Poem & Essay



祈りの世界を求めて

 この曲は祈りの曲です。この世の中が平和なすばらしい世界となることを言霊(ことだま)として祈り込め、音霊(おとだま)に乗せて語るものです。ヤマトタケルの日本を憂う気持ちを訴え、言(こと)うるわしく光満ちた和(やわ)らぎの国ならんことを心より願うものです。そしてまた、ヤマトタケルの気持ちは、そのまま私自身の気持ちでもあります。
 その根底には、私の日本人としての矜持(きょうじ)があります。私は日本人であることを誇りに思っています。心から日本人であって良かったと思うのです。それは民族主義的な排他的な立場からではありません。むしろその逆です。
 私は世の中のために役に立ちたいと願っています。
 世の中とは日本だけではなく広く世界のことです。世界のために働くためには、私は日本人として生まれ育ったのであるから、日本人としての自覚を持ち、その役割を果たし、日本人に徹しなければなりません。なぜなら個を深め貫くことでしか普遍には至れないと思うからです。個とはこの場合、日本人であるということです。日本人としての天命を全うすることで私は初めて世界人の一人となれるのだと思います。
 その上で、私は琵琶人(びわじん)ですから、琵琶という楽器と音楽を通じて世の中のために役に立ちたいと思います。それが今の私の音楽活動のすべての原点であり志です。
 そしてこの曲《ヤマトタケル幻想 まほろばの白き鳥》は、その願いと志をそのまま言霊として祈り込め、音霊として発する曲なのです。
 この曲は従来のヤマトタケル像とは異なっています。「ヤマトタケル幻想」としたのはその理由によります。しかし、私自身にとっては幻想ではなく真実そのものです。私自身のいつわらざる気持ちとしては、これはヤマトタケルの長歌であると信じています。「神曲(しんきょく)」であります。「神曲」であると観ずる信(まこと)(真心)がなければ、この曲は演奏できないと思うのです。
 ヤマトタケルというと一般には、熊會(くまそ)征伐などの荒々しい武勇伝が多く取り上げられ、ややもすると残虐性の印象が残りがちです。 しかし、私はそうした説話を即物的に解釈せず、その真意は何であろうかと考えました。私には『古事記』を学問的に解釈する素養も力もありません。私はただ、自分の心に素直に向き合って、心のままにヤマトタケルの声を聴こうとしました。その結果、ヤマトタケルは神より授かった強い霊力をもって日本中を祓い浄めたのであるという考えに到りました。即ち、ヤマトタケルを日本国の守護神の一人と捉えました。そして、その霊力の象徴が天之叢雲(あめのむらくも)の剣であり、祓い浄めるという行為が西道、東道征伐の神話として描かれたのだと考えたのです。
 この曲を創りたいと最初に思い立ったのは今から一七年前の、私が二六歳の頃でした。そのころ私は群馬県に住んでいました。作曲を思い立ってほどなく、不思議なことに、日本武尊(やまとたけるのみこと)とその后である弟橘姫(おとたちばなのひめ)が祭られている武尊山(ほたかさん)神宮にご縁ができ、のち三〇歳の頃であったか三ヶ月ほど住み込んで、神事のお手伝いをさせていただきました。そのころから、しばらくの間『古事記』や、その他の小説、新釈本の類を読んだりして少し勉強し、この曲を「天之叢雲の剣」「弟橘姫」「武尊春秋(ほたかしゅんじゅう)」「まほろばの白き鳥」の四部作にしようという構想を立てました。しかし結局、詞章のための覚え書きを記すだけにとどまり、まとまったものにはなりませんでした。そしてその内に、その後の自分の人生のめまぐるしい変化のなかで、その覚え書きの原稿はどこへ行ったか判らなくなり、いつのまにかその存在すら忘れてしまいました。
 九六年、私の実の姉が『海帰(かいき)』という歌集を出版しました。その出版記念パーティーで琵琶を弾いてくれと頼まれました。私は、その歌集のなかから短歌を一首選んで、それを弾き語ろうと考ました。結局、それは詠わずじまいだったのですが、その一首とは次の歌です。
