Poem & Essay


言葉の実体は「ひびき」である


 「連詠(れんえい)」という用語につきましては、これまでも何度か他の機会に述べて来ました。
 「連詠」とは、「詩曲」とともに、私が、琵琶の弾き語りの新しい音楽形式として模索しているものの一つで、和歌を何首か連ねて弾き語ることで、ひとつの表現世界を創ろうと意図するものです。「連詠」という言葉は「連歌(れんが)」から着想した造語です。
 琵琶のいわゆる古典的「語りもの」の中にも「和歌」という様式がすでにあって、文字通り和歌を詠うわけですが、残念ながらどの歌を詠ってもあまり節回しは変化がありません。音域もいつもだいたい同じです。
 これは、和歌は、普通はストーリーのある「語りもの」のなかで一首だけ挿入的に詠うものであったわけですから、それで問題はなかったのです。ところが、それを連続して詠うとなると、その単調さが欠点となってきます。そこで、歌の内容に合わせて、音域や節回しを変え、様々のパターンを新たに創り出すことで変化を持たせようといたします。威厳のある歌を詠うのに、高い音域や派手な節回しは似合いません。また、可憐な花や小鳥の歌を詠うのに低い音域や地味な節ではどうでしょうか。これまでの唯一のパターンは、そうしたどんなおもむき趣の歌にも対応できる柔軟性とシンプルさを備えており、さすがに長い歴史に鍛えられた揺るぎない様式美があります。しかし、もう少し類別されたいくつかのパターンの必要性を感じます。
 ただ、別のものといっても、そこには自ずと琵琶歌としての様式美の制約があって、一般の歌のような自由さは望めません。しかし、それほど多くのパターンを創る必要はないと考えています。その最小限度のパターン(型、様式)を確立することをいま目指しているわけです。
 すでに、連詠の形式では三作を作曲してきました。今回が四作目になります。曲を重ねるごとに、次第に自分の中に「連詠」という音楽形式の様式感が育ち、ひとつの明確な「かたち」として姿を現しつつあると感じています。
 さて《天地(あめつち)の声》の短歌の作者、五井昌久(ごいまさひさ)師(一九一六〜八〇)は祈りによる世界平和運動に全生涯を捧げ尽くされた宗教家であり覚者であります。師とお呼びするのは、私は高校三年の時に師の著書に出逢い、それ以来二十数年間ずっと敬愛申し上げて来たからです。師の短歌について述べる資格は私にはありませんが、師の短歌は、さすがに覚者としての品格、風格に充ち満ちています。
また当然のことながら、神への郷愁が、明直で少しの衒(てら)いもない自然な表現となってひびき渡り、何とも心洗われる想いがいたします。自然法爾(じねんほうに)の神歌(かみうた)です。そのスケールの大きさも大変な魅力です。深い悟りから発せられた言葉は「真理のひびき」とでもいうべきでしょうか。師の歌を詠うことは、人智の到らざる深い意味と働きがあると秘かに考えております。
 二年ほど前、私は、琵琶の語りの言葉をどのように語れば、言葉が生きてきて説得力を持つのかを課題として、毎日、実際の練習を通じて追求していた時がありましたが、ある時、それは「ひびき」の捉え方次第であると気づきました。
 そんなある日の明け方、私は夢を見ました。それは一瞬の夢でした。私が姿なき誰かに「言葉の実体は何ですか」と尋ねると、「言葉の実体はひびきである」と答えが返ってきたのです。その声に、はっとして目が覚めました。
 これが、琵琶語りのポイントだと確信しました。
 言葉の実体は意味としての音声(おんじょう)や文字にあるのではなくひびきそのものの中にある。人は、「悲しい」という言葉(音声や文字)の意味に心打たれるのではなく、その言葉に込められた悲しみのひびきに感動するのだということです。どう語ろうかと思案する前に、素直な心で、無心に、その「ひびき」に心の耳を澄ませば、音声は自然と湧き出るように発声され、語り口は自ずと定まるのであります。
 ここで言う「ひびき」とは、物理的な音響としての響きのことではありません。音声になる以前の超感覚的な世界のことであります。霊妙なる波動の世界であります。漢字で書くなら「響(ひびき)」ではなく、心の耳でとらえる「韻(ひびき)」です。音声は「ひびき」の力によって湧き出るごとく生まれるのです。ここに撰ばせて頂いた師の短歌はまさに、その「ひびき」の世界を直(じか)に捉えていて、朗唱(歌唱)という、人間の本源的本能に無類の悦びと開放感を与えてくれるのです。「ひびき」と「言葉」が一体となっているのです。「ひびき」を捉えてこそ、言葉は言霊(ことだま)として本来の力を発揮するのです。「ひびき」は「ひびき→音声→文字」という流れの大元、生命の泉です。そのことを語りの体験から、実感するのであります。
 朗唱性が和歌の全てだと言うつもりはありませんが、私は、語り部としての立場から、歌えない和歌はどうも物足りなく感じます。
 近・現代の和歌は、例えば『古今和歌集』などと比べてみると、文字として黙読するだけであれば、なるほどと感心させられても、いざ声を出して歌おうとすると歌いづらい、どうもしっくりこないものが多いようです。それは、和歌がいつのまにか、書籍などで文字として黙読するだけのものになり、朗唱を前提とした作歌が行われていないことの当然の結果なのでしょうか。
 朗唱は「ひびき」の世界を音声として直接に捉える行為ですから、朗唱が作歌の原点から失われると、概念としての言葉の操作に偏りがちになり、次第に「ひびき」と「言葉」とが分離しはじめます。「ひびき」そのものを根拠としない言葉は、言霊としての力を失います。言葉をもて玩(あそ)んで生命(いのち)を失うのであります。
 なお、参考までに、やはり五井昌久師の短歌で構成する《連詠 黎明(よあけ) 五井昌久の短歌による》(二〇〇一年二月一一日初演)から三首をご紹介させて頂きたいと思います。
  天と地をつなぐ絲目のひとすぢとならむ願ひに生命燃やしつ
  ひたすらに神を想ひて合はす掌のそれさへ消えてただに青空
  天地のひびきひとつに海鳴りとなりしところゆ陽は出でにけり

(2001.11/中村鶴城)
*2001年に行われた「中村鶴城 琵琶リサイタル」のパンフレットより