊がそうであったように、音霊の霊力を作用させることに他ならなかったのではないでしょうか。日本人にとって音は生命(いのち)そのものであり、あるいは神そのものなのです。音楽は、音霊の霊力によって宇宙の神秘を開示するものとして顕れ、我々は、音あるいは音楽という神そのものを、そこに視るのです。そうした音楽の感じ方、在り方は、日本の古典音楽の中に密かに引き継がれてきているような気がします。

「霊性(神性)の音楽」を求める
 私は、そのような音楽観をわが薩摩琵琶のなかに、いわば「霊性(神性)の音楽」として探求できないものかと考えています。
 琵琶語りを、声楽としての語り、器楽としての弾法(だんぽう)、語られる文芸としての詞章、身体表現としての所作など、多要素からなる音楽劇と考え、その統一の原理を、音霊としての「ひびき」によって導かれる霊性(神性)の世界に求めることによって、普遍的琵琶楽の可能性を模索探求したいと希っているのです。
 「ひびき」とは、音や声の実体です。物理的な音響として顕れる以前の霊妙なる波動の世界です。そこに生命(いのち)が宿っています。その生命のことを音霊というのです。ひびきを捉えてこそ、音に生命が宿り、音霊として力を発揮するのです。私は、語り部の役割は、音と言葉の世界に、その奥ふかく隠された内なるひびき、本源的なひびきとしての幽韻(ゆういん)を探り、それに感応し、楽器や声の実際の音としてあきらかにすること(顕韻(けんいん))であると考えています。
 こうした日本的音楽観が、はたして今日伝えられ行われている古典音楽の中に、どれほど生きているかは疑問です。あるいは、この音楽観は、私の極めて個人的な志向であって、もはやそのようなものはどこにも存在しないのかもしれません。残念ながら、日本の音楽観はもはや全く別のものに変じてしまっているようにも思えます。
 しかしながら、音楽の本質を、宇宙創造の根本原理として音霊という生命の躍動のなかに観じ、その音楽観を根底としながら、個々の音と一体化して、その内部宇宙(ミクロコスモス)にあらわれる諸相を体感しようとする内観的認識こそ、日本の古典音楽を真に普遍的で魅力ある音楽に導くものであるに違いないと、私はかたく信じているのです。
 日本的美、東洋的美の在りようを一音楽家として探求したいと願っているのであります。
(2002.1.10記)
*『邑心』第40号(平成14年2月、邑心文庫刊)に掲載