  ゆめに見し白き小鳥にわがたま魂を
         乗せて行きたし神のみもとに
 私の姉はクリスチャンです。重度の身体障害者で日常のことが自分では何にもできません。この歌は二十代終わりころに読んだものです。ここには神への深い信仰に生きる姉の、純粋で真っ直ぐな気持ちが、心そのままに表れていて良いと思いました。そしてこの歌を書きとどめよう思って、本棚から一冊のノート状になった古い原稿用紙をなにげなく取り出したのです。そして、そのノートを開いてみると、何やら私の文字で覚え書きらしきものが書かれてあります。
 ヤマトタケルの曲のための詞章の覚え書きでした。
 私は、はっとしました。姉の歌の、白き小鳥が神のみもとへ飛んでゆくさまと、ヤマトタケルが白鳥となっていずこへか飛び去ってゆくさまがふっと重なって瞼に映じました。偶然とは思えませんでした。そして私は、ヤマトタケルの曲を創りたいではなく、創らねばという不思議な感覚におそわれたのです。あついものが込み上げてきました。作曲への情熱が蘇りました。私には、ヤマトタケルの曲をいつかは必ず作曲したいという想いだけはとぎれることなくあって、そのための資料を小箱に纏めて身近に置いていました。しかし肝心の詞章の覚え書きは失われていたのです。その原稿が突然出てきたのです。
 こうして姉のこの歌が、私に再びヤマトタケルの曲の作曲のきっかけを与えてくれました。
 曲は「まほろばの白き鳥」に統一されました。詞章を書いては読み、読んでは書き直すという作業を何度も何度も繰り返しました。それは私の心の中のヤマトタケルとの対話でありました。
 三年後の九九年の夏、詞章はひとまずできあがり、八月の末、私は作曲の場を求めて秋田の八幡平(はちまんたい)にある知人のペンションに逗留し作曲に取りかかりました。風と水の音、鳥の声に誘(いざな)われるかのように、作曲は驚くほど速く進み、四日ほどで曲は九割がた完成しました。
 ところが、残り僅かを残して家庭の事情から中断を余儀なくされます。そして、機を逸してしまったのか、曲は完成を見ぬまま約一年半が過ぎました。
 二〇〇一年二月一一日、東京・府中市の大國魂(おおくにたま)神社で「世界平和の祈りと印の集い」という行事があり、私は《連詠よあけ 黎明—五井昌久の短歌による》を奉納演奏する機会を頂きました。先述したように五井昌久師は祈りによる世界平和運動にその生涯を捧げた覚者で、私の深く敬愛している方です。師の短歌は神への全託と郷愁、そして感謝の想いそのものです。この演奏の体験が私自身を変えました。私の心の奥に潜んでいた叫びを呼び覚ました。
「天に向かえ、天の光を捉えよ!」
五井師の平和の祈りが、私を再びヤマトタケルの曲に向かわせました。はやく完成させよと私をせき立てました。
 奇(く)しき縁(えにし)はさらに続きました。
 つづく四月八日には茨城県にある岩間合氣(いわまあいき)神社で奉納演奏をさせて頂くことになりました。この神社は、合氣道の開祖、植芝盛平(うえしばもりへい)氏の開かれた神社です。植芝氏は武の神々と一体になられたといわれる不出生の大武道家です。この演奏を契機に氏の遺された口述書(『武産合氣(たけむすあいき)』高橋英雄編著)を読んでみました。読み進むうちに氏が説かれている、そこかしこの言葉や文章がそのまま《まほろばの白き鳥》の詞章の解説のようになっていることに気づき、驚きました。氏が合体された中心の神様は「天之叢雲九鬼龍王(くきさむはら)の大神」。この大神様は「一言でいうならば、いかなる業(ごう)をも、一瞬にして浄めてしまう神様」で、合氣道はこの神様の働きそのものであるという。そして「天之叢雲」とは宇宙の気、森羅万象を貫き息吹(いぶ)く気の働きであり、合氣道は禊(みそ)ぎのために生まれたものである、それは即ち、草薙(くさなぎ)(天之叢雲)の神剣の発動である。罪汚れの雑草を払い、万有万真の条理を明らかにすることである、と述べられています。
 武勇を為したヤマトタケルが佩刀(はいとう)したのはまさに「天之叢雲の剣」でありました。そして、この神剣の霊威(れいい)発動の意味するところが、私がイメージし、この曲で描こうとしたことと全く同じであったのです。
 こうして、創作の意欲はいや増しました。そして、最後の仕上げのために、七月下旬再び八幡平の地に赴きました。
 わずか二日で曲はついに完成しました。祈りとしての世界平和運動に全生涯を捧げ尽くされた五井昌久師、和合としての真の武を説き、真理を身に行じて体現された植芝盛平氏、お二人の深いご愛念が、わがヤマトタケルの曲に感応して頂いたに違いないと、深くふかく感謝いたしました。
 更なる神縁が待っていました。曲が完成する直前の七月九日、一人の武道家に出逢いました。松井健二師です。師は実践・理論共に奥義を究められた神道夢想流杖術免許皆伝の達人、そしてまた天真無双流兵法の創始者であります。私の実兄が師に師事していたことが縁となり、師のご好意により身体論の実践的鍛錬法を伝授して頂くことになったのです。琵琶の演奏の楽器と声楽の両面の壁にぶつかって、身体論的アプローチの必要性を痛感していたとき、師に巡り会ったのであります。初めてお話しを伺がったときの師の一言一言は、まさに自分がいま直面している問題へのヒントそのものでありました。私は武術のことは全くの門外漢ですが、師の助言は結晶のような輝きを放ってひびき、腹に落ちてきました。神様の導きにただただ感謝いたしました。
 ところが、もっと驚くべき事がありました。あとで知ったのですが、師は毎年夏に、筑波山の白滝神社でご師弟の滝行合宿を行っておられるとのこと。この地はヤマトタケルが「走水(はしりみず)の海難」で弟橘姫を亡くし、失意のうちに辿り着いたゆかりの地であって、主祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘姫でありました。しかも、その祠(ほこら)で二年前から大祓詞(おおはらえことば)をあげておられるというのです。この巡り合わせには、驚きとともに深い感慨を覚えずにはおられませんでした。
 こうして、これまでの様々の出逢いや経験に想いを馳せてゆくと、《天の川》の項(1/3参照)で記した、十五のときの体験に辿り着くのであります。カザルスの演奏を聴いたときのあの不思議な体験は、後に琵琶演奏者となることを知るべくもなかった私に、神様が象徴的に指し示して下さった道しるべに違いないと、三十年近くを経た今ようやく解ったのであります。カザルスが平和への切実な願いを込めて演奏した《鳥の歌》のメロディーとその想いは、深く魂に刻まれ、いつもいつも鳥の声となって「ピース平和!ピース平和!」とひびきわたり、私をつねに導いたのでありました。《まほろばの白き鳥》もまた「鳥の歌」なのであります。
 このようにこの曲は、かずかずの不思議な出来事とえにし縁によって完成に導かれたのです。何とも見事な天の計らいでありました。
着想、構想から十七年という年月は少し長すぎたかもしれません。しかし今思うに、この曲を作詞・作曲するためにはなくてはならない年月でありました。それは作詞・作曲そのものの技量の問題であったことは勿論ですが、私自身の心の糧のための十七年間であったと思うのです。私の魂がそれを必要としたのです。その過程を経ることなくこの曲はできなかったのです。
 私はいま、感謝の気持ちでいっぱいです。この文章を書きながらも胸がいっぱいになります。この曲ができたのは沢山の方々のお陰であると心の底から感謝の気持ちが溢れてくるのです。
 皆さん、本当にありがとうございました。
 神々さま、いつもいつもありがとうございます。

(2001.11/中村鶴城)